魔軍の攻進の勢いが峠を越したのを見届け、直下の兵に指揮を下したのち、レイはファラエルの隣へ並んで声をかけた。
「ファラエル、俺は少し冥界の奴らと話してくる」
 言って脚下を示す。ファラエルはその指差す先を追って冥府の住人たちをちらと見やり、わずかに眉を寄せた。笑いを向け、大丈夫だ、と声のない問いかけに答える。
「人を取って喰うような連中なんてことはねぇからさ。事情を伝えてくる。同士討ちにでもなったらたまらねぇし」
 ファラエルは硬い表情のまま頷いた。指揮は頼んだ、と手を振り、峡谷の後方、天軍を見上げて立つ冥府の住人たちに翼を向け、一気に降下する。
 初めに駆け寄ってきた異形の友人こそ目を丸くしていたものの、他の者たちは驚きをあらわにすることなく、常の悠然とした態度でレイを輪の中に迎えた。
「おいおいレイ、助けてもらったのは有難ぇけどよォ、いってェ何がどうなってんだ? なんで天使が……や、それよりまず、なんでおめぇがここにいるんでェ?」
 帰ったんじゃなかったのかよ、と興奮冷めやらぬ様子のまま、チャックがまくし立てるように言う。
「ちゃんと帰ったよ。帰って、また戻ってきた」
「戻ってきたって、おめぇ……」
 簡素な答えにチャックはぽかんと嘴を開いて二の句を失い、代わりにフレッグが言葉を継いだ。
「この戦いのためにわざわざ天の軍を?」
 魔族と交戦を続ける天使たちを眺め、言う。
「わざわざっつーか、本当は俺だけ独りで来ようと思ってたんだ。けど親父さんに制約つけられちまって」
「制約ですか」
「ああ。色々ごたごたしたんだけどな。平たく言えば、騎士の位を投げていくのを許すことはできない。だから、主命を受けた軍として、正式に兵を率いていくように、……ってさ」
 随分簡単な制約ですね、と言うのに、俺もそう思う、と小さく笑って返す。
 簡単で簡潔で――重大な言葉だった。
 主命を帯びた正軍の派兵。それはすなわち、千年以上の永きに渡り壁の向こうに隠され続けていた闇の世界の存在を、天の主自ら公にすることと同義だ。理と秩序を何よりも重んずる父の決断に、最も深い驚きをあの場で得ていたのは、実は自分ではなかったのかと思う。
 天父の命に反意を表す者はもはやいなかった。冥界に向かう兵が選ばれ、後に改めて詳細が報されることを前提に、冥界への遠征の布告が都に出された。全てがととのうまでに二刻の時もかからなかった。
 きっと己こそが、事を何より一面的に捉えていたのだろう。許しなど得られないと、天の子の名を捨てることが、唯一の途であると思っていた。独り、ただ去れると思っていた。
「ほんと、迷惑ばっかかけてるんだよな」
 それでも、嬉しかった。
 ここに至るまでの経緯と、自分とファラエル、リュード、二人の六つ羽の天使長と四十名余りの精鋭の天兵、そして自ら参軍に名乗りを挙げたエスタルディア、全ての者たちが冥軍を援ける立場を取ることを、かいつまんで説明する。冥府の長者たちはレイが予想した通りの柔軟さを示し、問いや疑いを挟むことなく了解を唱えたが、さすがに意想外のことではあったのだろう、話の間にも空舞う天兵たちの姿を物珍しげに見上げていた。
「まだ話したいことはあるんだが、とりあえず魔族を抑えるのが先だな。後でまた相談させてほしい」
 そう言葉を結ぶと、では急ごうか、とオーヴェンが大剣を構えて前線へ向かった。従僕たちに命令を伝えるのか、残る二人の王はそれぞれの使いを呼び寄せている。
 レイも追って双剣を抜きながら、峡谷に視線を一渡りさせ、
「……あいつは?」
 ぽつりと問いを落とした。
 目の届く範囲に、黒衣の影の姿はない。
「塔の大将なら、冥王サマのところだってよ」
「玉眼王の?」
