動揺と興奮の波が過ぎ、平静を取り戻した神々が、少しの説明の次に口を揃えて語ったのは、火神への謝罪だった。幼子を護れなかったこと、探し出してやれなかったことは、彼らの心に長く影を落としていたようだった。
火神は恐縮して手を振り首を振り、最後には黒子に助けを求め、ようやくその場を収めた。そうして逆に、自分がもとで皆が傷付き、木吉を呪いに臥せさせてしまったこと、そもそもの初めから、平穏が約束されるはずの七曜を欠けさせてしまっていたことについて自責を唱えようとすると、みなまで言う前に日向から強烈な手刀を喰らった。ダァホ、ともはや耳馴染んだ喝が投げ渡される。
「だから俺は言いたくなかったんだ」
ふいと目を背ける向こうで、伊月たちと、黒子までもが苦笑をこぼしていた。ぶつぶつと続く悪態を聞きながら、ああ結局この人は優しいしそれなりに甘いのだなと思った。寝台に降る穏やかな木漏れ日を目の裏に思い出し、あの、と切り出した。
「俺も、木吉さんのとこ、行っていいすか。術とか何もできねーけど……近くで見てぇんだ」
ぺこりと頭を下げる。日向は逡巡の様子でもなく黙って火神を見つめたあと、わかった、と頷き答えた。
「お前ら二人だけついて来い」
言ってさっさときびすを返すのに、え、と声を漏らしたのは黒子だった。呆けたように目を開く珍しい横顔に呼びかけ、促す。
「行こうぜ、黒子」
「……はい」
後ろで手を振る四人に見送られながら、神樹のもとへと歩き出した。
一歩一歩確かめるように階段を登り、祭壇の最上に立つ。二歩ほど下がった位置に足を止めようとして、すぐに日向に横から背を押し出された黒子と二人、寝台の前に並んだ。
間近に来て、かの神の命が弱りながらも確かに尽きず灯っているのを改めて感じた。伏せた目は変わらず反応を示さないが、直衣の下の広い胸がごくゆっくりと上下し、深い呼吸をくり返しているのがわかる。身を取り巻くかすかな力の波の中には、頭上に伸びる大樹と、そしてこの森そのものと同質の、強くも穏やかな自然の息吹が宿っていた。
ったく、と頭側に寄って立った日向が息を落とす。
「十五年ぶりだってのに、ぐーすか寝やがって起きやしねぇ」
なんか文句のひとつもぶっつけてやれ、と顎をしゃくって言う。えっと、と言葉を探して見つからず、結局こぼれるままに声を落とした。
「木吉さん。俺、あんたが目ぇ覚ますまで、ちゃんとこの森のこと、皆のこと、護るから……だから、木吉さんも負けねーでくれ、です」
きっとほかの皆のように優しく呼んでくれたのだろうその声を、今は憶えていないけれど。いつか、また一緒に笑い合えるように。
じっと視線を注いでいると、火神、と横から呼びかけられる。顔を上げて見返した日向の顔は、憤りとも気後れとも取れる複雑な色を浮かばせていた。
「お前がそう思うのを止めはしねぇよ。……けどな、これだけは忘れるな。お前がなんのためにここに来たのか。なんのために力が欲しいと思ったのか。……この森のためじゃあ、なかったはずだ。いいか、こんなとこで足止めようとか思うんじゃねぇぞ。お前らが目指すもんは、もっとずっと、先にあんだろ」
それを忘れるな。紡ぐうちに声はためらいを捨て、ひとつの地の主神たる威厳をもって情をさとす。けどよ、と火神は首を振った。
「俺は、この森の……」
神託に示された、平穏を約する最後の欠片。もし自分の存在が、何かを、彼を、救うことができたなら。渦巻く思いをどうにか告げようと口を開くより早く、今夜二度目の、一度目よりさらに強い撃が額を見舞った。いってぇ、と手刀をくれた側の日向までが同時にうなり、この石頭め、と手をさすりながら怒気こめて言う。
「それ以上言ったら明日にでも森の外におん出すからな、チビ」
「チビって……」
まったく的外れな悪罵に、火神も額をさすりながら抗弁しかけたが、すぐ撥ね返った声に一蹴された。
「頭ん中がチビだ。……くそ、やっぱりどうやっても見つけ出して、きっちり育てるべきだったぜ」
