翼の誓い



 

 夜落ちた外廊に、靴音だけが高く響いている。
 幾百、幾千の年月を越えて天の夜が友としてきたはずの深い静寂が、今は身をひりつかせるものとすら感じられるのは、風寒き冬が来たためばかりではないのだろう。天の民はみな春を好むが、凛として花のほころびを待つ冬の静謐もまた愛する。
 深い夜闇を横目に整然と歩を進めながら、だが、と四つ羽の天軍長・ファラエルは考える。果たして今この天宮に――天の地に、心穏やかに春の訪れを待てる者はいるのだろうか。冬の終わりを信じられる者は、いるのだろうか?
 剣を納めて楽を奏で、草木の詩を紡ぎ、花の唄を歌う。喜ばしい春の野の宴は、今は永久とわの夢の中にある。


 角を回り、白く吐き出した息向こう、廊の隅に佇む人影を見止め、ファラエルは足の運びをゆるめた。靴音に気付いてか、柵塀に寄って外を眺めていた影は声かける前にこちらへ振り向き、姿勢正して会釈をした。天宮には兵卒ではない外部の住人の出入りも許されているが、その二つ羽の同胞は、以前から見馴染んでいた若者であった。天軍の部隊長の一人で、名をリュードという、今は隊長不在の第二中隊の副官である。
「夜更けに珍しいな」
 帯剣はしているが、夜の警邏の途中という様子でもない。リュードははいと頷き、
「外を、見ていました」
 わけを語るでもなく、ただそう言った。
 そうかと返して若い天使の隣に並び、夜へ目を向ける。訊ねずともわかる。この若者は、彼の副官であった者、彼と最後に言葉を交わした者であるのだから。
 冬の夜の静寂は、いつの世も想い巡らせる心の器にふさわしい。
 静けさを伴に響いた妙なる歌を、やがて来る春を思わせるような快活な笑みを。戦場に散った貴き光、天のいとし子・レイシスを親しく知っていた者にとっては、なおさらに。
 しばし沈黙にたゆたうまま、渡る風の中にふたり佇んでいた。天主の加護の下にあるこの地も、季節が深まれば寒さは増す。常なら炉端に親しむべき身を、しかしどちらも翻し去ろうとはしなかった。
 ふと、白く沈む息を追って視線を落とすと、腰の前に揃えたリュードの手が何かを握っているのが見えた。
「それは……」
 思わず発した言葉に、あ、とリュードが声漏らし、一度隠しかけるようにした手の中のものを、恐縮の表情でファラエルへ示した。
 それは羽であった。天使のものであることはひと目にわかるが、もとは純白に輝いていたのだろうその羽は、砂にまみれて先がほつれ、赤黒く乾いた血で根元まで汚れた、見るも無残な様を呈している。ぐっと口を引き、問う。
「……レイの羽か?」
 リュードは目を伏せ、小さく頷いた。
「お叱りを受けるかとも思ったのですが……どうしても、捨てることができなくて」
 弔いの戦のあと、結界の解かれた戦場で、その時にはまだレイの力がかすかに残っていたのを見つけたのだと言う。平生であれば身を離れて数日のうちに浄化され消えるはずの羽が、戦場の風に染みた魔性の気にあてられて残ったのだろう。それを天宮に持ち帰ったのは確かに正しい行為とは言えないが――と言って、型にはめて咎めることもファラエルにはできなかった。もしその場にいたのが自分であっても、きっと同じことをしただろう。
「あれからもう、四月が経ちます」
 ほつりとリュードが言う。
「暦を数えるたびに信じがたく思います。この胸には全てが昨日のように感じられるのに。あの方の声も、剣も、翼も、みな鮮やかに思い起こせるのに。もう四月だなんてそんなこと」
 半ばまくし立てるように述べてからぐっと口をつぐみ、ゆっくりと首を振る。
「わかっているのです……いつまでもこんな心であってはならないと。今を受け入れ前を向くべきなのだと」
 けれど、と声を切り落とし、言葉の代わりに強く握り締めた羽の上に、ぽつりと涙が落ちた。
「……そうだな」
 みな、同じだ。許すでも諭すでもなく、それだけを言う。
 兇状の地から届いた悲報は瞬く間に天峰を渡り、白の都を涙雨に濡らした。哀しみの唄さえ人々の口にはのぼらなかった。
 わかっている。そう、リュードの言葉の通り、みな、わかっているのだ。哀しみに暮れ言葉を拒んでも、過ぎた時は戻らない。下を向き、あふれる涙とともに暮らそうとも、日は変わらず巡っていくのだ。かの者の姿のないままに。
 戦場から帰らなかったのはかの双剣の天将のみではない。ただひとつのものを――まして、もう決して帰らぬ者をいつまでも悼み、明日に背を向けて泣き過ごすことは、天の民が尊ぶ正と理に反する行いでもある。だが、今はまだ、高位の天使たちも、父なる天主も、戒めの言葉を口にしようとはしない。
