ハツコイスクランブル
そうかこれが恋というものなのか、と、その言葉はあっけない軽やかさですとんと胸に落ちて、初めからそこにあったものと錯覚するほど自然に心の一部に納まった。そうか、そうか、とくり返し唱え、改めてSVOを整えた一文で、事態と自覚の明瞭化を促す。
(俺は、轟くんに恋をしてるんだ)
数学の公式のごとく明確でありつつ、雲か霞かのように掴みどころのない事実。
飯田天哉、ヒーロー志望の十七歳。現代に生きる青少年としてはあまりに遅い初恋の相手は、話が先へ転がる見込みのあまりに薄い、同い年の綺麗で優しい親友だった。
飯田が恋というものの知識を初めて得たのは、小学校に上がる前の年のことだった。当時はまだ母が父の事務所で働いており、留守となる日中は事務所に併設された託児施設に預けられて過ごしていた。施設には常勤の保育士もいたが、所長の小さな息子であり、デビュー間もなくして頭角を現し始めたインゲニウムの弟でもある「天哉くん」の存在は当然知れ渡っていて、ぜひ構ってやろうと事務所の子ども好きのサイドキック達が代わるがわる訪れては、進んで遊びや勉強の相手となってくれた。
幼少期から読書好きだった飯田のため、施設には月々に子ども用の本が増えていったが、それらも全て読み尽くしてしまったあとは、近所の図書館の児童文学の棚から小学生向けの少し厚い本を借りて、難しい漢字を教わりながら少しずつ読み進めた。私が読んであげる、いいや今日は僕が、お前ら俺の弟だぞ、報告書がまだですインゲニウム、などと周りでやんやと争いを繰り広げる大人たちを横目に読んだ何冊目かの本の中に、その言葉はあった。
「兄さん、コイとはなんだ?」
仕事を早上がりして施設まで迎えにきた兄におつかれさまと駆け寄り、腕へ抱き上げてもらいながら、ふと訊ねた。へ、と兄は目を丸くして、その日の世話係を勝ち取った同期入所の事務員へ不審の視線を向けた。
「人のかわいい弟に何を吹き込んでるんだよ」
「私じゃないですー。今日の本に出てきたんですー」
ねえ天哉くん、と朗らかに呼ぶ事務員の言葉に頷き、王子と姫の胸ときめかす異世界冒険譚のあらましを興奮して兄へ教える。
「それで、ついさっき読んでいたところで、ふたりがコイに落ちてしまったんだ。コイというのは穴やガケのようなものなのだろうか。ふたりをたすけなければ!」
「あぁー」
後ろで事務員がくすくす笑い、兄は何やら気の抜けた相槌を打った。そうして、違うぞ天哉、と頭を撫でてくれながら言う。
「恋っていうのはな、穴のことでも崖のことでもなくて、人の気持ちのことだ」
「きもち?」
「そう。誰かを特別に大事に思って好きになったり、自分を好きになってほしいと思ったりする気持ちを恋っていうんだ。恋に落ちたっていうのは、人を好きになったってこと。天哉には、誰か好きな人はいるか?」
「ぼくは兄さんがすきだ!」
なんの疑問も挟まず即答すると、兄はそうだなそうだよなぁ、と笑み崩れ、兄ちゃんもお前が好きだぞと言ってぐりぐりと頬擦りをしてきた。後ろで事務員が大げさに息をつく。
「デレデレ過ぎキモい」
「なんでお前らは良くて家族の俺は駄目なんだよっ。ありがとな、天哉。でも兄ちゃんや父さん母さんみたいな家族への好きは、恋じゃないんだよ」
「じゃあ、どんなのがコイなんだ?」
「んーそうだな、もっとドキドキしたり、甘くて重たるい感じだったり、浮かれることもしんどいこともあったり……天哉にはまだちっと難しいかもなぁ」
「む……そうか」
もう少し大人になったらきっとわかる、と、はぐらかすと言うよりは励ますように言われたので、じゃあ早く大人になれるよう頑張ろうと意気込んだのみで、それ以上の追及はしなかった。五歳児に恋愛のなんたるやを長々と語らずに済み、兄もほっとしていたことだろう。そのあとの飯田はさあ帰るかと歩き始めた兄に仕事の話を聞くのに夢中になって、事務員とのあいだに続いたいくつかの会話の中身とともに、恋の話もすぐに頭から抜け落ちてしまった。
「そんな期待してる風に言っておいて、ほんとに天哉くんが『恋をしてるんだ』なんて報せてきたら、うちの可愛い弟に手ぇ出しやがってとか言って反対するんじゃないのー?」
「天哉が選んだ子なら絶対いい子だから、そんな頭ごなしに反対しねえよ。ちゃんと相手を見てから判断する」
「うちの事務所の何人かが保育士にありがちな『初恋枠』狙ってるみたいだけど」
「いやいや嘘だろ。誰と誰と誰だリストくれ」
「あとさっきの本、実は王子と姫の恋は魔女のまやかしで生まれたもので、次の章からお付きの騎士が密かに王子を慕ってた、ってこともわかって泥沼の三角関係になるって」
