11

 帰還はその日のうちに、ごく速やかに行われた。
 冥界の長者たちの力の賜物か、恐らく既に存在が知れ始めているはずの天軍が鎧の王の城を発ち、岩壁の『扉』から天界へと帰るまで、その道程をさえぎる者は現れなかった。
 扉までの介添えの中に王の名を負う者の姿はなかった。レイは塔の参謀と若い彫像族からの短い見送りの言葉を受け、手を振りながら、軍の殿に立って扉を抜けた。白と黒の世界を別つ巨大な門は音無くその扉を開き、閉じた。
 見上げる門扉に、拒絶の封印はない。
 凱旋の祝いの後にレイを待っていたのは、その場は深い戸惑いと暗黙に流された、影の王の申し出に対する問答の席だった。天の執政者たちが並ぶ場に自ら望んで立ち、軍の帰還に合わせ正式な書契として天主に届いたというその依頼への返事と、己の想いとを、レイは包み隠さず語った。一昼一夜をかけて為された場に、長く深い沈黙を置いて、問いが落ちた。
「レイシス。そなたはあの闇の地に暮らすことで、己が故郷で暮らす以上の幸福を得られると思うか?」
 ゆっくりとその言葉を胸の内に噛みこなし、
「その問いには、はいともいいえとも答えられません」
 静かに、語る。
「この数月で、俺は事物の在り方が一様ではないことを知りました。己が己のみで生き得ないことを、知りました。今あの地で暮らすことを選べば俺は沢山のものを失い、故郷にはない痛みや苦しみを得ることになるでしょう。けれどそれは、たとえ天を選んでも同じです。天には天の生があり、冥府には冥府の生があります。それぞれにそれぞれの哀しみと安らぎがあります。だから、幸福の多少を尺に選択をすることはできません。もし、そこで得られる幸福が天で幸福を得るより険しく遠いところにあったとしても――俺は、あの世界を選びます」
 それが今の自分の、唯一の心です。迷いなく紡がれた言葉は、言霊を成して主殿を満たした。
 それが最後の問答になった。

 問答の翌朝、都に発された告示は、数刻のうちに天の全域を驚きに染め上げた。
 その存在が明らかにされたばかりの闇の世界に、天の愛子が輿入れをする――正しく耳を疑う報せ。宮城の内も外も一時騒然となり、レイの元には事の詳細を求める者が絶えず訪れた。人払いを断って幾度も説明を重ねるうちに、初めは強い悲憤を見せていた天の兵や民たちも次第に気をやわらげ、戸惑いを残しながらも、飛び交う引き止めの言葉は遠い地での幸福を祈るものに変わっていった。
 各所に挨拶に回りながら、レイは半ば夢の中にいるような心地で過ごしていた。協約について、自分の今後について、天主たちと冥界の住人との間で協議が重ねられているのは知っていたが、時おり様子を伝え聞くのみで、事の中心まで踏み入ってはいない。黒の塔の住人たちの連名付きで渡された、呼びかけと興奮のほかにはほとんど内容もない短い私信だけが、その日が確かに来ることを語っていた。それすら、火にくべれば一瞬で消えてしまう、淡い幻のようなものでしかなかった。
 駆けるように過ぎた七日。
 その日も、澄んだ冬晴れの空が白の都を見下ろしていた。