 問い返すと、うむ、とヌグマが絵の身体を倒して頷き、
「魔族に憑いて実界に現れている『無』は全体のごく一部での。実体として具象せぬままこの地、この世そのものをおびやかす力の大部分を、玉眼王さまが抑えられておる。おそらく今はヴァルナード様もその助勢に加わっておられるのじゃろう」
 我らの中では、あのお二人が最も具象に反する質の力を備えられているからの、と言う。
「先ほどまではこちらにおられたから、いずれ戻ってこられると思うがの」
「そうか」
「――レイ」
 呼びかけに、ん、と顔を上げると、彩色がゆるやかに絵の上を流れ、
「すまなんだの」
 短く声が落ちた。
 レイは目瞬きして絵姿の魔術師を見つめた。しばし頭を巡らせてその唐突な謝罪の意を掴み、ゆっくりと首を振る。
「詫びられることなんてねぇよ。何にも、誰にも。言われたまま天界に帰ったのも、こうして戻ってきたのも、結局は自分の決めたことだし。色々引っかき回して、逆に申し訳ないと思ってる」
「じゃが、冥界にとってこの援軍が有難いのは事実じゃよ」
「うん……そっか」
 そう言ってもらえると助かる、と頬を掻く。
 何が最良の行いだったのかなど、もはやわからなかった。世の事物は全て複雑に絡まり合い、一方が動けば一方にもまた変転がある。それを自由に、全て意の通りにすることなどできない。ただ独り、孤のままに在る力を、己というちっぽけな存在はもとより備えていない。天の士としての立場、複翼の将としての立場、闇の世界に関わった者としての立場。その戒めの全てを切り離し、我のみで在ることなどできないのだと、今日、この身でしかと知った。
 だがそれは、ある意味では――
 よそに流れかけた意識を、前線から届く交戦の音が絶つ。レイは頭を振り立てて場に気を戻し、空へ舞うべく翼を広げた。
「とにかく、今は奴らをどうにかしねぇとな」
 そう、世が全て繋がっているのなら、たとえ小さくとも、確かに自分がその中の一部であるのなら。
 きっとまだ、成せることはある。


      ◇


 戦況が一段落するまで、そう長くはかからなかった。
 冥軍がその力でもって突撃を散らし、ひるんだ魔族たちの負性を、整然と陣を組み空翔ける天の兵が浄化する。初手の激しい攻勢さえ凌いでしまえば、後はそのくり返しだった。魔軍は身に憑く『無』によって形ばかりの統制を保っているものの、それはただ強大な力の指向に突き動かされているだけの和に過ぎず、協調や共闘の意思どころか、生存へのあがきさえ存在しない軍勢を撃破するのに、大がかりな策は必要なかった。
 天冥の軍が前線を押し上げ、敵の群れの尾さえ見えてこようかという時、ひたり、魔族たちは前触れなく身を止め、後方へさがり始めた。撤退の号令はおろか、他のひとつの声を立てることもないまま、一斉に。
 優勢に対する安堵よりも、得体の知れない力に対する一層の不気味さを感じたが、ひとまずの難が去ったことに息をつき、小憩の合図を送る。 それぞれの直属の長のもとに集まり、空の半ばに隊列を作った兵たちの中に、幸い大きな傷を負った者は見られなかった。意気も高く保っていたが、その顔には、異様の力を得た魔軍による後を顧みぬ攻撃の烈しさを物語るような、濃い疲労の色が一様に浮かんでいる。
「なあファラエル、一度下に降りないか?」
 レイは傍らの天軍長に呼びかけ、峡谷の後方、冥府の長たちが立つ地面を指して提案した。
 天命を受けた援軍として参じ、同じ敵を相手取って戦ったとは言え、闇深い地とそこに住まう者たちへの警戒を解き、気を許して傍へ立つなど、天に生まれ育った同胞たちにはとても為し難いことであるとはわかっている。だが、ただ飛び浮かんでいるだけでも強い負の圧力を感ずる場にあるからこそ、休息の時間を無駄にすることはできない。