いいか、と腰に手を当ててふんぞり返るようにし、
「ガキは余計な心配してねぇで、前だけ見てりゃいいんだ。何十年も必死こいてやってきた大人をなめんじゃねぇぞ。今更へこたれたりなんざしねーんだよ。……んな気ぃ遣わねぇでも、お前は俺たちの仲間なんだよ。十五年前からずっと。これから何があっても……ずっとな」
ぴしゃりと言って視線を奥へずらし、続ける。
「お前もだぞ、黒子」
まったくの不意だったのだろう、ただ黙って日向と火神のやり取りを見ていた黒子は、大きな瞳をさらに丸くして日向を見つめ返した。なんだよ鳩が豆鉄砲喰らったみてぇに、とそれをさせた当人が笑う。
「こんな馬鹿のお守りさせちまって世話かけたな。悪いが、お前さえ良けりゃもう少し付き合ってやってくれ。それと、なんか色々小難しいこと考えてるみてぇだけどな、俺らはお前のことも、火神と同じに思ってるからな」
馬鹿って意味じゃなくてな、と口の端を上げる日向に、黒子もまた、しかし、と反駁を唱える。
「僕は真の神でもないですし、同じというのは無理があるのでは……」
「いいんだよ。お前はどこの出ってわけでもねぇし、今一番近い奴ってんなら火神だろ。だからこの森に来た日から一緒にウチの子だ。主神の俺が決めたんだ。文句は言わせねー」
なぁ? と寝台に横たわるもうひとかたの主神を振り向く。変わらぬ眠りの中にある顔が、かすかにほほ笑みを浮かべたように見えた。
◇
思わぬ展開です、などと呟きながらもどこか浮き立った様子の相棒と二人、もう一度木吉に向かって挨拶を述べてから、今日はもう遅いから帰って寝ろ、といつもの忠言に背を叩かれ、祭壇を降りた。下で待っていた四人にも礼を告げ、ともに歩き出す。壇の上に残った日向にあえて声をかける者はなかった。
それぞれの寝所へ向けて森を行く間に、火神と黒子の隣に並んだ伊月が、二人(主に黒子)に合わせてゆっくりと歩を送りながら、寝物語の最後に、とでもいうように静かに口を開いた。
「さっき黒子が話した伝承だけど、実際はもう二か所、違うところがあるんだよ」
今から話すこと、日向には内緒な、と人差し指を立てる仕草をして、語り始める。
「妖魔が入り込んできた時、火神はたまたま日向と二人だけで、木吉や俺たちと離れた場所にいたんだ。すぐに奴らの狙いに気付いて、日向は海常に助けを頼むためにお前を連れて森を出た。もうその時、森の中は同じ妖魔同士で喰い合いが起きるぐらいに、ひどい状況になってたから。けど、俺たちの予想以上に向こうの数が多くて、森の外にも待ち伏せがいた。途中で囲まれて、日向は一人で傷だらけになりながら戦った」
あんまり凄い様子だったらしくて、今でもまだ東のほうに行くと、「赤子の虎を抱えて大暴れした鬼神」の話が残ってるよ、と苦笑する。
「それでも、さすがに多勢に無勢過ぎた。最後に隠れてた化鳥の妖魔に隙をつかれて、火神を空に連れ去られそうになって。日向はもう立つこともできなくなってて、最後の力を振り絞って妖魔を射落とす以外になかった。妖魔は死んで、投げ出された火神は、川に落ちた。俺と水戸部が追いついた時には、日向は血まみれになって倒れてて、川を流された火神はもうどこにいるのかわからなかった。あいつは探しに行くって聞かなかったけど、そのままじゃまず日向が死んじゃいそうで……無理やり森に連れ帰ったんだ」
オロチが出たのはその後だった。当時を思い出しているのか、唇を噛みながら言い落とし、その悔恨を払うように一度首を振り立ててから、だから、と続けた。
「だから、伝承と違って、お前は妖魔にさらわれたんじゃなかった。日向はお前のことを本当に悔しがって、自分を責めてたけど……それでも、あいつは本当の最悪の事態は許さなかった。最後まで諦めないで、お前を精一杯護り切ったんだって」
それは伝えておきたかったんだ。
そう結び、窺うように火神の目を覗いて、少しく息をつく。
「結局苦労させたから、胸を張れまではしないけどな」
「や、あの」
