「リュード副長、隊長は今日はどうされたんですか?」
 小休止の時間、一人の部下が汗を拭くリュードの背に訊ねかけてきた。
 振り向き、顔を見返す。後ろに控える兵たちがこちらを窺っているのを見ると、皆の代表として問いかけにきたものらしい。リュードは全員に示すようにゆるく首を振って答えた。
「私も詳しくはお聞きしてないんだ。何か用事があるようだったけれど」 
 そうですか、と部下が小さく肩を落とす。
 今朝早く、レイは訓練場に現れるなりリュードを呼び、悪いが今日の指導は任せた、とだけ言っていずこかへ飛び去っていった。理由を訊ねる間もなかった。
 何事も型破りな上官のことであるから、前触れなく調練を休みとする、当初予定の教目を変更するといった事態はそう珍しくもない。だがそれは彼なりに部隊に対する考えがあっての決定で、ただ自分ひとりの都合で後を投げ出していくようなことはこれまでまず有り得なかった。兵たちが奇妙さを感じているのも無理はない。実際にレイに相対したリュードこそが、最も奇妙と不安を覚えていた。
 声も所作もいつものレイのものだった。だが普段は人の顔をまっすぐに見て話す上官と、今朝は長く目が合わなかった。自分の顔を覗き込まれるのを避けているのか、それとも何かよそにある気掛かりに意識を取られているのか――リュードにはそのどちらともであるように見えた。
 不安だった。かすかな、しかし思い込みとは言い得ない、確かな既視感があった。
 あれは、そう、あの忌まわしい戦の日の――
「副長?」
 呼びかけられ、はたと気が帰った。すまない、と言って次の指示を伝え、隊列の前に戻る。歩を進めつつ頭を振り立て、不穏な想像を否定する言葉を胸に繰り返した。
 案じることはない。戦いは終わった。あの方が死地に向かわれるようなことは、再びどこかへ消えてしまうようなことは、もう決してない。
 ああ、けれど。
 今朝のあの方の目は、なぜあんなにも遠くを見ていたのだろう?


      ◇


 整然とした秩序を擁する天界においては、翼持つ天使も、民たちも、統率された組織の中に身を置き、互助からなる共同の暮らしを営んでいる。ゆえに、人の集まる都や集落から離れて暮らす者は、ある種の異端の存在と見なされもする。
 今レイが目指している、天宮より遥か北へ離れた僻地に住まう一人の民も、例に違わず異端の士としてまなざされ、古くから「隠者」の号を冠されていた。
 天の古参の重鎮として知られながら、辺境に独りひそりと暮らすかの者の名を、隠者エスタルディアという。

 雪積もる峰を越えてさらに北上すると、にわかに冬の影のない緑の森が眼下に広がる。レイは翼をたたんで森の手前に降り立ち、道ともつかぬ木立ちの隙間に足を踏み入れた。鬱蒼と茂る枝葉を縫い、精霊たちが消え現れしながらゆうらりと飛び遊んでいる。不可思議なこの常春の地の奥に、隠者は古くより根を張っていた。
 枝をはらい蔦をくぐりして歩く獣道の先、屋敷とも言えぬ小ぢんまりとした平屋が建っている。森に融け込むようにして建つ小さな家は、訪れるたびに同じ空気を抱いてそこにあり、最後に足を運んだ遠く記憶向こうの日から、刹那の時さえも重ねていないように見えた。
 レイはゆっくりと歩き進んで飾り門をくぐり、厚い木の扉を指の背で叩いた。
「エスター、……いないのか?」
 三度音を響かせ、しばし返事を待ってから、今度は呼び声とともに鳴らす。すると家の中で風の動く気配がし、ぎい、と音立てて木戸が外に動き始めた。開いた戸の向こうに、人の姿はない。
 名を呼びながら家の中に踏み入り、扉を後ろ手に閉めて人の気配の感じられるほうへ向かう。廊下を進み、戸が開け放されたひと間に入ると、広い机の奥、書棚に向かって立つ臙脂の長衣の後ろ姿があった。
「エスター、邪魔してる」
 背に声を投げかけると、
「ああ。構わないよ」
 しばらくだね、レイ。言って、フードを目深にした顔がこちらに向き直る。レイは頷きを返し、戸口から部屋を見渡して素直な感想をこぼした。
「久しぶりだけど、とっちらかってるのはちっとも変わってねぇな」
