10

 『無』の中心へ向かい転移をくり返す影の中、レイはひとつの思案を胸に経巡らせていた。
「なあ」
 十数度目の転移を終え、力の方向を探り始めたヴァルナードに声をかける。
「向こうで聞いたんだ。この『無』の根源は、冥界にいた天使だったって」
「そのようだな」
 すぐに肯定が返る。やはり冥府の長者にとっては、この事象はその起こりから既知のものであるらしい。
「その天使が冥界のどこにいて、どう生きてたのか……こっちには知ってる奴はいないのか?」
 今度は多少の思考の間があったが、さほど長くも続かず、
「それが起こった瞬間から先のことは知られているが、少なくとも私や他の四王、玉眼王も、それ以前についての知識は持っていない。協約の前の時代には、この地には今よりよほど多くの異界の虜囚がいた。私も幾度か見たことはあるが、その中に例の天使がいたとしても、気付きはしなかっただろう」
 冥界の『王』は、たとえ冥府の主と称される玉眼王においても、統治の立場にある者ではない。世の動きについての「把握」は銘々あれど、「関知」はなきに等しい。虜囚についての報告などなされるわけもなく、真相は闇に埋もれたまま――。かつて塔でヌグマが語ったのと同様の言葉で説明する。
「今この地で最も情報の蒐集に長けているのは公爵だが、『無』の起こりの頃はまだ生まれていなかった。その天使を虜囚としていた者がまだ存在しているかすら、どうかといったところだ」
「本当に古い話なんだな」
 そうか、とくり返し、また考えを己の内に戻す。言葉を収めたレイに、今度はヴァルナードから問いかけがあった。
「随分と気にかかっているようだな?」
「え?」
 顔を上げ、数度目瞬きをしてから、
「……うん、そうかもな」
 自分の胸を確かめるように答えた。
「俺は、親父やエスター――天界の知り合い、とか、お前らみたいに物を知ってるわけでも、頭がいいわけでもねぇからさ。いまいちぴんと来てないんだよな。『無』が生まれた理由だとか、今こんな戦いを起こしてる理由も」
 『無』の意向かうところは、ただ、『無きこと』。そう語った隠者の言葉を疑うわけでも、そこに矛盾を感じるわけでもない。
「ただ、しっくり来ねぇっていうか、まぁそれだけなんだけどな」
 魔族を利用しての戦い。無軌道なだけの破壊ではない、明確な目的を定めた行動。そこには無の拡張を目指す「志向」のみではない、明確な「意志」の存在が思われてならない。世の理、無と有の二律に納まるものではない、何かの存在が。
 だが、それは即ち――
「うん、いや、いいんだ。もし本当にそうなら、『無』に意志があってこの戦いが起きてるんだとしたら、……逆に、やり切れねぇし」
 冥府を、天を、世の全てを滅ぼそうとしているかの力は、かつて、我が故国の同胞であったというのだから。
 口結んだレイの頭をゆるやかにヴァルナードの手が撫でる。
 と、その指がひたりと止まり、周囲を取り巻く黒の衣が不意の揺らめきを見せた。
「捉えた」
 問うより早く短い声が落ち、影が巻き上がって視界を覆った。

