春夜ノ夢
「
ええ、あれはもう二十年ばかりも昔のことでございます。
こうして思い返しましても、果たして現のことでありましたのやら、はたまた夢の中に見た幻でありましたのやら、何も言い通せませんような根のない話ではございますが、今でも折に触れて、その不可思議な絵が目蓋の裏に過ぎていくのでございます。ことに、これこのような、花の香の薫る春の夕べには。
そうして、ああ確かにこの目にしたものであるのだと、確かに我が身があの場にあったのだと得心しましても、やがて
朝が来れば影は薄れて、また模糊としてゆらゆらと形なく、ただ胸の底に残るのです。
そうした次第でございますから、本当であれば人様にお聞かせするような話ではございませんのでしょうが、興あると仰るなら語りましょう。もはや、あの夜の彼との誓いも、とうに日が果てておりますれば。
初めに少しばかり、
私の身の上を申し上げます。
私は商家の出でありまして、親父の代にのれん分けを受けた呉服屋の三男坊として生まれ育ちました。名の響く大店とまでは行きませんながら、それなりの表を構えた店屋で、暮らし向きは豊かでありました。長男はだいぶん歳が離れておりまして、親の知己の廻船問屋に婿入りし、そこで番頭を務めていましたので、幼い頃からもっぱら遊び相手は二番目の兄でした。
この兄というのが札付きの不良者で、一応は大工の見習いなどをしておりましたが、日銭に不自由がないのを良いことに修行も真面目にせず、昼日中から女郎屋へ通うやら賭場へもぐるやら、同じごろつきの仲間たちと遊び歩いておりました。酒に酔っては迷惑狼藉を働きますので、町の人間からも親戚連中からも鼻つまみ者の扱いで、親父にすればさぞ頭の痛い放蕩息子であったろうと思います。たちの悪いことに生来身体が大きく力もあって、並の人間では暴れても止めることが適いませんでしたので、日頃からやりたい放題に騒ぐというわけなのでした。
私はと言えば、まるで反対に、頭でっかちで大人しく、なりも小さい子どもでした。そこが兄には良いからかいの種であったと見え、度々に小突かれては町を連れ回されておりました。末子ということもあってか、親も私には少々甘い顔をしましたもので、金の無心の口実にする便利もあったのでございましょう。
私は兄を好いてはおりませんでしたが、共にいると人が怯えたり避けたりしますので、自分まで強く偉くなったような心地がするのを愉快に思うところはありました。もちろん呑むだの打つだのの道楽には近寄りませんでしたが、兄やそのともがら達の尻馬に乗って歩いては得意を覚えるのでした。今思えば子どもながらに腰巾着の気取りで、あまり良い振る舞いとは申されぬものでしたのでしょうけれども……。
さて、そもそもの事の発端となりましたのが、この兄の思いつきでございました。
私の町は国の境にございまして、少しばかり西に行きますと、誠凛という土地に入ります。その一角を占める広い森に、奇妙な妖が住むらしい、との話を仲間の一人が仕入れてきたのが始まりでした。
――ええ、私の国にはそうした言い伝えの類がございませんでした。少なくとも、私どものような若輩の耳には届いておりませんでした。もしも今少しの見聞がございましたなら、あの日に起こったことも違っていたか、そもそも話のみに終わっていたか……。まあ、過ぎたことをくどくどと語っても仕方ありますまい。あるべくしてあったと今は思うばかりでございます。
話を元へ返しまして――噂を聞いた兄は、すぐにその“遊び”を思い立ちました。くだんの妖の森に赴いて、度胸試しをしようと言うのです。なんでもその森には途方もなく大きな古い樹があるらしい、どれほどのものだか拝んでやろう、妖がいるならこの手で捕らえて見世物にでもしてくれよう、と。
兄はいかにも良いことを思いついたというように嬉々として、私に誘いをかけて参りました。馬鹿らしいと思って断ると、化け物が怖いのだろう、餓鬼め意気地なしめ、と水を向けてきます。兄も知っていて言葉を使ったのでしょうが、私は元服を控えて子ども扱いに過敏な頃でありまして、迂闊にも頭に血が昇り、妖など恐れるものかと承服いたしました。そうして、初めに噂を持ってまいりました文七という仲間(貸本屋のせがれで、まさに兄の太鼓持ちのようなことをしておりました)を合わせた三人で、森へ行くことが決まりました。
その年なかなか明けぬままでいた冬が不意に緩びを見せた、陽春の日でございました。
