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白貂に化身した黒子を肩に乗せ、追う日向からは用心を重ねて充分に距離を取りながら、夜の森を跳んだ。それなりの道のりだが、身を隠すのに気を遣わず済む分、息が切れるほどの業ではない。行程の三分の二を過ぎたあたりで、黒子の指示に従い、先回りをすることにした。
神樹を目の前にした時には黒子もさすがに驚いていたようだった。凄いですね、と二、三それについてのやり取りを交わしたのち、森を回り込んで例の祭壇が見える場所へ向かう。あの日と変わらず、最上段の寝台には黒の直衣の男が寝ていた。
「……どうする? 日向さんに直接話をすんのか?」
いくらもしないうちに日向も空け地にやって来るだろう。何かを見極めるようにじっと祭壇に視線を注いでいた黒子は、短く考えの間をおいてから、いえ、と答えた。
「少し様子を見ましょう。前の晩、火神君はどこにいたんですか?」
「俺はあのへんの木の上からずっと見てた」
「そうですか。でもあそこからだとちょっと遠いので……今夜は軽く術をかけてあの後ろに隠れましょうか」
言って指差したのは、隆起した地面の上に這う大樹の根だった。あの夜で言えば、椅子に腰かけた日向の正面にくる位置で、高さもちょうど寝台と同じ程度になる。距離の近さにはやや不安を感じたが、黒子の身隠しの術の腕を信じることにした。
「火神君の神体がもっと小さな獣だったらこんな時に楽なんですけど。虎じゃさぁ見つけてくれと言わんばかりで……そもそもなんであんな派手な模様なんですかね。ただでさえちょっと分けてほしいぐらい大きいのに、自己主張が激しすぎると思います」
「うるせぇよ、好きで派手にしてんじゃねぇっての。お前だって年中真っ白で、雪っ原ならともかく夜の森じゃ目立ちまくりじゃねーか」
太い根の裏側にしゃがみ込み、いつもの軽口を叩き合いながらその時を待つ。怒鳴り飛ばされるのを覚悟で来たというのに、一人身をひそめていたあの夜よりずっと心は晴れやかだった。
日向が姿を見せたのはそれから十分も経たない頃だった。
あの日と同じ場所を同じ足取りで辿る様子だけを見ても、通い慣れた道であることが想像できる。じっと見つめていると、実は、と黒子が隣でほつりと呟きを落とした。
「火神君には言っていなかったんですが、僕はもう少し前から、こうして日向さんが出かけていることを知ってました」
え、と思わず横を振り向く。黒子は前に顔を向けたまま軽く頷いて言葉を続けた。
「僕たちが来る前からなのかはわかりませんが、何日かおきに必ず、こうやって森の奥へ入ってかれるんです。初めは見回りかなと思ったんですが、後で夜の見回りは伊月さんがしていると聞いて、その線はなくなりました。主神としての祭祀? でもそれを日の神である日向さんがわざわざ力の減退する夜に行うとは思えません。一体何があるのか……僕も気になっていたんです。でも、訊けなかった」
僕は力の弱い宿り者です。卑下するでもなく黒子は言う。
「黄瀬君や緑間君や青峰君のように、真の神の領域に踏み入る自信がなくて、迷っていました。でもあの日、火神君から話をしてくれて、頼ってくれて、吹っ切れました」
ありがとうございます、と笑む黒子の言葉の全てを理解することはできなかった。宿り者と神との関係を語るなら、同様の立場である火神が黒子にしてやれることなどない。ためらいも、もしあるとしたなら、その罪科も、同じものであるはずだった。ここまで引っ張ってくれた黒子に対して、むしろ礼を言わなければならないのはこちらのほうだと思った。
くるくると回る問いを言葉にするより早く、ほら、と黒子が前を示す。見れば、ちょうど日向が祭壇の頂上に足をかけたところだった。後ろ髪を引かれつつ思考を中断し、正面に向き直る。
「何かの術を使っていたと言ってましたよね」
「ああ。見てわかるか?」
「ものによりますが」
