◇


 朝霧に目を凝らし、弓を起こす。
 林の間に満ちた静けさをゆっくりと丹田に吸い、またゆっくりと吐く。矢を番え、弦を引き分け、放つ。身の内と外の気の巡りを感じながら、手指に染み込んだ習いを、ただ無心にくり返す。
 続けて三本を的に中て、四本目を繰り出そうと矢筒に手を伸ばしかけて、客の来訪に気付く。常は周りに融け混じる自然の気すら浮かび上がるような、強い視線。
「来たんなら声かけろって言ってるだろ」
 半身を振り向けて投げた言葉に、すまん、といつもの謝罪を返した男は、しかしいつもの穏やかな笑みをその面に浮かべてはいなかった。濃い違和の色をさえ感じ、返しかけた足を逆にそちらへ向け、用件を問う。
「話があって来たんだ」
 思わぬ言葉に目を開いた。平坦な口調、感情の見えない顔。ただ明け初めの陽を映す目だけが、強い意の存在を語る。足がこちらへ進むのを見た瞬間、練武の集中に凪いでいた胸がひとつ大きく揺れ、音立てて動き出すのを感じた。
「日向」
 名を呼ばれ、正面に見上げる。何か言わねばと思うが、言葉が出てこない。おもむろに差し伸ばされた腕に空いた手を取られ、弓懸の中で指が跳ねた。小心を恥じる間すらなく、握り込まれた掌の熱さだけを感じていた。深い呼吸を置き、ひどく緩慢に、口が開く。
 ――俺と一緒になってくれないか?
 落ちた言葉は、しばし音のまま耳の中に留まった。間の抜けた声を返しながら、聞き違えたのだろうと幾度も頭に反復するが、意味ある形に至らない。後ろへ下げかけた身を力こもる手に引きとどめられ、困惑の中で見上げた顔は、普段なら揶揄の種にすらなり得るような堅い真剣の表情を作っていた。
「俺と一緒に、誠凛の主神になってほしいんだ」
「主神? 俺が?」
 唖然として問えば、すぐに頷きが戻る。
 なお続く木吉の言葉を、日向はどこか遠い世の話をされるような心地で聞いていた。たとえ公へ示す儀を欠いていたとしても、誠凛の主神はこの大樹の神をおいてほかにない。どのような説明をされても、そこに自分の名が上る理由に合点がいかなかった。
 しかし――
 頼む、と重ねられる言葉を、無理だとひと言に辞することができない。馬鹿を言え、と一笑して、会話を終えてしまうことができない。それが当然と理解しながら、いや、でも、と未練がましく結論を引き延ばそうとする心が胸のどこかに爪をかけている。
(森で、一緒に)
 日向自身、多大な衝撃を受けざるを得なかったが、その誘いは確かな魅力をもって耳に響いた。あの清らなる森に暮らす己の姿を、長躯の男に隣り立つ己の姿を霧の中に思い描く。それは正しく夢想だった。驚くほど甘やかな夢だった。そして同時に、ずっと手の中にありながら、意気地ない言い訳に紛れ掴み損ねてきた、己が真なる心だった。
 馬鹿なことを考えるな、と冷静な声が騒ぐ胸を諭す一方で、聞き分けない子どもが駄々をこねるように、理性の外から反駁の声が上がる。何を迷う必要がある? 応えればいい。ただこの手を握り返せばいい。偽りない望みのまま。
 望み――そう、だからこそ自分は、強くなろうと誓ったのではなかったか?
(けど、今はまだ)
 いつならばいい? どうなれば?
(足りねぇよ、こんなんじゃ)
 行き着ける当てなどないのに?
(それでも)
 いつか、なんて要らない。今でいいだろ?
(違う、俺は、こいつを――)
 望まれたいくせに。
(……っ!)
 一瞬、息が止まった。無意識の本音をこれ以上えぐり出されてはならないと耳を塞ごうとするが、心中の声を遮る術はなかった。出口のない自問自答をくり返すうちに、前へ向けていた視線は本来の会話の相手を外れ、自分の足先に落ちる。
 だから気付かなかった。
 前に立つ男の顔が、今までに目にしたことのないほど、動揺と焦りに歪んでいたことに。



