二.

 日は滔々と流れ、一歩ごとに秋の気配の深まりゆく中、三人の交誼もゆるやかに続いていた。
 初日の夜に言い交わした通り、木吉が二人の家を訪うこともあれば、逆に二人のほうが森までやってくることもあった。初めに大樹を根元から見上げた時にはその頭抜けた大きさにそろって目を丸くし、まさしくお前の樹だと言って笑っていた。
 会って間もないうちは三人で集まることがほとんどだったが、日向たちが今の暮らしに慣れ、それぞれで出歩く用が増えたらしいこともあってか、次第に一方ずつと顔を合わせる機会が多くなっていった。日向は森の奥に群生していた竹を弓矢の材料として気に入ったようで、一人こっそりと採りに来ていたのを見つけて以来(心底失敗したという顔をされたが)、木吉も手伝いや案内を含めてそれに付き合っている。その代わりに、というわけではないが、修練場への出入りの許可を得たような形になったため、暇を見つけて訪ねては、何が楽しいのかと呆れられながら、日向が弓を使うのを隣で見物した。木吉が顔を出すと決まってぶつくさと悪態をこぼす日向だが、一射、二射と演を進めるうちに己の手業と前の的だけを全てにして、周りに構わず黙々と弓を引き始める。そのただ一点だけを見据える、張り詰めた横顔を眺めるのが好きだった。
 行き会うごとに交わす話も少しずつ増えた。出会った当初も感じたことだが、土地の大神である木吉にも一切の遠慮や物怖じをしない言葉や態度は、新鮮な驚きとともに、次に何を言うのだろう、何をするのだろうと想像する(そして往々にしてそれに裏切られる)楽しみを与えてくれる。対照的とも言える互いの性格の違いは、興を呼び起こしこそすれ、決して相手への不満にはならなかった。顔では気なさげにしながら、こちらの話に真剣に耳を傾け、まっすぐに言葉を返してくる根の真面目さも好もしいと思えたし、歯に衣着せぬ物言いは会話を小気味よく弾ませ、退屈を感じる間を作らせない。芯から気が強いのかと思えば、実は多少腰の弱いところや小心なところもある、そんな一面を目にするたびに、(当人に言えばまたひとくさり文句を並べるに違いないが)容易に懐かぬ獣に少しずつ気を許されているようで、嬉しく感じた。
 新しい友人たちとの日々は、そうして鮮やかな感動と発見に満ちて過ぎ、あの夜湧き上がった奇妙な痛みはすぐに消え、巡る時間の中に忘れ去られていった。己を取り巻く全てに変わらぬ情をそそぎ、変わらぬ安らかな朝を迎え、夜を送った。
 たとえ欠けたものがあったとしてもそれに思い至らぬほど、幸福だった。



 日向たちとの出会いからおよそ二月が流れた頃、誠凛の地に嵐が訪れた。
 時節柄、前触れも備えもあったとは言え、激しい風雨はいつの日も暮らしをおびやかす災禍に繋がる。木吉は前日から危険と思われる地域を見て回り、いざ嵐の到来して過ぎ行くまでの二日のあいだは、獣や精霊たちの呼びかけに耳を澄ませ、方々へ手助けに参じていた。土地の者たちの尽力もあり、さすがにまったくの痛手なしとまではいかないものの、目を覆うほどの大過はどこもまぬがれたようだった。