      ◇


 天宮は朝から張り詰めた空気に包まれていた。
 肌をひりつかせるような緊張の中、交わされる声も音ひそめられて低く、せわしない靴音だけが廊下のそこここに響いている。
 主殿には天父を中心に複翼の天使たちと隠者エスタルディアが並び、その時を待っていた。レイもまた、今日は普段の末席ではなく、天使長の次の座に静かに立ち構えていた。これから何が起こるのか、どんな段取りのなか何が成されるのか、まるでわからなかった。訊ねようとも思わなかった。
 そうしてどれほどの時が過ぎた頃か、空白で満たされていた胸に、ひとつ、音が飛び入った。
 それを聞き馴染んだものとして捉えたレイに遅れ、三々五々、同胞たちの注意が天宮の外へと向けられていく。上方から天窓を通して届く遠い音は、天翔ける馬の蹄の音だった。その一瞬、確かにレイの目は冬空にたなびく蒼い焔を、影揺らす黒衣の騎手の姿を見ていた。
 妖馬の力によって隠すこともできるはずの風鳴りを、自身の存在を誇示するように空に響かせながら、まっすぐに蹄が宮城へと降下してくる。急命が走り、数人の衛士が上階に設えられた露台に向かって駆けていった。やがて蹄の音が絶え、次の間には幾つかの足音に変じた。天兵の長靴が慌ただしく行き交うのに混ざり、かつかつと規則正しく繰り出される靴音が、ゆるやかに確実に、主殿へと近付いてくる。
 ひたり、静寂が落ちた。一点に集まった視線に応えるようにゆっくりと開かれた扉の先、目を見張るほど鮮やかな黒が、異界の白の中に浮き出していた。
 悠揚の足取りで主殿の中央へ歩み来るその姿を、レイは言葉のひとつたりと浮かばない呆然の心地で見つめた。冥府の影は、常の簡略な細身の黒衣ではない盛装を身にまとっていた。一様の黒の上に精巧な刺繍のなされた、過ぎた華美を誇らぬながらも壮麗な衣裳。宙に融けてはまた立ち伸びる影を外套のように羽織り、服と同じ織りの長布を顔に斜掛けにして左の虚眼を隠している。歩を前へ進めるごとに、衣裳の銀糸と、同じ色の髪が揺れ、冬の薄陽に鋭い閃きを返した。男の元の典雅な容貌も重なり、それはまさしく光にあやどられた世界の対、深い闇抱く地の王の名にふさわしい出で立ちであった。
 冥府の影・ヴァルナードは、注がれる強い視線にも、張り詰めた広間の風にも、我が膝下を離れた異界の主の前にあるという事実にすら一切に気を止めていないかのごとき態度のまま、主殿の半ばに足を止め、儀の始まりを示す拝礼をした。
「今日ここで新たな議が立つのでないならば、余計な挨拶や前置きは不要と心得ている。冥界より協約の締結を成す使者として参殿した。伝え交わした文言に疑点がなければ、正式な締約の印を貰い受けたい」
 一切の飾りなく、朗と声落とす。
 その作法とも言えぬ作法に倣うようにして、主座からひそやかに伝が渡り、銀盤を手にした一人の天使長とエスタルディアが列から前に進み出た。
 エスタルディアの真言とともに、銀盤の上から円形の鏡が宙に浮かび上がる。応じて影の王の衣からも一枚の鏡が取り出され、かたや翼を彫り象った白石の板の、かたや一対の玉をはめた黒石の板の魔鏡が、面を合わせにして広間の高みに止まった。
 天使長が写しの書簡を開き、条約の全文を唱える。厳かな謳いは長くは響かず、その約定の簡潔を示した。
「――成約の承を」
 最後の問に、それぞれの地の言葉が承引を応える。二つの鏡の間に炎が巻き立ち、吸い込まれるようにして分かれ、鏡面を焦がした。誓文を焼きつけた魔鏡はまた音なく落下し、白の鏡がヴァルナードの手に、黒の鏡がエスタルディアの手に納まる。次いで天冥の王印の記された書簡が取り交わされ、双方の確認をもって儀は終えられた。
 速やかな交渉の了にひとまずの安堵が流れるが、困惑の風は晴れず、場に沈んで濃くうずくまった。