 目覚めは、まさに一瞬だった。
「ゆうべ、天帝の神託があった」
 身の内で騒ぎ立てていた声がふつりと絶え、ゆるやかに重ねられる理性的な言葉に、霧の中に描いた絵がかき消えていく。白日に見た甘い夢が終われば、後に残るのは寄る辺のない滑稽な望みだけだった。
(望み? 違ぇよ。こんなもの)
 こんなもの、望みですらない、まして願いなどではあり得ない、ただの思い上がりだ。
(俺が、こいつを)
 支えてやりたい、なんて。
 確かに自分の持つ力は木吉の力を助け、強めることができるようだった。だが、それだけだ。持って生まれた気の質が合っている、ただそれだけ。いくら研鑚を積み重ねたところで、そこから先へ行けはしない。それ以上のものになれはしない。
「日向は俺に力をくれる。二人でなら、きっともっと沢山のものを守れる」
 語られる明日は、この夢と言葉近しく、しかし似て非なるものだ。己が分を知れと諭す、天の主の無情の声が聞こえるような気がした。冷えた胸から嘲弄があふれて強い憤りに形を転じ、その矛先を前へ向けた。
「それで、その力でまた身を削ってこの土地を守ろうってか?」
 この身が糧にしかなれないのなら、強さを求めることになんの意味もない。自分の存在が、あの考えなく落とした言葉と同じものしか与えてやれないのなら、なお傷付けることしか許されないのなら。隣り立つべき理由など一体どこにある?
「そうだよな。お前はそういうやつだ」
 他人のことばかりを思って、己の傷もどこ吹く風で、憂いなどひとつもないとでも言いたげに、いつも笑っている。自分だけが痛みを引き受ければいいと思っている。周りに何があっても、隣に誰がいても、そうしてずっと、独りでいる。
 だが、それは。
「てめぇだって本当はっ……」
 叫びかけた言葉の続きに気付き、はたと声を呑む。この先を口にしてはいけない。そこに踏み込む権利は、自分にはない。
 ああ結局――何をしても、何を言っても、埋められない溝を知るばかりだ。
「出ていけ」
 頼むから、身に過ぎた夢など見させないでくれ。
「日向、話を聞いてくれ」
「るせぇっ、出ていけつってんだ! もう来るな、もう、俺に構うな……!」
 生まれ持った役責も、許された領分も、昨夜胸に誓った決意すら忘れて、心のままその手を取ってしまいそうになるから。

「……すまん。今日は、帰るから。また……話させてくれ」
 背にかかる声は当惑に沈んでいた。まるで理由を掴めていないのだろう日向の怒りに、それでも謝罪の言葉を唱えてから遠ざかっていく足音を聞きながら、馬鹿野郎、と地面に罵声を吐き落とす。それはおそらく自分にこそ向けた言葉だった。


      ◇


「日向、入るぞ」
 声とともに戸板が開き、伊月が顔を覗かせる。今帰ってった、と教えられて、抱えた膝の間に無言の頷きを返した。だからこそ結界を解いたのであって伊月もそれはわかっているのだろうが、三日間、同じやり取りを重ねていた。
「少しのあいだ来ないようにするって」
 上がり框に腰かけながら言う。膝から顔を起こして見やると、半身をこちらに振り向け、俺がそう勧めといた、と続けた。
「……悪い」
 短く謝するが、その鋭い目が待っている理由を語ることはできず、また視線を前にそらす。ふう、と息の落ちる音がした。
「けど正直、話さないと解決しないと思うよ。お前たちの場合」
 諭すような言葉に、わかってる、と返す。どちらも相手に合わせるほどの柔軟さを持った性格ではない。この幼馴染のように無言を推し量れるほど長く付き合ってきたわけでもない。まして、今回の諍いで自分が音にせず呑んだ言葉の数を考えれば、離れて考えているだけでわかり合えるほうがおかしいとさえ言える。
 わかってる、けど。ぽつり、同じ言葉をくり返す。
「今会っても、どうせまた同じことになっちまう」
 木吉が日向の抱える鬱積のわけを知らない以上、そして日向自身がそれを捨てられない以上、何度顔を合わせても、言葉は噛み合わず宙をすれ違っていくだけだ。
 どうすればいいかは明白で、しかし自分の弱い心はどうしてもそれを認めることができない。目の前に突き付けられた事実を受け入れ、仕方がないと、それが当然だと、納得することができない。
「まあ、細かいことに口出しはしないけどさ。とりあえず閉じこもるのはそこそこにしてくれよ。これからますます寒くなるのに陽も出ないんじゃ、みんなかわいそうだろ」
「ん」
 忠言にまた首肯ひとつで応える。じゃあと立ち上がった伊月は、戸を引きかけた手を途中で止め、静かな声を落とした。
「何にそんな怯えてるのか知らないけど、ずっとこのままでいたいわけじゃないだろ?」
 はっとして見上げた先には、閉じた戸板だけがあった。
(怯えてる。そうだな)
 残された言葉を心中でくり返し、独り頷く。
 そう、決すべき選択は明白だ。誘いに応えてこの地の主神になるか否か。あの場では一蹴した日向の答えを、木吉は了解できていないようだった。今からでも意を翻してそれに応じれば、喜んで受け入れられるのだろう。曲がりなりにも天の主の下した宣であり、木吉の言うように、これから先の誠凛の守護を思うなら、至当の判断となるはずだ。だがそれは同時に、かの大神を日向自ら矢面に立たせる道となる。
 そのうえ、もし。幼い心が騒ぎ立てる。
(もし、それにすらなれなかったら?)
 天帝が告げた糧にさえ、この身が及ばなかったとしたら。一朝一夕に繕えるものではないこの小さな力で、彼を支えるどころか助けることさえできなかったとしたら?
 その時はもう、隣に在る夢すら描けない。
(だって、あいつに必要なのは『俺』じゃない)
 笑ってしまう。なんだかんだと勿体ぶった理由をつけながら、結局は自分のことを考えて怯えているだけだ。差し出された手にどうしようもなく惹かれながら、いざそれを取るのが、失うのが怖いのだ。かの神の手にある全ての中の、ほんの一部でしかないのだと、ことさらに思い知るのが怖いのだ。
 その夢を捨て去ることも、受け入れることも選べない、さもしく弱い心こそ、何よりも忌むべき敵、越えるべき壁だった。