 荒天明けての翌日も、朝から森の外を巡り歩いていた。一時の風雨は去り、前日までが嘘のように空の晴れ渡る穏やかな日だったが、目を下ろせば人家にも草木にも烈風による傷跡がなまなましく残り、水の引いていない場所もある。まだ気を抜いてしまうには早い時間だった。
 いくつかの村を見歩き、西の山側の地域へ至ってそろそろ午を迎えようかという頃、道の向こうに憶えのある後ろ姿を見つけた。あ、と思うと同時に名を呼びかける。
「日向!」
 白い着物の背が振り向き立ち止まる。駆け足に近付くと、よう、と挨拶の手が上がった。
「おはよう。すげー嵐だったなぁ。日向たちの家のほうは大丈夫だったか?」
「川の堤がやられそうでひやひやしたな。前の日に手を入れたお蔭でなんとか持ちこたえたけどよ」
 この三日、じかに顔を合わせてはいなかったが、それぞれの使いを通して状況は伝え合っていた。嵐の迫る中、日向と伊月の二人が森の南の地域を全面的に見ると言ってくれたのは、非常に心強い助けになった。
 今日は二人ではないのかと訊ねると、東の国境で大水が出たという話が流れてきたので、伊月はその様子を確かめに行ったらしい。
「そうか。空を飛べるとそういう時に助かるな」
「本当だよ。こちとら草履濡らして歩くだけでも骨なのによ」
 面倒臭げに言いながら、愛用の弓を弦を張った状態で携え、足には脚絆も着けているあたり、木吉と同じく後の見回りに出てくれていたのだろう。家からはもうだいぶ離れており、朝早くから出歩いているに違いない。相変わらずのひねくれた真面目さに笑いを漏らすと、何にやにやしてんだ、としかめっ面を向けられた。
 すまんと謝りながらも笑みはそのままだったが、日向はそれに険を深めるでなく、何やら憤りとも違う難しげな顔で見つめてくる。
「どうした?」
 問えば、いや、と一度言葉を考える間を置いて、
「……またご立派ななりだと思ってよ」
 そう言う。視線を追うように木吉は自分の出で立ちを見下ろし、その言わんとするところに気付いて苦笑を返した。三日間、風雨の中を休まず駆け回っていたせいで、着物から何からすっかり汚れくたびれてしまっているのだ。知らぬ者が見れば力有る神とはとても思うまい。揶揄ももっともである。
「その調子じゃ出ずっぱりだろ。着物ぐらい替えに戻れよ。なんのために小使いがいんだ」
「いや、みんなばたばたしちまってたから……。そのへんに構ってる暇がなくてな。まあ、今日の見回りが終わったらさすがに帰るさ」
「そうしろそうしろ」
 大神がんなみすぼらしくちゃ土地の人間が泣くわ、と言うのにひでぇなと笑って返しつつ、内心おやと首を傾げた。からかうように口の端を上げた日向の顔から、先の物言いたげな空気が消えていない。しかし、それ以上に言葉を続けてくる気配もない。
 ここ二十日ほどだろうか、何気ない会話の中にほんの時折、日向が今のように何か物思うような顔を見せたり、不意に態度を硬くさせたりといった、妙な反応を示す瞬間があるのに気付くようになった。交わす話の中身はそのたびごとに違い、長く尾を引くわけではない。あ、と一瞬の変化を感じる程度ということもあって、何がきっかけであるのかはわからないまま、理由も訊ねられずにいた。
「なあ、日向……」
「ならさっさと行こうぜ。のんびりしてたら陽が暮れちまう」
 問いの形に開いた口からこぼれた呼びかけと、促す声が重なる。日向はわざとこちらを遮ったわけではなかったようで、道に身を向け直しながら、何か言ったか、と首を傾げた。
「あ、いや」
 手を振る。曖昧な疑問より、今聞こえた言葉のほうが気になった。
「一緒に回ってくれるのか?」
 事の大小はどうあれ、普段何かしらの付き合いに誘う、あるいは付き合いを頼むのは主に木吉のほうで、日向からその手の提案をしてくるのは珍しい。確認の問いに、ん、と軽い首肯が返る。
「もう手分けするほどでもねぇだろ。どのみちこのへんまで来たら俺は顔が利かねぇから、色々めんどくせーわ」
「そうか。じゃあ行こう」
 簡単な答えにすぐ承知を返した。理由も頷けるものではあったが、ただ単純に、日向から声をかけてくれたこと、難儀な道をしばらく連れ立てることが嬉しかった。
「日向、それ新しく作った矢だろ? まだ竹そのままみたいな匂いがするな」
「あー、こいつは矢じりも木で作ったからあんまり自然の気が薄れてねーのかも……。って、お前んなことまでわかんのかよ。なんかやだな。あんま近寄るな、もうちょっと離れろ」
「ひでぇ」
 他愛ない言葉を交わし合いながら歩く。並び立った日向から感じる気はいつものように陽を帯びて温かく、数瞬前の空気の揺らぎは消えていた。


