三.
朝霧を裂いて、光が走る。
満ちる静けさを身に溶かしたような、泰然たる所作。番え、引き、放つ、呼吸とともに手指に習い込ませた、一分の無駄もなくくり返される静と動。明け初めの陽を受けて立つ背に、ただじっと見入る。
三本の矢が的の正鵠を抜き、次いで四本目の矢に伸びかけた指が、矢筒の上でひたり、止まる。弓がゆっくりと体側に下ろされ、声が落ちた。
「んな朝っぱらからなんの用だよ」
来たんなら声かけろって言ってるだろ、と半身を振り向けて言う。
「すまん」
形ばかりの文句と形ばかりの謝罪。お前らも飽きないね、と横で苦笑されるまでに至った挨拶代わりのいつものやり取り。が、何か異なるものを感じ取ったのだろうか、常ならそれから悪態をひとつこぼしてすぐ的に向き戻ってしまう日向が、わずかな怪訝をよぎらせ、こちらへ両足を返した。
「……なんだよ」
戸惑いのにじむ声。よほど妙な顔に映っているのだろうか。だが鏡を覗いて確かめることも、気遣っていつもの表情を作ることも今はできない。自分が思い描いたよりもはるかに気がうわずっていた。
「話があって来たんだ」
言えば、ぱたり、目瞬きが返る。怪訝がそれを超えて驚きに変わったのだろう反応に、無理もないな、と木吉は他人事のように笑いの衝動を噛み潰した。そんなことを今更に断る仲ではない。浅きにも、深きにも。
おもむろに足を進め、一歩、二歩と近付く。一瞬、後ろへ下がりかけた日向の足が、思い直したようにすんでで止まるのが見えた。
「日向」
正面に向き合い、名を呼ぶ。こちらを見上げる目は明らかな困惑を示していた。薄く開いたままの口は言うべき葉を見つけかねているようで、普段の悪態もこぼれ出てはこなかった。
そっと腕を伸べ、弓を持たない右の手を取り、胸の前まで引き上げて諸手に包む。弓懸(ゆがけ)の上からでも指がびくりと跳ね動くのが分かったが、構わず強く握り込み、深く吸った息を声に転じた。
「日向――俺と一緒になってくれないか?」
見下ろす目がさらに丸く見開かれ、開いたままの口が大きく「あ」の形に固まる。弓懸の布越しに触れる指がじわりと熱を持ったように感じた。
「は? ……は?」
問い返す言葉さえ満足にまとまらないようで、間の抜けた一音だけが疑問調子に返る。
ああこれは全く言葉が足りていない、と自分でもわかっていたが、気ばかりが先んじて、整然とした説明が出てこなかった。元より、今の木吉の胸の中には整然と語れる言葉などなかった。それはともすると発作に近い衝動であり、想いでしかなかった。それは、ただ答えばかりの答えだった。
「お前、何……、え? 一緒に、って、どういう……」
不明瞭な言葉とともに視線が揺らぎ、また足が引きかけ離れていこうとするのを、させてはならじ、と手に力を込めて止める。こちらを見上げ直した顔はぎこちなくこわばり、普段はほとんど常にと言っていいほど吊り上がり皺を刻んでいる眉が、頼りなげに八の字を描いている。ああこんな顔もするのか、と場違いな感動じみたものを覚えた。
その顔を見下ろしてまっすぐに目を合わせ、言う。
「俺と一緒に、誠凛の主神になってほしいんだ」
「主神? 俺が?」
唖然と問いが返るのに頷けば、瞳の中に当惑が宿る。
「主神はお前だろ。もう充分じゃねぇか」
「俺はまだ主神じゃない」
確かに、ほとんどそれに近い立場ではあった。この若い神域に名のある神として在ってきたのが己だけであったから、必然的にそうとみなされていた。だが、土地の主として正統な誓いを立てたわけでも、契りを宣したわけでもない。それでも事足りていた。
「争いのない静かな土地だから、このままでいいとも思ってた。けどこの先、新しい神霊が生まれて、人も増えて、誰かが何かをまとめていくことが必要になった時……日向となら、できると思ったんだ」