 先の戦に参じた兵たちを除けば、冥府の者を間近に目にした者など、主殿に集う複翼の中でもごくわずかに限られる。魔の深きに広がる闇の住み人に、忌まわしいものとしての想像を巡らせていた天の民にとって、高位の天使にも劣らぬ品格さえ備えたヴァルナードの物腰と風貌は、全く慮の外のものであるはずだった。
 まして、今日の儀はまだ終わりではなく――
「冥府の影と、名乗っていたか」
 沈滞の気を裂き、天主自らがその口火を切った。
「先の天魔の戦の折、冥界に落ちた我が子が世話を受けたと聞いた。あのような惨事の後、愛子に再びあいまみえたことは、我らの至上の慶びであった。天を統べる者として、まず礼を申し上げておこう。しかし――」
 今一度、確かめたい。厳然と、言葉が落ちる。
「我が末の四つ羽――レイシスを、貴殿のもとへ迎えたいという先の申し出、真なる心からのものと、受けて良いものだろうか?」
 声は深く明瞭に響き、場の全ての心に代わって問いを紡いだ。
 笑いを浮かべ、影が飄然と返す。
「冥府の住人がこの地の信を得がたいのは承知の上だが、正儀の場に偽りの依頼を持ち込む者はあちらでも稀な無作法の輩だと弁じておこう。本心でなければこのようなことを望んで口にしはしない。改めて願い出よう。四つ羽の天将を、貰い受けたい」
 無論、承諾を得られればだが、と、力持つ者の強請ではないことを重ねて語り、あとは徒に言葉を連ねず口を閉じた。眼帯に隠されていない右の瞳の漆黒が、揺らぎなく主座の天父を見据えている。
 ふっと、息の音がやわらかく沈黙を揺らし、
「幼い日から」
 ほつり、言葉がこぼれた。
「ものの枠にはまらぬ奔放な末子であったが……よもやこのような巣立ちを遂げるとは思ってもおらなんだ」
 声はごくゆるやかに、深い感慨を乗せて流れ、白の広間に淡い光を満たした。
「答えは出ている。初めの申し出の折、我が子が返した心に変わりはない。なれば、これより我らがどう力を言葉を尽くそうとも、あれの決断を揺らがせることはできない。都にも既に報せがなされた。意地ずくにそれを引きとどめることはない」
 だが、とひそやかに言葉が続く。
「あれは清廉なる天の灯火。我のみではない、天の全ての者のいとし子だ。最も重んずるべきはあれ自身の心と承知していて、あえて願いたい。もしあれが――レイが、かの闇の地で失意にさらされ、憂き生を送るようなことがあれば、我らは再び消えぬ悔いを得るだろう。……証が欲しい。我が子が遠い地で幸福の下に日を送り行けるなら、今この場にその誓言を願いたい」
 冥府の慣習には無きものかもしれないが、と結び、ヴァルナードを見る。
 レイは歩を進め口を入れかける自分を内に抑えた。父の心を胸に深く受け止め、唇を結んで立ち、次の言葉を待った。
 低く、影の声が渡る。
「『天のいとし子』の名は冥府にも届いている。その名が名ばかりのものではなく、真を語るものであることも、充分に知っている。確かにこのような場で言葉を広く証にする習いは、我々の旧風にはない。だがその心を解せず撥ねつけるほど、己を無恥とする理由もない」
 そこで一度息を区切り、ふっと、己の言葉に笑いを落とすようにする。
「冥府の『言葉』は腹を探る手のひとつだ。くどくどしい謂いは癖のようなもの。非礼は詫びよう。契りが必要ならば喜んで受ける。冥府であれば己の二つ名に誓うが確かだが、光の地においては影の名など信に値せぬだろう。無作法を承知で、天の分の謳いを借り受ける」
 最も確かな謳いを。静かに言葉を置き、影の王・ヴァルナードは誓言を唱えた。
「誓おう。これより久遠の日、四つ羽の天将が我が手のもとで辛苦を得ることはない。『天のいとし子』の翼が穢れない白であるのと同じだけ永久とわに――彼を愛すると」
 ごく簡明に、無骨にすら思われる響きをもって語られた言葉は、男の寄する闇を遠い相克となす光の間に、しんと、その深い真を謳った。
 続く弁も返す問いも要されなかった。静謐がひとつの誓いの成るを告げ、天冥の門の解放を告げた。
「その言葉、信じよう」
 白の間の主が応を返し、かくて幕は引かれた。