 食事もとらずに座り込むまま、気付けば夕暮れを過ぎて夜更けを迎えており、のろのろと床を延べて布団に潜り込んだ。
 形にならない雑念を手繰り寄せ、手離しをくり返しながら、きつく目蓋を閉じて眠りの訪れを待つ。やがて深く沈み込みかけた意識が、不意の呼び声を聞き、目を覚ました。
 上体を起こして周囲を窺う。首を巡らせて確かめるまでもなく、部屋には自分以外に誰もいない。伊月が来たのかと戸口を見つめたが続く声もなく、布団を抜けて立ち上がり、実際に戸を開いてみても、周りに人や獣の気配は感じられなかった。
 気のせいか、とまた戸を閉めかけたその時。
 おおぅ、おぉぅ。
 闇を抜ける咆哮。手を止め、空を仰ぐ。それは確かに、誠凛の地に名高い“神狼の遠吠え”だった。
(呼び声と聞き違うなんて)
 自嘲の笑いを落とし、そういえば前にもこんなことがあったか、とふと思い起こす。確か、この家に暮らし始めた夜のことだ。初めのうちは数夜ごとに届く声を話の種にもしていたから、良く憶えている。当人と顔を合わせるようになったからか気に留めてはいなかったが、久々に耳にしたように思った。
 なお続く遠吠えに背を向け、足早に部屋へ戻る。快い音なのだが、以前からあまり長くは聞いていたくないと感じていた。じっと耳を澄ませてしまうと、侵しがたい森の深淵を覗き込んだような心地になるのだ。
 敷布の上に背を丸め、今度は頭まで布団をかぶり直したが、高く鳴り響く狼の声は、いつまでも耳について離れなかった。

 翌晩も遠吠えはくり返され、明けてその翌日、ようやく朝から家の戸を開けた日向は、空腹とともに戻った気勢でもって昼食の席に不平をぶちまけた。
「本気でうるせぇ!」
「何が?」
「あいつだよあいつ! 夜っぴいて吠えやがって!」
「あいつ? 吠え……ああ、木吉?」
 そういえば久々に聞いたよな、と頷いた首を、そのまま横にひねる。
「別にうるさいってほどでもないと思うけど」
「うるさくて寝れねぇよ。お前耳悪いんじゃねぇの?」
「まあ日向ほど良くはないけどさ」
 化身して聞いてるわけじゃなし、そう変わらないだろ、と怪訝な顔で言われ、文句を続けかけた口を閉じる。嘘や冗談を言われている様子ではない。大なり小なり同じ感想だろうと当たり前のように思っていたというのに、これではとんだ拍子抜けだ。
 ――あれほど耳につく声なのに。
「喧嘩してるから特に気になるんじゃないか?」
「喧嘩って」
「喧嘩じゃないの」
「……みてぇなもんだけど」
 まるで子どものような言われ方だと眉を寄せかかるが、まあ似たようなものかと思い直し、息をついた。弱気を隠しこんで、偉そうに理屈をこねて、進む勇気もなくしかしあっさりと背を向けるほど思い切れもせず、いっそ子どもの癇癪よりたちが悪い。
「その勢いで怒鳴りこんでくればいいのに」
「それができたら苦労はしてねぇんだよ……」
 だろうね、と苦笑され、行儀悪く箸先を噛んで黙り込む。
 外には陽が落ちていたが、晩秋の里を照らす穏やかな色が自分の心を語るものとは思えなかった。