言葉をつかえさせながら、火神は首を横に振った。確かに、苦しかったことも辛かったこともあった。だが、幸運にも自分は優しい人間たちに出逢い、何かを恨み呪うこともなく今日まで育つことができたのだ。争乱の渦中に見た、邪気に狂った神霊や宿り者の姿を思い出す。妖魔どもの手に堕ちていれば、そうした幸運さえ手にすることはできず、あの哀れな幽鬼たちの姿は自分のものでもあったろう。
過ぎた日を理由に彼らを恨むはずなどないと、確かな心だけを訥々と語れば、ありがとう、と笑みと頷きが返った。
それで、と声音を軽くし、次いで伊月は二つ目の「実際」について話し始めた。
「まぁ、こっちはついでみたいなもんなんだけど。あの昔話の最後の、雨が七日七夜、ってやつ。そこまでは間違ってないんだけどさ、こっからまだ続きがあるんだ」
日の神である日向は、意識的にも無意識的にもこの地方の天候を揺るがすことがある。伊月によれば、深い自責と哀傷の念により、雨が続いたのは確かであったらしい。
「さすがにあの時は俺たちも滅入ってたし、部屋にこもった日向に誰も声をかけられなかった。そのまま三日経って、五日経って、七日目の晩に――雷が落ちた」
世界の終わりが来たんじゃないかって思うぐらい、物凄い雷だったな。しみじみと語る。
「で、雷と一緒に、日向が部屋の戸を蹴破って出てきたんだよ」
全身に鬱積をみなぎらせて仲間たちの前に立った彼は、開口一番、こう叫んだ。
『っだああああああああっ! 辛気くせええええええぇっ! もうやめだ! うじうじしてても仕方ねェんだよダァホ! 天帝? 大妖皇? それがどうした、あぁア? やるしかねぇんだろうが! まずくそオロチの野郎は見つけ次第ぶちのめしてあの寝太郎たたき起こす! チビは見つけ次第取り返してべたべたに甘やかす! 以上!』
頭上に雷火の走る黒雲を連れ、血の色を浮かせた目で彼方の敵を睨み、獣の牙をむき出しにして吠えたける主神の姿に、付き合いの長い仲間たちですら、その復調を喜ぶ前にまず震え上がったという。
「あー地獄の鬼ってこういう顔してんのかなって思ったよね」
「なんとなく想像がつきます」
「甘やかされたくねぇ……」
それでさえ真の怒りに比すれば何ほどでもなかったらしい色々を思い起こし、顔を白くする二人をよそに、伊月はしかし苦笑もやがて収めて、それから、と落ち着きを取り戻した日向の言葉を語った。
『……誠凛とこの森を護っていくには、お前らの力が必要だ。今はまだ何も見えねぇ、何年かかるかもわからねぇ。ふがいない主神だが、……手を貸してくれ』
頼む、と下げられた頭から、目をそらす者はなかった。
「まぁあんな性格だから、素直には言わないんだけど。日向、お前たちが来てすごく喜んでるよ。あんなに活き活きしてるの見るのは本当に久々でさ」
だから俺たちも余計、お前に知ってほしかったんだ、と、怒りを覚悟してまで口出しをした理由を語る。
「日向の言った通り、それで縛ろうとか、そんなことは思わない。けど、お前たちさえ良ければ、これからもこの森の『仲間』でいてほしい」
そう請われた、おそらくほかの三人の心をも代弁する言葉に、一も二もなく二人頷いた。立つ場所こそ裏と表でありはしたが、彼らの想いもまた、火神と黒子が掲げた想いと同じものだったのだ。
「もちろんです」
「おう。……家族、だもんな」
屈託なく答える二人によろしくと笑い、じゃあ早速、と切り出す。
「人生の先輩であるおにーさんからの忠告なんだけど、今夜、コガたちが来るずっと前から見てたっていうのは、絶対日向には言わないこと」
死にたくなければ、と真剣な声音で言われて、鬼の顔を拝する無謀を持ち合わせない二名は、前の問いに対するよりも深い角度で神妙に頷いた。
◇
気が付くと、朝の森の中にいた。
ふわり、ふわりとやわらかく耳をくすぐるのは、草木を抜ける風ではなかった。快い揺れを伝えつつしかと身を支えてくれるのは、竹で編まれた揺り籠ではなかった。意識の底の静かな波間にただよいながら、ああ、自分はこれを知っている、と思った。凛と弓を立て構える手。叱咤とともに肩を打ち叩いてくる手。良くやった、と笑って伸べられる、頭をかき回す少し乱暴で優しい手。
