こいがさね



 「それ」を初めに耳にしたのは、昼前に運び入れた荷の整理がようよう終わり、新しい家での暮らしをまさにこれから始めようという、梅雨明け間もない夜のことだった。


「――伊月、呼んだか?」
 土間のかまどの具合を改めていた日向は、ふと手を止めて戸を開け、表にいた幼馴染に声をかけた。井戸のそばの背がこちらに振り向き、首を傾げる。
「いや、何も言ってないけど」
「そうか?」
 一瞬、誰かの呼び声を聞きつけたような気がしたのだ。だがこの場で自分を呼ぶとすれば旧知の友である伊月ぐらいのもので、まだほかに知り合いもいない。
(空耳か)
 そもそも名前を呼ばれた感じではなかったな、と頷いて中へ戻ろうとすると、あ、と伊月が声を発した。
「あれじゃないか? “神狼の遠吠え”」
 ほら、と後ろの空を示すように人差し指を上げてみせる。追って見上げた夜の向こうから、「それ」が聞こえてきた。
 おおぅ、おぉぅ。
 高く長く、宵闇にまっすぐ尾を引き、風震わせて響く声。ひとつ聞けばすぐに力有る者の業とわかる、神性の宿る獣の咆哮だった。
「ここの大神の声だって、噂は聞いたことあったろ」
「ああ、例の森のか」
 向こうではわからなかったけど、さすがにこのあたりだと良く聞こえてくるな、と伊月が語る間にも、仰ぐ夜の深森から咆哮は絶えず響いてくる。何か意味を成す言葉を唱えているわけではない、ただ声ばかりの声であるようだ。
(こんなんと聞き違えるわけねーと思うけど)
 とは言え、戸を閉めて片耳に聞いたこともあり、絶対とまでは言い切れない。首傾げてもう一度耳を澄ませる前に、伊月から確認の問いが飛ぶ。
「それより日向、かまどのほう大丈夫か? 早くしないと夕飯作れないんだけど」
「今やってるよ」
「はっ、かまどが使えるか惑う……キタコ」
「あー大丈夫だ大丈夫だこれで無事に飯が炊けるわ」
 土間へ戻って相変わらずの地口を遮りながら、壁越しの遠吠えを聞く。
 土地の人間たちが称える荘重の響きは、狼の声の独特な高さと抑揚のゆえか、どこか寂寞をも伴って夜を包むようであった。



 この世に在り始めた時には、自分の土地は既にずっと大きな存在に護られていた。
 初めから自然にそうあったものを疑問に思うことはなく、深い森に住まうというその大神に、羨みや憧れといった、特別の関心を抱くこともなかった。同質の存在であるとは言え、自分とはその格も力の大きさも何もかもが違う。今後も関わることはない。そう思っていた。
 住まいを移そうということになったのは、隣国の戦のため、それまでに暮らしていた家の近くから、人や獣たちが逃げていってしまったのがきっかけだった。仮にも護神であるからには土地の者たちとの付き合いがあったほうがいい。いつまでも土地の外れにいるのもどうかと話し合い、見つけたのが森の南西のふたつの空き家だった。急に国の内側どころかほとんど中心のあたりに暮らすことになってしまうのには躊躇もあったが、近くの村人たちから歓迎の言葉を受け、ほかに良い当てもなく決まったのがこの年の春も終わりのことである。
 長雨の時期を避けて転居を終え、まあ早々に何が変わるわけでもないだろう、と安閑の構えで初日の床に就いてから、それはわずか三日後のことだった。



