古きより天の下に地があり 地の下に魔がある
 魔のさらに深きに闇があり 四相を以て世は巡り成す
 天に光宿り 生は地を駆け
 魔は死を紡ぎ 闇は冥府に還る

「今より数千の年を遡る、まだ天の都も今の秩序を成していないほどの古い時代。この唄のとおり、世界は四相と明らかに伝えられていた。冥府は民へ隠されておらず、天と別たれてもいなかった。光と闇は隣にあり、扉は閉じられてはいても、封ぜられはせず、互いに言葉なく不可侵を保っていた。だが実際には――全く関わりがなかったわけではない」
 やがてそれは起こった。ある意味では、起こるべくして。淡然と声が落ちる。
「冥府に堕ちたその者の名は、今に伝わっていない。その者がどのようにして闇の地に落ち、かの世界のどこに在り、どれほどの年月をどのように過ごしたのか、それも知られていない。おそらく、心安らかに暮らしてはいなかっただろう。ただ確かに言えるのは、その者が二つ羽であったことだけ」
「二つ羽?」
「その頃にも、魔族や冥府の者にかどわかされ、虜囚の憂き目を見る者がいたのだよ。聖獣や、地界の人間。そしてその者は、レイ。先のお前と同じように、『鳥』の扱いを受けていた天使だった」
 不意に表されたその呼称に、ぐっと息が詰まった。口の内で感傷を噛み潰し、動揺を問いに変えて落とす。
「……その天使と、今度のこととに、どういう関係があるんだ?」
 昔日の、とひとつ声を置いてから、隠者は続けた。
「古より変わらず、冥府に落ちた天使が再び自由を得る望みは無いに等しい。大概は物の、多少の運があるとも囚人めしうどの扱いを受け、闇の地の無情の理に傷付き、やがて斃れてしまう。だがその天使は、生きたまま鎖を逃れた。傷付き弱りながらも昏い地を歩き、おそらくは数え切れぬほどの苦難に遭い、やがて、故郷へ続く扉にたどり着いた。しかし――」
 その者は、永く闇に蝕まれ過ぎていた。
 なぜそのようなことが起きたのか、偶然であったのか、必然であったのか、何もわかっていない。天の王も、冥府の王も、その問いに答えることはできなかった。前例があるはずもなかった。それはただ確かに起こり、今も起き続けている。
 かの者が再び故郷の地を踏むことはなかった。
 闇に穢れた光ゆえにか? 光に迫り寄せた闇ゆえにか?
 扉が開かれ、白黒ふたつの世界が身を繋げた瞬間、堕ちた天の子の身を核にして、光と闇の境に、強大な無が生じた。
「『無』はもとの天使としての存在を失い、ただ無ばかりの無として膨張した。あらゆるものを喰らい、呑み、滅していった。冥府の長者たちが相対して力を行使し、辛くも暴走を鎮めたが、全てを平常の様に帰し、落着させるには至らなかった。『無』は永い時を置いて目を覚まし、今までに数度、その毎に大きな犠牲を伴わせながら、冥王たちの手によって冥府の闇の奥深くに封ぜられ続けている」
 因果を辿ることはできない。言葉が続く。
「しかし無論のこと、世の根源を脅かす事態を、わからぬと言って捨てておくこともできなかった。初めの封印のあと、天主と冥王の議により、協約が結ばれた。天界と冥界を別つことが決まり、冥府の者は自ら虜囚を得るために天へ立ち入ること、魔族を使うことを禁ぜられた。そして、天界は――万一に天の者が冥府に堕ちても、その者を再び天に迎えてはならぬと、自らに禁じた」
 二度と、わざわいがくり返されぬように。
 レイは呆然と隠者の顔に見入った。声が出なかった。頭を巡る問いが多すぎた。
 その反応を予期していたように少しの間を置いてから、エスタルディアがまた口を開く。
「それは昔日の禍、昔日の、過ちでもあったのかもしれない。世の有り様を崩さぬがために貫いた両界の不言が、世を蝕む災厄を呼んだのならば。果たしてその天使をなんとすべきだったのかわからぬまま、それでもなお世を保ち続けていくために、光と闇は別たれた。闇は時を経て目覚める災いを負い、光は世界を閉ざし我が子を拒む責を負った。『存在』に干渉する行為の業を知り、生命の樹は封ぜられた。しかし」