「人のかわいい弟にそんな油っこいハナシ読ませんなよ!」
そんなこんなな大人たちの愛情をめいっぱいに受けて、心身ともに健全健康、やや箱入り気味に育った飯田は、成長するにつれてますますの向学心を発揮し、当然、「恋」に関する知識の量も幅も年々増え拡がった。「恋」は沢山の物語に登場し、そればかりを題とした作品もいくつもあった。傑作を読めば素直に感動し、意味を訊かれれば即座に答えられる言葉としてしかと身に付けたものの、小学校、中学校と少しずつ大人に近付いていっても、飯田にとってそれはあくまで本に書かれた言葉のままで、実体験を伴うものにはならなかった。自分よりずっと子どもっぽい級友でさえコイしたのどうのと訳知り顔に話すのに、と心がかりに思うことがないではなかったが、雄英高校に入学して兄のような立派なヒーローになる、と掲げた目標と、そのための勉学と訓練の前ではごく些細な問題だった。
努力が実り、晴れて雄英生となって一年半。社会にとっても飯田自身にとってもまさしく激動のものとなった日々は、ありとあらゆる物事と概念を揺らがせて、跡形もなく砕け散ったものもあれば、より硬く堅固になったものもあった。失ったものも新たに得たものも全てが糧となって心身に根付き、ようやく世界が穏やかさを取り戻し始めた頃には、確かな成長として実感できるようになっていた。
清濁併せて世の何もかもを見てしまったのではないかと錯覚するほどの多様多彩の学びの中に、それでもまだ含まれていなかったものがあったのだと判明したのは、十数年ぶりに間近に現れた「コイ」が、やあとも言わず不躾に胸の中に転がり込んで、すっかり腰を落ち着けてしまっていたことに気付いた時だった。
まず初めに疑ったのは眼鏡の損耗で、次に寮の照明機器の不具合、自身の視覚機構の疲労または疾患、逆流性食道炎、自律神経失調、ストレス性の不整脈、個性事故、と絵に描いたような勘違い恋愛初心者の思い込みをひとつひとつ弾いて、最後に残ったのが、「自分は友人の轟焦凍を視認すると周囲が眩しく見えて、話すと胸がぬくみ騒いで、笑みかけられると鼓動が速くなる」という事実、およびこれまでに読んだ沢山の物語の中から引っ張り出した、その原因とおぼしき事象に関する知識、すなわち「恋」という言葉だったのだ。
そうかこれが恋というものなのか、と
他人事のように頷いた頭に次に浮かんだのが、間一髪だった、という感想である。自身の変調について、なんらかの疾病であれば己のみならず周囲に迷惑をかけると思った飯田は、真っ先に保健室を訪れ、先の事象をそのまま説明し、リカバリーガールから「異状なし、強いて言えば心因性、時間経過にて治癒見込み」の診断を受けていた(なお「若いっていいねぇ」の言葉も同時に頂戴していたが、意図を汲み取れなかったため飯田は記憶していない)。しかし症状は治まるどころか拡大進行の気配さえ見せ始めたので、心因性ということであれば、誰か身近な相手に相談してみようかと思い悩んでいたところだったのだ。第一の相談先として考えたのが緑谷に麗日で、件の人物である轟とも親しいふたりに迂闊に話をして、万が一に恋の話だと察せられていたら、友人間を気まずくさせてしまうところだった。
当座の失敗は免れたが、しかしどうしたものだろう、と飯田は首をひねる。
胸に落ち着いた心の名前を、いやまさか、と否定すること自体は考えなかった。何しろ相手は轟焦凍である。つらい戦いを乗り越え二年生に進級してからその色男ぶりにますます磨きがかかり、上級生からも下級生からも熱視線を浴び、王子だ貴公子だなどと綽名され、出待ちの他校生を含む女子から月替わり、時に週替わりで告白を受け、あまりの人気ぶりに峰田が妬みで身体中の穴という穴から血が噴き出そうだと申告すればそれを本気に取って案じ、こういうやつだから憎み切れねェいっそ天狗になってくれと慟哭されるほどの筋金入りのモテ男・轟焦凍である。自分がその輪に加わったとして妙な話ではない、と飯田は思った。自分はそのうえ轟が家族想いの友人想いでとても純粋で優しい心を持った、実に尊敬すべき人間であることも良く知っているのだ。むしろなぜ今まで恋せずにいられたのかと疑問を感じるほどの勢いで納得をした。そうした友人への敬意はそのまま緑谷や麗日にも当てはまってしまうのだが、恋愛一年生に自覚したばかりのコイゴコロの因数分解など不可能であった。