 それから共にいくつかの集落を訪れ、嵐の跡を確認して回った。目の及ぶ限り、話に聞く限りではいずれの場所も大事なく済んだようで、一番多く聞かれた懸念も、嵩増した川の流れを受けた橋の修繕、倒れた木々や人家の始末のほどといったあたりだった。伊月が向かった国境の大水も、幸い無人の野を浸したほどで終わったらしい。
 このぶんなら安心かと二人頷き合いかけたところに、報告を頼んでいた使いの鳥の一羽が翼を飛ばしてやってきた。
「……わかった。すぐに行く」
 肩に降りた鳥の報せに目を開き、頷き答える。
「どうした?」
「あっちで山肌が崩れかけてる場所があるらしい。人間が下から見るだけじゃ気付かんだろうから、教えてやらないと」
「そうか。っし、案内頼む」
 ひと声応えて飛び立つ鳥を追い、駆け足に道を進む。教えられたのはその場からいくらもない場所で、特別に人家が近いわけでもなく、あくまで念のための早足だった。――だが、三つの大曲りを過ぎ、林を抜けて山の斜面を正面に捉えた瞬間、それが一応の念で済まなくなったことに気付いた。
 あ、と声を漏らしたのはほぼ同時だった。木がこそげ落ちて剥き出しになった土肌の下に、二人の幼い人の子の姿があった。泥で遊んでいるのか地面に座り込み、頭上の異変に気付く様子はない。異変、そう、まさにその瞬間、山の一部が何かに揺り動かされるように身ぶるいをし、斜面に亀裂が入るのが見えた。

「おい! 崖から離れろ!」
 日向が声を張り上げて叫ぶが、まだ距離が遠く、子どもはこちらに目を向けもしない。亀裂がじわりと広がり、重たげに土を滑らせ始める。
(駄目だ。今から逃げても間に合わない)
 子どもの足では押し寄せる泥土の速さから逃れられない。しかも土の中には、風で折れた倒木が幾本も入り混じっている。あれが小さな身体の上に降り落ちでもしたら――
「日向! 先に行く!」
「なっ……馬鹿、よせっ!」
 かかる制止を振り払い、狼の姿に身を転じて、四つ足の全力で駆けた。子どもが驚いて少しでも遠ざかってくれればいい、そうも期待したが、こちらよりも先に物音で山の異変に気付いたらしい二人の子どもは、崖を見上げ、呆然と身を固めてしまった。
 連れて逃げるには遅い。だがこの速度なら二人と崖の間に身を滑り込ませることはできるはず。そう判断してさらに足を速めようと力を入れたその時、ひょう、と風を斬る音が上を抜けた。次いで、子どもの頭から半丈ほど登った土の上に、閃光が突き立つ。
「木吉!」
 呼びかけに顔を振り向かせる余裕はなかったが、それは確かに日向の放った声、日向の放った矢だった。さらに間を置かず、一本、二本と、崩れ落ちる泥土を遮るように、続けざまに斜面に刺さる。
(まだ竹そのまま――)
 まさしく天啓のように、途上での会話が頭の中に甦った。脚はゆるめず駆けさせるまま、腹に気を込め、叫ぶ。
 うぉう、と崖にぶつかって響き渡った低い咆哮は、森の王の意思を伝える言霊に転じ、かつてその懐にあった竹矢と木鏃が令に応え、根を張り、枝を伸ばす。たちまちのうちに斜面に立つ数十本の群林と化した竹に、土が激流を成して猛り寄せるのと、崖下に跳び込んだ木吉が二人の子どもを胸の下にかばい入れたのとは、ほとんど同時だった。絡み合う大竹のしなやかな幹と強靭な根に阻まれた土砂と木枝が、一瞬、勢いをゆるめる。その一瞬で充分だった。機を逃さず身を立て直して子どもの着物を咥え上げ、力の限りに横手へ跳躍した。
 目瞬きの間のあと、木も竹も何もかもを呑み込んで泥土が崩れ落ち、轟音が地面を打ち揺らした。