「うわっ」
 転移が完了した瞬間、強圧が全身を叩いた。無意識に声漏らし、腕を顔の前にかざす。身を包み護ろうとした翼の動きに気付いたのか、影が前へ集まり、より厚い黒衣の壁を造った。
「着いたのか……?」
 片目を開けて問う。前方、かなりの距離を置いて、かすかな空間の歪みが見えた。
「まだ中心までは来ていないが、予想以上に抵抗が強い。……すまんが、少し身が崩れる」
 言うなり、間近で力が弾け散り、レイの胸元に回っていたヴァルナードの左腕が人の形を失って、いつかに見た黒の異形と化した。はたとして首をねじり、後ろを見上げると、左の虚眼の闇が広がり、顔の半面が影の中に没している。
「大丈夫か?」
「相の均斉が取れないだけだ。問題ない。多少不恰好だろうがな。私よりも――」
 言いつつ、人の形を保った右手ですうとレイの翼を梳き、前へかざしてみせる。
「お前のほうが、障りが強いはずだ」
 闇の中に数枚の羽が白光をはらんで落ち、目の端に消える前に融け崩れる。ぐっと唇を噛みしめたが、もはや誤魔化しの言葉を尽くす場ではない。レイは小さく頷き、身体の変調を認めた。
「このまま進むこともできるが――」
「行く。決まってるだろ」
 確認の言葉をさえぎってきっぱりと言い放つ。重い身体を叱咤して口を開き、相槌を待たずにさらに続けた。
「ここまで来て自分可愛さに尻尾巻いて帰れるかよ。絶対に、成功させる」
 だから、頼む。と、異形の腕に指を重ねる。
「……わかった」
 短い答えの次の瞬間、空間がきしんだ音を立てて押し開かれ、反発しあう力の生み出す幾条もの閃光が闇の中に走った。烈風とともに熱の塊が押し寄せ、肌を焼きつけた。
「っ……!」
 それまでのものとは比較にならない強大な力の波動。反射的に漏らした息を音にすることもできず、ただ影の中に背を丸める。身の内が灼け、裂けた臓腑から血が喉までのぼりかかった。
「レイ」
「平気、だっ……」
 強烈な抵抗にあえぐも、まだ中心に至っていないのはわかっていた。『無』の核。事を成すべきその場所。
「あ、ぐ……、う、はや、く」
 背の羽が闇の中へとめどなく散り落ちていくのを感じながら、震える声で前進を促す。
 翼など、全て朽ち落ちてしまっても構わない。この任を遂げることができなければ、たとえ羽が残ったところで同じこと。
 ヴァルナードは応諾の言葉を返さず、しかし望みを撥ねつけることもなく、腕にレイの身を強く抱いたまま、『無』の核を閉ざす最後の皮膜に影を広げ、引き開けにかかった。強い拒絶と反発が一切の闇の空間に衝撃の風を巻き上げ、火花の熱を散らす。重い墓石の蓋をこじ開けるがごとく、すれた耳障りな音を響かせながら、徐々に『無』がその根源を露わにされていく。
 やがて轟音が爆ぜ、闇が裂けた。
 次の瞬間、レイの目に映ったのは、茫漠と続く曠野だった。 


 周囲へ目を走らせ、それがただ見えるだけの画ではなく、我が身を取り巻く風景、己が足の踏みしめる大地であると知る。闇も、光も、風も、熱も、音も、影も。全て消えていた。ただ四方へ広がる野の上に、レイは独り立っていた。
 ここは、と落としたはずの言葉は耳に届かず、踏み出した脚が地面を捉える感触もなかった。おかしい、奇妙だと頭のどこかで理解しながら、まるで身の内が荒らがなかった。これが現実であるなら早く戻らねばと焦り、夢か幻であるなら早く目覚めねばと焦るはずの胸は、遠くかすむ地平のごとく平坦に凪ぎ切っていた。
 何もない。誰もいない。
 これが、『無』だろうか?
 思い起こしたその語さえ、すぐに重みを失い、消える。
 何も存在しないのだから、何も生まれない。光も、闇も、言葉も、問いも、意味も、理由もない。無は、無だ。ただ無いままに、ある。何も語らず、何も願わず、何も望まない。
 では、この演幕は、なんのゆえに――?
 幾度目かの疑問を形にする術はなかった。思う端から言葉が、問いが消えていく。いや、消えることさえない。初めから無いのだから。
(違う、違う、違う)
 拒絶を叫ぶ舌がない。身を抱き支える腕がない。正気を求めて振り立てる頭がない。何もない。何も見えない。何もわからない。
 何も、何かが、
(――、――!)
 聞こえた。
 何もないはずの地平の彼方から、その音は確かにレイの耳に届き、鼓膜を震わせた。腕で下腿を押して上体ごと頭を起こし。いる、と乾いた舌で声成して、朽ちて動かない翼の代わりに脚を立たせ、地面を蹴って、音へ向かって駆け出した。聞こえているのは、人の、子どもの泣き声だった。

