※前話同様、アンケート企画として幼児化をテーマに書いた作品です。良くわからないことを言っている箇所は連載中の小話で書いたネタとしてお読み流しくださいませ。

 
天使のおつかい


 蛇の女王の妖花の効でレイが子どもの姿になるという珍事から五日。
 四つ羽の天使はいまだ元の姿に戻る様子を見せなかったが、住人たちも次第に小さな子どもの世話に慣れ、予告された期限の半ばに差しかかったこともあり、塔の生活自体は元の平穏を取り戻しつつあった。
 しかし、誕生から共に過ごしたわけではない彼らはまだ知らなかった。
 白の都の異端の天使が、幼い日にどれほどの武勇伝を故郷に残してきたのかを。


 その日、塔主のヴァルナードは朝からせわしく外出の準備をととのえていた。
 初日にすっかり懐いてしまった小さな鳥を何くれとなく構ってやっているヴァルナードだが、こうした時は何を言っても連れて行ってはくれないのだと、レイも五日のうちに学んでいた。不服に頬を膨らませながらも荷支度の様子を黙って眺め、出がけにかけられた声にいってらっしゃい、と手を振る。
 と。
 ヴァルナードの姿が外の階段へと消え、扉が閉じられた拍子に、白い紙片がついと床を滑った。
 塔の参謀も翼の住人たちも今は広間には姿がない。レイは首を傾げて椅子からぴょこんと飛び降り、床の上の紙を取り上げた。表面に黒いインクで文字の書かれた紙が、蝋で簡易な封をされている。
「てがみかな?」
 読むことのできない文字がヴァルナードの手で書かれたものなのかレイにはわからなかったが、それがつい今ほどテーブルの上に置かれたのは確かに見ていた。同じく卓に重ねた本や小箱と合わせて荷の確認をしたのち、最後にヴァルナードはそれらをまとめて影の衣の中に消し去っていた。だが表面に乗っていた軽い紙片は、衣を払う仕草の際に滑って床に落ちてしまったのだろう。
 手紙を掴んだまま壁に駆け寄り、窓に飛びついて外を見下ろすと、黒衣の姿はちょうど外の門を抜けるところにあった。馬に乗って行くのではないらしく、そのまま前に歩を進めていく。
「どうしよう……」
 『とう』を出ちゃダメだって言われてるけど、これがないとヴァルはこまるだろうな。まだそこにいるし、走っていったら追いつけるかな。それにもし外でわすれものをとどけたら、仕方ないってそのままいっしょにつれてってくれるかも……
 仮に重要な物であったとしても、ヴァルナードならば造作もなく一瞬で取りに戻ることができるのだが、そうとは知らないレイは、最後の「もし」に強く惹かれて考えを決め、手紙を懐にしまって広間を駆け出た。もちろん、誰にも行き先を告げずに。

 翼を広げて階段を二段跳びにぴょんぴょんと駆け下り、ロビーを抜けて外への扉を押し開ける。途端にひらけた目前の景色に、レイは驚いて身の動きを止めた。
 この姿になってからも幾度かは塔の外に出たことがあったが、その時は常にヴァルナードと他の住人たちがそばにおり、また常に腕に抱えられていたので、自分の足で、自分だけで外に立つのは初めてのことだった。
 ひとり立つ外界は、塔の窓から眺めるよりひどく平板で、ひどく広い。怖気づくよりも先に、レイの胸は激しい高揚と好奇の想いに満たされた。風をはらんで期待に大きく広がる翼と期待に輝く瞳は、天界の兄たちには何より幼い子どもへの注意と用心をうながす信号であったが、レイにとっては喜ぶべきことに、ここにお目付け役はいない。
 ぼうけんしたい! と湧き上がった危険な衝動をすんでで抑えたのは、遠目に映ったヴァルナードの黒衣の後ろ姿だった。そうだ、おれ、てがみをとどけるんだ、と当初の目的を思い出し、扉を背に走り出す。ヴァルナードは門の外で合流したのか、見慣れない人影と何やら話しながら前方の森へ向かっているようだった。レイの目にはそれほど遠くにいるようには見えず、走ればすぐに追いつけるだろうと思えた。
 実際、その距離はさほど長くもなかったのだが――子どもは理解していなかった。なぜ外出のたび、ヴァルナードが自分を腕に乗せているのか。それはまだ小鳥が手を繋ぐのも難儀なほどの小ささであったこともあるが、そもそもの問題として、並んで歩くには、長身のヴァルナードと幼いレイとの歩幅に違いがあり過ぎるのだ(本来の青年姿でもだいぶん差はあるのだが、合わせてゆっくりと歩かれることを不愉快に思いつつ、見て見ぬ振りを決め込んでいるレイである)。
 ともかくも、歩くヴァルナードと走るレイの、同じ時間に進む幅がほとんど変わらないのだから、あいだの距離が縮まるわけもない。それでも前方に目指す姿は見えていたので、レイは疑問に思うこともなく黒衣の背を追って駆け続け、ついに森の入り口までたどり着いた。
「あれ」
 そこでようやく、目前からふたつの人姿が消えていることに気が付いた。
「見えなくなっちゃった」
 鬱蒼と木々立ち並ぶ森は昼も暗く、張り出した枝葉や茂みが視界を遮っている。
 むこうにまがったのかな、とちょこちょこと足を進める子どもが、もうひとつ理解していなかったこと。それは、自分を庇護する男が『影の王』の名で呼ばれ、その力をもって遠方に転移する術を身につけているということだった。
「いない……」
 しゅんとして後ろを振り向く。木々の合間にまだ黒壁の塔の姿は見えていた。
 もうちょっとさがしてみよう、それでもいなかったら、『とう』にかえろう。
 そう決めて、ヴァルナードの名を呼び、きょろきょろとあたりを見回しながら歩を進めていく。そうして茂みを右に回りかけたその時。
「わあっ……!」
 下草の上に振り出した足が宙を踏み、ごそりと地面が抜けて、急な坂になった斜面を身体が滑る。咄嗟に広げた翼も落下の勢いに抗うことはできず、そのままレイの身体は坂を滑り落ち、最後にぽんとやわらかい地面の上に投げ出された。
「いたいー」
 よろめきながら立ち上がるが、落下の衝撃に回る頭と視界がめまいを誘い、幼い天使は再びきゅう、とその場に倒れて気を失った。