 その後はなかなかの騒ぎとなった。
 すぐに一番近くの集落から人が駆けつけてきて、まず崩れた崖の惨状に驚き、次にひょこりと現れた木吉の姿に驚き、さらにその腕に抱えられている子どもに驚いた。話を交わすうちにさらにひとつ隣の村から子どもの母親が半狂乱の体でやって来て、子どもを叱り泣きわめきながら、ひれ伏さんばかりの様子で木吉に頭を下げた。それをどうにかなだめて帰してから、男衆と後の始末について相談し、しばらくは山へ近付かないことと言い含め、ぜひ村で礼をと手を引かれるのをやっと断って場を後にした頃には、既に陽が傾きかけていた。
「つ、疲れた……」
「よー、終わったか」
 初めから輪に入らず遠巻きに立っていた日向が、歩き出した木吉にようやく近付いてくる。
「ひでーよ日向。さっさと逃げちまってさ」
「やー、俺も自分からあの中に入る根性はなかったわ」
 すげーな人間、特におばさん、と呟くのに苦笑を返す。
「まあ、慕ってくれてるんだから悪い気はしないけどな。ちょっと勢いがあり過ぎて……。けど日向、ありがとな。助かった」
 本当はお前が礼を言われるべきだったのに、と言うと、あーいいいい、と軽い調子で手を振られた。
「あれも結局お前の力が当てだったしな。考えてみりゃ流れてきた枝とかでもできたかもしれねぇし、大したことじゃない」
「んー、でもな……」
 改めてあの一瞬を振り返れば、自らそうと図ったこととは言え、いささか信じがたいような結果だった。確かに自分には草木に働きかけ操る力があるが、ああまでの急激な成長を呼び起こすほどのものではない。もしそれが自在にできたなら、日向の言った通り初めから倒木を壁にしただろう。できないと知っているからあえて余分な力を使いはしなかったのだ。
 だがあの時、日向の声を聞き、矢を目にした瞬間。正確には――矢に宿る力を感じ取った瞬間、それができると確信したのだ。そして確かに果たされた。あれは木吉の力ではなく、日向の力によって成されたものだった。
 そのことを伝えようと口を開く前に、つーか、と日向がやや険帯びた声をこぼした。
「お前、人が止めんの聞きゃしねぇし。いくらそのでけぇナリでも、あの土だの木だのを喰らって無傷で済むわけねぇだろ。完全に捨て身で飛び込んでどうするつもりだったんだ」
「いやぁ……咄嗟でな」
 痛いところを突かれて頭をかく。実際、何かの算段があったわけではないので、これといった弁明もできなかった。子どもを助けなければ、ただその一心だった。
「けどまだ耐えきれると思ったし、あのまま放っておいたら最悪子どもが潰されちまってたかもしれないだろ?」
「そりゃそうだけどよ」
 ほかに仕方なかったのはわかってんだよ、と眉根を寄せて言う。
「じゃあどうするべきだったかだの、どっちがマシだっただの、そういうことを議論したいんじゃねぇ。俺が言いたいのは、ちったあ別のことも考えろってことだよ」
「別のこと?」
 言葉を反復し、正面を向いたままの横顔を見つめる。きつく寄せた眉はしばらく明らかな不興をにじませていたが、木吉がどう言葉を返すべきか考えあぐねているうちに、ふっと前触れなくその深い皺を解いた。
「……わかんねぇなら、いいよ」
 落とした言葉とともに、不機嫌の色も消える。代わりに宿った気配に、木吉はあ、と声漏らしかけた。
(また、だ)
 ふいとそらされた横顔に浮かんだのは、今日の初めに近況を言い交わした時のものと同じ――よりはっきりとした物思いの表情だった。憤りと虚しさが入り混じったような、どこか心ここにあらずの色を浮かばせる瞳。唇は何か言いたげに形を歪ませたまま、きつく引き結ばれている。
(……こんな顔させたいんじゃないのにな)
 呆れられてでもからかわれてでも構わないから、笑っていてほしい。そんな遠くを見ていないで、こちらを向いて笑いかけてほしい。
 じわり、胸底に熱が広がる。波立ち始めた鈍い痛みを掌の下に押し込めて、焦燥のまま、口を開いた。
「日向。俺な、皆を守れることが嬉しいんだ」
 横を行く足がぴたりと立ち止まり、顔がこちらを見上げた。それに背を押されるように、言葉を続ける。
「助けたやつが喜んだり、嬉しそうに笑って礼を言ってくれたりするのを見ると、本当に良かったなって思う。それで皆が頼ってくれて、色々話を聞かせてくれたりして……この土地の護神でいられて本当に良かったと、思うんだ」
 幾百年、そうした喜びとともに在ってきた。誰かの顔を曇らせるような憂いなどない。それを伝えたいと、まっすぐに注がれる目を見つめ返し、言い募る。
「初めに会った時に言ってくれたろ? お前にはそうしてやれる力があるんだ、って。俺、すげー嬉しかったから」
 あの日にくれた叱咤と励ましは忘れない。今も心から感謝している。
(だから、お前も笑ってくれ)