 ファラエルもそれは重々理解しているのだろう、険しい表情を浮かべながらも頷き、二人の六つ羽の天使長のもとへ報告に向かった。レイは先触れとしてひとり地面に降り立ち、冥府の王たちへ事情を伝え、陣の距離を保って互いに刺激し合うことのないよう頼んだ。
 了承を受けて開かれた空け地に軍を降ろし、ひと通り身をととのえた後も、峡谷の向こうに後退した魔族たちが動く様子はなかった。と言って、戦いが終結した感はまるでない。
 レイは隊を離れ、護衛の間に立つ隠者のもとへ歩み寄った。
「やけに静かだな」
 声をかけると、ふむ、と思案の頷きが返り、
「思惑に狂いが生じた、といったところだろうか。相手方にしても、我らの参戦は意の外であったろうからね」
 そう言う。
「思惑、か」
 奇妙な言葉にも感じられた。魔族の形を保っているとはいえ、実態は『無』だ。『無』に意志があるという評価が、今ひとつ理解しがたい。
 その向かうところは、『無きこと』であると、隠者は語っていた。一体に、この戦いは何を目的とするものなのだろうか。
 レイの疑問に再度頷き、エスタルディアが考えを述べる。
「私も冥界についてはそれほど詳しく知るわけではないから、しかとは言えないけれども、おそらくこの峡谷の先に、何か『無』の利用し得る大きな力があるのだろう。そのために、『無』は魔族の身体で冥王の力をすり抜け、ただ一点を目指して進み、冥府の者たちはそれをさえぎって立っている」
「……この先には、たぶん『鎧の王』――冥界の長者の城がある。岩山の中に建ってるって話を聞いたことがある」
 冥府の王の一柱、わけても最古参に位置する将軍の居城ならば、エスタルディアが推測するような力の源となるものがあってもおかしくはない。むしろ、彼らのことだ、こうした事態に備え、相手を特定の場所に引きつけるために、敢えてそうしているとも考えられる。冥府の地への影響を最小に抑えるには、この狭い岩山は都合がいい。
 いずれにせよ、とエスタルディアが続ける。
「道筋はどうあれ、向かう先は決まっている。魔族も、冥府の力も、そのための道具でしかない。目指す終わりはひとつ。そう、まさしく一切の終わり」
 全ての事物の、『無』への還元。
 途方もない事実に恐怖を抱くことさえ難しかった。ただひしひしと、事の重さのみを感じる。そして始まりより数千年続く劇の幕は、こうしてただ魔族を退けているだけでは引かれることはない。昔日の禍。巡る業。いずれは、その時が来る。
 ぐと指を握り、峡谷の向こうを振り返る。いまだ魔軍に動きはない。
 おそらく今が、機だった。
「エスター、俺」
 声発し、しかし続く言葉を呑んだまま視線を下にさまよわせ、握った手を胸に寄せる。
 逡巡するレイより先に、エスタルディアが口を開いた。
「レイ。天宮を発つ前に、お前に託した任について主どのに話をしてきたよ」
 レイははたと顔を上げ、隠者の顔を見返した。問いを待たず、声が続く。
「もちろん難しい顔をされたし、私は向こう百年は恨まれるだろうけどね。預かった言伝は、これだけ」
 ――そなたの、良きように。
 しばしその言葉を噛みしめ、無言のまま深く頷きを返した。最後の迷いの消えた胸で、ひとつ大きく呼吸をする。
「皆を集めるかい?」
「ああ」
 頼む、と言い残して、自分は冥府の住人たちのもとへと向かい、地を蹴った。


 離れた両陣のちょうど半ばの位置に、天冥の軍の長たちは顔を見合わせて立った。
 好奇の色さえ浮かべている冥府の住人たちに対し、天の同胞はまだ強い警戒をみなぎらせている。翼に震えを立たせているリュードの肩をぽんと叩いてやってから、わざわざ呼び立てて悪い、とレイは言葉を切り出した。