家族には二つ川向こうの親類の家に泊まると偽って町を出、途中で一夜旅籠に寄り、明くる日、誠凛の土地へと入りました。ひとつ丘を過ぎれば、なるほどいくらもない場所に森の緑の影が広がっているのが見えました。途中の村で何気なく訊ねますと、北へ二里ばかり回って行けば、街道から中の拝殿を詣でる道が続いているとの答えでした。
「妖の森にお堂なんぞがあんのかィ」
兄が漏らした言葉に、村人は目を丸くしました。
「妖などとんでもない。あの森には神様がいらっしゃるのですよ」
真剣に言われて、今度はこちらが目を丸くし、笑いを吹く番でした。何しろ私どもには、神社仏閣のほかにいる化生の者など、妖も神も一緒でした。
村人は気を悪くしたようでそれ以上の説明を続けませんでしたが、我々が何やら悪巧んでいると気付いたのでしょう、去り際、戒めるようにひとこと言いました。
「悪いことは申しません。拝殿のほかに行くのはおやめなさい。春の森は人を惑わします――」
無論、その言葉を真剣に聞いた者はございません。どころか、兄は逆に興を引かれたようで、二里も余計に歩いてなどいられない、そこに見えているのだから横腹から入ってしまえばいい、と言い出しました。くだんの大樹というのが森の中心にあることは聞いておりましたので、元の目的からすれば妥当の案ではありました。
そうして陽が傾き始めるのを待ち(明るくては度胸試しにならぬというわけです)、我々は森の前に立ちました。
いざそれを目の前にして、確かに怖気づいたことを白状しなければなりません。
間近にしたその森は、道の向こうに眺めて想像したよりもはるかに広く、はるかに深いことをありありと感じさせる様相をしておりました。木々は一本一本が高く太く、枝を絡め合い葉を茂らせ、外界からの立ち入りを拒んでいるかのように見えました。人の手の入らない、全き自然のまま時を連ねてきた、ひとつの確たる世界がそこにありました。
畏れの唾を呑んだのは私だけではございません。おそらくは三人が三人とも、それぞれにしり込みを感じておりました。気弱な文七などは明らかに顔を曇らせ、兄を呼びます。
「
兄さん、ほンとに入るのかい?」
こう訊かれれば、逆にいいやとは答えられないのが人というものです。それをむしろ弾みにして、兄は初めの一歩を踏み出しました。
「何をおびえてやがる。行かねぇならここに置いてくぜ」
そう言って草の中に分け入っていくのを慌てて文七が追います。ままよと唱え、最後には私も黄昏に灼けた森の中へ身を投げました。
まさしくそれは、人の身の及ばぬ域でありました。
立ち並ぶ木々も、生い茂る草も、今までに見知った姿をしてはおりませんでした。それは森に暮らす者のためだけに生き、育ち、在るものでした。うねる根が一歩ごとに足を捕らえ、蔦が喉をかすめ、鋭い葉が容赦もなく肌を斬り、進む道を見極めようと目をこらすのを、千々に伸び絡む枝葉が素知らぬ顔で見下ろして参ります。
森の外ではっきりと見えていたはずの月は、中へ入った途端に翳ってしまい、灯りと言えば兄と文七の持つ手提げの提灯のみで、それすら草木の濃い影に遮られて足元を頼りなく照らすばかり。風は木立を抜けて悲鳴のような音を立て、その合間に鳥や獣の声が響くのですが、とても歓迎の色を聞き出だすことはできませんでした。
初めのうちに口々にしていた悪態すら、次第に消えていきました。行けども行けども人の跡どころか獣道すら見出せず、草を分け、枝を払いながら、がむしゃらに前へ進むよりありませんでした。何度私が(そしておそらく文七も)引き返そうと声を上げかけたかわかりませんが、あからさまに自棄を起こしていた兄にそんなことを言えば、拳とともに当たり散らされるのは火を見るより明らかでした。よしんばそれを恐れず告げたとして、さらに頑なになるばかりであるのもわかり切っておりました。
思えばなんと滑稽な時間だったことでしょう。森へ入る前にはほんのわずかにも思いよぎらなかった、しかし自明の顛末でした。町に生まれ、町に育った私たちには、本物の自然の恐ろしさというものがわかっていなかったのです。歩き出して二刻も経たぬうちに、行く道も帰る道も見失い、すっかり迷い果てておりました。
一度足を止めてしまうと、もはや再び踏み出すことはできませんでした。何しろどちらへ行けば良いのかまるでわからぬのです。互いに言葉もなく途方に暮れ、それぞれ気まずく目をそらすように周りを見渡し、すぐにひぃ、と高い悲鳴を発したのは文七でした。
