雪が降り始めた日――階段の半ばで気を失い倒れた日から、三日が経っていた。
 自室で寝て過ごしていたレイの体調は徐々に回復し、起き上がって動けるまでになったが、もうしばらく安静にしているようにと少女たちに強く言い含められ、寝床で暇をもてあます時間が続いていた。
 早朝に目覚めてすることもなく、寝台に上体を起こした姿勢でぼうとしていると、開いたままの寝室の戸口にヴァルナードが姿を見せた。
「調子はどうだ」
 レイが寝覚めの挨拶を発する前に寝台の横まで足を進め、短く訊ねてくる。
 熱にうなされながらの長いまどろみと、ぼやりとした覚醒の間にも、繁く部屋を覗きに来る塔の住人たちの姿は感じていた。感謝の念と面映ゆさを同時に覚えながら迎える気配の中には、時にほかの気配に混ざって、時に独りきりで枕辺を訪う、黒衣の塔主の影もあった。
 全てがつぶさに判ぜられるわけではなかったが、そうして自分の部屋を訪れていない時間に、男とその参謀がたびたび塔を留守にしていることも、ぼんやりとレイは感じ取っていた。
 寝台脇の椅子に腰下ろしたヴァルナードへ、もうだいぶいい、と答える。
「早く起きてぇけど、あと一日はじっとしてろって釘刺されちまったからな」
 あーあ、と息つくと、まぁおとなしく従っておくことだな、と笑いが浮かび、
「何か必要なものはあるか?」
 無聊を慮ってのことだろう、そう問われる。
「寝ながらできることなんてたかが知れてるしな……。んー、じゃあ、本が読みたい。お前の部屋の机にあった、赤い表紙の本、あれ、歌集だろ。あれ読ませろ」
 にっと笑って返すと、ヴァルナードは虚眼を目瞬かせ、目ざといな、と苦笑してから影の衣を通して手の中に本を取り出した。
「実は前にちょっと盗み見してた。……ずいぶん立派なこしらえだな」
 差し出された本を受け取り、赤地に金糸の刺繍で題名の縫い込まれた表紙を撫でる。丁寧に扱われていたのだろう様子ではあるが、それでも、灼けた紙の色といい、この頃ようやく判読できるようになった古い文字のかすれ具合といい、かなり時代のある物のように見える。
「貴重な写本だ。つい先日ようやく見つけてな。山ひとつと引き換えた」
「げ」
 事もなげに言う男の言葉に眉を寄せる。ヴァルナードとヌグマが古書の収集を趣味として重んじているのは知っているが、この地の物取引の尺はどうにも理解及びがたい。
「そういうこと言われると読みづらくなるだろ」
 小さくぼやくと、まああまり気にするな、と笑いが鳴り、
「後で返してくれ。まだ私も目を通し切れていないのでな。あとは、そうだな。読むだけで終えておくのが無難だろうな」
 そう言う。
「……わかってるよ」
 この三日からの今日で中の詩を声にして歌おうものなら、たちまち小さな住人たちが駆けつけてきて、あれやこれやと説教を並べ始めるだろう。せっかくの歌集なのに、と口を尖らせ、ヴァルナードに不平をぶつける。
「お前、主人ならもうちょっとなんとかさせたらどうだよ、あのやかましさ」
「今さらだろう」
 さほど気にかけてもいないように言葉を投げ出す男は、「主」という肩書きの割には下の者への権を有していない。いや、そうあろうと図ればいくらでも行使できる権限を、自ら放棄していると言ったほうが適切だろう。従者然としているのは側近のヌグマと塔の管理者のイザエラ、乗騎のゼルギオンばかりのもので、初めに「住み着いているだけ」と語った言葉の通りに、小さな翼の住人たちはヴァルナードを慕い畏れつつも、特別に「主人」としてまなざしてはおらず、ヴァルナードもそれを容認して自由勝手にさせている。自分もまた、ある意味ではその立場に近い。
 まったく奇妙な、乱暴に言ってしまえばまったくいい加減な世界だ。それで万事が事無く回っているのだから笑ってしまう。これが地界か、あるいは天界であったなら――
 と、そうまで考えてから浮かんだ言葉をはたと止め、消し散らすように首を振った。
「どうかしたか」
「……なんでもない」
 小さく落とした声に、そうか? と疑問調子に返しつつ立ち上がった男は、問いを重ねる代わりにレイの頭をぽんと撫でた。子ども扱いするなと眉をしかめるのに笑って目を細め、ちらと窓の外を見る。三日続いた雪も、もうだいぶんまばらな降りになっている。その景色に何がしかの感想を漏らすでもなく、何かあればすぐ人を呼ぶようにと言い残して身を翻し、ヴァルナードは部屋を出て行った。
 扉が音立てて閉まるのを見届け、レイは膝に置いた本の上に小さく息を落とした。