「相談……つーより、あんた達に頼みがあるんだ。これについては、天軍のほうでも俺と、そこにいるエスタルディアしか知らない。兄貴たちにも直に聞いておいてほしくて、集まってもらった」
 一度声を切り、意を確かめるように視線を渡らせる。
「して、頼みとは?」
 鎧を揺らし、オーヴェンが促す。
「ああ。時間がないからそのまんま言うな。……あんた達の誰かに、俺を『無』の中心まで連れて行ってほしいんだ」
 思いがけない依頼に、驚きの身じろぎを示したのは周りの同胞たちだった。レイシス様、とリュードが傍らで呆然の声を落とす。
「突飛に聞こえるだろうけど、冗談でもなんでもない。色々あってこんな形になったけど、本当は、そのために独りで来るつもりだった。一時の援軍としてじゃない。『無』を、昔日の禍を、根元から断ち切るために」
 問いはなかった。場の全員が言葉の続きを待っていた。
 息を吸い、言う。
「もちろん、俺独りじゃあ、あんなでかい力相手に何もできやしない。『無』に働きかけるためにその根源に近付くのは、この世界の存在じゃねぇと無理で……俺は、そこに行かなきゃならない」
 言いつのるレイに、ふむ、とフレッグが声を挟む。
「何か、手立てがあるのですね」
「ある」
 ためらうことなく返し、
「けど、その『手』を使うのは、俺じゃなきゃ駄目なんだ」
 だから頼みたい、と続けた。
 しんと気の張り詰めた場を割り、冥府の住人を代表して、オーヴェンが答えを述べる。
「確かに、冥府の者がお前を『無』の源までいざなってやることはできる。だが生憎、我らではあの力からお前の身を守ってやるには至らない。この場には適役がおらぬ」
 その言葉を、いえ、と横からフレッグがさえぎった。
 冥府の王たちの後方の空間に揺らぎが生じ、ざわりと風が走る。地から不形の黒い波が立つ。
 レイは無意識に身を固めた。それは、あの塔に在った日、幾度も目の前に眺めた光景だった。目瞬きの間に波は伸び上がり、収縮し、実体を持つ人の姿を形作っていく。
「話は聞いた」
 黒衣を揺らめかせて歩きながら、『影の王』ヴァルナードが口を開く。
 冥府の同輩たちの間に立ち止まった死神の漆黒の瞳がレイを正面に見据え、
「適役はここにいる。私はお前を『無』の核まで連れて行くことができる」
 ――影に身をゆだねる覚悟があるのなら。
 そう、低く告げた。

 一陣の風が過ぎた。
 谷風になぶられて揺れる自分の翼と相手の影を見、その相克の色を目に灼き付けるようにしてから、レイは口を開いた。
「会ったら、まず一発殴ってやろうと思ってたんだ」
 言い放ってから、ひとつ息を落とし、拳の代わりに長剣の柄を握る。
「けど、今はそんなことやってる場合じゃねぇのは良くわかってる。全部後回しだ。覚悟なら初めからできてる。連れて行ってくれ」
 決然と落ちた言葉へ冥府の王たちが応えを返す前に、リュードが横からレイの名を呼び、腕を掴んできた。
「だ……駄目です。レイシス様っ」
「リュード」
 たしなめるように呼んでも、震える手は袖を離さない。
「私たちは誓いました。もう二度と、あの時の愚をくり返さないと。もう決して、あなた独りを死地へ向かわせはしないと。お願いです。どうか……どうか、そのようなこと」
 どうか、とくり返し、リュードは必死の声で懇願する。レイは小さく笑いをこぼして、俯いたリュードの頭を撫でた。
「ありがとな。でも心配すんなって。前みたいにやるわけじゃねぇからさ」
 しかし、と言いつのるのにもう一度笑みを向けてから、他の同胞たちの様子をうかがう。二人の六つ羽の天使長が顔見合わせてから頷き、口を開いた。