 伊月が前の住まいに取りに戻る物があると言って朝から飛んでいったので、日向もあたりを見て回ろうかとひとり外出をすることにした。近い村には顔を出して挨拶を済ませたが、まだ細かな道や地形は把握できていない。裏の林には弓矢の材料になる竹がほとんど生えていなかったので、早いうちに良い採取場所も見つけたかった。
 ひとまずの方角だけ定めて歩き出し、周りを眺めながらゆっくりと歩を進めて半刻も経たないうちだった。
 曲がり道の向こうから届く高い歓声にふと足を止める。大勢の子どもが騒ぐ声のようで、日向はなにとはなく道の上を外れ、脇の木の後ろからそちらを窺った。
「次、次あたしー!」
「えー、姉ちゃんずるい、次はぼくだよ!」
「はは。いいぞー、みんな順番な」
 十人ばかりの幼い子どもの輪の中に、ひとつ頭抜けて高い影。はしゃぐ子どもを肩の上に乗せてやっているのは、黒の直衣装束を着けた若い男だった。村では滅多に見ないような長躯に怯える様子もなく、童たちはシンジュさま、シンジュさまと口々にしながらその周りを賑やかに取り巻いている。
(あれがここの大神の……神樹、か)
 あえて探らずとも、その佇まいと伝わる力とで別格の存在であることがわかる。森にそびえる大樹の化身であるというその神は、外見だけを見れば日向や伊月とそうまで変わらぬ年恰好をしていた。神霊なのだから実齢と見た目にずれがあっても妙なことではないが、もう少し年嵩か、あるいは古木の化身という言葉から老人かもしれないと予想していたところ、やや拍子抜けの気分である。
「見てシンジュさま、大きなトンボつかまえた!」
「おー、すごいなぁ。でもずっと捕まえてちゃかわいそうだから、後で逃がしてやろーな」
「はぁい」
 頑是ない投げかけや行動のひとつひとつに律儀に応じてやっている。太い眉が特徴的な、おそらく澄ましていれば男前なのだろう貌は、ずっと朗らかな笑みに崩れていた。
(なんつーか、いかにも人が好いって感じのツラだな)
 だいたい大神ってこんなところにのこのこ降りてきてガキと遊ぶもんなのか、などと、はたから眺めているのを幸いに勝手なことを思う。
 少し待っても状況が変わる様子はなかったので、自分のほうが足先を変えて場を去ることにした。さすがにあの横を通り過ぎていく気にはならない。いずれ挨拶に行ったほうが良いのだろうか、と伊月と話をしてもいたのだが、大神に対する気後れで先延ばししていたところに当人を見て、逆に気が削がれてしまった。
(あの感じじゃ俺らみたいのを気にするってこともねーだろ)
 拠って立つところが違うのだ。そう結論付けて背を向け、その日の夕飯時の話題にもしなかった。これまでも関係なかったし、これからも変わらず関係ない。そう思っていた。
 ――が、二日後に今度は川のそばで見つけ、その三日後に東の村にいるのを目に止め、さらにその翌日にはあわや道で鉢合わせしそうになる、とまで偶然の遭遇が重なると、さすがに話の種にしないわけにも行かなくなってしまった。


「へぇ。そこまで行くともう何かの縁だよな。俺は全然会わないのに」
 五回目の目撃の夜、近くの村人から貰った酒のはずみにこれまでの経緯を口にすると、伊月は興深げにそんな感想を漏らした。
「縁なんてねぇよ俺が行く場所にたまたま先にいるんだよ」
「いや、それが何かの縁って言うんじゃないの」
 もう声かけてみればいいのに、と言われるが、半ば意地めいたものができて、姿を見つけた瞬間に回れ右をする癖がついてしまっていた。それに初めにわかっていて無視した手前、今さら「実は何度も見てました」などと言うのも気が引ける。
 いずれ二人で連れ立っている日に会うこともあるだろう、その時にまとめて挨拶でもすればいい、と自分の小心をごまかすように決めたが、次にその姿を見たのもまた、表を一人歩いている時だった。


(……嫌がらせかよ)
 苦虫を噛み潰して思ったのは、つい数分前までは隣に伊月がいたからだった。雨が降り出しそうな気配だったので、出がけに干してきた洗濯物が心配だ、などと所帯じみたことを言って翼を飛ばして先に帰ってしまったのだ。それから道をふたつも曲がらぬうちの遭遇である。いくら森のそばを歩いていたとは言え、こうまで来ると確かに奇縁と言わざるを得ないものがあった。
 これはもう腹をくくって声をかけろということなのか、と息をつき、それでも癖になってしまった動作で一度木の影に隠れながら、遠巻きに様子を窺う。いつもの直衣姿の男は、近くの村の住人なのだろう幼い子どもを連れた家族と立ち話をしていた。話の内容までは聞こえてこないが、若い夫婦がしきりに頭を下げているところを見ると、何か子どもの世話でもしてやったというところだろうか。
 ほとんど会話も終わりかけていたらしく、いくらもしないうちに三人は揃ってもう一度礼をし、その場を後にして歩き始めた。名残惜しげに幾度も頭を下げるのに手を振り返し、子どもを挟んで手を繋いだ睦まじい親子の姿が向こうに見えなくなるまでを、そして見えなくなった道の先を、男はじっと見つめていた。
(なんだ、あいつ)
 いつまでも佇むままの後ろ姿を見て、怪訝に眉を寄せる。それこそ気軽に声をかけられるような様子ではない。逡巡しているうちに男は前触れなくきびすを返し、森のほうへとまっすぐ歩き出してしまった。あ、と思うが、追うには遅かった。踏み出し、伸ばしかけた手に気付いて身を引き戻す。遠雷が鳴り、立ち尽くす肩にぽつりと雨粒が落ちた。
 その夜、数日ぶりに届いた遠吠えは、その音の強さとは裏腹に、やはり何故だか物わびしく聞こえた。