 その天使は無残に傷付き、膝折って曠野に座っていた。
 無秩序に伸び、色薄れた金の髪。汚れ、破れた服。曲がり折れた聖銀の剣。朽ちた翼。痛ましい姿をごく近くから見下ろしても、その身は微動だにせず、魂の抜け落ちた殻のように生気なく地面を見ている。
 手を伸べかけて引き戻し、口を開きかけてまた閉じた。何を語りかけたものか、そもそも声を届けられるものか、わからなかった。たとえ目に見えようとも、これは過去の幻影だ。『無』はここにあって、ここにはない。ただ「無きこと」へ向かう無は、もはや何をも取り戻されない。
 あまりに痛ましい。だが自分は、果たさねばならない。そう決めて、手を胸元へ持ち上げたその時、かつての天の子もまた、伏せた顔をゆっくりと起こした。乱れ伸びた髪が額で分かれ、濁り淀んだ翠碧色の瞳がこちらを見上げた瞬間、悲鳴が口をついて出た。
 喉を痛ませたはずの叫びは、しかし再び音を失った。確かに目にしたはずの己の顔はすぐに消えた。なぜなら、前には何もなかった。伸べかけた手も、開き、閉じた口もなかった。レイは膝を折って曠野に座っていた。荒れ伸びた髪、破れた戦着、折れた双剣、朽ち汚れた、まだ黒く染まってはいないというだけの、四枚の翼。
 沈痛の面持ちを浮かべて自分を見つめる同胞など、どこにもいない。ただ天を突いてそびえる巨大な門扉だけが、傷付いた天使を物言わず見下ろしている。
 空ろに満たされた意識のままゆっくりと腕を上げ、扉に指を触れさせる。世界が歪み、門は開かれた。だが、それだけだった。扉の向こうに光はなかった。背にする景色と何も変わらぬ、無限の曠野が広がるばかりだった。
 呆然と座り込むレイの耳に、子どもの声が届く。駆け回り、泣き叫び、重い扉を幾度も叩いて、親を探す迷い子の声。なぜ、どうしてと、天へ必死に問いかける声。
 これは全て夢だと、レイは理解した。確かにこれは過去の夢だ。だが、幻ではない、うつつの夢だ。かつての天の子が見た夢を、いま自分が覗き見ている。いや、見せられている。
 泣き声が呼んでいる。自ら懐へ訪れ来た同胞を、『無』へ融けかかり、同じ夢を見た天使を、声の限りに呼んでいる。おそらくはずっと、そうして呼ばれ続けていた。『無』の目覚めたその日から、或いは、この身が異界に堕ちたその日から。懇願と、羨望と、愛憎入り交じる叫びに、ずっと呼ばれ続けていた。
 震える脚に力を込め、よろめきながら立ち上がる。開いた扉に、もう一度手を伸ばす。
「ごめん、な」
 かつての天の子に、告げる。
「それでも俺は、戻らないと」
 瞬間、実体のない、しかし激痛にも似た衝撃に、身体の中心を貫かれる。不可視の傷へ流れ込んできたのは、周囲を取り巻いていた大いなる『無』――否、本来はそこに存在するはずのない、心だった。
 無様に前へ倒れながら、それでも手を伸ばした。届くことを疑わなかった。自分をこの世界に繋ぎ止めた絆を、固く信じていた。
 圧倒的な力の波に呑まれて扉が崩れ、道を閉ざすより一瞬早く、レイの手は門を抜け、黒の異形の腕にしかと受け止められた。次に開いた目の前には、闇があり、光があり、風があり、熱があり、音があり、影が、あった。
「あ……あ、ああ、うあ」
 安堵の息をつく間もなく、がくがくと身が内から揺さぶられ、切れぎれの悲鳴が喉からこぼれ落ちる。名を呼ぶヴァルナードの声も耳を通ることなく、はるか遠くに鳴り聞こえた。
 抑えようのない激情があふれ押し寄せ、全身を駆け巡っていた。痛み、怒り、悩み、恐れ、惑い。ありとあらゆる負の感情が血の底に沸き立っては、全てただひとつの想いに変わり、心を満たした。
 哀しい。
 哀しい、哀しい、哀しい。
「う……う、く、うっ……」
 あえぎとともに涙が吹きこぼれた。胸が引きちぎられるように痛んだ。
 実際にはほんの目瞬きの間に過ぎたのだろう、あの曠野でのひと時、レイは『無』の核に、数千年の時向こう、独り世の狭間に消え、深く深く沈んだ天使の心に触れていた。湧き上がり爆ぜる想いを涙に変えて、重なり、離れ、また重なり、融けた想いの残滓にゆるやかに同調する。 
 身を、心を、その存在の全てを失ってなお、際限のない哀しみ。
 故郷を遠く離れた闇の地ですがるものなく生き、嗜虐に耐え、昏い風に翼を黒く染め、傷付いた身体を引きずってなお、光を求めて伸ばした手は、ただ、空を掴んだ。
「う、あ、ああ、う……」
 レイは翼を震わせ、闇の中にこぼれ落ちる力を懸命に身に繋ぎ止めようとした。しかし、『無』の抵抗を跳ね除けるだけの余力はもはやなかった。必ず果たさねばならないと、初めに誓った言葉が最後に残り、やがて一切が、ただ胸を満たす想いひとつの中に消えた。
 嗚咽を呑み、なおととのわぬ息の間に、唄を、紡いだ。