「なんだ、どうしたィ」
「あ、あ、あそこに、今、白いもんが……」
震える手が指差す先へ顔を向けますが、何も見えません。
「なんもありゃしねェよ」
「いや、確かに見たんだ。木のあいだをすぅっ、って……」
馬鹿馬鹿しい、と断じかけたその時、今度は確かに、白い影が木立の向こうを過ぎっていくのが私たちにも見えました。あ、と声を漏らし、同時に足を踏み出した私と兄を、文七が驚いて呼びます。
「何してんだよ兄さん、幽霊だったらどうするんだ」
「馬鹿め、そんなものがいるか」
文七がそう言い、私たちが駆け始めたのは、その影が人の形をしていたためでした。迷い道に見つけた人間をそのまま去らせる手などありません。こんなところに分け入ってくるなど、我々のような無謀を除けば土地の者よりほかにないのですから、必ずや助けになってくれるはずでした。
人影との間にはだいぶん距離があり、草木を横へかき分けながら近付くのは難儀でしたが、兄が銅間声を幾度か張り上げますと、向こうもやがてこちらへ気付き、足を止めました。
藪を抜けた先に立っていたのは、短かな黒髪をした一人の男でした。
夜に際立つ白い着物は、お公家や宮司の着けるような、いわゆる(その時は名を存じませんでしたが)狩衣装束でした。歳の頃は若く、子どもとは言えぬまでも、兄や文七より幾らか下の青年というところでしょう。細い眉を寄せ、ややまなじりの切れ上がった目で、前に並んだ我々を検分するように見てきます。
「……なんだ、あんたら」
落とした声はさほど大きくもないながら、良く通って聞こえました。兄が肩で息をしながら答えます。
「外の土地のもんだが、迷っちまってよ。あんた、このへんのやつだろう。悪ぃが出る道を教えてくれ」
なんとも粗雑な物言いでございました。青年は兄よりもむしろ慌てて頭を下げた私のほうを見て、ひとつ息をつきました。
「このあたりじゃ人の道なんざない。今夜は動かないで休んで、夜が明けたら朝日の出たほうに向かってゆっくり歩け」
こちらの態度に合わせるようにぶっきら棒に言い、そのままきびすを返して行こうとします。おい待てよ、と兄がその背に呼びかけました。
「あんたはどこに行くんだ」
青年は答えません。おい、聞いてるのか、と苛立ちの声を幾度かくり返しますと、いかにも面倒そうに顔を半分振り向かせ、短く言いました。
「……帰るんだよ」
「あんたが帰って、なんで俺たちは森の真ん中で夜を越さなくちゃあならねェんだ」
言い交わしながらも青年が足を止めませんので、自然にその後を追う形になります。奇妙なことに、青年がゆっくりとした動作で進むのを、我々はほとんど駆け足にならねば追いかけることができませんでした。下の履物こそ動き良い野袴でしたが、脚絆も着けず、特別勇んで手足を出している様子もないというのに、ひらりとした着物の裾を枝に取られもせず、するすると木々を抜けていくのです。
しかし、おいそれと見逃すわけにも参りませんでした。ただその場にとどまることすら、私どもには応じがたい業になっておりました。なにせ、明らかに我らを歓待しない森には、そのうえ恐ろしい妖が住むというのです。一晩をじっと過ごすなど、身の毛もよだつ話でありました。
「付いてくるな」
振り向く口でそう言い打つ青年の足が、次第に鈍るのに気付きました。我々が追うためというよりは、何か別の理由で、酔ったよう、と申しましょうか、ほんの少しばかりふらつき始めたように見えました。
ここぞとばかりしゃにむに歩を速め、間近に迫った兄の手が届く前に、青年はそれをいなすようにして横へ避け、足を止めました。もう一度我々をねめつけるように眺め、ちっと舌打ちを落とします。
「……仕方ねぇ。来い」
そう言って、歩み目指していた森の先を一度見やり、深く深く、息をつきました。
青年が我々を連れて道を(と言っても、それはおそらく彼にしか見えていないものだったのでしょうが)脇にそれ、いくらも行かぬうちに、不意に草木の影が切れた、空け地とも言うべき空間に行き当たりました。部屋半分ほどの決して広くはない場でしたが、何にも触られずただまっすぐに立てるというだけで、それまでを考えれば随分と居心地の良さを感じました。
青年は空け地に踏み入ると、背を木の幹に預けてさっさと座り込んでしまいました。兄が不平を申し立てかけますと、