 半ば祈るようにして唱えた言葉に、しかし望んだ笑みは返らなかった。浮かんだのは、憤りでもなく、憂いでもなく、揶揄でもなく、ただただ呆気にとられたような驚きの表情だった。
「俺は、そんな……」
 ぽつりと落ちた声は続きを鳴らすことなく消え、戸惑いだけがその上に残る。思わぬ反応に、ええと、と言葉を探した。
「もっと力があったら、嵐そのものを退けたりできるのかもしれないけどなー。それはさすがに無理だからな」
 笑って大仰に頭をかいてみせると、一瞬の間を呑み込むような表情の変化のあと、たりめーだろ、とやっと掛け合いになる言葉が返った。
「んなもん、そこらの天帝の域じゃねぇか」
「そこらのって、天帝は一人しかいないだろ?」
「言葉のあやだっつーの」
 言いながら止まっていた足を再び前へ動かし始めた日向を追い、隣に並び直す。笑みこそ見られなかったが、いつもと変わらぬやり取りの空気が間に戻ってきたようだった。ぽつりぽつり、なんでもない言葉を交わしながら、次の村へ向かって歩く。

 日向の初めの印象は、それまでに付き合ってきた人や獣に対して、「少し変わっていてわかりづらい」だった。そのうちに、すげない言葉とは裏腹の気遣いや優しさ、表情や声音にはっきりと表れる心根の素直さを知り、「わかりづらいようでわかりやすい」に変わった。気難しいところはあるが、いつでもまっすぐにものを言うので、意外と付き合いやすい、とも思えた。
 だが今また、その印象が変わり始めてしまった。わかりづらい、どころか、「わからない」と思うことが増えた。
『……わかんねぇなら、いいよ』
 それは、文字通りに「構わない」ということではないだろう。確かに答えがあるはずの、軽い声ひとつで終わるものではないだろうはずのそれを、しかし日向は木吉に語り教えることなく、自らの中に封じ込めてしまった。
(俺はまだ、日向の本当の言葉を教えてもらってないのかもしれない)
 ふとよぎった己の心中の言葉に、思いがけず大きな動揺を覚えた。じわり、熱が胸の底を苛む。身が内側から軋みを立てる。
 嫌われてはいないと思う。初めよりずっと親しみを深められているとも思う。打ち解けて、気安い友人になれたと思う。
 けど、それじゃ、それだけじゃ――


「日向」
 二つの村を見回り、鳥の報告を聞いて、今日はもう心配ない、と夕暮れの中に帰路を考え始めたところで、木吉は言葉を切り出した。
「今日は付き合ってくれてありがとな。ここから日向の家まで帰ると遅くなるだろうから、良ければ今夜は俺のとこに寄ってかないか?」
 ごく何気なく、誘いを口に乗せる。どうしてか、己でも言葉にならない胸の内の熱を、知られてはいけないような気がした。
「あー……」
 日向は後ろ首を抱えて考える素振りをし、
「いや、今日はやめとくわ。もう一度うちの周りも見ておきてぇし、もうすぐ伊月も帰ってくるだろうし」
 悪いな、と言って自分の家の方角を見やる。木吉はなお重ねかけた誘いの言葉を呑み込み、頷いた。
「そうか、残念だけど仕方ないな。また遊びに来てくれ」
「ああ」
 自然な答えを返しながら、木吉は自分の浮かべる笑みが強いて作ったものであることに気付いていた。にやにやしてんなよ、と揶揄されるいつもの顔ができなかった。
 そのまま岐路に差しかかり、それじゃ、と手を振って別れる。いい加減に湯でも浴びて寝ろ、もう流れの浪人よりひでぇぞ、と茶化すように言った日向の粗野な気遣いを温かく受け取り、去っていく背を見送りながら、軋む胸を押さえる。
 自分にも彼にも、帰る家がある。それは別の空の下にあって、別の風の中にあって、手を振り別れてしまえば、もう互いの領分が重なり合うことはない。あの小気味よい声を聞くこともないし、悪戯めいた笑みを向けられることもないし、陽だまりに包まれるような、あたたかな気を傍らに感じることもない。
 そんなごく当たり前のことが、ひどくひどく、心惜しかった。