 近頃、無意識に冥界と天界とを引き比べ、心馳せることが多い。天を懐かしんでいるわけではない。ただ、その間にあるあまりに深い溝に愕然として。
(……今さら、)
 そう、今さらだ。この闇の世界の奇妙な在りよう、住み人たちの奇妙な言葉やふるまいに、何度頭を痛めたことか知れない。笑い話にすらしていたほどなのに。
 確かに自分は、ある意味では少女たちと変わらない、自由勝手な居候の立場にある。
 だが、自分は冥府の存在ではない。自分の源は、魔よりも地よりもさらに遠い、さらに色異なる空の彼方にある。ただひとつの、しかし決定的なその違いから、もはやこの身も心も目を背け続けることはできない。


      ◇


 硝子を叩く硬い音とともに来客が窓の外に姿を見せたのは、正午を半刻ほど過ぎた頃だった。
 膝上の本を閉じて歓迎の笑みを向け、中へ入るよう手振りで示す。背に石の翼を負う異形の客は少し迷う顔を見せつつ頷き、戸を引き開けてくぐり抜け、寝室の床に降り立った。
「よう、風邪ェ引いたんだって?」
 のしのしと歩み寄ってきて寝台の脇に猫背を据え、彫像族の士・チャックが笑いの隠れ切らない声音で言う。
「ああ。もうだいぶいいけどな。……なんか変なこと吹き込まれたんじゃねぇだろうな?」
「雪ではしゃぎ回って氷踏み抜いて水に落ちたって聞いたぜ」
「あいつら……」
 立腹の調子で語る少女たちの顔が目に浮かぶ。仕事を確かめに訪れたらしいチャックに本当の――「風邪」だとするなら、の――理由を話し、再度笑われて息を落とした。
 ひと月余り前に知り合った若い彫像族は、さほど用事もないだろう塔付きの伝使を任され、数日ごとにこうして黒の塔を訪れている。仕事の話よりもレイや翼の住人たちとの雑談の時間のほうがよほどに長い伝使は塔主ヴァルナードを非常に恐れているようで、そんな彼が一体どのようないきさつでこの役に就いたのかは謎のままだが、陽気で気風のいい塔の外の友人との世間話をレイは楽しみにしていた。
「ま、観念してしっかり養生するこった。天界と冥界じゃ空気もずいぶん違ぇってェからな。それでこう寒ィんじゃ、風邪引いてもおかしかねぇよ」
 からからと笑うのに、ふと口を閉じ、視線を膝へ落とす。チャックが気付き、首を傾げた。
「どうした?」
「あ、いや。……冥界のやつは、みんな天界のこと知ってるんだなと思ってさ」
 加えた説明になお首ひねる友人を小さく笑い、
「俺は、こっちに来るまで冥界のことは何も知らなかった」
 そう言い落とす。
 おそらく、レイより年嵩の――つまりレイを除く全ての――高位の天使たちと、もちろん天主は、冥界に関する知識を以前から得ていたのだろうと、今となっては思う。だが若い二つ羽の天使や天の民たちは、確かにこの昏い世界の存在を知らなかった。天の下に地があり、地の下に魔がある。その言葉が、疑いようのない世の全てだった。
 世界の在りように対する知を持たない地界の人間たちはいざ知らず、少なくともあの牢獄にいた魔族たちは、『冥府の影の王』の名を知っていた。そして冥界の住み人たちは、みな当然のように遠い天界のことを語る。
「なぁ、教えてほしいんだ」
 静かに訊ねかける。
「天界と冥界は、どうして別たれているんだ?」
 チャックは竜の眼をぱちくりとさせ、レイの顔を見返した。頷き、言葉を続ける。
「天界と地界、魔界も、行き来ができる。この塔には地界に住んでたことがあるってやつもいるから、地界と冥界、当然魔界も行き来ができるわけだよな。それなのに、天界と冥界はほとんど完全に分かれてる。一方は一方の存在すら知らされてない……どうしてなんだ?」
 冷静に考えれば、妙な話だ。天界と魔界の、そして魔界と冥界の行き来ができるのなら、魔界を経て両界に渡ることは道理の上では可能なはずなのだ。だがそれはできないと、何度か言われた言葉に嘘はないように思えたし、実際に、魔のさらに先、冥府の地に赴き戻った者が、天界にいたという話も聞かない。
 だが自分は確かにここにいるのだ。世を成す四相の一片、隠された真実の闇の地に。
「ほかにも妙なことはある。そうやって交流がない割に、さっきも言った通り、冥界のやつらは天界のことを良く知ってる。虜囚になった天使の口からじゃとても聞き出せねぇだろうことまで、深く。この塔には、天界で書かれた本もやたらに置いてある」
 いかに永くを生き、本の収集に財の糸目をつけない者でも、誕生から完全に別たれていた世界の記録をこうまで集めることができるものだろうか? 塔の参謀は、天使の出生の在りようさえ詳しく語ってみせたことがある。