「どのみちここから休まねぇで森を出ようなんざ無理なんだよ。俺はもう今夜はここで寝る。どうしても行きたいなら、てめぇで勝手にしろ」
そう言い放ちます。朝になるまで動くなという忠告はどうあっても翻さないということでしょう。三人顔を見合わせましたが、結局は青年に従いその場に腰を下ろしました。確かに疲労困憊の限りでしたし、どうした心のわけか、青年といれば森の妖を恐れずに済むように思えたのです。
提灯の灯りだけではなんとも心もとなく、私は青年に断って空け地の真ん中に枯れ枝を集め、小さな火を起こしました。その時ようやく気付いたのですが、独り夜の森を歩いていたはずの青年は、灯りになるものを何ひとつとして持っておりませんでした。
それからしばらく、四名とも無言でした。
私は火がゆらゆらと立ち上がっては消えるのを見てぼうとしておりましたが、やがてふと、妙なものに気付きました。
それは、匂いでした。土や草木や枝の焦げる匂いとは別の、甘い香りがどこからか流れてきているのでした。花の香にも似ておりましたが、もっと清涼な、それでいてどこか胸を騒がせるような、奇妙に蠱惑的な匂いでございました。はて、と首を巡らせたかけところにひとすじの風が吹き、途端に香りが強くなります。風の吹いた方向に目を向ければ、青年の横顔がありました。
青年は初めと変わらず黙って坐しておりましたが、その姿に何やら妙な気配がかいま見えてきているように思えました。前に落とした視線は、何を見つめるものかひどくぼんやりとしており、我々に向けた鋭い目がすっかりなりをひそめておりました。時折手が緩慢に上がって首元をあおいだり、着物の裾をはたはたと揺らせたりと身に風を送るようにするのですが、久方ぶりに寒さの落ち着いた夜とは言え、たとえ重ね着をしていても、あおぐほど暑いとは到底思えません。具合でも悪いのかと顔を見やれば、血色が絶えているわけでもなく、むしろ頬が少し紅潮して見えます。
眺めるうちになぜだか落ち着かぬ気分になり、目を正面へ戻そうとした時、青年は身じろぎをして顎を少し上げ、はあ、と吐息をこぼしました。反らせた首筋に細い骨が浮き動くのを見て、私は我知らず息を呑んでおりました。鼻をくすぐる甘い香りは、確かに青年のほうから漂ってきていました。
その時の心地を、果たしてなんと申し上げれば良いのでしょう。青年の器量は決してまずくはなけれど、十人並の域を出ないものでしたし、少々風変わりではありましたが、服も髪も地味な装いと言っていいものでございました。しかしそんな彼がただ坐す姿に、そのまとう匂いに、私は言い知れぬ動揺と高揚を覚えたのです。そう、それは花や果実の芳気よりもずっと魅惑的な、生ける者が生ける者を誘う色香でございました。
力抜けてしどけなくとすら映る様子で木に寄りかかり、今や隠しきれぬ艶をあらわにしながら、青年は自らもそれを持て余しているようでした。昇る熱を吐き出そうというのか、荒い息をくり返す口が呼気に濡れて、花弁のように紅く見えました。
とてもそのまま見つめていられず、膝を抱えて目をよそにやりますと、青年を挟む形で私の正面に坐した兄が、隣の文七ににやにやと笑い囁いておりました。不躾な視線を送る先はもちろん狩衣の青年で、声は届かずとも、その会話におおよそ察しはつきました。兄は節操のない色好みで、どこの娘は具合が良い、どこの家へ間男に行ったなどといつも自慢げに話すのです。特別に男色を好むということはございませんでしたが、陰間茶屋へ足を運んだことも幾たびかあるようでした。
そんな次第でしたから、森に迷った不興も忘れ、予期せぬ景色を愉快に思っているのが明らかでありました。情けないとは申せど、どのみちあの場で平静にいることはできませんでしたでしょう。文七は兄に頷きつつ、どちらかと言えばおののくようにしながら青年を盗み見、赤面しておりました。漂う甘い香りは強くなるばかりでした。私どもは皆、素性もわからぬ青年が身にまとう、えも言われぬ芳香に憑かれ、魅入られていたのでございます。
やがて眺めるだけで済まぬ気になったと見え、おもむろに立ち上がった兄が、つかつかと青年の横まで歩いていき、後ろの木に手をついて、上に覆いかぶさるようにして口を開きました。
「よぉアンタ、やけに暑っ苦しそうじゃねェか」