火神よりよほど術式のたぐいに詳しい黒子ならば、日向の使う術の中身もわかるかもしれない。そう期待して見つめる先、祭壇の上の日向はまたあの夜と同様に、男の横たわる台の隣に腰かけた。火神達のしゃがむ位置と一直線上になるが、こちらに気付く様子はなく、ひとまず安堵する。
やがて手が上がり、印契が切られるかと思いきや、そこで日向は先と異なる行動を見せた。今朝ほどの強風で、祭壇の上には木の枝や葉が落ちており、男の身体の上にもいくつかの破片が散っていた。それを、ひとつひとつ払い、あるいは拾い取っていく。そうして全ての枝葉を下へ落とすと、今度は懐から手拭いを取り出し、舞いかかった砂に汚れているのであろう、眠る男の顔をそっとぬぐい始めた。その途中に一度だけ、わずかに唇が動いた。まったく、か何かそれに似た意味合いの、短い悪態であるように見えた。
日向は日頃からそれなりに几帳面だったが、特別に潔癖な性質ではない。だが男の身を清めていくその所作は、決して自己満足や、おざなりの習慣といったものではなかった。服を整え、頬をぬぐい、髪をそっと梳いてやるなんでもない仕草のひとつひとつに、こぼれた小さな悪態とは裏腹の、深い情がこもっているようであった。
同じだ。
前を見入りながら、火神は思う。
もう少し秋が深まれば、枯れ葉は一日と置かず舞い落ち積もるだろう。雨が降り、雪が降り、嵐が来る日もあるだろう。そうしてまた、彼は汚れてしまった男の服を、身体を清めるのだろうか。夢想の中でさえ、それはあの夜と同じ想いをもたらして現れる。優しく穏やかで、言いようもなく哀しい画。
布地を顔から今度は体側に置かれた手指に滑らせ、はたりと砂を払ったところで、日向は手拭いを台に置き、しばし動きを止める。一度二度と視線があたりを窺うようにさまよってから寝台へ戻り、やがて緩慢な動きで伸べられた両の手が、男の手を取った。何か神聖なものに触れるような、おそるおそるの動作であった。
ゆるやかに台から持ち上げられた手は、指の長さも掌の広さも、それを包む日向の手からひと回りふた回りはみ出すほどの、男の優れた体格に見合う大きさをしていた。胸元まで引き上げた手を一度ゆっくりと撫ぜるようにしたあと、日向はその節くれ立った指の甲に、祈り捧げるような仕草で自らの額を寄せた。顔が下を向く寸前に、またひとつ唇が声を紡いだ。誰かの名だと、なぜかそう直感した。数瞬前までそこにあった空気の色が、わずかに変わったように思えた。
ややあって顔を起こした日向は、少し首をかたげて、力なく垂れる長い指に今度は頬を触れさせた。目を伏せ、そっとすり寄るようにする。そのついぞ見ない幼げな様子に驚き、ふと見れば、日向の短い髪の間に、神体である黒毛の猫の耳が顕現していた。後ろには同じ色の尾が伸び立ち、安寧を示して揺れている。隣に行けば、くるくると心地よさげに喉を鳴らす音もが聞こえたかもしれない。
鼻先を近付けて少し触れ、頬をやわらかくすり寄せる。ゆっくりとくり返される仕草は、まさしく猫のそれであった。子が親の胸元に甘えるような、あるいは、もっと親しい、もっと慕わしい誰かに――
瞬間、脳裏に別の、猫と呼ぶには大きすぎる黒耳と尾の影がよぎって、火神はぶんぶんと首を振った。目を戻せば男の指先に日向の唇が触れかけていて、なぜか大慌てで背を向ける。見ると隣の黒子もまったく同じ反応をしていた。膝を抱えて縮こまった二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
「……」
「……」
「……」
「……そうですか、あの晩、火神君はこの濃密な場面を一人でずっと……」
「違ぇ」
「僕の知らない間に大人の階段を一歩のぼってしまっていたんですね」
「だから違うっつーのっ」
どこか遠い目をして言う黒子にとんだ誤解だと主張する。ちくしょう何やってんだよあの人、よりによって今日に、と憤りの矛先が日向まで飛んでいきそうになるが、怨嗟に任せて振り返るまでの勇気はなかった。
「でも、これでわかりましたね」