 子よ眠れ 唄よ眠れ
 今日の陽を枕辺に掛け
 父なる天の下に 母なる地の懐に
 哀しき調べを今は忘れ
 剣を納め 翼を折りて眠り給え


 聖歌でも魔曲でもない、ありふれた静かな詩。天に生きる者が皆、幼き日に共に過ごした、古い子守唄。
 湧き立つ心のまま、ただ、歌う。


 子よ眠れ 唄よ眠れ
 今日の風を祈りと謳いて
 父なる天の下に 母なる地の懐に
 深き罪咎を今は炉にくべ
 本を閉じ 筆置きて眠り給え


 虚無を生じさせたのは、扉の間に力繋げた光と闇ではなかった。天使の負う黒の翼ではなかった。光と闇の出合った瞬間、まだそこに『無』は生まれていなかった。しかし、穢れを忌避する光の世界は、繋がれた世のこちら側に、闇に堕ちた天の子を迎えることを拒んだ。
 その時、天の子の心に訪れたものはなんであったろう? 闇の中で物の遇を受け、故郷の光に拒絶された、哀れな天の子を支配したのは――
 怒りでも恨みでもなく、深い深い、絶望であったのではないだろうか?
「俺、は」
 血とかすれた吐息の混ざる声で、背を支える影に語る。
「お前が、いた、から。受け入れて、くれたから……。天界も、帰ることを、許してくれた」
 闇の世界も光の世界も、自分を拒むことはなかった。傷付き血にまみれながらも、確かな繋がりの中で、絆の中で、生きていけた。
 しかしそれは確かに、万に一つの幸運だった。ひとつでも釦をかけ違えば儚く切れてしまうような、細い運命の糸だった。
 何からも切り離され、全てに拒絶され、孤のままに生きることができないはずのものが、我のみで在ることを強いられた一切の無。他を無に帰すことでしか、他と我を繋ぎ得ない無ばかりの無。
 それはきっと、自分にも、世に在る全てのものの、隣にあった。
「――続いている」
 途切れかける意識の中に、ヴァルナードの声がかすかによぎる。顔を上げ、耳を澄ませるまでもなく、祈りは届いた。
 