      ◇


 その日は久しい快晴であり、彫像族の士・チャックは低空で石の翼をゆったりと動かしながら、空中散歩に興じていた。
 いい陽気ではあるが、いささかばかり平穏に過ぎ、続けざまにあくびが漏れる。
「なにか面白ぇことねぇかなァ……」
 ばたりと翼をひとかきし、そう独りごちたまさにその時、眼下の森の中、木々の梢の間に、何やら輝くものがよぎった。
「んー?」
 空中に静止し、枝葉をすかしてまじまじと見下ろす。
「なんか白いもんが落ちてんなァ」
 しかもそれはどうやら、草木でも石でもなく、生き物のようである。
 白。まだ雪の時期には少しの間があるこの節に、そんな色の生き物が自然の中にいるなど珍しい。灰茶けた冥府の地では、白はそれだけで目立つ――狙われうる色だ。
 と言って気をゆるめて近付けるほど、この地は単純な在り方をしていない。どうするか、としばし逡巡し、しかし結局は退屈と好奇心が勝って、翼を滑空の姿勢に曲げた石の身体は木々の中へと静かに降下していった。
「……うわっ」
 小さくひらけた草地の端に降り立ち、「白いもの」の姿を遠目に捉えた瞬間、チャックは息をひそめるのも忘れて驚きの声を上げた。それも無理からぬことで、なんと草地の中心に倒れた「白いもの」の正体は、遠い空の彼方に住まうはずの麗しき白翼、天使と呼ばれる生き物であった。
 しかも、より貴いとか言う四つ羽。
 しかもしかも、なんだか妙に、小さくないか、これ?
「なんで天界の鳥がこんなとこにいるんだァ?」
 いくつもの疑問符を浮かべながら、罠を警戒してすぐにも飛び立てるよう構えつつ、おそるおそる草地の中心に近付いていく。チャック自身は天使という生き物をこれまで実際に目にしたことはなかったが、どう穿った目で眺めても、それは紛れもなく噂に聞く『白の都の鳥』であり、おまけに冥界の他の種族に見るのも珍しい、随分と幼い子どもであった。
「死んでんのかなァ……」
 数歩離れて足を止め、丸めた背を伸ばして、うつぶせに倒れている子どもの顔を覗きこもうとした、その時。
 ぱたり、羽毛に覆われたひよこのような翼がはためき、チャックは不意を突かれてまさに彫像のごとく身を固めた。
 もそもそと草の上で身じろぎをし、ふぁー、と寝起きの声を上げて、小さな天使、レイは身体を起こした。
 そしてまた、こちらも固まった。
「……。」
「……。」
 驚きの視線と沈黙の応酬がしばらく続き、先に我に帰って声を発したのは、レイの側だった。
「おばけだ……!」
「ええェ? んだそりゃ、お、お化けェ?」
 ふにゃ、と歪んだ子どもの顔を見てチャックはあたふたと手振りをした。何が起こっているのかはわからないままに、なぜか悪事を仕出かしてしまったかのごとき心地に陥る。
「……おばけじゃないの?」
 一人慌てふためく眼前の魔物の様子ににじんだ涙をぬぐい、レイは首を傾げて訊ねた。
「えー、いや、ナニについてお化けつってるのかわからねぇけど、オレは彫像族ってんだよ。俗っぽく言うとガーゴイルだとか呼ばれっけど……。あァぶったまげた。ヒトの顔見ていきなり泣くなよなァ」
 眉間に皺を作ってこぼすが、塔の少女たちのようなまだ人間の姿に近い者ならいざ知らず、石の肌に石の翼、竜鬼の身の上にくちばしを持つ獣の頭を乗せた異形に寝起きを覗き込まれていれば、たとえ号泣していたとしてもレイに責められるいわれはない。
 何にしろ、「おばけ」が否定されて子どもは落ち着いたらしく、草の上に座ったまま恐怖の顔も浮かべず見上げてくる。すっかり調子の狂ってしまったチャックである。
「……おめぇ、天使だろォ?」
「そうなの?」