頭を抱える火神をよそに、あっさりと立ち直った黒子がひとつ頷きを示す。え、と一音に問い返すと、つまりと言葉が続いた。
「詳しい関係はさておき、あの人は日向さんの大事な人だということです」
「……そうか」
そうだな、と頷き返した。そうと改めてわかったのなら、自分たちの決意もより固くなる。
さて次はいかにせん、と二人そろって二の句を継ぎかけた、その瞬間だった。
「こら、夜更かし厳禁だろ」
「え」
「うおっ……ぐえ」
前方から不意にかかった声に、黒子の漏らした小さな声、そして火神の上げかけた叫びを黒子が掌底突きに近い勢いで封じ込めたつぶれた声が重なる。しぃ、と人差し指を立てて二人を制したのは、初めの声の主、伊月であった。前にしゃがみ、ひそめ声で言う。
「見ちゃったんなら仕方ないけど、今ばれると日向がうるさいから、とりあえず静かに」
「はい」
「わかった、……です」
どうやら事の紛糾は避けてくれるつもりらしい伊月は、背に鷲の翼を顕現させており、夜の見回りの途中だったのだろう。普段から鋭い目に加えて警戒中、さらに力の増す夜となれば、油断していた黒子の術がばれても不思議ではなかった。
何をしているのかと問われ、いきさつをかいつまんで伝える。途中までどこか複雑げな顔をしていた伊月であったが、次の黒子の言葉で、はっと眉を上げた。
「あの祭壇の方は、『木曜』の神……この森のもう一人の主神ですよね」
思わぬ言葉に、火神も相棒の顔を振り向き見つめた。
「黒子?」
「……そこまで知ってたのか」
二者二様の声がこぼれる。伊月はちらと祭壇を見やってから、わかった、と頷いた。
「日向が術を始めてる。今のうちにあっちの木の下に戻ろう。少し込み入った話になりそうだから」
提案に了解を唱え、三人は静かに空け地を離れた。
「あいつは木吉っていって、さっき黒子が言った通り、この森の主神だったんだ」
伊月が語り、黒子がやはり、と頷く。一人かやの外に置かれたようになっている火神は、眉を寄せて問いを挟み、自分にもわかるよう説明してくれと頼んだ。では、と黒子が口を開く。
「初めから、おかしいなと思っていたんです。誠凛地方の神樹の森。外の地域の人でもそうと知っていたほどなのに、いざ着いてみると主神は日の神である日向さん。そして眷属の誰にも、あの樹を源にする神がいない。どうにも妙でした。そしてもうひとつ不思議だったのが、森の名前です」
「森の名前?」
この森に名前などあったろうか。ただ地域の名前を取って誠凛の森であるとか、今言ったように、神樹の森であるとか呼ばれていただけのように思う。疑問をそのまま口にすると、黒子は確かに、と答えた。
「ここに来る前に笠松さんから頂いた地図には、何も書いてありませんでした。でもその前、秀徳の書庫で見た古い地図には、この森の名前らしきものが書かれていたんです。『七曜の森』と」
そう語り、確かめるように視線を動かした黒子に、伊月がああ、と首肯する。
「今その名前を使ってる人間はほとんどいないだろうけど、昔は確かにそう呼ばれてたこともあるよ」
肯定を得て、あの短い時間の、しかも別の用件で眺めた地図の名を良く憶えているものだ、と火神は改めて黒子のため込んでいる知識に感服した。到底自分には真似のできるものではない。
「そう銘打たれたからには、何か由来があるんだろうと思っていました。けれどここでも僕の予想は外れました。日向さんたちは確かにそれぞれが別個の力を司る分掌の神霊でしたが、七曜ではなかった。さらにその力も安定した別れ方じゃない。だから、ひょっとしてもともと在ったものから、何かが欠けてしまっているんじゃないか――そう考えたんです」
そう言って、黒子は一度言葉を区切り、火神の顔をじっと見つめてきた。わけも分からず見返す目には、先の日と同じ真摯の想いが宿っていた。
ふっとまた視線がそらされ、言葉が続く。