 四方を書架に囲まれた狭い部屋は、大小さまざまの物で溢れ返っていた。棚をはみ出した本や紙の束、各種の法具、果ては中身の入った薬の瓶までもが、机を超えて床にまで雑然と積みあがっており、まさしく足の踏み場もないという様相である。
 レイの言葉で自分も一度部屋を見回し、
「どうもこの悪癖ばかりは何百年経っても治りそうにない」
 そう言って笑う隠者の姿は、その住まう家と同様に、まるで時の変転を感じさせない。
 若く中性的な顔立ちをしているが、六つ羽の天使長たちの誰よりも年嵩であるという。常に濃色の長衣をまとう姿は天光のもとに彼の異質さを際立たせ、フードの下に覗く灰色の瞳と鮮やかな赤毛から、天使や天人よりむしろ精霊族に近い存在であるとも謳われている。
 天主と同格同齢とすらされる天の要人でありながら、普段は式典など大事の折にしか宮城に姿を現さないエスタルディアだが、幼い頃のレイは遊び相手の一人としてこの隠者と親しんでいた。不可思議な術式や薬学の実験に見入り、森の智を教わり、香草で煮出した茶を伴に博学な友人の語る、遠い日、遠い地の英雄たちの物語を楽しみにしていた。やんちゃが過ぎて説教を待つ身となるたび、天使長たちほど規律にうるさくない彼を頼って逃げ込んできていたものだ。
 成年し、将としての役目を負ってからというもの、次第に森から足が遠のいていった。最後に面と向かって話を交わしたのはもう数年前のことになる。半月前の帰還の祝祭の日にも、天宮にエスタルディアの姿はなかった。昨日のファラエルの別れぎわの言葉がなければ、おそらくもうしばらくは、訪問を後にしていただろう。
 だが今、隠者はレイの突然の来訪にも眉ひとつ動かさず、また突然の悲報に対する驚きも、無事の帰還に対する慶びも述べなかった。そうして、苦笑混じりに言った。
「そろそろ来る頃かと思っていた。その前に、少しは片付けようともしたんだがね」
 その言葉で、故郷に帰ってから幾度交わしたとも知れない再会の挨拶を、この識者に繰り返す必要はないと、レイは改めて知った。
 前置きの徒言を全て胸の外に捨て、用件ひとつを伝えるための口を開く。
「エスター。訊きたいことがあるんだ」
 端的な言葉。エスタルディアは笑みとともに頷き、掛けるといい、と言って物を降ろした跡の見える空いた椅子を示した。
「香茶を淹れよう。――きっと、長い話になる」


 机を間に挟み、ふたり向かい合わせに腰を下ろした。窓の隙間から風の音と鳥の囁きがゆるやかに流れ入り、古書のくすんだ薫を揺らしている。
 香茶の面からふわりと湯気が立ち昇り消えるまでを見届け、レイは静かに話し始めた。
「正直、何をどう訊けばいいのかは、まだ自分でも整理がついてないんだ。きっと、お前なら答えようと思えばどんな質問にでも答えられるんだろうと思う。親父や、六つ羽の何人かの兄貴たちと同じか、それ以上に。けど、……いや、だから、かな。何から訊けばいいのか、何を訊いていいのか、わからない」
 淡々と、偽りない言葉を並べる。胸にくすぶり立てる疑念を一から吐き出し、十の答えを得ようとすれば、夜が明けても終わりに行きつかぬだろうことはわかりきっていた。
 エスタルディアはふむ、と息を鳴らして頷き、
「なかなか複雑なようだね。事態も、お前の気持ちもね」
 言って、ではまず整理をしよう、と続ける。
「三つ、知りたいことを挙げてごらん、レイ」
「三つ?」
「そう。三つに問いをまとめてごらん。お前の素直さは、昔から変わらない良いところだと思うよ。けれど、小さな疑問のひとつひとつに正面から向き合っていては疲れてしまうし、事の枠を大掴みにするには、少し難儀な性質とも言える。一度『自と他』の中心から離れて、『今』を外から眺めてみるといい。そうして改めて、自分の思うとおりの心に触れて、それを遠慮せず話してみてごらん」
 口に柔らかな笑みを乗せたまま、朗々とエスタルディアは語る。
 「昔から変わらない」のは、この隠者こそだった。いついかな時でも、どんな相手に対しても、風に揺れる柳のような、彼のしなやかな態度は変わらない。
「……同じこと、向こうでも言われたよ」