「えェー。自分でわかんねぇのかァ? なんか妙なモン見つけちまったなァ……大体おめぇ、なんでこんなとこにいるんだ?」
 本人が理解しておらずとも、背の白翼といい、身にまとった淡い光の力の質といい、確かに子どもは天の住人のはずである。『鳥』が冥府の一部の者たちに珍重され、「飼われている」と噂には知っているが、このように独り野にいるなどというのは聞いたこともない。まして、こんな幼いひよこが。
 無駄かと思いつつ訊ねてみると、子どもははたと気が付いたように目を開き、
「おれ、ヴァルにてがみとどけるんだった!」
 そう声を上げてぴょこんと立ち上がった。
「ヴァル?」
「うん! てがみとどけて、いっしょにつれてってもらうんだ」
「……良くわからねぇけど、この森が届け先なのかァ?」
「ううん、ヴァルをおっかけてたら森について、穴におちて、ねちゃった」
「なんかすっ飛んだなァ……」
 要領を得ない話をまとめる。どうやらこの子どもは野の鳥ではなくやはり誰かの飼い物で、おそらく使いに出た途中のこの森で変事に遭い、気を失っていた、というところだろう、とチャックは内心に頷いた。
「普通ならこんなちびに使いなんて任せられねぇけどなァ。まあいいけどよォ、じゃあおめぇのご主人様は、もうどっか別の場所に行っちまったんじゃねぇかァ?」
 天使が野に転げているのを見れば、冥府の者たちが手を出さず放っておくはずもない。ほかの誰にも見つからずいたのは、すなわち子どもが気を失ってからさほど時間も経っていないということを示しているのだろうが、ここが届け先でないのだとすればもうその主人はよそへ身を移しているはずだ。チャックの知る限り、この森は無人である。
「うん、そうかも……じゃあおれ、『とう』にかえらなきゃ」
 しょぼん、と翼をしおれさせて子どもは言う。
「塔?」
「うん。おれ、森を出たところの、たかい『とう』に住んでるんだ」
 その言葉に、はて、とチャックは腕を組んだ。
「この近くに塔なんざありゃしねぇぜ?」
「え?」
「屋敷ならあるけどよォ、ありゃ平べってぇしなァ」
 きょとん、と子どもが目を丸くして、でもおれ、走って森についたんだぞ! と返す。嘘をついているようにも見えないが、事実は事実だった。一番近くの屋敷も丘をひとつ越えたところに建っている物で、とても小さな子どもの足で駆けてこられるような距離ではない。
 と、いうことはだ。
「おめぇ、さっき穴に落ちたとか言ってたよなァ。さてはこりゃ、『蟲喰い』にやられたなァ?」
「むし?」
「おう。『蟲』ってのはタチの悪ィ奴でな、いってェどういう仕組みか知らねぇが、場所と場所の間を『喰って』、穴を空けちまうんだな。するってェと、そこにハマった奴がたちまちそのあいだを飛ばされちまうって寸法よ。おめぇ、その穴に気付かないで落ちちまったんだな」
 だからおめぇのいた森ってのは、こことは違うどっか別の森ってこった、と説明する。
「え……」
 良く理解できないなりに、レイはその言葉尻から「とおい、しらないばしょにきてしまった」ことを感じ取った。
「……じゃあおれ、どうやって『とう』にかえればいいの?」
「どうやってって、んなことオレに言われてもなァ……って、ぎゃあっ、な、泣くなよ!」
「泣いてない。おれ、っく、つよい『きし』になるから、……ふぇっ……、な、泣かないんだもん」
「ええェ、どう見ても泣いてるじゃねぇか……弱ったなァ……」
 こんなモン見つけなきゃ良かった、とも思ったチャックだが、自分から関わった手前、今さら逃げ出すこともできなかった。彫像族の矜持――あるいは冥府の住み人たちそれぞれが持つ、ある物事への強い興味、と言っても良いのだが――それは地界の人間風に言えば、
『義理と任侠』
 であった。