 それから当たり前のように姿を見かけるたび、日向は声をかける代わりに、男が表にしない翳のようなものをその背に探した。理由は自分にもわからなかった。格の違う神の弱みでも見つけた気になっているのだろうか、と自虐気味に考えてもみたが、今ひとつ納得には至らなかった。
 そうこうするうちに、いつでも人に獣に取り巻かれている男が、誰かがそばを離れるたび、別れる者を一人で見送るたび、ほんのかすかに、心細げな表情を見せることに気付いた。
(大神なんだから、もっと堂々としてりゃいいのによ)
 寂しいやつ。
 それが、初めの印象だった。


      ◇


 伊月に呆れられつつ、それからも眺めるだけで親交をほうったままの時が過ぎ、夏も終わりを迎えようかというある日の夕暮れのことだった。
 散策を終えてそろそろ帰ろうかと近道を歩いていた日向は、不意に鼻の上に香った血臭に身を構え、あたりを見回した。目の届く範囲に異変はない。が、耳はかすかに何かの叫びを捉えた。横手の森からだ。
 その領分に立ち入ることに一瞬迷いの足を踏むも、すぐに意を決して繁みの中へ跳び込む。懐の短刀の柄を確かめながら、風に混じる血の臭いを辿って駆けていくと、まず目に飛び込んできたのは交錯に翻った黒の直衣の袖だった。思わず足を止め、その場にしゃがみ込む。
 こちらに背を向けて立つ長躯の前に、翼持つ小型の妖魔が二体、牙を鳴らして対峙している。裂けた口からは血が滴っているが、男が傷を負っている様子はなかった。
(こりゃ、出る幕じゃねぇな)
 今は愛用の得物もないし、そもそもこの程度の相手ならば、男一人でわけなく退けられるだろう。現に、三体いたらしい妖魔のうち一体は既に地面に身を打ち伏せられていた。
 ぎぃ、とひとつ甲高い声を上げ、爪を構えた一体が男の頭めがけて降下する。男はそれを避けるために足を引くこともなく、逆に腕を伸ばして妖魔の頭をわし掴みにし、そのままの勢いで地面に叩き落とした。耳はゆい悲鳴を一顧だにもせず、残りの妖魔に腕を突きつける。
「この土地のやつらに手を出すな。まだ向かってくるなら容赦はしない」
 決然と言う。ざわりと脈打つように騒いだ森の怒りの気配に圧されてか、妖魔は小さな身を竦ませてひと声鳴き、空へと飛び去っていった。男はもはやそちらにはなんの関心もないといった様子ですぐに足を返し、脇の繁みの前にしゃがんで何かを手に取り上げた。べとりと血が着物に付くのも構わず抱えたのは、二匹の小さな獣のようだった。
「すまん……一歩遅かった」
 どうやら一匹は既に事切れてしまっているらしい。すぐに手当てをしないと、ともう一匹の傷を看始めるが、噛み締めた口が悔しげに震えているままだった。
 やにわに込み上げた居たたまれなさに、日向はそっとその場を離れて森の外へと駆け出した。胸を襲った戸惑いの形は、強い憤りのそれに限りなく似ていた。
(なんでだよ)
 黄昏の道をわけもわからず駆けながら、半ば吐き捨てるように思う。
(なんでお前が、そんな顔)
 家へ走り戻り、噴き出た汗とともに雑念を流そうと水を被っても、混濁した心はひと晩晴れなかった。