 協約について、それからまた少しの確認の議の間が持たれたが、レイはそのほとんどをどこか遠い世のものとして聞いていた。心は濃い霞の中にあり、目の前を過ぎる事物が身に沁み入らぬままただ佇んでいた。肩を叩かれてようやく我に返った頃には、主座の父も、儀に参加していた同胞たちの多くも、黒衣の影も広間を辞していた。
 あ、と声漏らし、肩に置かれた手を辿って兄の天軍長の顔を見上げる。ファラエルは何も語らず穏やかに笑み、また慌ただしい靴音が響き始めている廊下へとレイの背を押した。
 音なく消えた黒衣の影の姿は天宮の厩舎にあり、愛馬の様子を独り確かめていた。
 入り口へ背を見せている長身に向かって口を開きかけ、一度声なく閉じ、霞を落とすように首を振り立ててから、また開く。
「……やい」
 既にこちらに気が付いているだろう男に対して発されたのは、兄たちに聞かれたらまた眉をしかめられるであろう、そんなぞんざいな呼びかけひとつだった。
 黒毛の焔馬が先に首を上げて喜色の反応を示し、その興奮を鎮めるように鼻先を撫でてやってから、ゆっくりとヴァルナードが振り向く。口の端に常の笑いが差しているのを見、レイは身にこびりついていた緊張を息とともに吐き落とした。
「一人でうろちょろすんなよ。部屋用意されたろ。どっかに消えたって案内の奴が泡食ってた」
 戸枠に寄りかかったまま腕を組んで言うと、
「ただ部屋に座っているのも息が詰まるものでな」
 そう返る。いささかのすくみもない軽い声音に、よく言うよ、とこぼし、ゼルギオンが轡をはめているのを見て、外へ行く気なのかと訊ねた。
「せっかく異界の地に来たのだからな。世話の届いた厩だが、立っているだけでは暇だろう」
 言って焔馬の首を叩く。既に木戸を外しかけているヴァルナードに、仕方がねぇな、と呟いてレイは壁を離れた。視線を受け、問いのかかる前に自ら説明する。
「……衛兵じゃ手に余るから、明日までお前が責任もって世話しろって言われてんだよ」
「監視役か」
「そういうこと」
 笑い混じりの声にごまかしも交えず返す。
 締約の儀ののち、ヴァルナードは一日の間を置いて冥界へ帰還することとなった。それは協約の云々よりも、レイとその周囲に配慮しての決定であったのだろう。しかし一日限りとは言え、急の布告に過敏となっている都へ闇の地の住人がふらりと姿を見せれば、土産話に収まらぬ騒動が起こるのは想像に難くない。それを制するのは自分の当然の役目と天使長の言葉を受けたが、レイ自身、同じ地にあるとわかって知らぬ振りをするのも落ち着かず、その任は渡りに船のものとも言えた。
 黒の出で立ちは厩舎を出るだけでも人目につく。準備をととのえたヴァルナードに頼み、手綱をつけた焔馬の身ごと、天宮の裏手に転移をした。厄介を避けて案内できる場所を考え、隠者の住まう森に思い至る。向かう先の了解を得て鞍の後ろにまたがり、翔け上がった空の向こうに、ちらちらと粉雪が舞うのが見えた。
 手綱を取りながら半身を後ろに返し、ヴァルナードが言う。
「今日は雪遊びをしても止めんぞ」
「うるさい」
 弾くように声を投げ打ちながら、前に向き戻った男の背の間近さに目を移し、レイは寄せた翼の内にひそかな笑みを落とした。