この手が背を叩いてくれるなら。強い瞳が見つめていてくれるなら。粗野な言葉の中に隠した優しさで照らしてくれるなら。
この存在が、ずっと傍らにあるなら――
騒ぐ胸を抑え込むようにしてゆっくりと紡いだ言葉にも、日向はまだ表情をゆるめなかった。
「俺はそんな大層な神じゃねぇよ」
「そんなことないさ。日向の力は俺が知ってる。強くて、優しい力だ。頼む、森に来て主神になってくれ」
「森……」
「ああ」
統べる者が住まうなら、やはりこの地においては神域の核たる大樹の森をおいてほかにない。何やかやと言いつつ日向は森を居心地良く思ってくれているようだったし、木吉も自分以外の神霊が暮らすのは歓迎だった。朝目が覚めて一番に、我が森の中にあたたかな陽光の力を感じ取ることができたとしたら、それはとても幸福なことであるように思えた。
頼む、とくり返し唱えるが、日向はじっと考え込む表情を浮かべたまま、首を振るそぶりも頷くそぶりも見せない。本当に嫌なことはすぐさま嫌だと一刀両断にし、そうでなければ息をつきつつも仕方ねぇなと妥協を示すことの多い彼にしては、少し珍しい反応と言えた。
野の獣たちであれば、里の純朴な人間たちであれば、言葉を持たない森の草木でさえ、根気よく眺め見守り続ければ彼らの心根を知ることができた。だが、これほど近くに立ち、手を触れ合わせていてさえも、自分と同じ存在であるはずの日向の心を見出し、掴むことができない。
じわりと熱が身を昇る。不意に、答えが返らない息苦しい沈黙を、あるいは――答えを返さない日向自身を、なぜ、どうしてと責め詰ってしまいたい衝動が胸に湧き上がり、木吉は己の心に激しい動揺を覚えた。これほどまでに思い乱れたことが、かつてあったろうか?
「――ゆうべ、天帝の神託があった」
焦燥が口を開かせる。はやる胸に突き動かされるまま、言葉が思考を通さずに、ただ説くに足る論拠だけを求めてこぼれ落ちていく。
「これからも誠凛の地を守っていこうと思うなら、二人で主神として立つように……そうすればより強い力を得ることができると、そう言ってた。天帝の言葉は絶対じゃあないが、間違いじゃないと思った。昨日子どもを助けた時、俺も同じようなことを感じてた」
自然そのもの、命そのものである木吉の力と、生ける者たちに活力を与える日向の力は、理屈だけを鑑みてもおそらく非常に相性が良い。そして事実、昨日の自分はそれによって助けられた。
「日向は俺に力をくれる。二人でなら、きっともっと沢山のものを守れる。だから」
だから、一緒に。そう続けかけた声は、低い音で紡がれた言葉に遮られ、口の中に消えた。
「それで、その力でまた身を削ってこの土地を守ろうってか?」
問いの形にしてはいるが、目を下にそらし、こちらを窺いもせずに落としたそれは、ほとんど独白のようであった。驚くほど一本調子の、冷たい声音だった。
「いきなり何言い出すかと思えば、……そうだよな。お前はそういうやつだ」
冷笑混じりの言葉のあと、ぎ、と歯を噛む音が聞こえる。前に握っていた手が強く振り払われ、目が再びこちらを見上げる。木吉は手を戻せず宙に浮かせたまま、瞠目してそれを見つめ返した。困惑を消した瞳が語っていたのは、内に抑えきれず漏れ出したような、激しい怒りの情だった。
「他を当たれ。俺はお断りだ」
きっぱりと放たれる声。
「力のない土地の護神への同情だかなんだか知らねぇが、そんな神託ひとつでてめぇの満足に付き合わされるなんざごめんだ」
「違……俺は、そんなつもりで」
「だいたい、お前はっ」
挟みかけた否定が激昂に遮られる。弓を握る手が込められた力の大きさに白く震えていた。