自分はこれを、確かに知っていた。
伊月たちと別れて部屋に戻り、黒子と少し声を交わしてから、自分はどうしたのだったろうか。まさか今度こそ寝ぼけてまた森の中に入ってしまったのだろうか。だとすればすぐに戻らなくては。頭の一方ではそう思うのに、そのもう一方では、このままこの心地良さに身をゆだねていたい、と願っている。ふわり、ゆらり、と過ぎる波。次第に、白一色に塗られていたあたりの景色が、確かな色と形を持ち始める。
するすると背を滑っているのは、人の長い手指だった。そう、自分はこの手を知っていた。呼びかけようと開いた口からこぼれ出るのは、ぐるぐると喉の鳴る音だけ。
やがてもう一幕、世界の覆いが取り払われ、言葉成す声が鳴り落ちる。
『……ぅが、なぁ、日向ぁ』
それはまさに、今自分が唱えようとした「彼」の名だった。呼ばれた名の持ち主は、声に応えるでもなくゆうるりと指を動かしながら、何やら口の中にうなりを鳴らしている。草の上に組んだ胡坐の上に、赤混じりの奇妙な毛色をした獣の身体が納まっていた。誠凛の主神、日向の膝に抱かれていたのは、生まれて間もない虎の子、幼い日の火神だった。夢幻の波間をただよう意識はふたつに分かれ、半分は外から、半分は幼い自分の内から、穏やかな風の取り巻く世界を眺めていた。
はた、はた、と顔の前を何かが揺れている。誘うような動きとやわらかな感触に惹かれ、幼い虎の子は小さな手を伸ばし、鼻先をくすぐる灰茶色のそれに夢中になってじゃれついていた。
『日向ってば、なあ』
目を少し上に向ければ、黒の布地と、「それ」と同じ灰茶色があり、呼び声はその向こうから聞こえてくる。布地は広い直衣の背、灰茶色は人の頭、目の前の「それ」は、和毛豊かな獣の尾だった。膝に火神を乗せて日向が坐すそのさらに前に、狼とおぼしき耳と尾を生やした男が背を向けて座っている。そんな光景だった。
急くでもなく呼び声はのんびりとくり返され、火神の背を撫でながら、うーだのむーだのとうなり声を立てていた日向は、呼びかけが五回を数える頃になってようやく前の背へ応えを返した。
『……んだよ』
『俺、そろそろそっち向いちゃ駄目か?』
いかにも気なさげな声音に腹を立てる様子もなく、顔だけを半分振り向かせて男が言う。太い眉の下に開く、やや垂れがちな鳶色の目。まじまじと改めて見つめるまでもなく、それが誠凛のもう一人の主神、大樹の神・木吉その人であることを、火神は知っていた。
『これだとなんか、一緒にいるのに俺だけ除け者みたいで寂しいんだが』
言いつつ、はたはたと尾を振るのをやめはしない。揺れる毛束を追って乗り出そうとする幼子の身を支えながら、日向がつんけんと返す。
『お前の尾っぽがケツから生えてんだから仕方ねーじゃねぇか』
『……尻尾がケツから生えてない奴っていたのか?』
『いるわけねぇだろ』
にべもない日向に、んー? と首をひねりながら、さっきから向こうのリスとずっと目が合ってるんだよなぁ、などとおっとり呟く。
『モテて良かったじゃねぇか』
無愛嬌に返し、だいたいお前だけずりぃんだよ、と日向はぼやくように声を落とした。
『こんな無駄にもふもふしてチビに気に入られやがって。これは卑怯だろ、このもふもふは。ちくしょうハゲろ』
『あいたたたた、痛いぞ日向』
尾をわしづかまれて抗議をしながら、それでもどこか悠長な動作で半身を返し、なだめるように手を止める。そうして長い指で手首をひと巻きにしたまま、うーん、と何かを考えている。と思えば不意に、
『じゃあ、こうすればどうだ?』
声とともにぐるり、視界が回転し、うわ、と火神は慌てた両腕に抱きしめられた。後ろに倒れ込んだ一人と一匹を、やわらかな衝撃が受け止める。
『おま、危ねぇっ……てオイ』