「火神君に話を聞いてからこの五日の間に、僕は近くの村へ下りて話を集めていました。そうしてその中で聞いた、ある年取ったおじいさんが小さな子ども達に聞かせていた唄物語が、多分、僕らの問いの答えなんじゃないかと思いました」
そして今日、あちらにいる日向さんと木吉さんを見て、それが確信になりました。言い落とし、もう一度伊月を伺う。促すような視線の交錯ののち、昔語りの調べをなぞり、黒子は話し始めた。
『誠凛の地には大きな神樹の立つ深い森があって、この土地を守る神々が暮らしていました。この樹、この森そのものの化身とも言うべき、自然を司る大樹の神と、森に生きる命を照らし育む陽光の神。また、この二柱を支える眷属の神々です。若いながらも確かな力を持った彼らは、誠凛に暮らす人々に愛され、ほかの土地の神々にも一目を置かれる存在となりました。
天帝の神託によれば、この『七曜の森』は、その名の通り七曜の力を持つ神々によって確固たる平穏が約束されるはずでした。ところが、初めにそろった彼らは主神の二曜、そして眷属の神の四曜の六柱神。つまりひとつの力が足りていませんでした。最後の神の誕生は遅く、それを巡る悶着もありましたが、それでも何年もの年月を経てようやく、待ちに待った七曜目の神が森に生まれます。
喜びに湧いた誠凛の地でしたが、その矢先に、悲劇は起こりました。神の力を利用しようと、生まれたばかりの幼い柱を狙い、妖魔と手を結んだ人間たちが、外の土地から攻め入ってきたのです。
妖魔の策略で七曜目の神は奪われ、共にいた陽光の神も、彼を護ろうとして深い傷を負ってしまいました。一昼夜をかけた奮戦により、神域を手中にするべくさらに侵入してきた妖魔たちはどうにか退けることができましたが、最後に残った総大将のオロチの牙から、傷ついた陽光の神をかばい、大樹の神は毒に斃れてしまいました。仲間たちは逃げるオロチを追おうとしましたが、大樹の神は犠牲が増えるだけだと傷だらけの彼らを引き留め、戦いは終わりました。
幼い神のさらわれた先も、毒を癒す唯一の手がかりであるオロチの行き先もついにわからず、やがて大樹の神は静かに死出の旅路につきました。一度に二人の愛する者を失った陽光の神の哀しみは深く、日は厚い雲の中に隠れ、七日七夜のあいだ、誠凛の地を涙雨に濡らしたと言います――』
ゆっくりと語り終え、口伝えの物語は、と黒子はおしまいに付け加えた。
「月日の経つうちに結末を変えてしまうこともあります。大樹の神――木吉さんは、亡くなってはいなかったんですね」
言って肩越しに祭壇の方向を見る。木々の向こうで、陽光がきらめいていた。
「ああ。普通ならいくら神霊でも死んでたと思う。ただあいつは生命の神だし、俺たちとは段違いに力も強い。だから死なずには済んだ。けど、この十五年間、あの毒の呪いで一度も目を覚ましていないんだ」
知らない人間たちには、わざわざ本当のことは伝えてない。ほとんど死んでいるのと同じようなものだし、日々の暮らしに心を砕かなければいけない者たちに、どう導かれるかわからない未来への期待をかけさせるのは良くないから、と語る。
「日向さんのかけている術は?」
「浄化の術だよ。オロチが死なない限りあの毒は進行し続けるから。もともとこの手の術は木吉が得意だから、自分で抑えてるところに力の相性のいい日向が手を貸してるって感じかな。俺たちも交代でやるって何度も言ってるんだけど、これだけはあいつ、絶対譲らないんだよな」
そうして十五年ものあいだ、ずっと。
いつ目覚めるとも知れない者を待ち続けて、その帰りを信じ続けて、哀しみを語り分け合うこともしないで。手を取り頬を寄せ、そのかすかな鼓動の音を聞き、体温を感じることだけを支えに。
そんなの。そんなこと。なんて優しくて、なんて――
「……火神、泣いてるのか?」
ぎょっとしたように伊月に声かけられ、火神は顔を上げた。頬を熱い雫が滑り、顎の線を伝って袴の上に落ちる。
「あれ、俺……?」
袖で目をぬぐうが、無意識の涙はあとからあとから湧きあふれ、地面にこぼれ落ちていく。
「火神君」