 どの歴史の中にも類を見ないほどの異端の気質を持った複翼の天使に、さんざん手を焼かされ、目を丸くさせられながら、人は心から彼を愛したし、彼もその想いにまっすぐに応えた。ある者は、天宮からひとつ灯かりが失せてしまったようだと語った。それはおそらく喩えであって喩えではなく――最も若い四つ羽として生を受けてからこの年に至るまで、レイは確かに天の眩い灯し火であったのだ。
 そんな青年が、無残な死へ向かう軍の矢面に立ち、数百の兵の命を、のみならず、傷付き魔性に落ちかけた者の心をも救って翼を散らした。これを哀しまずして、いったいに何を哀しめと言うのだろうか?
 レイを慕っていた若い天使たちの中には、いまだ喪章を腕から外していない者も多い。今ファラエルの隣に立っているかつての彼の副官がそうではないことが、逆に不思議なほどだ。
 肩に向けられた視線の意味に気付いたのだろう、リュードは小さく頷き、言った。
「喪章は、すぐに外してしまいました。決まりだからというのではなくて、反対に……あの方の死を示す物を、いつまでも身に着けていたくなくて」
 目瞬きを返すと、自嘲めいた笑みを浮かべ、続ける。
「それこそお叱りを受ける想いなのかもしれません。それでも、私にはどうしても信じられないのです。あの方がもう――この世に、おられないなどと」
「リュード」
「馬鹿げた考えだと知っていながら、それでもどこかでは、心の底から思っているのです。あの方がいつか、戻ってこられるのではないかと。何事もなかったように笑って帰ってこられるのではないかと。あの方と最後に声を交わしたのは私です。だから私があの方の……レイシス様の死を認めてしまったら、本当に全ての望みがついえてしまうような気がして」
 早口に想いを紡ぎ、最後にもう一度涙を落として、申し訳ございません、とリュードは深く頭を下げた。震える肩に手を置いて顔を上げさせ、首振り示して応える。
「詫びることはない。私も、似たようなものだ。あれを忘れることも、あれを助けられなかった己の悔恨を消すことも、できそうにない」
「ファラエル様……」
 誰よりも深く長い付き合いだった。生まれたばかりの幼な子の世話役を任されてから、戦場で肩を並べるに至るまでずっと、何よりも手のかかる、何よりも愛しい弟だった。
 悪しき魔族どもを詰り、天父と六つ羽の天使長たちが成した生命の樹の秘匿を詰り、同じ戦場に立ちながら、彼を救うことができなかった己を詰り。もはや帰らぬとわかっていながら、夜ごとにあの明るい声を、天宮に響いた歌を思い出す。
 今はこの四つ羽が、上に立つ者としての責と知が、ひどく疎ましい。若い兵たちのように、都の民たちのように、彼を慕って泣くことができればいい。彼の副官のように、その死を信じられぬと言い切ることができればいい。自分はただ祈ることしかできない。故郷に失望し、父や兄を恨んでいてもいい。ただ彼が、安らかな場所にいてくれるように。
 たとえ、いずれであれども。
 一条の風が過ぎ、また場に沈黙が降りかけたのをさえぎって、あ、とリュードが声を漏らした。
「あれは、エスタルディア様ではありませんか?」
 言って指差す先を追い、塀の下、中庭の小道に目を向ける。 
 薄明かりに長い影を引きながら、人が灌木の間を歩いている。顔は判ぜられないが、長い臙脂色のローブに身を包んだその姿は、今リュードが名を口にした天界の重鎮に間違いなく見えた。
「何かあったのでしょうか?」
 リュードが首を傾げる。特別な祭事の日のほかに、天宮の内でかの隠者の姿を見ることなど滅多にない。
「まだ聞いていない」
 返した声は硬く響き、リュードも緊張の面持ちを浮かべた。
「……ここ幾日か、天宮の中の空気が少し妙に感じられるのです。慌ただしいと言うのか……まだ、それをはっきりと口にするような者はいませんが」
 きっと皆、そう感じていると思うのです。リュードの言葉に、ファラエルもしばし考えてから同意の頷きを返した。慌ただしい。正しい言葉だろう。慶事か凶事かはわからない。ただ確実に、何かが待たれている。そう先のことでもない、何かが。
「悪い報せではないと良いのですが」
 落とした声が白い風に散ると同時に、隠者の姿も天宮の中へと音なく消えた。



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