「初めは、『天界から冥界へ』渡ることはできても、『冥界から天界へ』渡ることはできないのかとも思った。多分、それは完全に的外れな考えじゃないと思う。実際俺は向こうに戻れないし、ここの遊び好きなやつらも、天界には行ったことがない。……けどそれなら、お前は、彫像族はどうなんだ? 元の出は冥界だってのに、昔、天界でも暮らしてたんだろう?」
 昔。
 そう、気の遠くなるほどの昔には、このあまりにも違う白と黒の世界は、きっと確かに接点を持っていたのだ。
 突然饒舌に言葉を並べたレイの真剣な面持ちに驚いたのだろう、チャックは丸くした目を何度も瞬かせてから、いやよォ、と声を落とした。
「前にも言ったけどよ――や、おめぇは聞いてねぇだろうけどな、うん。オレも詳しくは知らねぇんだよ。ただ、オレが聞いてたのは、凄ェ昔、ホントに凄ェ昔に、なんかの『取り決め』があったってェことだけよ」
「取り決め? 天界と冥界のあいだに、か?」
 問いを重ねるレイに、おゥ、とチャックが頷く。
「それがどんな中身で誰が決めたのか、そのへんのことは全然知らねぇ。なんせ適当な世界だからなァ。まァ、おおかた天界の一番のおエライさんと、冥界の一番のおエライさんが、どうかしたんじゃねぇかな」
 天主と玉眼王か、と言葉を挟むと、チャックはぶるぶると身に震えを走らせて肩を縮めた。
「気軽に言ってくれるよなァ。オレら、その名前が聞こえただけでチビりそうになるってのによォ」
 そんなこと言ったら、この塔にいるだけで夢ン中いる感じなんだけどよ、とこぼす。
「ま、そんなだからよ、そのへんのヤツでコレについて知ってるなんてなァ、ほとんどいねぇんだよ。おめぇ、ホントに知りてェなら、オレなんかよりここの大将に訊いてみたらどうでェ?」
「……そうだな」
 曖昧に頷き、冥府の長者たる黒衣の男の顔を頭に浮かべて――不意に、もうだいぶん日をさかのぼることとなる騒動の折の言葉を思い出した。留守に侵入した大蜘蛛へ向けてヴァルナードが発した、その時はまるで意味のわからなかった言葉。
『古い協約に記された禁事、まさか知らぬわけでは――』
 はっとして追想を止め、協約、と呟く。あァ、とチャックが頷いた。
「言われてんな。古い協約って。なんだ、おめぇ知ってんじゃねぇか?」
「……聞いたことがあるだけだ」
 『協約』。『禁事』。その言葉は、軽い口約束を謳うものではない。あの厚顔な蜘蛛さえひと言に退けた、今にも伝わる古えの取り決め。
 それが、このふたつの世界を隔てる深い溝を、白と黒とを別つ高い壁を、造ったのだろうか?
「なァ、なんかあったのか?」
 眉寄せて黙り込んだレイに怪訝の表情を浮かべ、チャックが訊ねてくる。
「ああ。……ちょっとな」
 なんでもない、とは言わなかった。だがそれ以上にも続けず、話題の終わりを示すように小さく首を振った。
 チャックはしばらく言葉を探すようにしていたが、困惑をまとわせながらも結局問いを発することなく帰宅を告げ、腰を上げた。窓枠に乗り、困ったように頭を掻いてから、言う。
「なんかオレにできそうなことがあったらよォ、ちゃんと言えよな?」
 ああ、と笑って手を振ると、照れくさげにそそくさと飛び立っていく。そう歳の差があるわけでもない異形の友人が妙に自分を弟扱いするのは、おかしくも嬉しい。
 遠ざかる背を見送って外を眺めるうちに、ふと気付いた。
 雪が、
「……やんでる」
 小さく呟きを漏らし、翼を前に寄せ、指で撫で梳く。羽毛の絡みが取れてはらりと一枚の羽が落ち、敷布の上を滑った。
 熱は引き、体も回復した。だいぶいい、と返した言葉に嘘はない。だが、羽は落ち続けている。急激に減るような気配はないが、倒れる以前と同じように、朝には寝台の上に散り積もっている。
 雪はやんだ。羽もいつか、落ちやむのだろうか。その時、自分は一体どうなっているのだろうか。
 まだ――鳥でいられるのだろうか。
 腰を後ろへ伸ばして仰向けに倒れる。膝から赤い表紙の本が滑り、どさりと寝台に落ちた。
「……唄が、歌いたいな」
 戦も知らず、剣も知らず、魔界の荒野もその深淵の昏い地のことも、何も知らなかった幼い日、草原に寝転んで歌ったように。
 心を秘めることを知らなかったあの頃のように、想いを声の限りに歌い上げたい。



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