 五日後、気にすまい気にすまいと唱え続ける己の内なる声に音を上げ、ああそうだ気になるんだ悪いか、と開き直りの決意を掲げて、日向は男と妖魔の対峙していた森に足を運んだ。もう場所を移してしまっているかもしれない、と半分は期待して覗いた繁みの下に、確かにあの日に見た小さな獣、傷付いたイタチの子が横たわっていた。
「なんだ、もうほとんど治ってんだな」
 後肢に負っていたらしい傷もほぼふさがっている。身体の具合に問題はないようだと安心しかけたが、妙なほど生気を失くしているのが気にかかった。横に転がった食料にも口を付けていないらしい。どうしたのかと眺めるうちに、繁みの奥に盛り上がった土の跡に気付いた。
「ああ……お前、家族が死んじまったのか」
 巣離れをして間もない仲の良い兄弟だったのだろう。小さな心が諦念を覚え、生きる意志を失うほどに。
「気持ちはわかるけどな……」
 そっと手を伸ばし、短い真言を唱える。かざした指の下に伝えたのは、生きてこそ受け容れられる陽のぬくもりと、活性の力の波だけだった。神と言えど、心までを癒す術はない。
「勿体ねぇぞ、こんなところで諦めたら。本当は腹も空いてるんだろ。兄弟のことが悔しいなら、お前がその分まで生きてやれ。……せっかくあいつが助けてくれたんだろうが。もらったもん、無駄にすんな」
 なあ、と笑みかけようとした瞬前、横手から葉擦れの音が届き、はたと振り向く。こちらを向いた目と視線がかち合った。しまった、と反射のように思って立ち上がり、駆け出そうとするのを強く呼び止められ、つい足が止まった。
 それが、「二人」での初めの出逢いとなった。


 まさかこんな時間には会うまいと思って森に寄った翌朝、陽が昇って間もない刻限にもかかわらずまたも見事に出くわしてしまい、初日は黙っていた日向も、その夜には伊月にくだんの大神との邂逅を打ち明けた。
「あのー、あいつに会った。例の森の」
「会った? ああ、やっと話しかけたってこと?」
「向こうが気付いて声かけてきた」
「あ、結局……」
 苦笑し、で、どうだったと感触を訊ねてくるので、変人だったと放り出すように返す。行きがかり上、その変人とうっかり翌日も会う約束をしてしまったことを白状して再度笑われ、その日の夕餉は最後までしかめ面のまま終えた。それまでに感じていた諸々はそうした「してやられた」気分にまぎれて考え直されていた。
 変人で充分だ、あんなやつ。
 それが、二度目に残った印象だった。


      ◇


 大樹の神・木吉は大神らしい威厳に満ちたとはお世辞にも言いがたい、穏やかでのんびりとした性格の男だった。騒がしくはないが話をするのは好きなようで、日向のことをあれこれ訊ねてくる。自分の身の上など話したところで数百年生きた神には面白くもなかろう、と適当にあしらうようにしていると、今度は木吉自身のことや森のことに話題を移して言葉を続けてきた。それも初めこそ話半分の格好で聞いていたが、そのうちに興が乗り始め、気付けば日向も普通の受け答えをするようになっていた。
 性格や性質は真反対と言っていい部分も多く、通常の思考を大幅にずれた返答をするところなどに苛立たされることもあったが、それでも当初の予想を裏切って会話は概ね和やかに、四日を一瞬に感じるほど早く時は過ぎた。
 そうして五日目の朝、木吉はイタチからの礼を日向の手に渡し、これまでになく真剣な声音で言った。
「あいつが元気になってくれたのは、日向のお陰だと思うからさ」
 何を言ってるんだ、と思って見返した顔に、冗談の色はない。
「別に俺は……」
 確かに立ち上がる手を貸してはやった。だがただそれだけだ。反駁しかけたのを、俺はさ、と遮られる。
「あいつが凄く傷付いてたから、俺より小さくて弱いから、大事にしてやらなきゃ、俺が守ってやらなきゃって思ってたんだ。……けど、違ってたのかな」
 小さく鳴り落ちた言葉に、ああそうか、と気付く。
 こいつは知らないんだ。弱いやつの心を。護られる側にいるやつの心のことを。
 立ち上がれない自分を恨めしく責める心も、何かを諦めるしかないとふさぎ込む心も、護れない弱さに打ちひしがれる心も、何も知らないのだ。
「……違っちゃいねーだろ」
 それを強者の傲慢と切り捨てるのはたやすい。だが、日向はそうは思わなかった。この男はそう在ってこなければならなかったのだ。誠凛という地の全てをその手で支える大神として。その器の大きさに見合う痛みを受け容れる強き者として。だからあの日も、一匹の獣を死なせてしまった責を自分だけのものと受け止め、顔を歪ませたのだ。
「いいんじゃねぇの、お前にはそうしてやれる力があるんだから」
 自分の考えなど及びもつかないような廉直の心を、否定してやりたくはなかった。幾百年歩んできたのだろう道をそれでいいと認めてやりたかった。
(何偉そうなこと考えてんだ、俺)
 言い終えてから自嘲したが、礼を唱えた木吉の顔が確かに笑んでいたので、まあいいか、と流すように結論した。
 まさかその何気ないひと言がのちの日にしこりを残そうなどと、思ってもいなかった。