着物を脱ぐなら手伝ってやるぜ、と嗤いぶくんで言います。顔を俯けていた青年は、その声にゆっくりと頭を起こし、前を見上げました。その瞬間、私は兄の喉が引きつれるように上下し、唾を呑むのをはっきりと見ました。
首を少し横にかたげたまま、青年は伏せがちにした目をとろりと開きました。気だるげに開いた目にはしかし、その緩慢な動作からは想像もしがたい、爛とした強い光が宿っていました。揺れる火を映す瞳は金色に染まっているかにさえ見え、餓え渇いた獣のそれのごとく夜闇に閃き、覗く者の魂を我に誘い寄せるのでした。
ふらりと動いて白い着物の肩にかかった兄の手を、青年はすぐに振り払いました。
「触るな」
声に先までのほどの強さはありませんでしたが、言葉は決然として揺らぎを持ちませんでした。その態度にさえ煽られるのか、兄は淫猥に笑って舌なめずりをし、青年を見下ろします。目は据わり、手足を震わせて息を荒げ、もはや尋常の様子ではありませんでした。香気を間近に浴びて、欲に頭が囚われてしまっていたのでしょう。
身を翻したのはほとんど同時で、一瞬、青年の身体は地面に組み伏せられたかのように見えましたが、やわらかな身ごなしで寸前に抜け出し、逆に搦め手を取るようにして後へ回ると、懐から取り出した寸鉄を兄の首元に突きつけました。
「ぐっ……」
「……馬鹿な真似しやがったら次は本気で喉笛貫くぞ」
青年が握っているのは折れた矢じりのようでした。こんな物でもその気になれば人ひとり殺せる、と吐き捨てるように言って手を引き、兄の身体を強く突き飛ばします。目方の重い身体はもんどりうって転がり、背をしたたかに木の幹に打ちました。
「くそっ」
「兄さん」
駆け寄った文七の手を借りて立ち上がると、その肩を捕まえるようにして乱暴に取り、来い、とのぼせの治まらぬ声で言って、兄は木々の影へ入って行きました。おおかた、気弱な舎弟をそそのかして、力づくに青年を手籠めにする心積もりであったのでございましょう。
残された私はなりゆきに呆然として、着物に付いた土を払っている青年をただ見上げておりました。すぐに身を整えた青年はこちらに向き直り、座り込む私に歩み寄って参りました。
「坊主」
呼びかけられ、私は背が跳ねるのをなんとかこらえて、はい、と答えました。子ども扱いの言葉も気になりませんでした。その頃の私は見た目以上に幼く見られることがほとんどでしたし、彼が私を「坊主」と呼ぶのは、なぜか不思議ではないような気がいたしました。目の前に立った青年は腰に提げていた輪型の籐細工を外して手に取り、何か糸のようなものを引き出して、指を広げたほどの長さのところで噛み切りましたが、その時に使った歯が妙に尖っていたのを憶えております。
「手ぇ出しな」
言われるまま左手を差し出しますと、青年は前に片膝をつき、切った糸を私の手首にくるりと巻きつけました。
「いいか。無事に家に帰りたけりゃ、森を出るまでこいつを絶対に外すんじゃねぇぞ。それと、巻き込まれたらしいのは災難だが、付き合う仲間はもう少し選びな」
青年の言葉に、私はわけもわからぬままかくかくと頷きを返しました。早く前から離れてほしかったのです。そのまま鼻先に甘い匂いを嗅いでいては、私まで兄のようにのぼせてしまいそうでした。
幸いと言うべきか、背後に枝を踏む音が聞こえましたので、青年はすぐにそちらへ振り向いて離れていきました。密談を済ませたのでしょう、下卑た笑いを貼り付けた兄と、緊張に肩を縮めた文七が並び立ち、口を開きかけた、その瞬間でした。
うおぉぅ、おおう。
闇を切り裂いて響き渡った音に、私たちは一斉に身を固めました。それはおそらく大型の獣の声でした。今にも鋭い爪や牙が木々の影から飛び出してくるように思い、恐怖で身動きができませんでした。しかし森の近くに住む者であれば、その声がそれなりの距離を置いて上がったものであることにすぐ気付いていたでしょう。
「……ったく、せっかちめ」
青年はおびえた様子もなく何事か口の中に呟き、兄たちから身をそむけました。
「やっぱ帰らねぇと駄目だ。外に出たけりゃ今度こそじっとしてろ」
じゃあな、と言って、空け地を後にし、再び森の中へと歩き出していきます。
「待ちやがれ」
兄はせっかくの獲物を逃してなるかとばかりに駆け出し、文七もまろぶようにしてそれに続きました。私は慌てて立ち上がって火を踏み消し、三人の後を追いました。青年の言う通りにそのまま留まっていれば、何も知らずに朝を迎え、家へ帰り着いていたのでしょうか。しかしその夜、私は独りにされるのに怯えて進み、森の顔をさらに奥深くまで覗くことになったのです。