      ◇


 裏に邪魔をしたいと言って訪ねた隠者から返ったのは、軽い了承の頷きひとつだった。ともするとあの知恵者は天の住人より冥府の住人に性質が近いのではないだろうかと苦笑を漏らしながら、森を抜け、高原へ向かう。常春の庭は天の大いなる変革も知らず、森の主の様にも似た涼やかな風に包まれ、さやさやと葉を揺らしていた。
 轡を外され揚々と駆けていくゼルギオンの背を眺めて、いつかの夜をまた思い起こしながら、今日は案内された側の男を振り返る。ヴァルナードは興深げに常緑の野を見渡し、短く感を述べた。
「いつの世も美しい地だな」
「……やっぱり来たことあったんだな。天界に」
 本や噂に伝え聞いていたとは言え、儀の折からの落ち着きようは、男の性格からだけでは語れぬほどのものがあった。漠然と抱いていた想像を改めて訊き確かめると、
「黒翼の協約の前、数度きりだがな」
 まだ天の都も今ほどの形を成していない頃だ、と肯定が返る。
「何のために?」
「一度目は将軍の付き合いだった。二度目からは暇に任せた気まぐれだ」
 その時分から『鳥』は虜囚として珍重される存在ではあったが、あえて暗黙の境界を越えようとする者もなく、深い地の力ある者だけが興を引かれて訪れるのがほとんどの例であったらしい。
 やがて禍が起き、協約をもって両界は完全に別たれた。
「今度のことで行き来が増えると思うか?」
 重ねて問うと、まずないだろう、と答えは早かった。
「天にとって冥界は忌避の地。確たる統制を持たない冥府の住人には、今度の協約もほとんど他所事のようなものだ。玉眼王の認めた禁令であるからには鎖をかけられる天使は減るだろうが、そのぶん往来の意味も薄くなる。元来互いに生きやすい地ではないからな。十年や二十年で今の状態が変わるとは思えん」
「そうか」
 思えば数千年のあいだ別たれていた地である。相反する世界が互いの根付く矩を越えて友好を築く方が奇妙な話ではあるのだろう。
「けどそれじゃ、なんか俺にしか意味のない協約みてぇだよな」
「構わんだろう」
 ぽつりと落とした呟きに、何か問題があるのか、とでも続かんばかりの言葉が重なる。レイは眉を寄せ、そう言うと思ったけどよ、とこぼした。
 確かに今度の協約の根は、鎮災を遂げた自分の功績に対する計らい、という経緯もあるにはある。とは言え、それがために行動していたわけではない。天命を越えた個の意志で戦に参じたのは、成した結果がどうあれ全くの己の勝手であったが、その後の協議と報いを予見するような打算があったわけでもない。
(……それでも)
 息漏らしつつ、思う。
 それでも、この結末を一切嬉しく思っていないと言えば、それは全くの嘘になる。
 天の草原に冥府の王と肩並べて歩いている今を、まだ自分は確かなものと捉えられていない。
 そうまで考えてから改めて傍らの男を眺め、周囲の画からひとつ浮き上がったその姿に、レイは思わず笑いをこぼした。顔がこちらを向くのに、
「やっぱりお前、花とか全然似合わねぇ」
 冥界の草原でも口にした感想を、再度投げつける。
 色づく花の咲きあふれる野の上、深い黒と銀を揺らす立ち姿は、全くの異質の様だった。
「つーか、なんでまたそんな格好で来たんだよ」
 盛装に巻いた影の外套を指に引き、言う。ヴァルナードは漆黒の眼でひとつ瞬きを返し、
「みすぼらしいなりで婚儀にのぞむわけにもいかんだろう」
 平然と言いのけた。
 ぽかんと間の抜けた表情を浮かばせるレイに、今度は相手の口から笑いが落ちた。
「婚儀って、おま」
「違うのか?」
 違うだろ、と勢い込んで返す。先の協議の折も、今日も、ヴァルナードが申し入れをし、自分と天の王がそれに了承を答えただけだ。いわゆる婚礼の儀などというものであるはずがない。