 弦巻を森に忘れたのをきっかけにして、伊月を加えた三人での交誼が始まり、互いの住まいへの往来もするようになった。森で竹を採っているところを見つかって以来、木吉は頻繁に修練場を訪ねてきては、何が楽しいのか日向が弓を引くのをそばで眺めている。本気の文句も二度目までで、何を言っても柳に風の様子に根負けし、それからはひとつふたつの悪態を落とすだけで放っておいた。
 自分では集中の賜物、ということにしていたが、その気配を邪魔に思うことはなかった。どころか、後ろにいるのを忘れることさえ良くあった。来ていることに気付かず、振り返って初めてその姿を認め、いるならさっさと声をかけろ、と怒声を上げて笑って謝られるのがいつしか決まりごとのようになった。
 日向のほうでも、特段の用事なく森へ出入りすることが増えた。予告も約束もしないのだが、土地との力の繋がりゆえに木吉には来訪がわかってしまうらしく、いつも嬉しげに出迎えにくる。不平を漏らすと「日向の気は目立つからすぐわかるぞ」などと言われて何やら馬鹿にされた気分になったが、ここでもそれ以上つべこべ愚痴するのはやめにした。そうした色々をまあ良しと流せる程度には、森の居心地を気に入っていた。


 朝から森に出向いたその日も、倒木に腰かけて竹を削っていたところに、暇な大神がひょこりと顔を見せた。
 よー、おう、と適当な挨拶を交わして隣に腰かけ、興味深げに手元を覗き込んでくる。そのまま会話もなく四半刻ばかりが過ぎ、小刀を繰る手を止めたところでようやく声が落ちた。
「日向は本当に器用だなぁ」
 心底の感心が乗る言葉はまるで子どもが口にしたもののようで、思わず笑いを噴きかけるのをすんでで呑み込む。どうにもこの大神の普段の姿には、身分相応なところがない。それで良いのかと感じることも多々あったが、まあ偉ぶったところもないのは好ましいと言えるのではないか、と口にせず思ってはいた。
「それが矢になるんだな」
「あー、本当はもっと乾燥させんだけどな。試しに形だけ作ってみた」
 やはりこの森の竹は良さそうだと満足して取り出した矢筒の上に、ひらりと木の葉が落ちてくる。紅葉した朽ち葉を横から手に取り上げ、もうすっかり秋だな、と木吉が呟いた。
「涼しくなって助かるよ。俺、暑いのが得意じゃないからさ」
「ふーん。俺は寒いよりマシだ」
 こんなところも合わないな、と二人笑い、結局秋が一番いい、と結論付ける。
「うまいもんも色々あるし」
「だなぁ」
「お前の樹の近くあった柿、そろそろ実が付いてんじゃねぇの」
「あー、あれな。なんか気が付いたら全部鳥に持ってかれちまってた」
「うわ。二つ三つ残せって言っとけよ。使いにしてやられてんじゃねぇ」
「その代わりに羽毛がどっさりな……」
「代わりじゃなくて勝手に抜けたんだろそれ」
「あ、日向が寒がりなのを知って落としていってくれたのかもしれん」
「それでまず布団を打てってか。回りくどいにも程があるわ」
 噛み合っているような噛み合っていないような、横で聞く伊月をして「読み札と取り札が一枚ずつずれてる」と言わしめる会話を、しかし自分でも不思議なことに、日向は厭ってはいなかった。突飛な反応に疲れることも苛立つことも当初と変わらず確かにあるままだが、同時に裏を汲むのも受け流すのも当たり前にこなすようになった。
 日向が目立つ気をしていると言うなら、木吉のそれは正反対の目立たない気だった。と言うよりも、そこにあるのが当然、とでも表すのが正しいような、もっと大きな自然の気であり、森そのものの気配だった。
(こいつといると、なんかたまに眠くなっちまうんだよな)
 葉の豊かにそよぐ樹の下、静やかな風に撫でられながらうたた寝をしているような気分になるのだ。いや、気分、どころか――


