岩山を穏やかに滑る風の中、しばし翼を広げて空に立ち尽くしていた。
 大気に身が馴染むにつれ、レイは自分がいま天界のどのあたりにいるのか、人の住む都がどの方角にあり、どれだけ離れているのか、ぼんやりと感じ取り始めた。雪深い辺境の山。天の中心、父なる天主の住まう宮城まではだいぶ距離があるが、一昼夜翔けるほどではない。
 ひょう、と風が岩肌に貼りついた雪を散らすのを横目に眺め、天宮の方向に身を向ける。急げば陽が傾く前にたどり着くだろう。そう考えを巡らせながら、翼は穏やかな気流を捉えたまま動かずにいる。
 いつまでも岩を背にしていたところで何が起こるはずもない。今すべきはひとつ。山を越え、都を目指し飛ぶこと。故郷へ、家へ帰ること。心を整えて目を伏せ、ゆっくりと息を吸い、吐く。清浄の気。ただ身を預けているだけで、力が満ちるのを感じる。
 そうだ、ここは紛れもなく自分の故郷だ。千年の禁を解き、一度闇に浸した身をまた迎え入れてくれた。今さら、何を怖気づくことがある?
 行こう――。
 目蓋を上げ、身に力を込めて、翼を飛翔の姿勢に構えたその時、横から人の声が届いた。
「レイシス様っ!」
 久しく耳にしなかった敬称にはっとして振り向く。切り立つ山の間を抜け、呼び声とともに白い翼がこちらへ向かってくる。
「リュード……リュードかっ?」
 それはあの忌まわしい戦場で最後に声を交わした同胞、若い副官の姿だった。確かめるように名を呼ぶと、はい、と将の号令を受けた兵のごとく大きく鋭く応えが返り、いっそう強く羽ばたかせた翼が前に止まった。
「レイシス様、よくぞ、よくぞご無事で……!」
 言葉とともに噴きこぼれた涙にも構わず、天軍第二中隊副長・リュードは深く礼をして、歓喜に震える声を紡ぐ。
「きっとお帰りになられると、信じておりました……先日ファラエル様とも、う、お、お話を……、まさかこんなに早く叶うなんて、わ、私は」
「おいおい、落ち着けって」
 もはや自分が何を口にしているのかもわからない様子で興奮のまま語る副官に苦笑し、ぽんと肩を叩く。リュードはやまぬ嗚咽をこぼしつつも声を収め、涙に濡れた顔をぬぐって姿勢を正した。
「俺が今日ここに帰ってくること、知ってたのか?」
 落ち着きを確かめ、訊ねる。
「はい。天宮の者には一足早く伝えられましたが、今はきっと都の外にも……皆、レイシス様が帰ってこられるのを心待ちにしていました。今日この場所に戻られると聞き、天使長がたにお願い申し上げて、私と隊の者たちとでお迎えに上がった次第です」
「みんな来てるのか? お前だけじゃなくて」
 問いつつあたりを見渡すが、目の届く範囲に天兵たちの姿はない。あ、とリュードが肩を縮め、
「もう少しで追いついてくるかと思います。飛んでいる途中でレイシス様の気配を感じたもので、先触れと言って私だけ……」
 その、と口ごもりつつ、一刻も早くお迎えがしたかったのですと、呟くように真情を落とした。
「上官が隊を置き去りにするのは感心しないぞ」
「も、申し訳ありませんっ」
 深々と頭を下げる副官にふと笑いをこぼす。
「ま、俺も人のこと言えるような隊長じゃねぇしな。そうかしこまるなよ。……ありがとな。心配かけた」
「レイシス様……ほ、本当に夢のようです。またこうして、お会いできるなんて」
「泣くなって」
 今度こそ我慢の糸が切れたのか、きりなく泣きじゃくるリュードを笑いながらなだめているうちに、レイの隊に所属していた十名ほどの天使たちが山向こうから翔けつけてきた。若い兵たちは二人の姿を認めると驚きと喜びの歓声を上げてまわりを取り巻き、副長と同じように涙を流してレイの無事を賀した。
 口々に述べられる喜びの言葉に面映ゆく頬をかきつつ、普段は天使らしい温順さを持つ部下たちが情をあらわにし、己の無事に涙してくれているという事実をただ純粋に嬉しく感じた。もらい泣く代わりに一人一人に声をかけ、出迎えに対する謝意を伝える。若い兵たちは感動に震えつつもレイに労りを寄せ、車が向かっていると告げた。
 そうか、と頷き、少し考えてから言う。
「いや、せっかく用意させて悪いけど、車はいい。自分で天宮まで飛ぶよ」