青年の足はやはり少しふらついていましたが、今度は歩くのではなく半ば駆けるようにしており、しかも草木の壁をものともせずに行くのですから、我々との距離は見る間に開いていきました。そうして豆粒ほどになった背がいよいよ見えなくなろうという頃、異変は牙を剥きました。
ざわり、と風が色を変え、獣の声が口々に威嚇のうなりを発し、暗闇に無数の眼が開いてあたりを囲みました。ずっと同じに続いていたかに見えた草木の姿さえ、伸び上がり、うねって、蜘蛛の巣網のように、あるいは蛇の鎌首のように、形を奇怪に揺らがせました。それまで知らぬ顔をしていた森は、ふつふつと溜め込んでいた侵入者への怒りをあらわにし、その愚に哄笑を立て始めたのでした。
ひぃ、と叫んだ文七の袖を引いたのは、切り株に手足の生えたような奇妙な姿の小人でした。薄く光る胴長の獣が宙を舞って頬の横を過ぎ、手をついた木から垂れた実はばくりと裂けて人の顔を浮かべ、けたけたと嘲るように笑いました。
「やめろ、やめやがれ」
先頭の兄は無数の蔦と枝に取り巻かれ、必死にそれを打ち払いながらなんとか進んでおりました。私にはその木の枝が、客を手招く痩せさらばえた人の腕のように、絵草子に眺めた地獄の亡者の骨のように見えました。
お信じになりますでしょうか? 私は、それらの全てを後ろから、他人事に眺めていたのです。私の周りの森は変わらず知らぬ顔をしておりました。根に足を取られ、葉に肌を斬られることももうありませんでした。叫び、猛り、嗤っているのは、兄たち二人の歩む森ばかりなのでした。
私は恐怖すら忘れておりました。ただただ、目を開け、口を開け、それを眺めておりました。ふらふらと歩んでいく二人の先に立つ老木が、ふたつの身体がそれにぶつかる瞬前、太い幹の真ん中に裂けた口を開き、耳障りな悲鳴を呑み込んでまたゆっくりと閉じるまでを、左の手首にじわりと熱が宿っているのを感じながら、ただただ、眺めておりました。
やがてにわかに足元が揺らぎ、穴に落ちこんだような眩暈とともに、私は目を閉じました。そうして、次におそるおそる目蓋を上げた時には、古木の前ではなく、高い高い、途方もなく高い樹の懐に抱かれるように建った、人の屋敷の前に立ち尽くしていたのでした。
一瞬前までの喧騒が嘘のように、しんと静寂の下りた、穏やかな風の吹く場所でした。鬱蒼と茂る草木の列はなく、大きな大きな樹だけが天高く葉を揺らしておりました。兄と文七の姿を探しましたが、転げた提灯ひとつ以外には影も形もございません。
突然の出来事に目をさまよわせる中、不意に鼻の上をくすぐったのは、あの澄んだ甘やかな香りでした。今度こそ誘われるように、私は匂いの元を探して止まった足をまた前へ踏み出しました。
申し訳程度の竹垣に囲われた自然の庭に面した部屋の前、後ろの障子を開け放った濡れ縁の上に、青年は腰かけておりました。
私は竹垣のそばに植えられた灌木の陰にしゃがみ、離れてその様子を窺いました。近付くのがためらわれたのは、そこにあったのが狩衣の青年の姿だけではなかったためでした。横に崩れかかって座る青年の傍ら、その身を抱き支えるようにして、黒の着物(それもまた少し時代の古い、直衣装束でありました)の男が寄り添い座っておりました。
「東のほうが騒がしかったみたいだな。日向、本当に大丈夫だったのか?」
離れていても間を遮るものがほとんどございませんでしたため、濡れ縁の会話はこちらまでまっすぐに届きました。背から回した腕で青年の髪を撫でながら、直衣の男は低く穏やかな声で問いかけました。
「……んもねぇよ」
青年が短く答えます。直衣の男は濃い眉を少し寄せ、だから言ったのに、と口を尖らせるようにして呟きました。
「もうすぐ春になるんだから、無闇に外に出るなって」
「ちゃんと帰ってきたんだから、いいじゃねぇか……」
「俺が呼ばなかったら帰ってこないつもりだったろ」
「んー」
「こら、日向」
気なさげな青年の返事は、はぐらかそうとしているのでもなく、私たちといた時のけだるさがさらに進んだゆえでのようでした。直衣の男もそれがわかっているのでしょう、最後の呼びかけの声は笑っています。
「お前、いい匂いがする……」
「日向のほうがいい匂いだよ」