「……ぃよしっ、話だけ聞いてさよならってんじゃ男がすたらァ。オレがおめぇを家まで連れて行ってやるよ」
「……ほんと?」
 どんと石の胸を叩いて請け負ったチャックに、子どもがぴたりと涙を止めて目を開く。
「おうよ。おめぇ、ちびのクセになかなか骨がありそうだし、オレもどうせ暇だったからな。それによォ、まんざらオレの一族と天使……おめぇの一族ってなァ、繋がりがねぇでもねぇんだよ」
「そうなの?」
「まァ、オレも詳しくは知らねぇけどよ。じぃさんのじぃさんの、そのまたじぃさんの代ぐれェ前の話らしいからな。オレたち彫像族ってのはよォ、昔は結構イイ身分の種族だったみてェでな、聖獣とか呼ばれて、冥界の外にも暮らしてたとかいう話だ。それでな、ちーっと魔が差して、天界で暴れたヤツらがいて、まァ情けねぇことに天使にこっぴどくやっつけられたんだな。で、土下座して命乞いする代わりに、天使たちのお堂の門番を任されたんだよ」
「もんばん……」
「ま、ようは見張りだな。ほら、オレら、厳つくって怖ェ顔だろ? 賊も尻尾巻いて逃げ出すってェ寸法よ」
 その説明に子どもはまじまじとチャックの顔を見つめ、ことりと首を傾げて言った。
「こわくないぞ。つよそうで、かっこいい」
「おっ、そうかァ? 嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか、ちびすけ」
 浮かれて返すと、子どもはうん、と笑って頷き、
「でも、ヴァルのほうがもっとかっこいいけど」
 そうあっさりと続けた。
「えェー、なんだそりゃァ。ひとこと余計だなおめぇは……。っつぅか、さっきから言ってる『ヴァル』ってェのが、おめぇのご主人様なのか?」
 おそらく人の名前なのであろうその言葉は、主人を表すには大分ぞんざいに口にされているようにも聞こえる。が、濃かれ薄かれ関わりのある存在なら、子どもが住んでいると語るところの『塔』の手がかりとして一から洗い出すしかない。
 「主人」の意味がわからないのか、チャックの問いに子どもはうーん、と首をひねり、
「ヴァルは『とう』にいっしょに住んでるんだ」
 そう答えた。
「ってェことは、やっぱりそいつが主人なんかなァ。ヴァル……なんて言うんだ?」
「ヴァルはヴァルだよ」
「いや、多分ヴァルなんとか、とか、なんとかヴァルって言うんじゃねぇかと思うんだけどなァ……冥界も広ぇからよォ、それだけじゃわからねぇなァ。そいつ、どんな奴なんだ?」
「えっとね、ヴァルは、つよくてかっこよくてやさしい!」
 上がった言葉に、や、そんなヤツ冥界にいねぇよ、と間髪入れずに思うチャックだが、子どもの目があまりにきらきらとしているので言葉を返すことができなかった。
 どうもこの子どもは、自分の主人のことを心の底から慕っているらしい。大丈夫かなァこいつ、騙されてるんじゃねぇかなァ、などと胸に不安のよぎるチャックである。
「……そういう抽象的っつーか、はっきりしねぇとこじゃなくってよ……外見だよ。見た感じだ、見た感じ」
「んっと、……くろい」
「……もう少し」
「たかい」
「……あとひと声」
「目がヘン」
 お手上げであった。