 灰色の眼が閉じ伏せられ、目蓋の奥からレイを見つめる。
「天はもうひとつ、世の大事を知ることとなった。もしも『無』が天の側に生じていたなら、どうなっていただろう? 一度は主の力で鎮めることができたかもしれない。だがその後は? 皮肉な話には違いなかったが、災厄によって冥府の力が証された。深い闇の地に住まう者たちが、犠牲を捧げながらも、その身ひとつで災いを制じるほどの強大な力を持つことを知った。両界の差を認めた天は、力持つ禁樹を完全に失う決断をすることができなかった。禁忌の種は能秘めたまま眠り、数千の年を経て、先の大戦を起こし、今度の争乱を起こした」
 過ちは帰る、と隠者が静かにくり返す。
「レイ」
 ぽつり、呼びかけられ、レイは机の天板に落としていた視線を上げた。
「我々を。天の主を、恨んでいるかい?」
 色なく声が鳴る。
 問いにしばし心をひたし、ゆっくりと首を振る。
「なんのしこりもないって言ったら嘘だけど、恨んじゃいないよ。冥界の奴らの馬鹿げた力の強さは、俺も向こうで充分知った。あいつらの考え方も知ったから、いつか天界と戦になるなんて想像はできねぇけど、備えを持つのは当然のことだと思う」
 因果を辿ることはできない――そう、何が原因か、誰に責任があるのか、考え始めればきりがない。天の王にも冥府の王にも、時の気まぐればかりは揺るがしがたい。
 うん、と自分にもう一度納得を促すように首肯し、
「大体、ここまでの話はわかった。けどエスター、さっきのお前の口ぶりだと、このあいだの天界と魔族との戦いと、今の冥界での戦いと、何か関係があるように聞こえた。まだ――」
 問うと、エスタルディアはレイの言葉尻を取って、因果は巡る、と声を続けた。
「先の荒野での戦いのむごさは、お前のほうが良く知っているだろうね。死へ向かう魔族たち。宿業に追われる哀れな悪鬼は、あれで半端な知恵と望みを持ってしまった。仕損じた禁樹に代わるさらなる力を求め、古の災厄に触れてしまった」
「じゃあ、あれは」
 鏡の中の争乱を思い出す。異様の力を、『無』を身に宿した魔族たち。いや、それはもはや、魔族とさえ呼べないものなのかもしれなかった。
「果たしてどちらの働きかけだったのだろうか。まさか冥府の深みに魔族がわざわざ足を運ぶとは考えがたいが、今となっては、もはや知ることはできない。天も冥府も、おそらく魔族たち自身も、この事態をわずかにすら予見してはいなかった。無が無のために生者を利用しようとは、誰が考えついたろうか。そうして虚ろなるものの核が覚醒したその時、天の四つ羽の子がかの地に在ろうとは、誰が知ることができただろうか?」
 レイは翼を無意識に震わせた。四つ羽。つまり、自分だ。
「羽が落ちたと言ったね」
 問われ、こくりと頷く。
「お前が聞いた理由は、間違ってはいない。天使の血、闇の地の性。そのまま留まればやがて力失い滅びてしまうと、私はお前がそう教えられたこと、そう教える者のもとで暮らせていたことを、嬉しく思うよ。レイ、どんな因律が生じているのか、私にもわからない。しかしこれだけは確かに言える。たとえ故郷とまるで異なる闇の世界でも――天使が生きられないということは、決してない」
 これが、問いへの最後の答え。ゆるやかに言葉が紡がれる。
「お前の身が弱ったのは、冥界の地そのもののためではない。あの地に巣食う災厄のため、目を覚ました『無』のためだ」
 がたりと硬い音が鳴った。それが自分が手から取り落としたカップの音だと気付くまで、数秒を要した。あらゆる音、あらゆる色形の言葉と画が押し寄せ、身の内を駆けた。
 わかっていたと、あの夜自分は言った。冥府の者ではない自分がずっとここにいられないことなど、初めからわかっていたのだと。
 男は答えた。
 私は、そうは思っていなかった。
 ――ずっと共に在れると、思っていた。