納得して、さて問題はそこからである。物語の中で恋をした登場人物たちは、ある者は即日、ある者は数年越しにいわゆる「告白」をしていたが、その選択肢については初めから飯田の頭の中には存在しなかった。自分が知る限り、轟は手紙での告白も対面での告白も全て断っていたし、周りが囃すように一見慣れて涼しげでいて、その実いつも少し心苦しく思っているらしいこともわかっていた。よく知らない相手でさえそうなのだから、まして近しい友人に告白されて断るなど心苦しいどころの騒ぎではないだろう。飯田は轟に無用な謝罪をさせたくなかったし、困らせるのも苦しい思いをさせるのも嫌だった。なら簡単なことだ。告白しなければいい。それで終わる話であり、実際にそれで終わらせた。自覚からわずか数分で飯田の初恋の行き先はなくなった。複数の本の語るところによれば、初恋というものは成就しないのが普通であるらしく、であればもともと進もうが進むまいが同じ場所に落着するはずだった。
ところがなんとも興味深いことに、恋というのは告白しないと決めればそれで綺麗さっぱり消えてしまうものではなかったのである。行き先がなくなってしまったので、胸の中の恋心は居心地のよいソファかコタツでも引っ張り出したかして、しばしその場にのんびり居座ることに決めたらしい。結果、それまでと変わらず轟の姿を目にすればきらきらと輝いて見えたし、言葉を交わせば胸があたたかくなったし、微笑を向けられれば鼓動は速くなった。彼はこんなにも魅力的な人なのだから仕方がないな、と少し驚きながらも納得して、飯田もしばし自分の恋心との付き合いを続けることを受け入れた。
かくて始まった恋との同居生活は、存外悪くないものだった。所以がわかってしまえば種々の症状は大して煩わしくもなく、むしろ適度な昂揚は運動時のそれのように快くさえあった。轟の様子を見るだけで幸福感を得られて、反対に見られている時にはやる気が湧いた。短く語り交わすだけでその日を善き一日として終えられ、次の日を期待する活力となった。芦戸や葉隠が日頃あれほど浮き立って話題にするのも確かに頷けると、飯田は恋が及ぼす力の強さと豊かさに大いに感心した。
近しい友人に心を隠していることについて、全く後ろめたさを感じなかったと言えば嘘になる。自覚してすぐのうちは気後れや何やで多少おかしな態度を取ってしまったこともあった。しかし幾日かの自省と気の引き締め直しを経て、大きな問題が生じる前に平常運転に戻すことができたので、思い悩む理由もなくなってしまった。この一年半で身に付けた柔軟性の賜物だ、と飯田はひそかに誇ったが、もしもその教師となった友人やヒーローたちが一連の経緯を知れば、いやいや待て待てとさらなる助言を贈ってくれていたかもしれない。
自律自戒を忘れず付き合えば、決して悪い心ではない。でなければあれほど沢山の物語に描かれてはいないだろうし、実際、自身の調子はむしろ上向き加減で、相手の轟を含め、周りに迷惑を及ぼしているということもなさそうである。いずれ終わるのだから深刻になり過ぎることもなかろうと、自分史上一、二に入るのではないかというほどの楽観を働かせた飯田は、端的に言えば、人生初めての恋に浮かれていた。初めからあったように自然に心に納まったものだから、初めから無かったようにまた自然と消えていくのだろう、全て元通りになるのだろうと、のどかに信じて疑っていなかったのだ。
◇
「飯田悪ぃ、ノートが終わっちまったから購買寄ってく」
「ああ、実は俺も相澤先生に用があって職員室に寄っていこうと思っていたんだ。こちらのほうが時間がかかると思うから先に行っててくれ。いつもの席で合流しよう」
「わかった」
恋心との共生を始めてひと月、大きな事件や騒動もなく、日々はまずまず穏やかに過ぎていた。その日はレポート課題の資料収集を兼ねた図書館での勉強会の予定で、普段なら緑谷を交えた三人での集まりとなるのだが、今日発売の雑誌をいち早く手に入れたいとかで終業後すぐに外出してしまったため、ふたりだけで行うこととなった。
公共の場とは言え、恋する相手と向かい合わせでふたりきりという、ティーン向けの物語であれば間違いなく何か「事」の起こる大きなイベントとなるだろうシチュエーションを前にしても、飯田は特段の緊張や動揺は覚えなかった。恋心があろうと無かろうと、轟は親しい友人である。これまでにもふたりで行動する機会は幾度もあったし、今さら「事」の生じるような状況だなどとは思わなかった。真剣に本を読む姿を正面に見て「今日も轟くんは見目麗しく格好いいな」ぐらいのことは感じるだろうが、口や態度に出さねばいいだけの話だ。