唐突な行動に放ちかけた文句が、それ以上の状況に気付いて一段音を低くする。幼子を手の中に抱えた日向は、背から回る木吉の腕にさらに抱きこまれる姿勢になっていた。ちょうど先ほどの位置関係が前後に逆転した形である。
『何しやがんだ! 離せっ』
いきり立って身をよじりかけるも、暴れるとチビが落ちちまうぞ、と諭され、ぐっと動きをこらえたのが手から伝わってきた。そろりと戻された膝の上、横合いから現れた先の灰茶がまた鼻をくすぐる。あるいは顕現の加減を変えたのか、太さも長さも秀でた尾は、身をふたつ挟んでもまだ前へ回るだけの余裕があるようだった。
『これならチビも遊べるし、日向はチビを抱っこできるし、俺は日向を抱っこできるし、いいこと尽くめだな!』
『あーそうかよ』
盛大に眉をしかめつつ、喜色満面の声と思惑通りに尾にじゃれ始めた仔虎の様子とに諦めが勝ったのか、日向は渋々とその場に座り直した。
『ところでさっきからうんうん言ってたけど、どうかしたのか?』
便秘か? などと肩の上から頓珍漢なことを問われ、違ぇよダァホ、といつもの悪態が返る。火神の背で指がまたするすると毛を梳き始めた。
『名前考えてんだよ』
『名前?』
『いつまでもチビってわけにはいかねぇだろ』
な、と頭上に声かけられ、ぐるると喉声を返す。
『あいつら、相談しようとしたら全面的に任せるとか言ってさっさと逃げやがった……』
『責任重大だもんなぁ』
『てめぇもさらに重くすんじゃねぇよ』
一生の名、しかも幾百年を生きる神の名だ。滅多には決められないと、仲間たちは主神二人に裁量を預けてしまったのだろう。舌打ちとともに、俺だってこんなん得意じゃねーっての、とぼやきが落ちる。
『でも何かは考えてるんだろ?』
『……こいつ小せぇから、でかくなるように「大」って字を入れようとは思ってる』
『そうか。これでももう猫の日向よりは大きいけどな』
『うるせぇ』
いいから笑ってねぇでお前も考えろ、と見上げられ、そうだなぁ、と木吉も首をひねり始めた。
『うーん……名前なぁ。大が付く名前……。えーと、なんか由来があったほうがわかりやすそうだよな。生まれたのが先月で、見つけた場所が俺の樹の根元で……根っこ……大……あ、ダイコ』
『そうだな聞いた俺が馬鹿だったわ』
あわや畑に埋まったような名になりかけるのを遮り、お前もう黙って座椅子になってろ、と思い切り寄りかかってやる日向だが、大樹の神は重みに身を揺らがせることもなく、ただ嬉しげに笑っただけだった。
そのまましばし日向のうなり声と仔虎の漏らす鳴き声だけが過ぎ、東にあった陽もそろそろ天頂に昇ってこようかという頃、ようやく決意の言葉が上がった。
『っし、決めた。「大我」にする』
小さな体を顔の前に抱え上げ、言う。
『大我かぁ』
『……やめるなら今のうちだぞ』
『いや、いいじゃないか』
肝心なところで思い切りの弱さを見せるのに事もなく返し、木吉は日向の肩越しに腕を伸ばして火神の頭を撫で、これからもよろしくな、と笑った。目尻の下がる穏やかな笑みを見て、ぱちり、幼子の内と外の自分が同時に目を瞬かせる。
こんな日もあったのだ。
屈託なく笑う鳶色と、鋭く、しかし深い情を宿して細められる濡羽色と。今は揃わぬ二対の瞳に見守られる日も、あったのだ。
『でっかくなれよ。このボケ男見下ろしてやるぐらいにな』
『うーん、でかくなってくれるのはいいけど、自分の子どもに見下ろされるのは複雑だな……』
『……誰の子どもだって?』
『俺の子ども。……え、俺とお前の子どもだろ?』
『は? はぁっ? 何寝ぼけたこと言ってんだダァホ! んなわけねーだろうが!』
『えー、けど日向と伊月は双子みたいなもんだし、俺とほかの皆も兄弟とかいとこみてーなもんだろう? チビは俺たちが主神になってから生まれたんだから、子どもって言ってもいいと思うんだが』
『「みたいなもん」と「言ってもいい」止まりのことをけろっと断言してんじゃねぇよ! 子どもとか、お前……』
『よその奴に訊かれたら「ウチの子」って言うだろ?』