「主から聞かされている。何が起き、何が成されようとも、それを最後までしかと見届けるようにと。引きとどめはしない。皆ここで祈ろう」
 我らが愛子の無事を。言って胸の前に祈りの印を切る。レイはありがとう、と礼を述べてから、最後にファラエルと視線を合わせた。四つ羽の兄はふっと息を落とし、
「お前の頑固さは良くわかっていると言ったろう? 今さら私が何を叱ることもない。だが――」
 言いつつ、冥府の王たちに、ヴァルナードに、体を向ける。
「我々は、冥界の住み人たちを知らない。その力の強さはわかる。天の者とも、そして魔の者とも異なる強大な力を持っていることはわかる。だが、我々が信ずるのは力のみではない」
 隠され、厭われ続けてきた地の、まるで存在を異にする者たち。一度並んで戦ったというだけで、不信が取り払われるはずもない。その言葉は、全ての同胞たちの心の代弁とも言えた。
「……なんか腕っ節しかねぇって言われてるみてえだなァ。オレら」
「これ」
 王たちの後ろでチャックがこぼし、ヌグマが諌めるのを聞きながら、レイは兄の謂いに反駁することなく、確かに、と答えた。
「俺たちの考え方から見れば、この世界のものが信用に値するとは、正直、言えないと思う」
 かたや理と秩序を重んずる光の世界、かたや普遍の則や戒律を持たない、個が個のみで生きる闇の世界。白は黒を忌み、黒は白を物と見る。もとより、相容れるものではない。
「信用は、できないかもしれない。皆に信じろと言うほうが無理かもしれない。それでも」
 今の自分は知っている。
 闇は、ただ昏いのみのものではない。
「――俺は、信頼してる」
 レイは背を伸ばして姿勢を正し、同胞たちに、冥府の王たちに、そして黒衣の影に、衒いのない言葉を告げた。声は揺らぎなく響き、凛と場に渡った。
 腕に添えられていたリュードの手がゆっくりと離れ、傍らの兄たちが息落としつつわずかに気を和らげた。異形の友人が愉快げに石の翼を広げ、魔絵の中に彩色が揺れた。
 他の三人の王たちとともにヴァルナードが浮かべたのは、まだ記憶の底に沈んでいなかった、不遜で穏やかな、あの笑みだった。
「レイ」
 しばし言葉を失くした場に、絵姿の魔術師が声落とす。
「ほかの仲間たちにも伝えてくるといい。儂らはここで待っておるからの」
「けど」
「なに、そう急がずともまだ時はある。それに、そのほうがお前さんも後に気を残さず済むじゃろう。なにも別れを告げてくることはないんじゃよ。天のいとし子の身は必ず仲間のもとへ無事に返すと、ま、信じられずとも良い。伝えてきておくれ」
 少し考え、同胞を見回す。長衣の隠者が初めに同意の頷きを見せてきびすを返し、複翼の兄たちとリュードもそれに続いた。
 レイはその背を追う前に一度冥府の住人たちを振り返った。言い置くべき言葉を探し、ひとつの声も見つからないまま、ただ小さく礼をして早足に陣へ向かった。
 通達は短く簡潔に行われた。兵たちは一様に驚きを見せ、難色を示したが、天使長とエスタルディアの口添えもあり、最後には声をそろえてレイの無事を祈り、鼓舞を謳った。
 五十名余りの天軍と数名の冥府の長者たちが作るいびつな輪の中心に立ち、レイは改めてヴァルナードと顔を見合わせた。
 影は何も語らず、常の表情のまま悠然と佇んでいる。
 言うべきこと、言い願うことは様々にあった。その全てを今は天の将としての身に呑み込み、その目前までゆっくりと歩を進める。レイシス様、とひとつ背を叩いた声を合図に、兵が口々に名を呼び、無事の帰還を願う言葉を紡いだ。レイは手を振って応えながら、傍らの男に伝わるように小さく頷いた。応じて影が伸び上がり、視界が同胞たちの姿を消して一色の黒に包まれたかと思う間もなく、まだ陽の高い峡谷を離れ、闇の中に浮かんでいた。