「だあぁっ、畜生!」
 その夜も、床に就いて間もなく、獣の咆哮が鳴り渡ってきた。
 怒声とともに布団を蹴って起き上がり、戸口に向かう。本当に文句を言いに行ってやろうか、と思いかけるが、いざ夜の森を仰げばすぐにその気概もしぼんでしまうのだから、臆病もいいところだ。
(……それに)
 伊月にはああして不満の言葉を述べたが、実際のところ、うるさい、と言うよりは。
(苦しい)
 意味ある言葉を持たないはずの声ばかりの声に、身体が内から揺さぶられる。冷えた胸がもう一度波立ち騒ぎ始める。夜着の胸元を掴めば、抑え込めない鼓動が手の下で暴れ立てていた。えづくように息を吐き出し、壁にかけた上衣と弓を引き手繰るように掴み、家の裏手へ駆け出した。

 鋭く夜目を凝らし、常の動作で放ったはずの矢は、三本立て続けに中心を外し、最後はかろうじて端に突き立った。もう一度、と弓を起こした刹那、
 おおぅ、おぉぅ。
 咆哮が渡り、びくりと跳ねた矢筈が弦を外れて足元に落ちる。
「くそ」
 舌打ちを落として手を伸ばし、ようやく指の震えに気付いた。そのまま俯き立ち尽くす頭の上を、また高い声が過ぎていく。胸を掴み、歯を強く噛み締める。
(なんで誰も止めないんだよ)
 気高い遠吠えなどであるものか。あんな、
(あんな、子どもみてえな泣き声――)

『日向』

「なん、」
 だよ、と言い差した声は途中で消えた。顔を上げて振り仰いでも、前には夜闇があるばかりだった。呼び声と聞き違うはずのない、獣の叫びが響くばかりだった。
 口の端からいびつな笑いがこぼれた。胸に寄せた指の震えが止まらなかった。まさか、と音にして唱える。まさか、そんなこと。
『日向』
 ゆるりと首を振る。引き結ぼうとした唇がほどけ、無意識にその名を呼び返した。
「……木吉?」
 なんだよ、その情けない声。
 なんでそんな声で、俺を呼ぶんだよ。
 胸が騒ぐ。この指を包んだ掌の熱さを思い出す。陽を映す強い瞳の色を、理路整然と述べられた、別人のもののようにさえ聞こえた言葉を思い出す。
 思い上がりだ、と冷静な声が笑い、幼く荒いだ声がそれに反駁をする。どちらの声も、日向は手に取り上げなかった。じっと耳を澄ませて聞くのは、物侘しく響く呼び声だけだった。
 『望み』は自分だけのものだと思っていた。埒もないことを願い、求めながら、口に出せず想いを呑み込む弱さは、自分だけのものだと思っていた。
 しかし本当は、きっとどちらも少しずつ欠けている。自分も、彼も。だから。
(なあ、木吉)
 夜を仰ぎ、遠い大樹に思いを馳せる。
(お前も、何か俺に言えてないことがあるのか?)

 ぐっと弓を握り直し、地面に落ちた矢を取って的へ向かう。息を静め、番え、引き、放つ、瞬前、的の前に広い背が浮かび上がり、咄嗟に弓を上げた。大きく狙いを外した矢は後ろの木の枝に入り、からからと無機質な音を立てて地面に落ちた。
 生まれてこのかたたゆまぬ労とともに続けてきた業は、心を映す鏡だった。言い訳や繕いを挟む余地のない、己を覗く窓だった。その行き先は、決して偽りを見せない。
「次の満月までだと……二十日、はねぇか」
 ちょうどいいぐらいだな、と独りごち、また矢筒に手を伸ばす。
 差し当たりは賭けと名を付けたが、出目が結果に力及ぼすことのないそれは畢竟、博打でなく、勝負ですらなく、同じ言葉をくり返す自問であり、自答であった。
 そうして毎夜、森から遠吠えが届くごとに、日向は弓を引き続けた。
 一方の賭けの勝敗は途中からほとんど明らかになっていたが、構わず無心にくり返した。十本と言わず、その夜の声が絶えるまで、幾十、幾百も。
 咆哮を聞くのはやはり愉快とは言えなかった。それは次第に名だけでなく、短い言葉に聞こえるようにもなった。