「なんか、俺、黒子の話聞いてるうちに頭ん中がすげーぐしゃぐしゃになってきて……日向さんのこととか、木吉さんのこととか、皆のこと、考えてたら、苦しくて、痛くて、腹にでけぇ穴が開いちまったみたいで、俺」
「火神君、落ち着いて」
名を呼ぶ黒子の声も耳に入らず、ただ心の叫ぶまま、続ける。
「なんで知らなかったんだ。なんで俺は、力もなくて、何も、できなくて、皆が……俺、も」
俺も、皆の力になりたかった――
慟哭を落としたその瞬間、背中からどんと強い衝撃に見舞われ、火神は前のめりに上体を折った。耳元で声が響く。
「火神ぃ! お前はなんていい子なんだーっ!」
ぼろぼろと豪快に泣きながら飛びかかってきたのは、興奮のあまりか、金茶色の猫の耳を頭頂に顕現させた小金井だった。その後ろに、涙こそこぼしていないものの、ともに鼻を薄赤くした水戸部と土田がしゃがんでいる。
「いやぁ……思わずもらい泣きしちゃったよ」
目尻をこする土田に、こくこくと水戸部が同意の頷きを示す。小金井につぶされた格好の火神を黒子とともに助け起こしながら、お前らなんでここに、と伊月が驚き半分呆れ半分の声で訊ねた。それがさ、と小金井が答える。
「なんか胸騒ぎがするっていうか、寝付けなくて外に出てきたんだ。で、あ、今日って日向が木吉のとこに行ってる日なんかなって、そう思ったら、どうしても様子を見に行きたくなって。水戸部とツッチーも俺と同じで、歩いてるところをばったり会ったんだ」
「えらい偶然だな」
「それで皆そろってしまったんですね。主神の日向さんと木吉さん、眷属神の伊月さんに小金井さん、水戸部さん、土田さん」
そして、と視線をこちらに向けかけ、
「――で、『そろって』雁首突き合わせて何やってんだてめェら」
そしてドスの利いた声、と思考を上書きしたのかどうかは定かではないが、黒子は反射的に隠形の術を唱えかけてなんとかこらえたようだった。動揺に肩を跳ねさせたのは皆一緒で、一蓮托生の空気を互いににじませつつ、声の元を同時に振り返る。空け地と木々の境目に立ち構えていたのはもちろん、誠凛の主神、眉間の皺が常にも増して深い日向であった。
「あ、お気付きでしたか……」
「あんだけ騒いでりゃ気付かねぇほうがおかしいだろ」
腕組みのまま息をつき、
「お前ら、」
「日向っ!」
落としかけた叱責は、小金井の必死の呼びかけに遮られた。ひるむように声を飲んだ日向に、なあ、と懇願するように言う。
「なあ、もう耐えらんないよ。黙ってられない。全部教えてやろう? 知って、もらおうぜ」
火神に。
不意に転げた自分の名に、いまだ茫然の余韻の中にいた火神はゆっくりと顔を上げた。はたと日向が口を閉じ、視線を斜めにそらす。伊月が代わって言葉を続けた。
「木吉のことは俺が教えたよ。いや、黒子が知ってた、かな。お前が話さなかった理由はわかってるし、そう決めたことが間違ってたとは思わない。けど、こいつらが言うんだ。知りたいって、……俺たちの力になりたいってさ」
「偶然だけど、こうやってここに皆が集まったのも何かの縁じゃないかな。いい機会だと思う。俺たちにも、二人にも」
「水戸部も『二人ともいい子だから、心配いらない』ってさ!」
伊月を追うようにして土田と、小金井に代弁された水戸部が語り、彼らの主神の顔をじっと見つめる。いつも習い性のように寄せられている眉根がほどけ、表情に迷いの色がにじんだ。これほど人の言葉に揺らぐ彼を見るのは、森に来て初めてのことだった。
隣に座る黒子が横目にこちらを見、口を開きかけるのを、火神は我にもなく遮り、彼の名を呼んだ。
「日向さん」
自分が言わなければならない。漠然とした、しかしひたむきな想いのまま、言葉を紡いだ。
「あの、すんません。初めに俺が、日向さんを追っかけてきちまったんだ。それで、あの人、木吉さんと一緒のとこを見て。すげー、寂しそうに見えて……。気になってしょうがなくて、黒子に相談したんだ。です。それでさっき、伊月さんに教えてもらって。……俺、神とか、宿り者とか、まだ全然よくわかってねーけど、それでももし、なんかの力になれたら。俺は……日向さん、皆に、哀しい顔、してほしくねーんだ」