 子よ眠れ 唄よ眠れ――
「歌……」
 弱く呟くと、戦場からだ、と教えられた。異界の峡谷で剣を握る同胞たちが、レイの後を追うように、歌を奏でている。
 背を起こし、力の全てを振り絞る。身を強く支える腕、懐かしい歌。
 確かに自分は繋がっている。そして、今は身を失くした天の子も、まだきっと。


 子よ眠れ 唄よ眠れ
 今日の空に想い浮かべ
 父なる天の下に 母なる地の懐に
 暗き闇を今は友に
 目を閉じ 身を休め眠り給え

 ただ明日へ、眠り給え――


 目に見える変化はなかった。ただ闇の中に、涙にかすれた幼い歌声が、聞こえたような気がした。
「レイ」
「う」
 全身を縛めていた圧がほどけ、ぐたりと懐に沈み込むレイをヴァルナードが呼ぶ。
「抵抗が弱まった。どこに持っている?」
 どうして知っているのかと、問い返しはしなかった。おそらく手立てについて打ち明けた折、他の王たちとともに既に察しをつけていたのだろう。
「首に、かけて……胸の」
 全てを言い終える前に異形の指が首元の服を割り、するりと紐の先に付けた袋を引き出す。下から支え上げられた手のひらの上に、それは小さく頼りなげに転がった。
 強大な生と有の具象、生命の樹の種子。
「大いなる無の相克たる、禁樹の種子に命ず。その力を、今ここに解き放ち」
 無に呑まれかける意識を奮い立たせ、開放の真言を謳う。
「独り惑う無を、天の子の絶望を、封じ救い給え――」
 光がはじけた。
 人の慟哭にも似た轟音が巻き起こり、歪んだ虚無が巨大な渦となって、レイの手を離れて宙に浮かぶ生命の種子に押し寄せた。無が有をその懐に呑まんとし、有が無に形あるものの根を伸ばす。
 相克がぶつかり、せめぎ合う中に、レイは遠くかすかに声を聞いた。戦場に続く子守唄。そして。

 眠るがいい。
 眠るがいい、小さき者よ。
 我ら世界の子よ――
 
 それが天の主のものであったのか、冥府の主のものであったのか、それともそのどちらともであったのか、レイにはわからなかった。小さな種子の硬い表皮が裂け、息づく緑の芽を覗かせたのを見た瞬間、祈りの唄とともに意識が白の中に落ちていった。
 異形の影の腕に、身を預けて。