 一瞬途絶えた意識を掴み直し、視線を回す。視界の中にない黒衣の男の姿を探そうとした次の間、頬の横を指が過ぎ、自分の身が直立のまま後ろから抱えられた姿勢にあると知れた。揺らめく影の衣が足元から全身を包んでいる。
 そっと首をねじって後ろを見上げ、間近に黒と虚の瞳を捉えた。あ、と声漏らしたきり、継ぐ言葉を失くす。
 慕う兄や従える兵のない場で、個として想いを吐き尽くそうと思えばできるはずだった。だが今生のものと思って別れた身に、この間は近すぎた。
 困惑を払おうと頭を振るレイの後ろでふと笑いの息が鳴り、声が落ちる。
「まず先に、玉眼王のもとへ向かう」
 個の心ではない、ただ現状を告げる言葉。つられるようにして惑いを忘れ、玉眼王、とくり返した。
「今は力の全てを玉眼王が抑え込んでいる。出るべき道がなければ入ることもできない」
 そう説明し、レイの髪に指を寄せ、
「後でまた、時はある」
 静かに、言う。
 レイは漆黒の瞳を見つめ、ただ黙って頷きを返した。

『――来たか』
 漆黒の闇の中に声が満ち、冥府の主が緑赤色の双眸をゆるやかに開く。その身がどこからどこにまで渡っているのかレイにはわからなかった。目に映る闇全てがそれであるのかもしれない。そんな強大な存在が今まさに抑えているという形なき力さえ、身に感じ取ることはできなかった。
「核へ向かうあいだ、封じをゆるめて貰いたい」
 ヴァルナードの依頼に、うむ、と応えが返る。峡谷でのやり取りも全て把握の内なのだろう。問答は要されなかった。
『それ自体はたやすい。だが、長くはもたぬ』
 力の流れる道を長く放っておくことはできない、地上の戦いも再開されたようだと語る玉眼王に、承知している、とヴァルナードが返す。闇が蠢き、その空間を開き始めた。
「恩に着る。玉眼王」
 見上げて声をかけると、玉色の眼が揺らめき、心して行くが良い、と見送りの言葉を落とした。
 その道をどのようにして進んでいるのか判然とはしなかった。影に包まれてただ闇の中に浮かぶまま、身が動いているという感覚はなかった。それでも時折そばで揺らぐ闇の気配と、不意に訪う意識の途切れから、力の源を探りながらの転移が間を置いてくり返されているのだろうという推測はできた。
 続く沈黙の中に所在なく身じろぎをし、ほつり、問う。
「……羽、邪魔じゃねぇ?」
 意を決して発したはずの声は細い音にしかならず、いいや、と答えが返ったきり、後に続かない。再び困惑を満たしかけた頭の上で、くつくつと笑いが鳴った。
 なんだよ、と眉を寄せれば、
「私は、この間に恨みつらみを聞くつもりでいたのだがな」
 平然とそんな言葉が返った。
「なんだよ、それ」
「そのままの意味だ」
 勝手を通したからな、と続ける。レイはしばしその言葉を胸の内に反復させ、意図を理解して首を振った。
「本当は色々、沢山あったんだよ。けど、ここで愚痴ってどうすんだよって状況で、だらだらぼやいてるほうが逆に馬鹿みてぇだろ。なんか、全部吹っ飛んだ」
 それに、と続ける。
「あんたらが俺を帰した時の説明は、確かに全部じゃあなかった。それでもその理由は嘘じゃなかった。心配されて、助けられて、結局それを裏切って戻ってきたのは俺のほうの勝手だし、なんつーか、……もういいだろ、おあいこってことで」
 頭に浮かぶ言葉を整理もなくそのままに並べ、全て言い落とした。自分ながらになんと雑な言い草だろうと内心息をついたが、他にどう語るべきかもわからなかった。
「……うわっ」
 男の言葉を待っていると、返事の代わりに笑いが落ち、前に回った両腕に身を抱きすくめられた。思わず声漏らし、一瞬前までは邪魔を気にした翼を振り立てて急の行為に抗うが、腕離れるどころかさらに身が近く重なり、薄い唇がレイの目元に触れた。