 だが――ヴァルナードをこの先自分を庇護する立場と捉えている多くの同胞たちにとって、その存在を見定めるためのものでもあった場は、それに等しく重大な式でもあったろう。今後この男が天の民を交えた公の場に立つ機会など、まずない。残す印象は今日の日に目にされたものが全てで、思惑通り、その颯爽とした出で立ちとふるまいは、強烈な影を宮殿に焼き付けた。儀の幕後いくらも経たぬうちに、城内のそこここで冥府の影の噂が言い交わされていたほどである。
 その中には無論のこと、
「お前がそんな大層なナリで来たら、俺が貧相な格好でいるみたいじゃねぇか。……おまけに、いきなりあんな誓約」
 天の流儀に准じて唱えた、厳粛な誓いの言に対する囁きもあった。
 あの瞬間、自分を含めた天の者たちをどれほど驚かせたのか、この男は知らないだろう。目付け役を任されたのは事実だが、そうした空気の中に残されて居たたまれずに外へ出たところに、偶然ヴァルナードの姿を見つけたというのが確かな経緯である。
「確かに大仰にはなったがな」
 眉を寄せるレイに笑い、だが、と続ける。
「偽りを述べたつもりはない。全て本心だ」
 さらりと言う、その言葉にすら力が宿っているのだから、
「……うん」
 あの誓言を、嘘と撥ねのけられようはずがない。
 力の抜けた身体のまま、ぽすんと草の上に腰を下ろす。
「なんか、あっさり終わっちまったな」
 葉ずれの囁きの中に声を転がすと、ヴァルナードが小首を傾げてみせた。
「俺は、夜まで喧々轟々とか、結局親父さんに勘当されて逃げるみてぇにして行くとか、結構覚悟してたんだけどな」
 蓋を開ければ議論の影もなく、静かな和議の中に事は過ぎた。高原に射す陽は天頂を傾き始めてまだ間もない。
「それでも冥界を選ぶというのは光栄なことだな」
 笑ってそう言うのに、ここまで来てやっぱりやめたなんてあるか、と返し、
「自分で決めたんだ。もしそれで親父や兄貴たちを、故郷を失うことになっても、翼を失うことになっても良かった」
 全部決めたから、戻った。強く言葉を結ぶ。
 そうかと短く応え、ヴァルナードはレイの隣に腰を下ろした。揺らめく影が草の薫りを散らし、指が翼を撫で梳く。
「すまなかったな」
 穏やかな風の間に、声が落ちた。
「……もういいって言っただろ」
「うやむやにするのもなんなのでな」
 冗談めかしたものでもない言葉にむずがゆさを覚え、また首を振った。
「だからいいって。俺もさんざん馬鹿なこと考えてたし。色々、教えられた」
 余計な口上を並べる代わりに、傍らに浮かぶ影をひょいと掴み眺める。
 深い闇色は何にも染まることはない。己の白も、かつて冥界に堕ちた天使のように、黒く染まることはもはやないだろう。男が冥府の力ある王であり、自分が天の小さな鳥である事実は、今もこれからも揺るがしようがない。我を他の一切から切り離すことなどできない。時に煩わしく、時に枷を成す事物のよすがこそが、己を己たらしめている。光は光であり続け、闇は闇であり続ける。その寄するところは遠く異なるものであり続ける。
 それでいい。
「羽さ」
「うん?」
「俺の羽、全部散っちまってなくて良かったな。もし散ってたら、お前の誓言、無効だろ」
 ああでも、向こうに戻ったら何かの弾みでまた散るかもな、と言うと、それは有り得んだろう、と断言が返る。
「言い切れんのかよ」
「言い切れる」
「凄ぇ自信だな」
 笑い、まあ、と続ける。
「お前がそう言うなら、俺も信じるよ」
 混ざり合い、染まり合うことのない白と黒。
 それでいい。
 何がその間に横たわろうと、この想いは確かなのだから。