「最初から、気に入らなかったんだ。いつも強引で、馬鹿のつくお人好しで、周りのことばっか考えてやがるくせに、なんの遠慮もなしに人の心にずかずか入り込んでくるくせに、いざって時はこっちの話なんてひとつも聞きやしねぇ。いつも一人で勝手に決めて、何があってもへらへら笑って流して。てめぇだって本当はっ……」
並べ立てられた言葉の最後は音にされずに消え、一瞬の沈黙のあと、俯けた口からただひとこと平坦に、出ていけ、と声が落ちた。
「日向、話を聞いてくれ」
「るせぇっ、出ていけっつってんだ! もう来るな。もう、俺に構うな……!」
差し伸べかけた手がもう一度叩き払われ、足が返り、背を向けられる。全身が激しい拒絶を示していた。木吉は数度口を開き閉じしてかけるべき言葉を探したが、今はどう弁を尽くしても、その頑なな殻を打ち破ることができないとひしひしと感じられた。
怒鳴られたことは何度もあった。些細な口論をしたこともあった。だが、これほどまでの激しい怒りを向けられたことはなかった。全てを断ち切るように拒まれたことはなかった。たった数歩の距離にあるその背が、ひどく、遠かった。
「……すまん。今日は、帰るから。また……話させてくれ」
ほんの少しでも振り向き頷いてくれないものか、いつものように仕方ないと見送ってくれないものか。そう最後の期待とともに見つめる背は、かすかにも動きを示さなかった。俯けた顔が地面を見ているばかりだった。
じゃあ、と言ってきびすを返し、表へ向かってのろのろと足を進める。行きに自分がどんな足取りをしていたか、どんな顔をしていたか、思い出すことができなかった。確かに手にしたはずの答えが、いつの間にか千々に砕けて形を失っていた。
「あれ、木吉、来てたのか」
家の前に出たところで、竹籠を抱えた伊月とすれ違った。
「これから朝飯にするけど、寄ってく?」
「いや」
今朝はもう帰るから、と首を振ると、何かを感じ取ったのか、喧嘩でもしたか、と少し眉をひそめて訊ねてくる。
「ああ……すまん、ちょっと怒らせちまった」
「そっか。あいつも気が短いとこがあるからなぁ。まあ、明日にでもまた謝りに来なよ。その頃にはほとぼりも冷めてるだろうし」
「そうする」
頷きながらも、胸の内の影を拭い落とせずにいた。今日の日向の怒りは、伊月の言うような一時の激情だけではないように見えた。長くふつふつと溜め込んでいた心が、何かをきっかけに外へあふれ出したもののように見えた。
(その「何か」が、きっと日向が俺に教えてくれない「何か」だ)
それは薄々と感じるのに、一番肝心な部分は濃い霞の向こうにあって、ぼんやりとした形すら見えてこない。
重い足を引きずって森へと歩く。何度となく通ったいつもの帰路が、まるで知らない道のように感じられた。
明くる日、急く心を説き伏せ、朝の仕事の終わった頃合を見計らって日向の家へ出向くと、表で再び伊月に出会った。どうやら木吉が来るのを待っていたものらしく、おはよう、と軽く手を上げ呼びかけてくる。
「おはよう伊月。日向は中にいるか?」
「中にはいるけど……岩戸になっちゃってさ」
「え?」
首を傾げると、説明の代わりに戸を指差し、開けるよう仕草で促してくる。なんだろうかと訝しみながら頷き、家へ向き直って、日向、とひと声呼びかけてから戸板に指をかける。ぐっと横に引こうとした手が思わぬ抵抗を受けて止まった。動かなかった。
え、と声漏らして手を木枠に置いたままでいると、突然、指先に熱が走った。
「つっ」
反射的に腕を引く。隣で伊月がやっぱり駄目か、とこぼした。
「朝食の時までは普通に出入りしてたんだけど……お前が歩いてくるのが見えたら、急に中にこもって今のありさま」
俺も追い出された、と語る。
「ゆうべ熱心に結界の札なんか作ってるから、なんだろうとは思ってたんだけど。……一体どんな喧嘩したんだ?」