      ◇


 初めに目に映ったのは、自分と同じ翠碧色の瞳。不安げな同胞たちの顔だった。
 う、と息を鳴らし、目蓋を上げて覚醒を示したレイの耳元で、若い副官の歓喜の声が上がる。
「レイシス様! お気付きになられましたかっ? う、よ、良かった……」
「リュード……?」
 名を呼ぶと、こぼれる涙もそのままに、はい、と音くぐもった言葉が落ちる。あまり大声を出すな、とその傍らで忠告を発したのは、天軍長・ファラエルだった。リュードの興奮をなだめながら、自らも秀麗な顔に涙を浮かべている。
「……ここは?」
「まだあの峡谷だ」
 言われ、身をよじってあたりを見回す。
 崖を離れた平らな地面の上に、寝具代わりの布を敷いて寝かされているようだった。陽は山向こうに落ち、夕暮れを過ぎて夜が降りている。周りには天兵たちが集まってレイを気遣わしげに見つめ、その向こうには闇の地の長者たちが輪を作り、こちらのやり取りをうかがっていた。
 一抹の不安を持って見たその中に、黒衣の影はあった。手を振り示す彫像族の隣に立つ長身の男は、今は完全な人の姿を取り戻している。
 ふと息をこぼして視線を戻し、問う。
「戦いは? みんな、無事か?」
「ああ。魔族たちは『無』の戒めが解かれるとともに逃げ去っていった。負傷した者は多いが、みな無事だ」
 一番の重傷はお前だ、と言ってくしゃりと頭を撫でてくる兄の手を面映ゆく受けながら、レイはリュードに手を借りて上体を起こし、そっと我が背を振り向いた。翼はまだ残っていた。
 前に立った六つ羽の天使長が眉目を寄せ、言う。
「だいぶ散ってしまったようだが、充分に治る。後で私が施療をしよう。……レイ、良く成し遂げてくれた。みな感謝している。結局お前独りに重荷を背負わせることになって、すまなかった」
 謝意に首を振り、
「俺こそ。みんなありがとな。歌、聞こえてた。……それに、俺だけじゃできやしなかった」
 落とした言葉に、兄たちが重々しく頷く。後ろを振り向くことこそなかったが、みな、異界の王の功労を理解しているはずだ。わずかに気分を軽くしつつ、肝心の任の結末を確かめていないことに気付いた。
「けど、ちゃんと全部うまくいったのか? 俺、最後はもう良くわからなくなってて、『無』がどうなったのか……」
「大丈夫だよ、レイ」
 問いに答えたのは、静かな隠者の声だった。レイを取り巻く天兵たちの後ろから一歩進み出、長衣をたなびかせて前へ腕を示す。その手の中に収まっていたのは、小さな鉢に植えられた、木の若芽だった。
「背反の力の強さから樹にまでは至らなかったけれども、『無』は全てこの中に封じられた。お前と、私たちがここで触れた、名も知られぬ天使の心の生まれ変わりと言ってもいいかもしれない」
 風に枝がさやりと揺れる。夜天へ淡い光を返す若木に、負の性は感じられない。
「これをどうするかはまた後で考えよう。今は――」
 エスタルディアの言葉を引き継ぐように後方で金音が鳴り、天兵たちが慌てて左右に分かれた。開いた道の先に、黒鎧の将、オーヴェンダークが立っている。
「将軍」
「うむ。無事で何よりだ。先ほどお前たちの同胞と話をしてな、ひとまず近くの儂の城に向かい、そこで改めて今後の協議をしたいと思うが、どうだな?」
 公爵や女王の居のように豪奢なもてなしは出来ぬが、歓迎するぞ、と言う。
「俺は構わねぇけど」
 兄たちの顔をうかがうと、めいめい頷きが示され、天使長が承服の言葉を返した。
「慣れぬ地での戦いで我々もだいぶん疲労している。兵を休ませる場を借りられるのなら、貴殿らの世話に甘えたい」
 うむ、とオーヴェンが空の兜を揺らし、
「じき城から幾台か馬と車が来る。椅子の硬い戦車で構わぬなら、傷の重い客人はそれに乗って頂くとしよう」
 では、参ろう。言って、切り立つ岩山の先を示した。