       ◇


「……ま、仕方ねぇかァ。こんなちびすけじゃあなァ」
「おれ、ちびすけじゃない。レイっていうんだ」
「おぅ、そうか。オレぁな、チャッカドゥミエルってんだ。長ったらしいから、縮めてチャックな」
 チャック、とくり返す子どもによし、と頷いて、さてどうしたものかと腕を組む。何か手はないか、と探すうちに、最善の近道と思われるものを失念していたことに気が付いた。
 子どもは初めに言った。てがみをとどけにきた、と。
「おめぇ、手紙持ってるって言ってたなァ。それ、ご主人様のだろ? なんかわかるかもしれねぇから、ちょっと見せてみな」
 すると、今まで素直だった子どもが、え、と身を数歩引き、急に頑なな態度を見せた。
「……だめ」
 ぽつりと言う。
「おォ? なんでだよ」
「これ、ヴァルのだいじなてがみかもしれないから……だめ」
 きゅっと眉を寄せる小さな鳥の表情は、幼いなりにこれだけは譲らない、と決意の色をたたえていた。
「うーん……」
 チャックは迷った。何しろ相手は小さな子どものことだから、無理やりその身から手紙を奪うことなど造作もない。そうしたほうが結果的には良いのではないかとも思ったが――
「うん、そうだな。おめぇがそう決めたんなら、オレはそれを尊重すらァ」
 ここで自分よりずっと弱いものを力づくで抑え付ければ、彫像族の名折れである。頷いて告げると、幼くもなかなか一族の感心に見合う子ども、レイは途端に顔をほころばせて、またチャックの隣にちょんと身を据えた。
 うん、ガキってうるせェばっかとか聞いてたけど、こいつは割と見所があるんじゃねぇか?
 そんなことを思うチャックである。
 実は――確かに、チャックの棄てた選択は、最も塔への帰還に近い道ではあった。
 初日の騒ぎと幼く力の弱いレイの状態を鑑み、先日ヴァルナードは最愛の鳥に刻んだ所有の印章の力を、身の負担を危ぶんで一時的にではあるが、ひとつ強化していた。子どもの身に少しでも敵意がかかれば、相手を撥ねのけ、自分がそうと察せられるように。
 しかしこの日一番にレイを見つけた彫像族は、一族の陽気な性質も手伝い、初めからその身をおびやかそうとはしなかった。もし今手紙を無理に奪おうと爪をかけていたなら、レイの主人はすぐに見つかり、そして刹那の間に腕の一本は切り落とされていたはずである。それが吉凶どちらのなりゆきであったのかはともかくも、ことチャックにとっては何よりの慶事であったことに間違いはない。
「じゃあまァ、とりあえずオレの一族のヤツらに声かけて訊いてみっかァ。誰かしらその塔に住んでるヴァルなんとかだかなんとかヴァルだかって奴に、心当たりのあるのがいるかもしれねぇしな。なんかご主人様について思い出すこと、他にあるかァ? 見たこととか、言われたこととか、何でもいいからよ」
「んっと……あのね、ヴァルは、おれのことおよめさんにしてくれるって言ってた」
「ぶふぉっ」
 幼い子どもの口から述べられた思いもかけない言葉に、チャックは息を詰まらせ噎せ込んだ。
「よ、よよよよよ、嫁ェっ?」
 盛大にどもりつつ、耳に飛び込んできたけったいな言葉をおうむ返しにすると、レイは怪訝を見せることもなく、うん、と嬉しそうに頷いた。
「さいしょはね、おれがヴァルにおよめさんになってってたのんだんだけど、それはダメなんだってさ。けど、おれがおよめさんならいいって」
「よ、嫁かァ……おめぇが嫁なァ……」
 そりゃ、ちっこいのをどうこうするシュミの野郎がいるってのも、話には聞いたことあるけどよォ、とチャックは冷や汗を流した。実際にレイがヴァルナードをそのやりとりをした時には、「大きくなったら」という条件が付いていたのだが、そのいきさつも、もちろん本来のレイがとうに成人をした大人であるという事情も知らないチャックは、目の前のこの小さな子どもが嫁になるのだとすっかり思い込んでいた。
「……おめぇ、家に帰らない方がいいんじゃねぇかァ……?」
「なんで?」


      ◇


 そんなこんなでやっと森を飛び立った二人は(と言っても、まだ翼に飛翔の力がほとんどないレイは移動中ずっと腕に抱えられていたが)、まっすぐにチャックとその血族たちの住処へ向かった。荒野に切り立つ巨大な岩柱にたどり着くなり、ごろごろと寝床で暇を囲っていた彫像族たちが、突如現れた小さな天使を見ようと我先に集まってくる。
「おい来てみろよ、天使だってよ、天使」
「うわ四つ羽だ。しかもガキだ。お前どっからさらってきたんだよチャック」
「羽、もこもこしてんなァー。それで飛べんの? まだ飛べない? あっそう」
「ちっせー。動いてる」
「動いてんのは当たりめェだろ。なァ、こいつ家がわかんなくなったんだとよ。で、オレが探してやってんだよ。今からこいつの主人とかいう奴の特徴おしえっから、心当たりのある奴ァ言ってくれや」