問いに答えることもできず、赤くなった指先を呆然と見る。怒鳴り飛ばされるのも、拳を振りかざされるのも覚悟していた。だが、初めから向き合うことすら許されないとまでは思わなかった。
「日向、頼む。顔だけでも見せてくれ」
すがるようにもう一度呼びかける。一瞬の間を置いて、ばん、と何かが戸の内側に跳ね返る音がし、それきりまた沈黙が落ちた。伊月が息をつく。
「この調子じゃ、もう今日は無理だろうな」
「……ああ」
この程度の結界なら、力まかせに破ることはできる。だがそうしたところで同じだった。結界などなくとも二人のあいだの戸は固く閉め切られている。
「また、来る」
ひとつ声落とし、気遣わしげな伊月の呼びかけに手を振って、道へきびすを返した。
秋らしからぬ濁った曇天が、頭上に重苦しく浮かんでいる。
翌日もその翌日も、閉ざされた戸はぴくりとも動かず、晴れぬ空の色そのままに木吉の心を重く沈ませた。ほんの一間ばかり向こうにあるはずのあたたかな陽光の力さえ微塵も感じ取ることができず、愕然としてその日その日を過ごし三日目、戸の前に立ち尽くす木吉を、隣の自分の家の表から伊月が手招き呼んだ。
「何があったのかはお前たちの問題だから訊かないけど……ここまでだと、少し来ないでいたほうがいいんじゃないかな。あんまり陽が翳ったままも良くないし」
「え?」
どういうことかと訊ねると、ここ何日かの天気は日向の力と感情の影響によるものだと説明された。
「朝から晩までああやって膝抱えてこもってるから、このあたりだけ陽が出ないんだよ。もちろんわざとやってるんじゃないんだけどさ。本人もどうしようもないらしいから」
「……そんなに怒らせてるんだな」
消沈の声を落とすと、んー、と首をひねられる。
「なんか、今ひとつ噛み合ってないよな、今回」
普段の口論での噛み合わなさとはまた違って、と言う。頷き、正直に告げた。
「なんで怒らせたのか、わからないんだ」
「あー……、それはちょっと根が深いな。いつものボケでってわけでもなさそうだし」
理由のわからないまま謝罪したところで、日向はさらに腹立ちをつのらせるだけだろう。だがいくら頭を悩ませ考えても答えに行き着かないのだ。だから、こうして日ごと訪うしか術がない。
「ならなおさら、お互いに少し距離を置いてみたほうがいいんじゃないか。日向もただ怒ってるって言うよりは、色々考え込んでるっぽいし。本当に怒ってるだけなら曇りどころかもっと荒れてるよ」
「……そうかもしれないな」
頷きつつ、じわり、身の内に熱が広がるのを感じる。胸元を押さえる仕草にどうかした、と問われ、声落とした。
「伊月は、日向のこと良く知ってるんだな。ずっと一緒にいて、わかり合えてて、羨ましい」
何気なく独りごちたような言葉に、伊月はきょとんとした顔でこちらを見つめてきた。ぱちり、形良い切れ長の目が驚きの色とともに瞬く。
「伊月?」
反対に問いかけると、いや、と首を振り、
「お前もそんなこと言うんだなって思って。……今の、日向に聞かせてやりたかった」
そう言う。言葉の意味を受け切れずに首を傾げたが、伊月はそれ以上の説明を足すことなく笑っただけだった。
何かあれば報せるからと約束してくれた伊月に礼を告げて、二人の家を後にする。昼から外で用事があったので直接そちらへ出向き、森へ帰ってきたのは夜も更けた頃だった。
もうすることもない、と寝所の戸を開けて、しばしその場に立ち尽くす。
「……こんなに広かったっけな」
大樹のふもとに建てられた本殿は、客の訪れる拝殿と異なり、ほとんど寝食の用事にしか使われない。それゆえもともと簡素に造ったはずの見慣れた部屋が、奇妙に広く空虚に感じられた。