その一瞬、私は目を疑いました。とろりと声落として男の直衣の胸に顔をすり寄せるようにした青年の頭に、獣の耳が現れたのです。それにとどまらず、腰の後ろからは細長い黒毛の尾が生えておりました。ゆらゆらと左右に振れているところを見ると、生きた本物の尻尾です。男が驚いた様子もなくその尾を手に取り、根元からするりとひと撫ですると、今度は頭頂の耳がひく、と揺れました。
「や、ぅ」
「こんなやらしい匂いさせて、どれだけ雄を誘っても懲りないんだからなぁ、日向は」
「誘って、ねぇ……」
「無意識って一番たちが悪いんだぜ?」
「違……俺は、お前が、お前、だけ……」
甘えるように懐に入り、頬をすり寄せる仕草は、まさしく猫のものでありました。と同時に、熱を訴えて交情を誘う、盛りの獣の仕草でもありました。
「木吉、木吉……なぁ」
紅い舌を覗かせて男の逞しい首に接吻し、高く啼くようにねだってみせます。男は笑いましたが、その瞳にはあの時青年の目の中に見たのと同じ、強い飢渇と情慾の火が揺れておりました。
「日向」
「んっ……」
膝の上に抱き寄せた青年の狩衣の緒をほどいて脇へ落とし、甘く名を呼んで唇を重ね合わせたあと、男はそのまま口を顎から首へ、首からさらに下へと滑らせていき、長着の衿の間に顔をうずめるようにします。帯がゆるんで合わせがはだけ、陽に焼けていない白い肌を肉厚の舌が舐るのを見た瞬間、私は気が遠ざかったようになり、思わず前の木に身を支える手を置きました。
がさり、と葉ずれの音が鳴り、男が動きを止めました。しまったと思いましたが、すっかり頭に血の昇ってしまっていた私は、その場を逃げ出すことも、立ち上がることすら、できませんでした。
「……木吉?」
「ちょっと待っててくれな、日向」
床に落とした狩衣を拾って青年の肩にかけ、身を起こそうとするのを、すがる腕が止めます。
「やだ、行くな……」
「すぐ戻るから」
ぐずる青年をなだめるように額に口付け、頭を撫でてやってから、男は下にあった草履を引っかけてゆっくりとこちらへ歩んできます。私は後ろへ尻もちをついた格好で、ただ近付く影を見つめておりました。
灌木を挟んで前に立った男は、身の丈六尺はゆうにあろうという、大変な長躯の美丈夫でした。歩くあいだは眉を険しくさせていましたが、いざそばへ至って私の姿を見下ろすと、おや、とでも言うような、不思議げな顔を浮かべました。
「子ども……? そうか、さっきの騒ぎの」
独り言のように呟き、地面に投げていた私の手を見て頷きます。
「その弓弦の力で、こんなところまで付いて来ちまったんだな」
言葉の指す物を判じかねているうちに、男は灌木を回り込んで、私の隣にしゃがみました。大きな身体は私の二倍ほどもあるようでしたが、不思議に威圧感はさほど覚えませんでした。
「なあ、悪いけどここには入れられないんだ。お前も早く家に帰りたいだろ?」
問いかけられ、言葉もなく頷きます。男はよし、と言って口に指を含むと、空へ向かって二度高く笛を鳴らしました。すると少しの間ののち、向こうの木々の並びから、何やらの生き物の声のような高い音が聞こえて参りました。男がそちらを指し示して、
「ここからまっすぐ行くと、大きな柳の木がある。そこに案内を呼んだから、そいつに付いていけば森の外に出られるぞ」
俺たちの仲間だから安心していい、と笑って言います。私はもはや彼の言葉を一から信じる気になっておりました。顔も声も偽りなく優しげでしたし、私を助けてくれた狩衣の青年の「仲間」であるらしいのですから。
「ただし、向こう五年は、誰にも今夜見たもの、聞いたものの話をしないこと。言霊が禍を引き寄せるから。守れるか?」
はい、と答えた私の頭を大きな手が撫でてきます。ほとんどひと掴みにされて落ち着かない心地でいると、屋敷のほうから、まあぉ、と猫の切なげに啼く声が聞こえて参りました。
「せっかちだなぁ、日向は」
どこかで聞いたようなことを言いながらくすくすと笑って立ち上がり、きびすを返しかけた男は、あ、と声落としてもう一度私を見下ろしました。
「これに懲りたら、もう不用意に春の森に入るんじゃないぞ? 草木も獣も心が騒いで、人を誘い込んだり狂わせたりする」
一度言葉を区切り、それに、と続けた男の顔を見上げ、私は息を止めました。
「それに――あいつが誘っていいのは、俺だけだから」