 しかしと戸惑うリュードにそうしたいんだと希望の言葉を重ねる。数言のやり取りののちに副官は折れ、兵の半分が荷を預かって先に帰り、レイとリュードを含む残りの者が後から天宮へ向かうことが決まった。
 会話のうちに着いた車に荷を積み、先触れを任された兵たちが車を牽く天馬とともに飛び立つのを見送りながら、リュードが隣でくすりと笑いを落とした。
「なんだよ」
 問うと、いえその、とばつ悪げな顔をし、
「なんだか……安心して」
 ほつりと言う。
 なんの気なく漏らしたのだろう声は続きもなく場に消えたが、レイは相槌を打つ代わりにその言葉を胸にくり返し、噛み締めた。
 天界で当たり前のように暮らしていた頃、真面目な副官や兄たちを無鉄砲な提案で困らせ、仕様がないと苦笑させるのは、小事とさえ言って然るべき、ごく日常の出来事だった。そしてまた今、意識するでもなく自分たちはその頃と同じようなやり取りを交わした。
 安心した。その言葉は部下のものだけではなく、まさに己のものでもある。
 そろそろ行こうと翼を広げて岩山を後にするまでも、雲の上を飛ぶ道すがらにも、リュードや他の兵たちはレイの身に起きた出来事を、天界を離れていた四月のことを、何も訊ねてはこなかった。レイもまた語らなかった。
 「変わったこと」に背を向けて、何もかも今まで通りに暮らしていくことができるとは思っていない。
 だが、「変わらないこと」も、ここには確かに存在している。今はまだ、穏やかな故郷の姿に素直に安堵していたかった。


      ◇


 宮城の前には先触れを聞いたのだろう都の住人たちが集まり、レイの到着を待っていた。門から先に人が入らぬよう衛兵が立っている。騒ぎを避けて門の中に降りてほしいというリュードの頼みに応諾しつつ、上空から手を振って迎えに応えた。都の民たちは一度はその死を悲嘆とともに認めた天将の帰還に涙を流しながら、城内に姿が見えなくなってもなおレイの背に歓呼を送り続けた。
「レイシス様、主殿に向かわれる前にどうぞゆっくり湯浴みをなさっていってください。新しいお召し物も用意しますので」
 兵たちが場を辞し、ふたり廊下を歩く途中でリュードが言った。別に大丈夫だと答えかけた口をつぐみ、考える。リュードはその言葉の通り言いつかったのだろう。もちろんそれは真意ではあるだろう。が、おそらくもうひとつの意味は、穢れを落とす禊――闇の地から帰った身を気にかけてのことだ。
 わかったと頷きを返し、道を変えて共用の湯殿に向かう。服を取りにいくというリュードと扉の前で別れ、ひとり中に足を踏み入れた。半端な時間のためか、人払いがされていたのか、ほかの同胞の姿はない。
 戦着を脱いで薄布で織られた湯着をつけ、浴室に入り、入り口から最も近い水栓をひねる。水が湯になるのを待たず頭からしぶきを浴びた。髪に手ぐしを通して洗い、翼を前に寄せて強く噴き出す水を羽の間に通す。
 冷水に身をさらした程度で果たしてあの深い闇の地で得た穢れが落ちるのか、それはわからなかった。湯浴みならば塔でも欠かさず行っていた。落ちる水には風の質ほどの違いがあるようにも思えない。
 ぬくまった湯に打たれながら、レイはぼんやりとした心持ちのままふと我が身に視線を落とした。そうして目にした物に――否、目にしなかった物に、はっと息を呑んだ。
 消えている。黒の鎌の紋、『影の王』が右胸に深く刻んだ印章が、跡形もなく消え失せている。
「あ……」
 落とした声は急激に身を襲った事実の波に呑まれた。理解が追いつくまでに数秒がかかった。塔の部屋、寝台の上で交わした口付けを、胸の痛みを、緩慢に思い出した。
 それが、今を語る全てだった。
 ひと筋の傷すら残らない胸元を呆然と見下ろしていると、背後に控えめなノックの音が鳴り、振り向くと同時に扉が開いた。脱衣場とのあいだの幕を引いていなかったため直線状に並ぶ形となり、扉から顔を出したリュードがレイと目を合わせてぎょっとした表情を浮かべ、あたふたと言った。
「あの、お着替えをここに……」
「ああ、わかった。ご苦労さん。あとは俺ひとりで主殿まで行くから、お前下がって休んでいいぜ」
 そう声を投げ、ありがとな、と笑みを向ける。リュードは一瞬ほうけたように身の動きを止めたのち、赤く染まった顔を隠すようにしながら、勢いよく頭を下げて扉を抜け出ていった。