 間。

「えェー。特徴じゃねぇよ、雰囲気ってんだよそれァ」
「オレらの一族以外に、強くてイカしててやっさしいヤツなんざいねぇだろォ」
「ヴァルはほんとにつよくてかっこよくてやさしいもん!」
「うわ喋った」
「ホントだ喋った」
「だから喋んのは当たりめェだろっての。あー、いいからとりあえず落ち着けや」
 やいやいと騒ぎ立てる同胞たちを鎮め、レイにも改めて確認を取りながら『塔』の手がかりを総出で探すが、何しろ元の情報が情報だけにどう論じても埒が明かない。重く気が落ちた場に、一人が提案の声を上げた。
「オレの知り合いによォ、『山羊の王』の使い走りしてるヤツがいるんだよ。ほら、山羊の王ったら冥界一の情報通ってェ話だろ? そいつなら、なんか知ってるかもしれねぇぞ。オレたちゃ結局同じ種族だからな、知ってることも偏ってらァ」
 なるほど、と岩場に集った生ける彫像たちが頷く。
 ならばほかにも早耳と噂の者たちに確かめようと、何人かの冥府の住人の名と所在を並べ、チャックはそれを元に道順を決めて住処を発つことにした。議論の間に同胞を相手取って遊んでいたレイを促し、再び腕に抱える。
「おぅ、また来いよォ、ちびすけ」
「うん。またね」
 ぱたぱたと手を振る子どもへ口々に声かけつつ、見送る同胞たちのほうがよほど名残惜しそうにしているのだから世話はない。息をつき、それを言うならオレも同じかァ、と苦笑をこぼしてからチャックは岩壁を蹴って空へ飛び立った。
 それから数刻、憶えをたどって教えられた名を次々に訪ねたが、どこへ行ってもはかばかしい成果は得られなかった。
 手がかりの質の低さもさりながら、同胞たちを相手にした時とは違い、目的をはっきりと告げられないことも大きな障害のひとつだった。何しろ冥府では「値打ち物」としての扱いが一般な『鳥』である。その存在が知れればどんな厄介に巻き込まれるかわからない。チャックは情報を訪ねるたびにレイを安全な場所へ隠し、「鳥を飼っている塔」を訊けば答えが得られるのではないかと思いながら、主人の名前のかけらと曖昧な特徴だけを手がかりに塔を探すほかなかった。
 そうして十も当てを回り、次に本命を訪ねようと『山羊の王』の館へ向かって翼を広げた頃、陽が地平に落ち始めた。
「いけねぇ。暮れてきちまった」
 どうしようかと逡巡し、手近な岩山の上、人目に付かない張り出した断崖の陰に降下した。
「……着いた?」
 あちこち引っ張りまわされて疲れたのだろう、腕から降ろしたレイが眠たげに目をこすりながら訊いてくる。
「いや、まだなんだけどよ。暗くなってきちまったからなァ。オレぁまだ疲れてねぇけど、今日はもうここまでにした方がいいんじゃねぇかと思うんだよ」
 言うと、レイはえ、と声を上げた。
「おれも、まだだいじょうぶだよ」
「けどなァ」
「かえらないと、おこられちゃうもん……」
 しゅんとする子どもに頭をかき、チャックはあからさまにしないよう言葉を選びながら説明した。
「おめぇ、白いだろ? 光ってるしよ、夜はちっと目立つんだよな。今日は晴れて月が出てっから余計になァ……。妙なモンがついてきたりしたら、嫌だろ?」
「……おれ、かえれる?」
 帰れる、と即答してやりたかったが、根拠のない嘘と自覚していたので、言葉にできなかった。
 冥界は広い。『蟲喰い』の穴がどの程度の幅を持つのかは知らなかったが、もし端から端まで飛ばされていたとしたら、果たしてこの雛鳥の家を見つけてやることはできるのだろうか?
 答えの代わりに、なぁレイ、と名を呼びかける。
「おめぇ、オレの家で暮らすか?」
 ふぇ、と顔を上げるレイをなだめるようにゆっくり頷いてやる。
「兄弟たちもおめぇのこと気に入ってたみてェだしよ、ま、おめぇ一人ぐらいなら隠して養ってやれるんじゃねぇかなァ」