「冥府から便りがあったのは、ひと月ほど前のことだった」
 言葉をなくしたレイをあえて気遣うでなく、隠者は静かに語る。
「『無』が生じたこと、前例のない特異な事態を見せていること、先の大戦で流れてきた天の愛で子が冥府の長者のもとにいること。そして、『無』の起こりが天のものであるゆえにか、高位の存在であるゆえにか、その者が力の障りを受けて危急に瀕していること――あとはお前も知っているとおり、天冥の間に数度の協議があり、取り決めがなされ、特例として扉が開かれた」
「……なんで、許されたんだ?」
 父や兄が自分を愛してくれているのは知っている。だが、人としての情と、世界の統率者としての責とは、相分かたれたものであるはずだ。ひとつ間違えれば、自分もまた災厄の核となっていたかもしれないのに。
 エスタルディアはその考えを否定しなかった。首を振る代わりに、指を立ててレイへ向けた。
「翼だよ」
「翼?」
 そう、と相槌が返る。
「冥府の王が、報とともに送ってきたのだよ。お前の羽を。冥府の風を帯びながら、光の力に満ちた白い羽。ただそれのみが決め手であったわけではないが、大きな根拠のひとつとなったことは確かだ。かつて『無』と化した天使は、永く冥府に囚われ、虐げられ、天の力をほとんど失くしてしまっていた。彼の翼は、根から先まで黒く染まっていた」
 先の詩は、こうして終わる。隠者は謳う。