 残されたレイが不思議げに首を傾げているのも知らず、ぎくしゃくと場を辞したリュードは、熱い頬をこすりながら廊下を早足に歩いた。
 明け透けな性格の上官は、天使長たちに幾度注意を受けても、人目に肌をさらすことにためらいを見せず、直属の部下であるリュードも彼のそんな癖には既に慣れたつもりでいた。湯着をまとっていたのだし、湯浴みの最中の身を見たことに驚いたのではない。
 ただ、
(何か、違った……)
 入れ替えに持って出たレイの戦着を手にしたまま、廊下の隅に足を止めて思う。
 あの忌まわしい大戦から四月、戦場に命を散らしたと誰もが信じていたレイが、生きて天宮へ帰還すると公表されたのは、つい数日前のことだった。急な触れが報せたのはその事実ひとつのみで、四月という長い空白の時間に何があったのか、一般の兵や民たちには詳らかにされていない。天軍の部隊長格であるリュードも、「外界にいた」としか聞かされていなかった。
 外界。平常に考えれば、それはあの醜悪な魔族たちの住む魔界なのだろう。そこでレイがどんな境遇にあったのか、想像を巡らせることすら恐ろしく、胸が焼ける想いだった。宮城を発つ前、天使長たちから言いつけられた「何も訊ねてならない」との言葉に、公にすることのできない翳りを感じ、動揺を覚えたのは、浅ましくも嘘ではない。レイを迎える隊に志願し、来たる再会に心躍らせながらも、果たして戦の前と同じように言葉を交わすことができるのか、不安は募るばかりだった。
 だが岩山に孤然と浮かぶ彼の姿を見た瞬間、呼んだ名に振り向き、驚きと喜びを浮かべた懐かしい顔を見た瞬間、そんな卑小な感情は消し飛んだ。『天のいとし子』の名の誉れ高い天将は、恐れた闇の気配など微塵も感じさせず、淡く眩い光とともにそこに在り、語る言葉もまとう空気もまるで変わっていなかった。
 その時は、たった今までは、そう思っていた。
 確かに彼は変わった。そうだ、あの忌まわしい戦場に堕ち、四月もこの清浄の地を離れ、何も変わらぬということがあるだろうか?
 だが不思議なのは、その変化が悪しきものには思えない――
「リュード!」
「わっ」
 考えを巡らせていたところに不意に肩を叩かれ、リュードはびくりとして飛び上がった。振り向けば、歳近い同胞がきょとんとした顔で立っている。
「あ、いや……何?」
 どうした、と声をかけられて適当に受け流し、問い返す。
「レイシス様が帰られたんだろう? まだ会えないって言うから、お前に様子を聞こうと思って。どこもお変わりは? 元気そうだったか?」
「ああ、さすがに少し疲れている様子だったけれど、お身体に悪いところはなさそうだったよ。……それと、変わりと言うか、その、なんだか」
 そうそれは、正しくは変化と言うよりも――
(……お綺麗に、なられた気がする……)
 思いよぎらせ、口にせずぶるぶると首を振る。
 赤くなった顔にまた首を傾げられながらも、かの天将を飾るにはそぐわないはずの言葉を、リュードが胸の中で撤回することはなかった。


      ◇


 身体をぬぐいながら取り上げた着替えは、高位の天使が着る略装だった。裾の広い服と浅い靴に不満をこぼしつつ、ほかに代わりもなく身に着ける。聖絹で織られたなめらかな布の感触が久しかった。
 やはり人払いがされているのだろう、廊下に出て主殿まで歩くあいだにすれ違う影はなかった。気遣いにむずがゆさを感じつつ、ゆるくも早くもない普段の足取りで宮城の中心へ向かう。半分は無意識に、半分は努めて心を平坦にし、腰の剣の重さだけを感じながら足を前に送った。
 主殿の扉の前には二人の衛兵が立っていた。レイの姿を認めて一人が中へ駆け入り、いくらもせぬうちにまた戻って、どうぞ、と扉を示した。ぎぃと音立てて両の戸が衛兵の手に押し開かれる。レイは頷きを返し、光のあふれる天の核へゆっくりと身を投じた。
 入り口からきっかり十歩進み、片膝をついて頭を下げる。背後で扉の閉まる重い音を聞き、また静寂が落ちるまでを待ってから、口を開いた。
「天軍第二中隊隊長レイシス、ただ今帰還いたしました」
 声はしんと張った空気に響き入り、ゆるやかに広い主殿に行き渡った。
「立ちなさい」