「うん……? ……っ!」
 ゆっくりと目蓋を上げ、三度の目瞬きで視界が明瞭になった瞬間、日向はひと息に状況の把握を取り戻し、後ろの木に寄りかける姿勢になっていた上体をがばりと跳ね起こした。数歩前に立っていた長躯がお、と振り返る。
「おはよう、日向」
 朗らかに言うのに、じゃねぇよ、と声上げた。
「おま、お、起こせよ!」
「え、けど、良く寝てたしな」
 あろうことか、会話の最中に居眠りを始めてしまったらしい。気恥ずかしさをごまかす早口で、だからって、と言い差して、前に立つ男の格好の違和感に気付いた。背景の緑に浮き出す、臙脂の単衣。
(あれ、こいつさっきまではいつもの……)
 と、そこで予感めいたものを覚え、おそるおそる我が身を見下ろす。老竹色の野袴に、精白の狩衣。その上に肩からかけられた、もはや見慣れた黒の布地。
 かっと、首から上に血が昇った。
「な……何しやがってんだよ勝手に!」
「いや、肩の部分が空いてるから風が入らねえかなーと思って」
 寒いの嫌だって言ってたろ、と事もなげに言う。日向はさらなる反駁のために口を開きかけたが、怒るべきなのかそれとも礼を言うべきなのか自分でもわからず、続く声をうやむやに濁した。木吉は日向の態度の理由が掴めていないようで、ことりと首を傾げる。
「ちゃんと替えてるから汚れてはねーぞ?」
「そういうことじゃねぇよ……」
 相変わらずの言葉に文句も礼も早々に諦め、ため息ひとつだけを落として背の直衣を前へ引き下ろす。ふわりと香る新緑の気配に、また無意識に眉が寄った。
 俺のせいじゃない。こいつがこんな気をしてるのが悪い。
 この地に生きる者ならば、抗うことなどできようはずもない。隣にあればその大いなる力の中に安らがざるを得ない。人も獣も、そして神霊である日向も、ごく広げた視点で見れば誠凛という地の一部である以上、大なり小なりこの気に影響を受けるはずだ。
 だから仕方がない、と失態(と思っているのは己だけであったろうが)の責任を転嫁し、無理やりに自分を納得させる。


「日向?」
 訝しげに呼ばれ、半端に肩にかかった直衣をじとりと睨みつけるままでいたことに気付き、慌ててもう一度手を動かした。膝の上に落ちた布地の量に、でけぇ、と思わず声が漏れる。
「改めて見ると、お前でかすぎだろ」
 背丈のみならず身の厚みも違うからか、もし自分が袖を通せば腹立たしいほど裾が余りそうだ。そういえばこいつ神体でもクソでかいんだった、と以前訊ねてあっさりと見せられた巨躯の獣の姿を思い返し、舌打ちを落とす。
「いいばっかりでもないぞ? 無駄に驚かれるし、良く頭ぶつけるし、木の隙間に挟まるし」
「一番目はともかくほかはお前がぼけっとしてるせいだろ」
 どっちにしろ自慢にしか聞こえねー、と不平とともに差し出した直衣を取りながら、木吉は曖昧に笑い、まあ、と言った。
「見た目と実際の力との関係はさておいても、このほうが助けてくれそうだ、って皆に思って貰えるのはいいのかもしれないな。頼ってくれたほうが俺も嬉しいし」
「……ふぅん」
 衒いのない言葉に同意も否定も述べず、短い相槌だけを返す。すうと胸が冷えるのを感じた。
(そうだよな。こいつはそういうやつだ)
 いつだって、周りのことばかりを思っている。この地の全てを助け、全てを護ることばかりを考えている。あたかもそれが己を型作るものの一部であるとでも言うように。
 護る者と、護るべきもの。男の手の中にある二律の世界。
(俺は、その『どっち』に)
 思いかけ、首を振る。議論するまでもない。自分とて生まれついての護神だが、有する力はこの古き神に及ぶべくもない。自分は一部だ。誠凛という土地に生きる数多のものの一部。彼に護られる全ての中の、ほんの一部。
「日向、どうかしたのか?」
 再度呼びかけられて、無意識に地面を見つめていた視線を上げる。直衣を腕にかけたまま気遣わしげな顔をしているのに、別に、と首を振った。
「なんでもねぇよ。もう昼か。腹減ったな」
 ぐっと伸びをして立ち上がる。木吉は一瞬物言いたげな様子で口を動かしたが、何か食いに行こうぜ、と先に促すと、ああ、とだけ返事した。
(……寒い)
 拝殿へと歩き出す背の後ろに付き、そっと肩をさする。
 急に風が冷えたように感じられたのは、おそらく深まる秋のためだけではなかった。