        ◇


 天冥を繋ぐ門の前に集った人の数は予定より増えていたが、レイは一人一人に声をかけ、丁寧に別れの挨拶をして回った。
「レイシス様、どうかご健勝で……」
 涙混じりに言う副官に苦笑を漏らし、
「そんな大げさにされたんじゃ、俺、二度と戻ってこない奴みてぇだろ。今生の別れじゃねぇんだからさ。そりゃ随分遠くはなるけど、前みたいに完全に分かれてるわけじゃない。初めの一年はひと月に一回顔見せろって言われちったし、兵の稽古もつけにくるよ」
 だからそんなに泣くな、と額を小突く。それでもリュードの嗚咽は止まらず、なんとか言ってくれ、と呼びかけた兄ファラエルも隣で笑って首を振った。
 湿った別れはしないと決めていた。出立の宴も断って、都の住人たちには空から手を振るにとどめた。自分は陽の下に笑って行くのだと伝えたかった。
 自隊の兵と天使長たちを相手に他愛ない言葉を交わすうちに、別れを惜しむ時も尽き始めた。同胞たちの輪を離れ、後ろに並ぶ天父とエスタルディアの前に立つ。最後に残した場に、しかし改めて語る言葉を思いつかず、ただ天の長者二人の穏やかな目を見つめた。
「行くのだな」
 静かな父の声に、ああ、と頷く。口を幾度か開け閉めしてから、
「色々、世話かけてごめん。ありがとう。俺、元気でやるから」
 ただそれだけを告げ、そっとその身にすがった。幼い子どもにするように頭を撫でられ、ふと笑い合う。
「つつがなくな」
 短い祈りにもう一度頷きを返し、隣でひそやかに笑んでいるエスタルディアに目を向ける。いつもの臙脂の長衣にいつもの飄然とした顔を浮かべた隠者は、つと岩壁の扉を指差し、
「せめて苗が樹になるまでに一度、土産話を持って家に遊びにおいで」
 そう、いつもの声音で言った。
 幾本かの果樹や常緑樹とともに、生命の樹の苗木は天冥の門の傍らに植えられた。ただ生くるために生まれた樹は、地に深く根付き天へ自由に枝を伸ばして、世の在る限り門を護るだろうと、隠者は語った。
 指した手の先に黒の騎手の姿がある。それが出発の合図ともなった。
 逞しい焔馬の背にひとつ声をかけてから、ふわりと鞍に飛び乗る。手を上げて呼び交わす間に蹄は空に蹴り上がり、前に巨大な門扉を映した。
「いいのか?」
 翼を使って出発を追う者もなく、ただ地上から続く言葉を眼下に、短く問いがかかる。今日初めて交わすに近い言葉が気遣いのものであったことを笑いながら、レイはああ、と答えた。
「言い忘れたことがあったら、次に言う」
 行こう、と伝えた一瞬ののちには、扉がゆっくりと開き始めていた。光が深い闇に融け入り、歓送の声が遠く背の向こうに遠ざかっていった。
 数度の目瞬きの間にいくつもの夢を見たような気がした。大に小に哀しみと寂寞を抱く夢の全てが、幸福な目覚めを待っていた。

 ゼルギオンの背にまたがってまず向かったのは、冥府の王たちの住まいだった。三人の王と冥界の主に再会の言葉を受け、その飄逸なふるまいに天の流儀とは違う空気を感じながらも、レイは我が身のある場所をなかなか実感できなかった。
 最後に寄った彫像族のねぐらで仰天の後の賑やかな歓待を受けるあいだ、そっと異形の友人に心をこぼすと、
「ま、何日かすりゃァすとんと来るんじゃねぇか?」
 軽い言葉が返り、それきりになった。 
 夕暮れの中に黒壁の塔が浮かんでいる。確かな感慨があり、しかしそれを晴れやかにできないまま、レイはただじっとそれを見上げた。ゼルギオンを厩舎に帰らせ、朝から口少なな男の背を黙ってとぼとぼと追う。
 と。
 ついと顔の前に手が差し出され、足が止まった。そのままいるようにと指で示しながら、ヴァルナードは独りなんの言葉もなく、すたすたと前へ歩いていく。
 意図がまるで掴めずにぼうと立ち尽くしていると、門を内に抜けて数歩のところで歩みが止まり、黒衣が振り返った。赤い陽の下に影を揺らめかせて、男が両腕を広げた。
 レイ。静かに揺らぎなく、声が落ちる。