 かけられた言葉に膝を起こし、顔を上げる。レイを囲んで両側に立つ六つ羽の天使長。そして奥の首座の前に、天界の王、父なる天主が立っている。
「果たして初めに何を言うべきか」
 森厳な王の声が鳴る。
「ずっと悩んでいた。ひざまずいて許しを乞うべきか、ただ黙って罵りを受けるべきか。だが今懐かしい我が子の顔を見て、全てが卑小に思えた。言うべき言葉は様々にあろう。だが私が言い願う言葉はひとつだけだ。またこうしてあいまみえることができた慶びこそ、想いの全てだ。……レイ、よくぞ、無事に戻ってくれた」
 穏やかに静やかに、ひとつひとつ確かめるようにして並んだ言葉を、レイも一語一語噛みしめて受け止めた。
「そう、私が言えるのはそれだけだ。あとはそなたの場だ。どのような言葉も受けよう」
 言いなさい。促され、しばし静黙が流れる。
 レイは一度開いた口をゆっくりと閉じ、首を振った。
「俺も、沢山言いたいことや訊きたいことがあったように思います。確かに一度はあなたに不信を抱きもしました。全てを過ぎたものと流し消すことのできる度量が自分にあるとは思えません。……けれど、今はあえて、それを流すべきだと思います。きっと」
 きっと、聞けば聞くほどに、語れば語るほどに、痛みも哀しみも強くなるから。
 全て終わってしまった――二度と帰らない思い出だから。
「全てを胸にしまっておくことがお許し頂けるなら、今俺が言えるのも、ひとつだけです。戻れて、嬉しい。皆があたたかく迎えてくれて、変わりなく接してくれて。ずっと伝えたかった無事をこうして教えることができて、本当に嬉しい。俺、恨んでなんかいません。許すとか、許さないだとか、そんなこと思っていません。天界の皆に、弟たちに、兄貴たちに、親父に会えて、また迎え入れてくれて、本当に……」
 有難う、と明朗に言い落とし、深く礼をした。常に冷静な六つ羽の兄たちが目頭を押さえるのが見えた。
「レイ」
 呼びかけに目を向ける。沈黙のまましばし視線の応酬があり、やがてふっと、張りつめた場の空気がやわらいだ。
「今日は休みなさい。人払いをしてあるから少しの間はゆっくりとできるだろう。明日からまた無事な姿を皆に見せてやりなさい」
 私も少し休もう、と王座に腰を下ろす。
 レイは頷き、もう一度頭を下げてきびすを返した。天使長たちが声をかけてくる様子はない。天主はああ言ったが、また何か論議の場があるのだろう。
 全てを言い尽くしたわけではなかった。何を言っても物思いが残るだろうことはわかっていた。今はそれでいいと思えた。
 清廉な空気。眩い光。白の扉。
 世界は、あまりにも遠い。


 主殿を出て折れた廊下の先に馴染み深い立ち姿を見つけ、レイは思わず足を早めてその人影に走り寄った。
「ファラエル!」
 あの日の戦場に肩を並べた天軍長、最も親しい四つ羽の兄は呼びかけに破顔し、手を広げてレイを迎えた。軽く抱擁を交わし、再会の喜びを伝え合う。
「そっとしておくようにと言われていたのだが、どうしても迎えたくてな」
 最初の出迎えがリュードに取られたから、ここで待っていた、と語る。
「俺も会いたかった。今日はもうずっと一人かと思ってたから、なんか寂しくてさ」
 気を遣ってくれるのは嬉しいけど、大げさだよな、と漏らしたレイの言葉に笑いつつ、それでも確かに休みは取るべきだ、とファラエルは部屋までの見送りを申し出た。
「なんだよ。子どもじゃねぇんだから、抜け出して遊びにいったりしねぇよ」
「その言葉に何度だまされたかわからないからな」
「ちぇ。信用ねぇの」
 軽口めいたやり取りのあと、並んで外廊下を歩き始めた。陽は既に山向こうに落ちかけ、空を赤く染めている。
 高揚を治めた胸で言葉を探す。気の置けない兄相手に、語りたいことは様々にあった。だが、一体どこまで話せばいいのか、どこまで話すことが許されているのか、わからなかった。リュードの様子では、自分が冥界にいたことは知らされていないように思えた。
 知らず知らず眉を寄せていると、横からぽんと肩を叩かれた。
「都の民たちは、お前の身に何があったか詳しくは知らされていない」
「あ……」
 まさに抱えていた疑問の答えを渡され、兄の顔を見返す。言葉が続く。