『寂しい』

「……あの図体で寂しがりとか、笑えねぇわ」
 言いつつも漏れる苦笑とともに放った矢は的の右をかすめ、横手の繁みに突き立つ。息をつきながら、そういえば初めのうちからそう見えてたな、と思い出した。
(変人に取り紛れて忘れてたけど)
 それでも、ああこいつは独りなのだと感じたことは、それから幾度もあった。
“てめぇだって本当はっ……”
「……寂しいくせに」
 そう言えていたら、何か違ったろうか? おじけずに踏み出せていたら、打ち明けてくれたろうか? 優しすぎる心にしまい込んだ、形なせず夜に叫び続けるその望みを。
 五日を過ぎ、十日を過ぎても絶えず届く声は、夜ごとに力増して、胸を掴み締める。
 苦しい。
 痛い。
 ――愛おしい。
「んっとに、笑えねえ……」
 騒ぐ鼓動はもはや手の下には収まらず、開き直るように放り出し、ただ一心に、中らない弓を引く。



 十日を過ぎ、さらにまた五日が過ぎ、気付けば真円の月が空の高みに登り始めていた。濃い月影の下、ひと際高く響いた遠吠えに指が離れを誤り、摩耗も加わって切れた弦が頬をかすめる。あ、と思った次の間には、外へ返った弓の先が関板の部分から折れてしまった。
 頬はひりついたが、幸い血がにじむほどの傷ではないようだった。だが弓のほうはもう使い物にならない。しまったと思いながら癖で伸ばした指が、矢筒の上で宙を掴む。
「今ので十本か」
 呟き、前を見やって、目を開いた。どう考えても射損なったはずの最後の矢がただ一本、的の中心を抜いて立っていた。苦い笑いをひとつ、切れた麻弦の上に落とす。
 吉兆なのか凶兆なのか。いずれにせよ、勝敗は決した。
『日向』
「わーったよ、聞こえてるよ」
 修練場の脇にしつらえた弓立てに折れた弓を置き残し、ゆっくりと足を進める。
 思い上がりかもしれない。自惚れかもしれない。助けになど、支えになど、なれないかもしれない。いつか失う場所なのかもしれない。
 それでもいい。今はただ。
(話がしたい。お前と)
 今度は逃げずに受け止めるから。その手を握り返すから。
 名だけでなく、嘆きだけでなく、胸にしまった望みの全てを、隠さず聞かせてほしい。

 こつ、と足先に落ちた小枝に、首を倒して頭上を見やる。高い杉の枝の上、夜回りの行きか帰りか、背に翼を負った伊月が腰かけていた。
「行くんだ?」
 問いの形をした確認に、少し面映く思いながら頷く。
「あー……その、事の次第によっちゃ、お前にも面倒かけるかも」
 やっと落ち着いた住まいのことを考えて頬をかくが、あぁはいはい、と適当に手を振られる。
「いいって。最近の日向のほうがよっぽど面倒だったから」
「んだよそれ」
「ほら、急がないと着く前に夜が明けるぞ。あ、夜駆け中に夜明け……キタコレ」
「ああ、悪い。行ってくる」
 でも黙れ、といつもの掛け合いをし、手を振り交わして森へ向き直る。いまだやまない遠吠えに引かれるように、一歩一歩、すくむ心を認め、なだめながら、歩を進める。
 もう幾度も通った道。二人並び歩きながら、きっと互いにすれ違い続けていた。
 今日こそ、重ね合うことはできるのだろうか。