 鎧の王の城で、一夜が明けた。
 天軍は城の一角を「天の城の一室と思うように」との言葉とともに借り受け、一つの広間と余るほどの部屋で身を休めた。
 翌朝、兵たちは部屋で待機し、広間にはレイを含む複翼の天使四名と隠者エスタルディア、そして天宮で生まれた数名の二つ羽が集まっていた。広間の主座に据えた魔鏡を天宮の主殿に繋げ、戦いと『無』についての報告を行い、今後についての協議を交わす。
 レイは協議の輪には加わらずに広間の中心から離れ、冥府の住人たちとの橋渡しの役を務めようと、閉じた扉の横に控えていた。みな気丈に表には出さないが、異界の王の懐にあるという事実は、天の同胞たちの中に強い緊張をもたらしていた。
 そしてレイは、闇の地に対する緊張の代わりに、ひとつの思量を胸に巡らせていた。
 戦は終わり、任は遂げられ、『無』は封ぜられた。数千年の永きに渡って天冥両界を苛み続けた昔日の禍は、新たな命の灯のなかに消え去った。そうして。
 そうして、何が起こるのだろう? 何がもたらされるのだろう? 
 自分は――
「レイシス様」
 呼びかけに思考を切り、扉の隙間から顔覗かせた衛兵へ、なんだ、と声を返す。
「冥府の者が」
 それ以上の言葉は待たず、するりと扉を抜けて廊下へ出た。身を固める衛兵の前に、ヴァルナードとヌグマが立っていた。
「何か用か?」
 別室で協議を重ねていたらしい冥府の長者に問うと、うむ、とヌグマが絵身を倒し、
「謁見を頼みに来たのじゃよ。天主どのに会って話をしたくての」
 今後について、と言う。
「わかった。こっちも話し合いは一段落したみてぇだし、大丈夫だと思う」
 伝えてくる、ときびすを返し、主座の天使長に耳打ちする。話はすぐに通り、衛兵の手によって扉が開かれた。
 床に靴音を響かせながら、影の王・ヴァルナードと、彩識の魔術師・ヌグマが扉を抜け、ゆるやかに進み出てくる。
「今はこの場を天の宮殿と心得る。天使流に名乗らせてもらおう」
 言いつつ主座に正対して広間の中央に止まり、
「我が名は冥府の影ヴァルナード。闇の地の王が名代として、新たな協約の締結を成すために参じた」
 低い声が、張り詰めた空気を鳴らした。
『――新たな協約、とは?』
 鏡の向こうから天の主が言葉を返す。応えて魔術師の平板な身体がふわりと浮かび上がり、絵の中に文字の並びを現した。老爺の声が語る。
「かつて記憶の彼方の日、光の地と闇の地の間に結ばれた『黒翼の協約』の起こりは、昔日の禍によるもの。この程の戦によって禍は消え去り、協約の在るべき意も共に消えたと存じ上げる。そのままに捨て置くこともひとつの道。しかし、それは再び黒き翼を生む道ともなり申そう」
 絵は一切の無の中に一粒の種子を浮かべた。種が割れて芽を出し、若木に育ち、枝伸ばして大樹となった次の間、突如にして枯れ落ち、朽ちた塊の上に黒い羽が舞った。
「それは闇の地に生きる者にとっても好ましい未来ではない。されば、我々は新たな協約を望みましょう。世に在る者の理のために、禍を鎮めた天の子、我らが友への敬意のために」
 広間を響き通ったその言葉に、レイは驚きをもって冥府の長者たちを見つめた。ヌグマの言葉を継ぎ、ヴァルナードが口を開く。
「冥府の主の言葉として聞いてもらおう。――これより先、天界と冥界はその身を別つことなく在り、往来を拒まず、互いに力による侵攻の禁を約する。異界の者が闇の地に落ちた折には、冥府の主の名において、その者を元の地へ還す」
 ごく簡単にだが、あらましを述べた、と結ばれたその言葉に、鏡のこちらと向こうでかすかなどよめきが生じた。
『……冥界の住み人たちは、我ら天の民を「物」と扱うと聞く。その言葉、全て信を置けるものか?』
 天の王が問う。核心を突く疑念に、ヴァルナードは声揺らがすことなく答えた。
「弁明はしない。それは真実であり、これからも真実であり続けるだろう。冥府の王は統治者ではない。我々は明文の法も権を持たず、その名に刻まれる威のみにて世に力及ぼしている。この協約を公に掲げる者こそ寡数であろうことは間違いない。それでもひとたび約定が交わされたなら、我々がその定めに反する行いを成すことは決してないだろう」