「教えろとも教えるなとも言われていない。皆がそれをことさらに気にして訊いてくるとも思わないが……お前には知る権利がある。初めに理解していたほうがいいように思う」
 聞くか? と問われ、ためらいなく頷いた。ゆるやかに歩を進めながら、ファラエルは静かに語った。
「リュードたち兵卒の者が知るのは、『外界にいた』ということだけだ。ほとんどの者たちがただそう聞かされている。天主と六つ羽の一部の者は、おそらく事の経緯を含めた全てを了解しているのだろう。天の統率者として当然のこととも言えるが。そして、私のような天宮付きの高位の者は――」
 ひとつ呼吸を置き、言う。
「戦の後、お前は魔界に連れられ……そして長い間、その深淵の地、冥界にいたと、聞いた」
 落ちた言葉に息を呑み、歩を止めて傍らを見上げた。並んで足を止めたファラエルの目は揺らぎなく真を語っている。
「――やっぱり」
 ほつりと声を落とす。
「俺だけだったんだな。……冥界のこと、知らなかったのは」
 それはもはや半ば以上確信していたことだった。が、改めてその事実を前にすると、やはり戸惑いは大きかった。
「俺が、ガキだったからか? 信用がなかったから」
「いや」
 レイの言葉をきっぱりと否定で遮り、少し考えるそぶりを見せてから、ファラエルは言った。
「それがお前のためであったと、今さら偽善を語るつもりはない。だが、決してお前を軽んじてのことではなかった。……レイ」
 天は、清廉なだけの世界ではない。朗と、紡ぐ。
「今となってはみな愚かしい戯言だが、天主は――私たちは、守りたかった」
 何を、とは言わなかった。レイは理解を得ないままそれ以上重ねて訊ねることもできず、黙した。まだまだ己の知らないことは山ほどもあるのだろうと思った。世の真の全てを知ることなど一生、きっと誰にも、できないのだろうと思った。
 夕闇が天を覆い始めた。白の世界も黒の世界も、夜は等しく暗い。
「ファラエル、俺は」
 口を開き、そのまま声を止める。
 何を話せばいいのだろう。誰にどこまでを話すことが許されているのか、それはわかった。だがそうかと言って、この四月余りのことをどう語ればいいのだろう? 魔界に、冥界にこの身があった。その事実だけで、自分に降りかかった闇と穢れは否定しようもなく伝わってしまっている。それもまた、言葉をためらわせる一因だった。
 俯き言葉をつぐんだレイに、穏やかな声でファラエルが語りかける。
「レイ、私たちはお前がかの地にいたことしか聞かされていない。それ以上のことを自らお前に訊ねようとも思わない。あれから今までお前が何を見、何を聞き、何を知ったのか……語りたくないのなら、語れないのなら、それでいい」
「ファラエル」
 上げた視線に笑みと頷きが返る。促され、また並んで歩き始めた。
 語れない。今は。そして、これから先も、語ることができるのかどうか、わからない。
 そうして全て消えていくのだろうか? 忌まわしく信じがたい出来事も、いつか忘れる日が来るのだろうか?
 沈んだ風の吹く闇の地に確かにあった、穏やかな時間も、優しい想いも。既に夢の中のもののようにすら思える幸せな記憶も、何もかも全て、身を落ちた羽のかけらのように跡形もなく消え失せる日が、来るのだろうか。
 部屋の前までレイに随伴し、明晩に帰還を祝う宴が開かれることを告げ、それまでゆっくり休むようにと言い残してファラエルは去っていった。
 兄の後ろ姿が廊下の角に消えるまでを見送り、扉をそっと開いた。おそらく掃除の手は幾度か入っていたのだろうが、もともと物の多いわけでもなかった部屋は、戦に発ったその時のまま、百と数十の日の間、じっと主の帰りを待っていたように見えた。
 扉横に届けられていた荷に目をやりつつ、ぼんやりと足を進め、寝台に仰向けに倒れる。ああ、違う、と素直に思い、ひとつ間を置いて苦笑を漏らした。百数十日。これまで生きた年月に比すれば何ほどでもない時間は、それでも部屋の天井の色を身に刻ませるには充分だったようだ。
 それも、いずれは過去のものになる。
 明確な形にならず巡る想念を寝語りに、布団を抱えて目を閉じる。
 窓の外には天の愛で子の帰りをことほぐ喜びの唄が響いていた。



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