今までこの部屋でどう過ごしていただろう、とぼんやり考える。今日の用事が確かに済んだのを確認して、寝支度をしながら、次の日のことを思う。しなければならないこと、しておいたほうがいいこと、したいこと。種々に思い浮かべては消しながら、森に生きる命の息吹を感じて、穏やかな心地で目を閉じる。幾百年変わらず続けたそんな習慣が、色を失ってしまっていた。
明日何があり、何をしたとしても、その中に彼の姿はないのだ。
今までも約束をしたことなどほとんどなかった。それでも、明日会えるかもしれない、今日会えるかもしれない、と思うことはできた。今夜はそれすら叶わない。きっと次も、その次も。
熱が騒ぐ。形にできず胸の奥底に溜まった心がじわりじわりと澱んでいく。矢も盾もたまらず足を巡らせ、寝所の戸を開け放ったまま外へ飛び出した。まろぶように獣の姿に身を転じ、駆け、跳ぶ。我が神樹の大枝に登り、喉を大きく反らせて、雲立ち込める夜の空へ、叫んだ。
闇を震わせる咆哮を聞きつけた土地の人間たちは、みな一様に目を見合わせた。このふた月というもの、その声は誠凛の里から失われていた。かの神は百年の習いを忘れてしまったのだろうか、と言い交わす者も出始めていた。
数十日ぶりの神狼の遠吠えは長く長く続き、その夜ばかりでなく、ふた月前にも数増して、それから毎夜、森の高みに響くようになった。
◇
二十日という日を、木吉は漠として過ごした。
五日目から雲間に覗いた太陽は日向が家の戸を開いたことを教えたが、会いに行けばまた閉ざされてしまうとわかっていたから、森の南西の道へ足を向けることもなかった。
陽のあるあいだは強いて用事を詰めてそれに没頭し、夜は明日のことだけを思おうとした。だがそのたびごとにちらつく影が、心安らかに床に就くことを許してくれなかった。
独りの時間は、霞の中に落とした心のかけらを、砕けて散った答えのかけらを、少しずつ拾い上げていった。確かな形を見出そうと目を凝らしながら、やがて明日を思う代わりに、過ぎた時間を思うようになった。あの日、この日、とひとつひとつ並べて振り返れば、そこには偽りのない情がくすぶる炎のように残っていた。
「日向」
夜闇の下、ただ名を呼ぶ。出会ってからの短い日のあいだ、一番多く唱えた名だった。彼そのものを表すような字と、響き良い音。
「日向、日向、日向……」
会いたい。顔を見て話がしたい。他愛ないことを言い交わして、笑い合いたい。
そばにいたい。隣に、いたい。
たとえ己がいつからこの世にあったのだとしても、確かに一度きりとて抱いたことのなかった感情だった。全てのものに変わらぬ情を、全てのものに変わらぬ愛を。幾百年、大神にふさわしく在り続けてきた我が心を千々に乱す、絶えざる熱。与え、護るための心ではなかった。それは欲し、求めるための心だった。焦がれ、願い、望む、渇きであり、飢えだった。
あまねく注ぐ愛を初めに手にした廉直の神が、土地の子らの生の途に眺め、我知らず憧れながらも手にすることのなかった、それは、何かを請う心、誰かを恋う心だった。
名を呼ぶごとに募る想いを、荒ぶる熱とともに掌の下に押さえ込む。胸を内側から掻きむしられる心地がした。
(――痛い)
ある日ふと生まれ、永い歳月を種子のまま過ごし、この幾十日かでたちまちに芽吹き大きく育ち始めた幼い情は、そのいとけない名とは裏腹の鋭い爪と牙をもって、我が身と心を苛んだ。ほんのひと月前までは彼の姿を想うだけで満たされていたのに、今は想えば想うほど身が引き千切られるように痛むのを感じた。
じっと座っていることができず、足ふらつかせながら立ち上がり、寝所を出て外へ向かう。滾る熱を吐き出したい。無駄とわかってはいても、独りの夜が巡り来るたび、その衝動を止められずにいる。