ひそり、囁くように言い、くっと口の端を上げた男の背後に、巨大な獣の影が見えました。鳶色の瞳と鋭い牙の獰猛な輝きは、森が見せた怒りの息吹と同じ力をその切っ先に宿していました。
気付かぬうちに頷きをくり返していたのでしょう、男はすぐ柔和な笑みを顔に戻してじゃあと手を振り、屋敷へ歩き去って行きました。濡れ縁で待ち伸べられた青年の腕を取って軽々と抱き上げ、奥に閨の続く部屋へ入り、後ろ手に障子を閉めるまでをぼうと見送ってから、私は提灯ひとつを手にのろのろと歩き出しました。
教えられた柳の木には、一羽の鳥が待っておりました。私がそばまで行くとぱっと飛び立ち、少し先の木の上に止まります。それを追えば次へ、また次へ、というように、森を導いてくれるのでした。鳥は夜目が利かぬと言いますが、まるで難儀げな様子も見せず、こちらが追いつくのを見守るようにしています。いつの間にやら空には月が再び顔を出して煌々と照っており、青年のくれた縒り糸の腕輪の助けもあってでしょうか、驚くほど進みやすい道を一刻あまり歩いて、私はついに森の外へ出ることができたのでございました。
◇
来た時に寄った村へたどり着いた頃にはもう夜が明け始めていて、私は安堵の声とともに村人たちに迎えられました。どうやら、初めに出会った村人が私どものことを噂し、気にかけていたらしいのです。彼らは我が土地の貴き森とそこに住まう者たちのことを良く承知しているらしく、何も訊ねかけてはきませんでした。そうして少し休んでから、ちょうど用事があるという人間に連れられ、翌日の朝に自分の町へ帰りました。左手に巻いていた縒り糸は気付かぬ間に切れ落ちて、家に着くころにはどこへいったものやらわからなくなっておりました。
それから起きた騒ぎのことは取るにも足りぬことですので、詳しくは語りますまい。文七は半月ほどのち、川のそばに倒れているところを見つかりましたが、めっきり喋らなくなってしまい、老いた母親と静かに暮らしたそうでございます。
私の兄はと言えば、結局それから今に至るまで、杳として行方がわからず仕舞いでした。惜しむ声さえほとんど聞かれず、思えばむなしい生きざまでありましたことです。次世では何に生まれたにせよ、もはや夜の森には近付きまいと、そんなことを夢想するのでございます。
私はその翌年から縁あって高名な絵師の方に弟子入りし、こうして旅をしながら絵を描き歩いております。はい、先ほどあなたが廊下で拾って下さいましたその絵も、それから五年ばかり経ちました日に、ふと思い立って自ら筆を取ったものでございます。ちょうどその頃、あの森で戦が起きたと風の噂に聞き及びまして、収まらぬ胸の騒ぎを鎮めようと一晩紙に向かっておりました。
一昨年の戦の折、私は北のほうにおりましたもので、後で知人に話を聞いたのみとなりましたが、その中に、崖を駆ける巨大な狼と、それにまたがって弓を使う白い狩衣の青年の勲を謳った場面がありまして、何やら胸の沁みる思いがしたことでございます。
長々と拙い話にお付き合い頂き有難うございました。彼との約束はもう終わっているとは言え、墓の中まで持っていくつもりの一夜の夢でございましたが……何か、あなたにならば語っても許されるような思いがいたしました。
はなはだ御礼とも記念とも申し上げにくい物でございますが、この絵をお納めくださいませんでしょうか? いいえ、私にはもう、先ほどの謳いがあればほかに要らぬのです。もはやあの地を訪れることもないと思っております。もしこの先、あなたが旅の途中で近くに立ち寄るようなことがありましたなら、その時に燃やしてあの森の肥やしにでもしてくだされば……いえ、妙なお願いはしますまい。どうか、受け取ってはくださいませぬでしょうか――」
おやすみなさい、と言って立ち去った男を見送り、後に残された一枚の絵を手に取り上げる。色少なな図を眺めてさてどうしたものかと考えるうちに、一年あまり訪っていないその地のことが次々に脳裏に浮かんできた。
これを機会に訊ねてみようか。彼らは憶えているだろうか。この絵を見せたらどんな顔をするだろう。笑うだろうか、照れるだろうか。あの濡れ縁のある素朴な造りの神殿の壁に飾ってくれるだろうか。
そうと決めたなら、まず皆へのお土産を考えないと。
森の奥で共寝をする狼と猫という奇妙な題材の絵を帳面の中にしまい、黒子は朝起きに備えて隅に畳んでいた布団を伸ばした。
障子の外では春の盛りを迎えた猫が、番いを探して啼いているようであった。