 天と冥が在り続ける限り。静かに強く、言明する。
 長い沈黙が過ぎ、やがて、
『わからぬものだ。因果とは』
 ほつり、声が落ちた。
『天の子が光と闇を別ち、数千年の時を置いて、別たれた世を再び繋いだのもまた天の子とは。わからぬものだ』
「まさしく左様に。しかしそれは、闇の地の主においても同じこと」
 絵に白と黒の紋様を浮かべ、ヌグマが言葉を挟む。
「地は日々に生をくり返し、罪人は魔の野にて死を遂げ、業を洗う。時は巡り、進む。光と闇は不変にて、地や魔ほどの流転を抱きませぬ。と言って、輪廻に外れたものと、世の変転に外れたものと、何が決めたと申されよう? かつて協約は在った。なれば今一度、新たな誓いがされようとも、何の妙があると申されよう?」
『……いや、妙とは思わぬ。冥府の者よ。闇の地の王に伝え願おう』
 時は来たれり、と――
「承知した。その通り、伝えよう」
 しんと静まった場に、協約の明文と詳細について、淡々と儀礼的な言葉が流れる。正式な締結は七日後、場を移して天界で行われることが決まり、協議は終わった。しかし、決定をヌグマに確かめ、形式の礼をした後も、ヴァルナードの足はその場から動かなかった。
「先に、冥王の名代と名乗ったが」
 場の怪訝の耳目を集め、言う。
「本来、私はその役の次席だ。今日は個人的な別件のために代わって来た」
 これよりは、冥府の王ではなく、個として依頼をする。常の態度のまま、まっすぐに魔鏡の向こうを見据え、
「『天のいとし子』を、我がもとに貰い受けたい」
 断然と、落とした。
 どよめきさえ起こらなかった。ただ皆あぜんとして、露ほども予想されない言葉を発した、黒衣の影を見つめるだけだった。
 場の驚愕を一切顧みる様子なく、声は続く。
「既に知る者もいるのだろうが、四つ羽の天将は、この地に落ちてから先日の帰還までの間、我が居城に身を置いていた。『無』の障りにて一度は離したが、私はかの天の子を愛し、共に生きたいと思っている。虜囚ではない、影の王たる我が身の傍らに、正式な伴侶として彼を娶りたい」
 ちらと虚眼がこちらを向く。受けた衝撃の程度は仲間たちのそれと何も変わらず、レイは喉を震わせてただ唇の開け閉めをくり返した。言葉が出なかった。
「無論、強いるつもりはない。脅しでもない。いずれにせよ、使者は七日後に天界へ向かう。その時でも、その後にでも、返事を貰おう」
 では失礼する、と声を切り、黒衣が翻ってゆるやかに広間を去り始めた。魔絵が身を彩色の画に戻し、後へ続く。
 レイは一歩前に踏み出した。待て、と落としたはずの言葉は、ただ息の音に転じて消えた。もう一度、ゆっくりと呼吸し、声を振り絞る。
「待て……待てよ!」
 靴音が止まり、影の半身が振り返る。大股に足を進め、前に立ちふさがった。
「言うだけ言って勝手に帰るな馬鹿っ。あとの俺の状況もちっとは考えやがれ! ……返事、要らないのかよ?」
 怒気込めて言い放てば、ふっといつもの笑いが浮かび、
「すぐに寄越せるものでもないだろう」
 そう言う。レイは唇を結び、ゆっくりと首を振った。
「俺がなんのために戻ってきたと思ってるんだよ。最初から、全部、俺は……」
 広間を振り返り、同胞たちの不安げな顔を見渡す。鏡の向こうの父を、見つめる。
 叱られてもいい。詰られても、責められてもいい。天の子と呼ばれなくなっても構わない。心を偽ることなどできはしない。
「俺は」
 いつかこの時が来るとわかっていた。もう、迷わない。
「俺は、お前の傍にいたい」
 ずっとその傍らに。
 共に、在りたい。
 つと持ち上げられた長い指が頬の傷を滑り、髪を梳き流して離れる。笑みが落ち、赤い点光がゆるやかに瞬いた。
「七日後の使者には私が立つ」
 迎えに行く――。
 低く穏やかな声を残し、黒衣を揺らして、影は静かに去っていった。



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