 ぽつりと声を落とすと、そうかいと笑いが鳴る。うん、と頷きを返し、絵姿の老爺の姿をぼやり思い出しながら、助言のとおりに胸内に雑然と散らばる言葉をまとめていく。
 昨日の鏡の間での出来事を撫でる程度に伝え、レイは浮かぶままに声を並べた。
 まず、今冥界で何が起きているのか、鏡に映った奇妙な争乱のあらましについて知りたい。
 そして、それが自分の帰還にどんな関係があるのか――ひとつも関係がないとはもはや思えない――知りたい。
 最後に、天界と冥界を分かつ「協約」について、知りたい。
 エスタルディアはレイの言葉ひとつひとつに頷きを示し、しばし思考の間を置いてから応えた。
「よろしい。ほぼ網羅しているね。城には夜まで帰らないと伝えてきたかい?」
「……『要するに全部知りたいんだね』って言ってるように聞こえるぞ」
 眉を寄せて返すと、でも整理はついたろう、と笑みを深める。レイはため息をつきながらもつられて笑いをこぼし、椅子をひいて腰を深くかけ直した。
「先にお前も言ったように」
 カップを持ち上げて香茶を一口含み、エスタルディアが語る。
「私はその三つの疑問に答えることができると思う。それが隠されてはいても、禁じられてはいないことを知っている。言い換えれば、何もかも教えてしまうことができる。もうほとんど答えは出ていることだけれど、改めて訊いておこう。レイ、――それを全て承知で、今日ここに来たんだね?」
 幼い子どもに訊ねるように、ゆるやかにはっきりと、問いが落ちる。レイは隠者の灰色の眼をまっすぐに見つめ、深く首肯を返した。
「ああ。話してほしい」
 智深き隠者が、天宮の父や同胞たちほどに規律に厳格ではないのも、また、彼らほどに自分に甘くないのも、充分に知っている。知っていて、今ここにいる。
「全部を理解したところで、今の俺にできることは何もないのかもしれない。自分を今以上に追いつめるだけなのかもしれない。それでもいい」
 悩みも惑いも一夜のうちに過ぎるほど親しんだ。もはや重ねるべき言葉はない。今はただ、全てを知りたい。
 かたりとカップが机に戻され、湯気が白く散る。
「そうだね。もう私がお前の心に口を挟むことはない。では最後にひとつだけ、手間がないように頼もうか。お前が今知っていることを私に教えてほしい。冥界のこと、今度の帰還の理由と、経緯。語っておいたほうが良いと思うことを、全て」
 レイは頷き、間に幾度かの沈思を挟みながら、事の次第をエスタルディアに伝えた。魔界の牢獄のこと、冥界の王のこと、塔とそこで過ごした日々のこと、伝え聞きの古い協約のこと。帰還のきっかけ――落ち始めた翼と、教えられたその理由。そして、鏡の中に見た争乱。
 奇妙で慌ただしかった時間の糸を手繰り、ひとつひとつ絡みを解きほぐしながら、言葉に変えて紡ぐ。かの地に寄せる想いを明らかにはしなかった。しかし努めて隠そうとも思わなかった。
 エスタルディアは自ら述べたとおりにレイの述懐へ否定の反応も肯定の反応も差し挟むことなく、常の穏やかな表情を浮かべたまま、じっと話に聞き入っていた。やがて最後にただひと言、有難う、と礼を述べ、
「では、話そう」
 机の上に指を組み、静やかに語り始めた。

「問いへの答えとしても時の順番としても、少し話が前後するところがあるかもしれないけれども、わかりやすいように教えよう。初めに伝えておくと、これは語ることが許されていない話ではない。ただ永い時の内に埋もれ、忌避され、しかし忘れ去られることもなく、今に残っている。――さて。まず一番近いところから話すとしようか。魔境に映し出された、今冥界で起きている戦乱から。レイ、あの戦いを見てお前はどう感じた?」
「どう、って」
 不意の問いを投げかけられ、言葉をくり返す。何かおかしいと思ったのだろう、と重なる言葉に、頬をかきながら返した。
「どこもかしこもおかしい、って言うしかねぇと思う。魔族が冥界に攻め入っているのも、そこに冥界の王たちが出張ってるのも、俺が知る限りのあの世界の様子じゃ、考えられない。それに、……魔族たち自体、妙だった。俺が相手にした奴も、鏡で見た奴らも、様子がおかしかった」