「お前、こんな時に妙なことすんなっ」
 それ以上やったら今度は本当に殴るからな、と声を荒げると、
「二十日ぶりに会って触れるなと言うほうが酷な話だ」
 などと、まるで悪びれた様子のない言葉が返る。
 馬鹿言え、と悪態をつきつつ、それでもじわりと湧き上がる想いの全てを押しとどめることはできなかった。自分が抱いていた心を、形こそ違えど同様の向きで、相手が示した。ただそれだけで、身にあたたかさが満ちた。
「なあ、もし――」
 胸へ回った腕にそっと手を寄せ、言う。
「もし、これが失敗しても、俺のことだけ放り出そうとするなよ」
 ヴァルナードが頭を起こし、どういうことかと意を訊ねてくる。常の調子は崩さぬながらも笑いの色を引き収めたその声に、レイは改めて確信を得た。
「さっきの玉眼王とのやり取りもあったし、なんとなくわかってた。もしこれがうまく行かなかったら、お前、自分の力で『無』を封じるつもりだろ。そりゃ、お前らの力が途方もなく強いのは知ってる。今までにも何度かそうやって封じられてきたって聞いた。その度に、犠牲があったってことも。……ヌグマのじいさんのあの身体は、これのせいだったんだろ?」
 塔の参謀たる老魔術師は、自らの絵の身体について、千年前の戦の折、力を使いすぎてこうなったのだと説明した。冥界についての知識を持たなかったその時はただ言葉のままに聞き流したが、今にして考えれば、王に次ぐ力を持った魔術師がその身を使い果たすほどの戦など、妙な話と言うほかない。正確には、それは「戦」ではなかったのだ。
「その役が今回はお前で、理由は単にこのついで」
 そうなったきっかけはこちらにあるというのに、おそらくその瞬間には、自分は地上の同胞たちのもとへ戻されている。
 肯定の返事はなかったが、いずれにせよ、答えは明らかだった。
「死なばもろとも、だとか、そんなことを言う気はない」
 それでも、と心の底からの言葉を告げる。
「全部が終わった後になってやっと気付くのは、もう嫌なんだ」
 あの天魔の戦の日から、ずっと悔いばかりを供にしてきた。幾度も己の無知と浅慮を恥じ、過ぎた時に日にやり場なく嘆いた。その極めつけなど、要るはずもない。
 長い指がゆるやかに髪の上を滑り、声が落ちる。
「わかった」
「軽ぃよ」
「重くは言えんな」
 言えると思うか? と問われ、思わねぇ、と小さく返す。
 そう、何を言ったところで、結局こちらの思う通りにはされないだろう。何しろ勝手な男なのだから。
 それでも、自分はありのまま心を告げ、男はそれをわかったと受けた。
「言ったからには、放り出したら本気で一生恨むからな」
「一生か」
「一生だよ」
「光栄だな」
「言ってやがれ阿呆」
 早口に掛け合いを交わし、声途切れたところで同時に笑いを落とす。
 ああ、――やっと、笑えた。
「あとどのぐらいかかる?」
 後ろに倒した頭をヴァルナードの肩に預け、顔を見上げて訊ねる。
「まだ少しある」
 短い返事のあと、先の答えだが、と声が続き、
「わかったとは言ったが、まず私は望んで身を犠牲にするつもりはない。……この期に及んでな」
 言って、腕の中を確かめるようにレイの頬の古傷を撫でた。
「……ああ」
 根がないとも思える言葉に反論はせず、頷き、胸の前に手を握る。
 天の騎士にもとる心だと言われてもいい。今はただ己のままに、ただ己の想いのままに願いたい。どうか、成し遂げさせてほしい。
 共に、帰るために。



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