『たりめーだろ!』
ぎゃあぎゃあと言い合いつつ互いに本物の険はなく、そのさなかにやって来た伊月も、またか、といった程度の態度で軽く日向を呼んだ。
『日向ー、ちょっといちゃついてるとこ悪いんだけど、もう隣山の岩坊主さん拝殿のほうに来てるから』
『誰がいちゃつ……ってやべ、もうそんな時間かよ』
慌てて立ち上がり、チビ頼む、と火神の身体をさっきまで自分が納まっていた木吉の胸へ押し付ける。了解の声を背に、軽い跳躍で枝を蹴っていく後ろ姿はすぐに見えなくなった。
最後の葉揺れが収まるまでを見送ってから、木吉は手の中の小さな体を抱え直し、日向、嬉しそうだなぁ、と語りかけるように言った。
『お前が生まれてからずっとうきうきしてるよ。……元気になって良かった』
どういうことかと首を傾げる心が伝わったのか、それとも独り言を聞かせているのか、火神の頭を撫でながら、ゆったりと言葉を続ける。
『お前が強い力を持つことになるのはわかってた。だから、なかなか生まれてこないのは自分の力が足りないせいじゃないかって、口では絶対言わないけど、このごろずっと悩んでた。……そんなこと全然ないのにな。いつも、お前のほうが力があるんだから、なんて言って』
俺がこうやって主神として頑張れるのも、アイツがいるからなのにさ。ほろりと呟きを落とし、後ろへ寝倒れる。伸ばした両手に高く掲げられ、上と下、向き合うような形になった。
『なあ知ってるか? 大我。人も獣も、俺たちみたいな神霊も……守りたいものがあると、ずっと強くなれるんだ』
一編の歌を口ずさむように、言う。
『俺は皆を守りたい。日向を守りたい。アイツに哀しい顔させたくない。ずっと笑っててほしい。だから強くなろうって、そう思えるんだ』
怒ってる日向も可愛いけど、やっぱり笑った顔が見たいもんな、と愛おしいものを見つめる目で笑い、もちろんお前もだぞ、と続ける。
『強くなろうな、大我』
大切なものを守れるように。
強く優しく耳に染み入る声。大きな手。確かな色形が、少しずつ白の中に薄れていく。二つに分かたれた意識が再び重なって浮き上がり、穏やかな世界から遠ざかっていく。胸底にかすかに残る熱と寂莫だけを連れ、今へ、還る。
やがて開いた目の前には、まだ明け初めぬ夜だけがあった。
布団の上に上体を起こし、ただぼんやりと空を見る。と、衝立の向こうから細い声がした。
「火神君、眠れないんですか?」
「あ、いや……わりぃ、起こしたか」
「いえ、大丈夫です」
どうかしたんですか、となお重ねて訊ねてくるのは、思わぬ夜に心揺れた自分への気遣いだろう。いや、ちょっと夢を、と答えかけて、途中で声をつぐんだ。
果たしてそれは、己の心が作った夢幻の景だったのだろうか。在りし日の記憶の欠片だったのだろうか。それとも、今は大樹の下に眠るかの人の見せた、幼子への願いの発露だったのだろうか。いずれであれ、ただ目にし、ただ耳にしたものについて、それ以上の言葉とともに語る術を、火神は持たなかった。
「なんでもねぇ。ちょっと起きちまっただけだ」
「そうですか」
簡素な言葉で答えれば、黒子もそれ以上立ち入っては来ずに、早く寝たほうがいいですよ、とだけ意見してくる。
「明日も早いですし、朝から目を真っ赤にしていたら、今度は手刀じゃなくて拳……ひょっとすると矢が飛んでくるかも」
「やべぇ」
さっさと寝るわ、と言って布団の中に戻る。仰臥して見上げる空の中に、幼い日の自分の影がよぎった。
並ぶ仲間たちの笑み。守られた大切なもの。失われずに済んだ愛おしいもの。
けれども今その輪の中に、その傍らに、それを愛した人の姿はない。
「――黒子」
「はい」
体側に拳を固め、ひとこと、誓う。
「強く、なろうな」
「……はい。必ず」
何も問わず同じ強さで答えた相棒に胸の中で感謝を唱え、今度こそ眠りへと向かい目を閉じる。
次に森を訪う夢の中では、木漏れ日の下に長躯の狼と黒毛の猫が睦まじく寄り添っていればいい。まどろみに沈む心でただ静かに祈っていた。