      ◇


 その後、嵐の翌日に起きた出来事は、自分の力不足を痛感させた。
 崩れる崖へとためらいなく飛び出した背を見た瞬間、全身から血の気が引いた。凍りついた頭を必死に巡らせ、震える手足を叱咤し、無我夢中で弓を構えた。それは狙いとすら呼べない賭けのような業で、結果はもっけの幸いと言うほかなかった。そうするより術がなかった、ただそれだけだった。
 本当は詫びる言葉をかけたかった。自分にもう少し力があれば、きっともっと確実な方法があった。お前だけを危局に向かわせはしなかったと。だが村人に囲まれ、何もなかったかのように笑っている様子を眺めるうちに、そうした思いは胸の奥に沈み込んでしまった。代わりに湧き上がってきたのは、八つ当たりのような憤りだった。
「ほかに仕方なかったのはわかってんだよ。じゃあどうするべきだったかだの、どっちがマシだっただの、そういうことを議論したいんじゃねぇ。俺が言いたいのは、ちったあ別のことも考えろってことだよ」
 なんで。
 なんで、お前が全部を引き受けなきゃならないんだ。
 喉の奥に引っかかっていたわだかまりを言葉の足りないままぶちまけながらも、困ったように笑う顔を横目に見て、その拠りどころの違い、器の違いを改めて思い知る。
「……わかんねぇなら、いいよ」
 これ以上言葉を重ねても、己の卑小さを突き付けられるだけだ。
 黙り込んだ日向に、いつもならそうかと声を収める木吉は、しかしその日はどこかうわずったような態度で言葉を続けた。
「日向。俺な、皆を守れることが嬉しいんだ」
 真摯に言う顔を見上げ、知ってるよ、と穏やかな呆れとともに挟みかけた口が、次の声に、ぴたりと止まる。
「言ってくれたろ? お前にはそうしてやれる力があるんだ、って。俺、すげー嬉しかったから」
 瞠目して見つめた。確かにあの日、自分はそう語った。だが。
「俺は、そんな……」
 何気なく口にした言葉だった。ただ、そのまっすぐな道を、まっすぐな想いを、認めてやりたかっただけだった。
 そんな、望んで我が身を危地にさらすようなことを、苦難の道を駆けさせるようなことを。
 お前を独りにさせるようなことを、言ったつもりじゃなかった。
(俺が……)
 愕然とした。弓を掴む手がまた震えを立て始めた。まかり間違えば、今日にも失っていたかもしれない。よぎった思いと自分の考えのなさに吐き気すら込み上げてくる。


 日向の反応に戸惑いを見せながらも、木吉はすぐいつもの調子に話の方向を戻し、日向もそれに乗る形でその場を収めた。しかし、身に残った動揺は帰路に至っても消えなかった。
 木吉の誘いを辞し、何かに追われるように家への道を急いだ。先に戻っていた伊月との会話もそこそこに、今日はもう寝る、と切り上げる。
「夕飯は?」
「いい。昼食ったの遅かったし。明日からもう少し早く起きて弓引く時間増やす」
 別れしなの宣言に伊月は目を丸くした。
「ただでさえあんな長くやってるのに?」
「足りねぇ。あ、あと術の修練もしたいから午後付き合え」
「それはいいけど……何かあったのか?」
「もっと強くなりてーんだよ。それだけだ」
 おやすみ、と投げ出すように言って、返事も待たず戸を閉める。壁に立てかけた弓を横目にしながら、もっと、と同じ言葉を口の中にくり返した。
(足りねぇ。今のままじゃ、全然)
 こんな小さな力のままでは、こんな小さな心のままでは、あの力に、あの存在に、並び立つことなどできない。
(もっと、もっとだ。もっと強くなるんだ)
 大切なものを、護れるように。



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