 何より自分が気に入ったのだ。この小さく快活な鳥のことを。
 それに、とだいぶ前から抱えていた懸念に改めて思いを馳せる。首尾よく家が見つかったところで、この子どもは幸福を得ることはできないのではないだろうか? 冥府における『鳥』は、どう珍重されていようが、主人に仕える「物」でしかない。それがこの地の覆されざる秩序なのだから、住人たる自分がとやかく言おうとは思わないが、目の前の幼い子どももがその運命をたどるというのは――あまりに不憫だ。
「おめぇみてェなちびを使いに出して探しにも来ねぇなんてなァ、ロクな奴じゃ……」
 言い差したチャックを遮るように、レイはぶるぶると首を振った。
「おれ、かってに出てきちゃったから……だめって言われてたのに、だから、ヴァルはおれがいないの知らないんだ」
 語るそばからぽろぽろと涙がこぼれ、岩土の上に落ちていく。
「ヴァルに会いたいよぅ……」
 ごめんなさいごめんなさい、とここにはいない主人に謝りながらしゃくり上げる子どもの頭を撫でてやり、ため息をつく。
「仕方ねぇなァ、全くおめぇみてェなちびをたらし込んで、ひでェ野郎だなァそいつも……オレもいっぺんツラぁ拝んでやらねぇと気が済まねぇや」
 なぁレイ、と再度呼びかける。
「どうしてもそのヴァルって奴に会いたいんだったらな、おめぇは嫌かもしれねぇけど、やっぱり手紙ィ見るしかねぇと思うんだ」
「てがみ……」
「おぅ。あのな、どうしてもってんなら、中身は見ねぇ。表だけでいいからよ」
 促すチャックにレイは俯いたままきょろきょろとしてためらいの仕草をくり返していたが、やがてきゅっと唇を噛み締めて涙をぬぐい、
「ぜったい、よんじゃだめだからなっ」
 強く言って懐から一通の書簡を取り出し、チャックに差し出した。おぅ約束だ、と応えて紙を受け取り、暗がりの中、表に目を落とす。
「うわ、古い字だ」
 表書きにされていたのは今は一般に使われていない、古い時代の書法による文字だった。チャックには読むことができないが、形を憶えていれば重要な手助けにはなる。
 とすると、宛は随分と歳を喰った奴なのかもしれねぇな、などと推測しつつ、ぱたりと手紙を裏に返し――硬直した。
「……」
「……」
「……チャック?」
 訝しげに声をかけられる。静止していた現実が途端に押し寄せ、チャックはのけぞって目前に立つ子どもを見つめた。ぽかんと口を開けている幼い顔から、ゆっくりゆっくり紙の上に目を戻す。黒い長柄の得物が組み合わされた、見間違えようもないその印。
「か、かかかかか」
「か?」
「鎌の紋じゃねぇかよ、こりゃぁ! て、てェことは、おめぇの住んでる塔は『黒の塔』で、主人ってのは……」
 震えるくちばしががちがちと打ち鳴らされる。予想外に過ぎるその名をただ口にするのでさえ命が削れる想いだった。
「かっ、『影の王』……」
「わかった?」
「わかった、わかったけどよォ……おめぇ、なんつーところに」
 かえれる? と投げられた問いにかくりと頷き、はしゃぐレイを呆然と見る。冥府にその名を馳せる王のことを、なんと親しげに語っていたのだろう、この子どもは。
「ホントにあんなおっかない王サマのところに帰して大丈夫なのかァ……?」
 他の四王に輪を十重にも二十重にもかけて外との社交を避けているヴァルナードは、その姿の見えなさ故に、曰く、山を二つ三つ呑み込むほどに巨大であるとか、曰く、あの印章の鎌そのものの姿であるとか、尾ひれが付いたどころか全体が尾ひれになったような突拍子もない噂を立てられていることが常であった。
「おめぇ、……頭から喰われちまったりしねぇか?」
「えっ、お、おばけに……?」
「いやァ……」