 不可思議な幽玄の世界にいた。
 まどろみにたゆたう意識をたぐり寄せ、ゆっくりと目蓋を開く。白の空、白の大地、見渡す限りの無辺の空間。一切の風も、一切の音もない。起きながらにして覗く夢の景。
 宙へ寝そべっていた身をよじり、雲海のごとき広野に降り立つ。ひと渡り辺りを見回し、足を進める前に、頭上から声が降った。

 ――誠凛の神樹よ。

 風が巻き、大気を震わせる。肌に痺れの走るような、深遠なる力の宿る言葉。遥か昔、護神としての役を得た頃に一度だけ、聞いたことがあった。
「……天帝か?」
 問いにうべなう影も見せず、ただ声が続く。

 ――数百の月の巡りののち、世を分かつ災厄が訪れるだろう。

 断然と落とされた言葉に、神託か、と無意識に身構えた。天の高みから気まぐれに渡される、慈悲なき平らかな予言。
「むごい話になるなら聞かねーぞ」
 超越者であり、世を統べる存在ではない。その予見は何もかも絶対のものとして示される言葉ではなく、受け入れるのか、抗うのか、全ては地に生きる者に委ねられる。
 撥ね付けるような木吉の言葉に、しかし無論、応えはない。

 ――これよりも己が地の守護を望むならば、光を得よ。

「……光?」
 宣された言葉をくり返し、ふと間の揺らぎを感じて前へ向けた視線の先で、霞の幕に映るように、ぼやり、幻視の影が浮かんだ。
 短く跳ねる黒髪。まっすぐに伸びた白の着物の背。見間違えようもない、その凛とした立ち姿。
「日向っ?」
 幻と知りながら思わず声を上げ、名を呼ぶ。狩衣の背はこちらへ振り向くことなく、ただ前を見ている。

 ――命の芽は光のもとに伸び育ち、さらなる力を得る。

 続く宣託を片耳に聞きながら、木吉はじっと前の幻を見つめていた。やがて何かに気付いたように黒髪の頭が動き、傍らを見るようにする。その遠い横顔がかすかに頷き、目を細めて穏やかに笑った。
 どくり、胸底の血が波立つ。じっと目を凝らすが、その傍らにある「何か」が、彼の笑みを受ける「誰か」が、わからない。ひりつく喉を開く間も与えず、無情の声が続く。

 ――共に主たる柱として立ち、生まれくる若き神々を導き、無垢なる地を支え、禍に備えよ。 

「柱……主神ってことか? 俺と、――」
 こぼれかける声を呑む。名を唱える代わりに、夢想を描く。かの人の幻の傍らに、今ひとつの幻影を立ち添わせる。
 白の世界に浮かび上がるふたつの影を遠く眺める心が、そうか、と得心を呟いた。霧が晴れるように明らかにされた答えが掌の上に転げ、至高の宣託と入り混じり、甘く胸を誘う。
 もしそれが叶ったのなら。彼と共に、護ることができたなら。
 あの眩くも優しい陽の輝き。深い安らぎと胸騒ぐほどの力を与えてくれる貴き光。
(……きっとできる。日向と二人なら)
 崩れゆく白の世界に意識を委ねながら、手にした答えとともに、明日への決意を固く握り締める。
 指の間からこぼれ落ち、霞の中へ紛れた己の心のかけらには、まだ気付かぬまま。



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