皆に、笑っててほしいんだ。
落とした言葉に驚愕を返すように、身じろいだ足がぱきりと小枝を踏み折る音が鳴る。前に立ち尽くす日向の手が震えていることにも気付かず、火神は地面に座りこんだ姿勢のまま頭を下げた。
「教えてほしい。皆のこと、この森のこと。……教えて、ください」
しばしのあいだ、沈黙だけが木々の間を満たした。
やがて、ひとつ、ふたつ、ゆっくりと息を吸い、吐く音が過ぎ、静かな声が、呼んだ。
「大我」
再び顔を上げる。自分の名だった。初めに会った時に名乗ったきりであるはずの、みなし子であった自分が、ただひとつ忘れずに持ち続けていた名前。
「お前、自分のことを『宿り者』だっつってたな。だからうまく力が使えねぇんだって。……本当、馬鹿だなお前。もうそこから、初めっから全部、間違ってんだよ」
流れ落ちるのは悪罵と言ってよい言葉であるのに、まるでそうとは聞こえなかった。それはほとんど、悔悟の独白のように聞こえた。
「……生きてるだけで良かったんだ。それがわかっただけで。それ以上なんて望んじゃいねぇはずだったんだよ。せめてあの寝ぼすけ野郎が起きてきやがるまでは、何も……お前を縛るようなことは、何も」
普段は指示であれ悪言であれ滔々と我が謂いを述べる口が何度もつかえ、言葉をよどませながら、最後にはチッと舌打ちを捨てた。がしがしと頭をかき、眷属の仲間たちに向かって、お前らあとでぜってぇ殴る、と剣呑に言う。一発ずつで頼むと口々に返す声は、笑っていた。
「……火神」
呼ばれたのは、いつもの声、いつもの名。まっすぐに目を捉え、言う。
「お前は宿り者じゃない。力を使いこなせねぇのは、ガキの頃から長いこと自分の神域を離れて育っちまったからだ。お前は、火の性を司る真の神だ。……十五年前に、この森から奪われた、最後の」
俺たちの仲間だ。
一瞬、理解が追いつかずにいた。白い波が思考を覆い尽くし、逆巻いて、胸の中を打ち揺らしていった。やがて茫漠とした凪だけが残った地平の上に、静やかな声が落ちた。
「良かったですね、火神君。家族が見つかって」
「家族……」
黒子の言葉をほつりとおうむ返しにすると、そうそう! と横から声が上がり、肩をがしりと抱え込まれた。
「俺もう、言いたくて言いたくてさー! だって皆ホントに心配してたんだぜ! どこ探してもいないし、噂すら聞かないし、まさか本当に死んじまったんじゃないかって……」
「外国に行ってたなんてなぁ……そりゃ見つからないはずだよ」
「笠松さんからひょっとしたら、って連絡が来たときにはほとんど信じてなかったな。けど、すぐわかった。ああ無事だったんだ、帰ってきたんだなってさ」
三人が矢継ぎ早の言葉を並べ、後ろからぽんぽんと水戸部が頭を撫でてくる。あ、え、とどもるだけで声を返せずにいると、前からつかつかと日向が歩み寄ってきた。
「おら、散れ散れ。馬鹿にいっぺんに色々言うからわけわかんなくなっちまってるじゃねぇか。……黒子、何段階か落として説明してやってくれ」
「火神君、つまり君はこの森で生まれた火曜の、あ、いえ、えーと、むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがですね」
「どこまで落としてんだよ! さすがにわかる! ……ます!」
青筋立てて抗議し、ようやく人心地がつく。
そう、まだ正しく理解はできていないかもしれない。だが先の黒子の言葉で、わかった、とただただ思った。この森にどこか心懐かしい静穏を感じる理由。神樹の力に惹かれる理由。会ったばかりの彼らに深い親しみを感じ、その憂いに痛んだ理由。わけもわからぬまま受け入れていた事実が、確かな想いに彩られる。
仲間だから。
家族だから。
そうか、と口をついてこぼれた呟きとともにまた涙までもが落ちそうになって、火神は慌てて目頭を押さえた。