 ひとつ呼吸を置き、はっきりと考えを口にする。
「このあいだの戦で見た、『生命の樹』の力に、似てた。まるっきり同じじゃあない。あの樹に似た、何か別の力が関わってるように見えた」
 もし魔族が再びあの禁樹を手にし、その力によって冥界を席巻しようとしているのだと仮定しても、あの軍勢の様子は奇妙に過ぎた。確かに体は強靭になり、驚くべき生命力を得ていた。しかし、峡谷に詰め寄せた魔族たちには、魔の荒野で確かに見た個々の意志がまるで欠けていた。力ばかりが満ちていた。
 疑問を確かめるようにエスタルディアの顔をうかがう。否定はなかった。
「そう。ほとんど間違っていない。あの戦乱は、私や天主にとっても、おそらく魔界と冥界の住人たちにとっても、思いがけない出来事だった。しかし起きた後となっては、必然であったともまた言える。古き過ちは、いつか帰るもの」
 生命の樹、と静かに禁忌の名がくり返される。
「かの禁樹は強い生の具象。天界に生まれ、正の性状を持つが、魔族がその力を行使してみせたように、正しく天のみに属するものではない。光は闇の相克であり、負は正の相克であり、生は死の相克だが、互いを拒絶するものではない。光も闇も、巡る命を抱き、世界を成し、『在ろう』とする意に変わりはない。――では、生命の背反とは、世界の背反とは何か。生の具象たる禁樹と同等の格を備え、魔族に憑き宿って滅びの力を与えたものは何か?」
 それは光でも闇でもないもの。完全であり、全く欠けてもいる。
 唄を紡ぐように、隠者は語る。
たれも知らぬ名ではない。常に隣にあり、見ずにいる。それが、『無』というものだ」
 ただひと言の、短いその名が、しんと部屋に響いた。
 無。ぽつりとくり返す。
「それが、あの妙な力なのか? それが魔族たちに……『憑いて』、あの戦いを?」
 なんのために、と落とした問いに、エスタルディアは顔色ひとつ変えず答えた。
「『有』の意向かうところが『在ること』ただひとつなら、『無』の意向かうところもただひとつ、『無きこと』だよ、レイ」
 あっさりと返された言葉にレイは眉を寄せることさえできず、無表情に首を振った。理解が追いつかなかった。語られる言葉全てが、隠者の紡ぐ巨大な空想であるようにさえ思えた。
 ふっと、エスタルディアが笑う。
「深く考える必要はない。理解する必要もないよ。世の根源に関わるものなど、私にもしかとはわからない。ただその名だけ、ひとまず胸に留めておいてほしい」
 いいかい、と言うのに、釈然としないまま頷く。
「うん、では続けよう。先にも言ったように、『無』とは特別なものではない。常に世にあるものだ。無きをある、と言うのもおかしな話だけれどもね。語りやすいようにこの場は無視させてもらおう。さてしかし、今冥界で魔族たちを捕らえている『無』は、明らかに平常の様を逸している。きり知らぬ速さで拡大し、その力で全てを呑みこもうとしている。お前も知ってのとおり、冥府の者たちは自ら他に関わろうとはしないが、この事態を放り出しにして己の領分を失うわけにもいかない」
「それが、戦いの理由――」
「ああ」
 そして、ひとつ目の質問の答え。そう続いたエスタルディアの答えに、レイは納得の声を返すことができなかった。その想いをエスタルディアもわかっているようだった。うまく説明できなくてすまないね、と苦笑する。
「しかしこればかりは、ひとつひとつ語っていくよりない。解が絡みすぎていて、ひと言ではとても解き表すことができない。だからひとまず、次の幕に移らせてほしい。なぜ世の理におさまらぬ『無』が生じたのか。この争乱の古く深い根を訪ねる、史伝の章に」
「……わかった」
 お前の話しやすいようにしてくれていい、と応じる。いちいちに眉を寄せ首を傾げていては、とても話を追っていけそうになかった。
 隠者は頷き、光の地と闇の地の昔語りを紡ぎ始めた。幕の始まりは、幾度か聴いた詩文に、さらに言葉を加えた唄だった。



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