 光と闇は昔日のにより
 黒き翼の協約を以て
 その身を 永久とわに分かつ――


 しばし、静黙が落ちた。
 湯気を納めた香茶を取り上げ、含み、また戻すまでの間を置き、隠者はふっと声の調子をゆるめ、言った。
「物語はここまで。本を閉じれば話は終わり、子は語り部に別れ、家へ帰って寝るばかりとなる」
 終わり。その言葉を、胸の内にくり返す。
「終わり、なのか? まだ戦いは続いてるのに?」
「確かに戦いは続いている。黒翼の協約により、遠く永久に別たれた闇の地で。たとえ禍の時にあっても、協約が破られることはない」
「片は冥界の奴らがつけるってことか?」
「ああ」
「……いつごろ終わる?」
 訊ねると、そうだな、とエスタルディアは軽く首をひねった。
「様子を見るに、いずれは必ず封ぜられるにしても、今回は少し長引きそうに思う。お前が戦線を覗いた時も、劣勢とは言えないにしろ、冥府の者たちが圧倒している様子ではなかったろう? 図られたのか、偶然のなりゆきか、はっきりとはしないけれども、操られている魔族がかなり厄介な存在になっているのだろうね」
「魔族が?」
「『無』の力は本来正にも負にも属さない。それが魔族の殻を得たことで、多少なりとも負の性に傾いた。冥府の者の力もまた負の性を持つ。並の魔族ならばともかく、禁樹にも劣らぬ力を持つ同質の軍勢を敵に回そうと思えば、面倒はやむを得ないだろう」
 脳裏に峡谷の戦いの画が浮かんだ。冥府の一の戦士として名高い『鎧の王』の放った剣撃は、魔族の群れをひと息に裂き、しかしその身を滅ぼしはしなかった。
 レイは無意識に手を伸ばし、椅子の横に立てかけた剣を身に寄せた。双剣の鍔が擦れ合い、かちゃりと硬い音を鳴らした。
 それからいくつかの雑話を交わしたのち、数度に分けて謝意を述べ、レイはエスタルディアの家を出た。
 来た道へ一度向かった足を止め、きびすを返してさらに森を奥へと進み、裏手に抜ける。広がる常春の高原は、幼い日のレイの庭だった。
 森の影が切れるところまで歩を進めて、地面に腰を下ろす。そのまま身体を伸ばし、横に腕広げて草の上に仰向けに寝倒れた。夜待つ空を、陽に染まった雲がゆっくりと横切っていく。風が草の敷布を撫で、花の香りを散らす。
 闇の地にも、穏やかな時の流れる森があった。美しい花の咲く草原があった。あれはいつのことだったろう? もう三月も前のことではないだろうか? 白い花を見て故郷に心馳せ、別れを唱えたあの夜は。
 目まぐるしい日々だった。全ての朝と夜に深い感慨と驚きを得た。過ぎた時を追えば何もかもがほんの目瞬きの内に流れ去り、そうして今、我が身は別れを告げたはずの故郷の野の上にある。
 目蓋を伏せ、想う。遠い闇の地を想い、灰色の空を突いてそびえる塔を想う。風変わりな住人たちを、異容の友を、王の名を持つ長者たちを、戦乱を、無を想う。
 愚かな鳥に枝を示した、黒衣の影を、想う。
 眼を閉じたまま、己の心にふっと自嘲の笑みをこぼした。本当に、なんと愚かだったのだろう。死地より救い上げられ一生を得たはずの身で、いったいに何を聞き、何を見ていたのだろう? 
 ひと月前、天に報せがあったという、ちょうどその時分の夜の奇妙な出来事。塔の長者の多忙の様子。ただ目の端に映し、流れ過ぎていくまま流した。要らぬ憂いと怖じ気を理由に、隠し、言い抜けた我が心さえ、真に掴めてはいなかった。何をも信ずることができなかった。己を省みることしかできないのなら、己すら、省みることができないのなら、この身は骸であったも同然だ。
 だが自分は確かに生きているのだ。生きて空を仰いでいる。昏い世界にも等しく浮かぶ、無窮の空を。
 白と黒、遠く異なる世界。
 別たれた二つの地はそれでも、完全なる個ではない。


 明に問ぶらう
 “暁の向こうに我が心在りや?”
 朝の先には夜在りといら

 暮に問ぶらう
 “宵の向こうに彼が心在りや?”
 夜の先には朝在りと答ふ


 うろ覚えの詞の一節を口の中に唱える。古い歌集は先へ進まず、荷の上に置き残されたままでいる。山ひとつと引き換えに主を替えてから、おそらく誰にも終わりの紙をめくられていないはずだった。
「ガキの頃何度も教わったよな。借りた物は、必ず返せ」
 声落とし、羽に絡む草を払いながらゆっくりと立ち上がる。
 夜までは、しばし間がある。


「……おや」
 今度は戸口まで顔を出したエスタルディアは、時置かない来客に小さく呟きをこぼした。
「何か忘れ物かい」
「ああ。もうひとつ頼みがあったの、思い出した」
 揺らぎない言葉に隠者はひとつ目瞬きをし、そうかい、とさほどの意外の色も乗せず、相槌を打った。逆に問いかける。
「戻ってくるの、わかってたか?」
「半分と少しぐらい、思っていたかな」
「頼みが何かは?」
「それも、半分と少しぐらいわかっているよ」
「叱られるかな」
「それは百だろうね。……覚悟はしているかい?」
「うん、そうだな」
 半分と少しかな、と返し、二人目を見合わせて笑う。
「では、おいで」
 隠者は扉を開き、レイを手招いた。頷き、腰の剣を手に確かめてから、再び家に踏み入る。
 物語は終わった。
 しかしまだ、舞台の幕は引かれていない。



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