「――良く、帰った」

 心が融ける音を聞いた。頭で理解するよりも先に足が動いていた。全力で駆け、影の腕の中に飛び込んだ。
 涙が吹きこぼれていた。
「う、うぅ、う」
 胸に強く抱きすがり、嗚咽の下、かすれた声を紡ぐ。
「う、この馬鹿。か、勝手に、帰れとか、言いやがって」
「ああ」
「俺が、どんだけ……、う、あ、会いたかっ」
「ああ」
 その先はもう言葉にならなかった。ただ必死に、ただいま、とくり返した。
 塔の住人たちの歓呼の声が遠く聞こえていた。


      ◇


 つと手が伸びて頬に触れかかるのに、翼に包んだびくりと肩が揺れる。
 寝台がぎしりと軋みを立て、あ、と気まずく声を漏らす前に、小さな笑いが落ちた。
「そうまで固くなることはないだろう」
 愉快げに言う。どもりつつも努めて声を強め、しょうがないだろ、と返した。ひと月ぶりの共寝というだけではない照れと昂揚が、身の内にくすぶっている。娶るの伴侶だのと公に宣言したことをこの男は忘れているのではないかと、眉寄せてそっと顔を見上げた。眼帯を外して虚眼を露わにした端正な顔が、涼しげにこちらを見つめている。
「嫌か?」
「嫌、なわけじゃ、ない」
 訥々と呟く。
 早々に再会の宴を切り上げた塔の住人たちの余計な気遣いに内心で恨み言をこぼしつつ、それでも、本心を告げなければならない、と思う。
 その、と口ごもりながら、短い言葉を並べる。
「また会えて、帰らせてもらって、……ひと月ぶりに、こうして近くにいられて、触れられて。俺はその、結構、だいぶ、嬉しい」
 嬉しいから、困っている。余計に気恥ずかしい。
 またふっと笑みの息が鳴り、長い指に今度はしっかりと顎を取られ、唇が重なった。
 軽い口付けだけで鼻の奥がかすかに痛んでいる。情けないと翼をしおれさせて、それでもしぼむことのない想いにあたたかさを覚える。そっと抱き寄せられて素直に身を預けた腕の中に、ヴァル、と名を落とした。
「……久しぶりに呼ばれたな」
「久しぶりに呼んだよ」
 子が親を呼ぶよりもなお甘い声。泣きむせぶまでの快。深い哀しみと、それよりもさらに深い喜び。全て、この腕の中で知った。
「なあ。あの時お前が消した鎌の紋、またつけて欲しい」
 おもむろに言うと、怪訝の目がこちらを向いた。
「物でいたいっていうわけじゃねぇよ。けど冥界はやっぱり俺の血に馴染まない世界だし、また助けられることがあるかもしれない。それに」
 あれは黒と白の相容れないよすがを持つ自分たちの、繋がりの証であるような気がするから。
「――少し痛むぞ」
 レイの言葉にそれ以上の意を重ねず、短い忠告を置いてから、再び口付けが落とされた。
「ん……」
 小さく割れた唇の間から、異質の力が内に注ぎ込まれる。かすかな呪言の囁きのあと、鋭い痛みと痺れが右胸を貫いて声を漏らす間もなくすぐに散り、身を揺るがす熱に転じた。震える身体がそのまま寝具の上に倒れ、契約の口付けは情交のそれへと変わった。
 甘い熱に浮かされながら幾度も名を呼び、声を成さない想いを伝える。
 長い夜は幻に消えるものではなく、夢のあとには確かな塔の朝が来る。目覚めた瞬間にきっと身を襲うだろう照れをやり過ごしたら、まず窓を開けて、それからしっかりと伝えよう。闇深い、懐かしい地に。愛しい影に。
 もう一度、笑ってただいまと、告げよう。


       ○


 古きより天の下に地があり、地の下に魔がある。
 魔のさらに深きに闇があり、四相を以て世は巡り成す。
 昔日の禍は鎖を解かれ、門は開かれた。天冥の約は深き闇の地の王が天に残した誓いと共に、白翼の盟約と語られ、永劫の世に継がれた。
 天のいとし子と綽名される四つ羽の将は、やがて闇の住み人たちにその遇を知られ、闇の地の空を翔ける冥府の白翼、影の王の愛鳥まなどりとして名を広めるが、それはまた少し先の物語である。


Fin.

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