 大樹の下部に張り出した太い枝の先に、その姿はあった。
 とん、と軽く音立てて同じ枝に立っても、こちらへ気付き振り向く様子はなかった。月光を受けて背に濃く引く影を微動だにせず座り、太い首を反らせて、高く、長く咆哮を上げる。雄々しくも、物悲しい声と姿。
『日向』
(そっちじゃねぇよ。後ろだっつーの)
『寂しい』
(わかったから、さっさと振り向け)
『欲しい――』
(何がだよ。……言わなきゃわかんねーんだよ、この馬鹿)
 謳われる言葉なき言葉のひとつひとつに声にせず応えながら、固く組んだ腕の下に、騒ぐ胸を、あふれ出してしまいそうな想いを抑える。
 やがて月が天頂に昇る頃、長く響く遠吠えの尾が尽き、朧雲が空の端から端まで流れる間を置いてから、ゆっくりと、獣の巨躯が後へ振り向いた。鋭く光る眼が丸く見開かれ、目瞬きをくり返すのが見える。狼の口がわななくように動き、その身に似合わぬ弱い声を落とす。
「ひゅう、が……?」
 今の今まで響いていた獣のそれよりも、よほど捉えづらいかすれた音だった。だが、変わらない、懐かしい声だった。
「毎晩毎晩、飽きねぇよなお前も」
 笑いを口の中に噛み潰し、努めて平坦に言いながら、思う。
(あー畜生、やっぱり馬鹿は俺だ)
 この図体のでかい寂しがりの変人を、この何より無欲で誰より優しい男を、今すぐ力の限りに抱きしめてやりたいなんて。


      ◇


 それからのちの出来事は、予想の一歩も二歩も先を行く展開だったと言って差し支えない。
 落ち着いたやり取りは一瞬で終わり、声を荒げて怒鳴り、叱り飛ばし、軽く手を上げもした。抱きしめられて、泣かれて、真正直すぎる告白をされて、こちらも告げる羽目になって、ふとした弾みに、まさしくいつの間にか、口付けを交わしていて。最後の駄目押しに、できる限りに隠し通すと決めていた神体までさらすことになった。
「殴ることないだろ、日向」
 渾身の手刀を喰らわせた額をさすりながら、木吉が抗議の声を上げる。
「てめぇがアホなことすっからだろうが!」
 爪でなかっただけ有難いと思え、と言葉だけは威勢良く、完全に引けた腰をなんとか立たせ、動揺で顕現したままの猫の耳を手の下に隠して後ろへ下がる。
「だって可愛い……」
「るせぇっ」
 これだから嫌だったのだ。良し悪しはともかく、狼や鷲に比して神らしい威厳があるかと言えば、絶対的に否である。
 次に触ってこようとするなら今度こそ爪を使う、と決めて身構えるが、吊り上げた目などまるで意に介した様子もなく、木吉はへらりとゆるんだ笑みを浮かべた。
「……なんだその顔、ひでぇ」
 毒づくのにも構わず、いやな、と言う。
「こうやって知れるのが、嬉しくてさ」
 怪訝に眉を寄せれば、笑みのまま言葉が続いた。
「もう何百年も生きてきたのに、知らないことがこんなに沢山あるなんて思ってなかった。持ってなかったものがこんなに沢山あるなんて、思わなかった。これから日向と、色々なものを知っていけると思ったら、すげー嬉しくて」
「なんでそこに俺の名前が出てくるんだよ」
 朗らかに語る顔を見ていられず、視線をそらして呟くと、
「だって」
 声とともに、一歩の広い足がこちらへ進む。はっとして下がろうとするが、背後は既に木の幹の壁で、振り上げかけた腕も遅く、逆に長い指に掴まれた。
「まず最初に、日向が知りたい」
 日向が欲しい。今夜の初めにも口にした言葉を、しかしその時の必死の告解とは違う、低く落ち着いた声音で落とす。ぎしり、背がこわばった。
「日向。……もう一回、抱きしめてもいいか?」
「う」
 畜生、と内心に罵声を吐き捨てる。――だからそんな顔をされて、本当に拒めるはずがないんだよ、馬鹿。
 小さく頷けば、そっと腕の中に引き寄せられる。初めのような切羽詰まった荒さのない、優しい抱擁だった。
(やっぱでけぇな)
 肩口に額を当てて顔をうずめるようにしながら、思う。
 この広い背に肩に、どれほどの荷を負っているのだろうか。自分は、本当にそれを支えることが、護ることができるのだろうか。
(できるか、じゃない。やるんだ)
 手を取り、少しずつ歩み寄って、わかり合って。欠けた心を重ねて、補って。
 きっとそれは、やさしいばかりの道じゃない。けれど。
「俺も」
「ん?」
(――俺も、嬉しい)
 声にして伝える代わりに、そろりと持ち上げた腕を広い背に回す。重なる鼓動が言葉よりも深く確かに、互いの心の在り処を刻んでいた。



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