      ◇


「まァともかく、家がわかったんだからな。帰ろうと思えばいつでも帰れる。……帰るかァ?」
「うん!」
「そう来ると思ったけどなァ。ホント、大丈夫かね……」
 不安に胃をきりきりとさせつつ翼を広げようとしたその時、腕の中のレイがばっと身を乗り出し、声を上げた。
「ヴァル! ヴァルだ!」
「ええェっ?」
 慌てて断崖を飛び出そうとするレイの肩を押さえ、ほら、あそこ、と指差す先に目を向ける。おそるおそる見下ろすが、林の間の道上を動く何かがかろうじて確認できるだけで、姿までは判別できなかった。
「良くわかったなァおい……。ん? 待て待て、ひょっとしてこの展開ってよォ」
「チャック、あそこまで連れてって!」
「やっぱりかァー!」
 ぎええええ、と恐怖の叫びを内心に上げつつ、早く早くと飛び跳ねる子どもの言葉には抗えずに、半ばこの世との別れを覚悟して断崖を蹴るチャックであった。

「……予想と全然違ぇなァ」
 道の先の茂みの裏にこそりと身を隠し、チャックは初めて目にする『影の王』の姿を、もはや怖いもの見たさの想いでまじまじと観察していた。
 確かに黒い。高い、というのは背のことだろう。目が変。なるほど異相だが、そこいらの異形たちよりよほど人間に近い姿をしている。……無論、それが真の相の全てではないのだろうが。
「うーぶるぶる、寒気がしてきた……なぁレイ、おめぇ今からでも考え直すのは遅くないぜェ……って、レ、レイっ?」
 つい一瞬前まで傍らにしゃがんでいた子どもの姿が忽然と消えている。慌ててあたりを見回すと、もはや待ちきれなかったのだろう、小さな天使は茂みをくぐり抜けて道上に飛び出すところだった。
 ぎゃあと声にならない声を上げて伸ばした手をすり抜け、レイは脇目も振らず影の王の元へと駆けていく。
 その時ヴァルナードは山羊の王・フレッグの館からの帰還の途中であり、ひとまず林を抜けるまでと、受け取った本を流し読みながら自力に歩いていたのだが――突如として届いた自分の名を呼ぶ高い声と、前方から近付く小さな姿に、茂みに隠れた彫像族のように叫びの衝動こそ覚えなかったものの、城ひとつと交換できるほどの価値を持ったその本をころりと取り落とした。
「ヴァルー!」
 小さな手足を懸命に動かして駆けてくる子どもは、紛れもなく我が最愛の鳥だった。塔で見送りの言葉を聞いたはずのレイがなぜこのような場所にいるのか考え巡らす前に、ともかく飛び込んできた身体を腕に受け止める。
「レイ、……何があった?」
 抱き上げられて顔をほころばせている子どもに問う。レイは喜色と反省がない交ぜになった表情を作り、懐から今朝塔に忘れてきた手紙を取り出して、もはや九割方事態を理解したヴァルナードにこしょこしょと告げた。
「……あのね、おれ、わすれものヴァルにとどけようとおもって……森で穴におちて、ヴァルがいなくて、……ごめんなさい。おこってる?」
 しょんぼりとするレイにふっと苦笑とため息を漏らし、あとの五日は絶対に子どもを自分から離さないと心に決めて、手紙を受け取った手で頭を撫でてやる。
「……ご苦労だったな」
 レイは一瞬きょとんと目を丸くして、赤く染まった顔をヴァルナードの胸にすり寄せた。

「……これも予想と違ぇって言っていいんかなァ……」
 こっそりと茂みの裏を通って二人の横手に回ったチャックは、眼前で繰り広げられる妙に穏やかな光景に気の抜けた呟きを落とした。
 レイは腕の中で安心しきっているし、影の王も、どこまでが虚でどこまでが実なのかわかったものではないが、まぁすぐさま子どもを取って喰うような雰囲気はない。
「ま、あいつが喜んでるならいいとするかァ」
 うん、と頷いてそっと場を離れようとしたその時、
「待て」
 背に低い声が投げかけられ、チャックは石の身体をこれ以上ないほどに硬く凍りつかせた。
 ぎぎぎ、と震える頭を振り向かせる。取り落とした本を拾い戻し、腕に小さな天使を乗せた『影の王』の虚ろの眼が、しかとこちらを見据えていた。
「ひっ……」
 三尺跳びに後ろへすさり、地面に額をつけて平伏する。
「どっ……どうか命ばかりはお許しをっ! オレはその子どもに手出しはしてねぇです! 色々引っ張りまわしちまったのは謝ります、どうか喰わねぇでおくんなせェっ!」
「えっ。ヴァル、チャックはおれのことたすけてくれたんだよ、食べちゃだめ!」
「……喰わん」
 ため息混じりの声におそるおそる顔を上げると、ひゅっとこぶし大の石のようなものが投げ寄こされ、前に転がった。驚いて飛び上がったチャックに再び『影の王』の声がかかる。
「手間賃だ」
 取っておけ、と促されて見つめる石は、強い魔力の宿った、おそらく今男が手にしている本と同じほどに価値を持つであろう、純度の高い魔晶であった。
 呆然とくちばしを開くチャックの前で『影の王』が何事か腕の中の天使に囁き、
「チャック、ありがとうございました!」
 またね、と手を振って告げられた感謝に声を返す間もなく、大小ふたつの姿は地から巻き上がった黒い影に呑まれて消え失せた。
 後に残るのは、お人好しの彫像族と、城ひとつの値打ちの魔水晶。
「……本気で嫁にするのかもなァ……」
 落ちた言葉はその場は風に散り消えたが、かくて影の王の噂にはまたひとつ新たな尾ひれが付き、レイが元の姿に戻ったのちも各所から稚児を貢物に勧められ、ヴァルナードは閉口するのだった。


Fin.
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