轟と共に過ごせるのは嬉しい。今は彼に恋をしているから、少し余計に嬉しい。素晴らしいことではないか。飯田の認識はその程度だ。箱入り育ちの優等生の恋愛評点は、事ここに至っても今どきのませた小学生にすら完敗するような低さを叩き出していた。
教室の前で道を別れ、クラスで集めた書類を手に職員室へ向かったが、折悪しく相澤は来客対応に出てしまったとかで不在であった。仕方なく書類とともに補足のメモを相澤のデスクに残し、念のためプレゼント・マイクに伝言を頼んで場を後にする。まあこれなら轟をそう待たせずに済むだろう、と予想した通り、早足に校舎を出て図書館へと続く岐路に差しかかったところで、前方に紅白頭の後ろ姿を見つけた。ぱっとその周囲が明るさを増すように見え、視界にきらきらと光の粒を降らせる。芦戸あたりに見つかれば二度見三度見とともに捕まり、コイだコイに違いないと根掘り葉掘りにされただろうゆるみきった顔になりながら、飯田はもう一段速めかけた足をすんでで止めた。
おや、と思わず声が漏れる。右に折れればすぐに図書館、という三差路で、轟は少し足の運びを迷わせてから、真逆の左へと道を曲がっていった。寮へと続く正面へ向かっていったのなら、いつもの癖でそのまま歩いてしまったのだな全くうっかりさんめ、とでも思ってすぐに走って追いかけたのだが、一度確実に道を確かめたらしい仕草は「うっかり」で出るものではなかった。轟は何か目的があって反対の道へと向かったようだ。しかし。
(この先は確かまだ改修中だったと思うが)
奥に小規模の古い運動施設があった場所だが、先日一年生が演習に使って派手に損壊させてしまったとかで、週末に直す予定だ、とちょうど職員室で行き会ったセメントスが語っていた。立ち入り禁止にまではなっていなくとも、今は何かに利用できる場所ではない。現に周りを歩く生徒たちの中からその道を曲がっていったのは轟だけだ。
どうしたのだろう、と飯田は弾んだ心を一転心配に満たして再び足を前に動かし、轟のあとを追った。隠れて非行に、などということは轟に限ってあり得ないであろうし、この時勢にヴィランの侵入という線も輪をかけてあり得ない。だが念には念をという言葉もある。それに彼はこのあと自分と勉強をするはずだったのだから、なぜかよそへ行こうとしているのを引き留めておかしなことなどはないはずだと、心配の隙間にほんの少しの不服が混じり入っていることには気付いていない。
くり返しになるが、飯田は箱入り育ちの恋愛初心者であった。右を見ても真面目、左を見ても真面目な生徒ばかりの、全員お前みたいって一体どんな四角いガッコだったんだと級友たちに怪訝な顔をさせた(いたって普通の曲線もある中学だったが! と反論した)エリート校の出身で、学校は常に神聖な学びの場として存在するものだった。雄英に入り、そこで得られる勉学以外の経験の重要性を身に沁みて理解したものの、根本の認識は変わっていない。
だからして、校舎裏だの体育館裏だの誰も寄り付かない工事中の施設だの、そんな場所にクラス一のモテ男がひとり向かうという、見る者が見れば刹那の間で理解しハンカチを噛む光景が意味するところさえ、全くの想像の範疇外であった。
だから、道を進んでところどころ外壁に穴の空いた運動場の角を回り、それを目にした初めの十数秒は、全面に特大の朱書きで題名が書かれているようなフィクションめいた画を理解できず、あ、と素早くきびすを返して去る前に、これまたフィクションめいた台詞のひとつなぎを、区切りまで正確に聞いてしまった。
「あの、轟先輩、好きです」
もし良かったら、と続く言葉にまで注意して耳傾ける必要はなかった。いかなビギナーでもこれほどのド真ん中ストレートなら正しく受け取ることができる。これは告白というやつだ。轟が隔週程度のペースでお届けされているという例のイベントだ。もちろんそうしたことがあるという話は前々から知っていたが、靴箱から落ちる桃色の封筒はともかく、直接対峙の光景を目にするのは初めてのことだった。
いけない、すぐに立ち去らなくては、と、頭では理解しているのに、脚がその場に固まって動けなかった。それなりに距離があるうえ壁の角と太い木の陰に隠れる格好になっているので、おそらく向こうから気付かれることはない。だが部外者の自分が見聞きしてはならないやり取りだ。わかっている。わかっているのに、自慢の脚がエンストを起こしたように動いてくれない。目が離せない。
斜めにこちらを向いた女子の顔に見覚えはなかった。先輩、と呼んだことからして一年生の、サポート科であればまだ関わる機会もあろうから、おそらく普通科か経営科の生徒だろう。ふんわりとウェーブさせた薄色のセミロングの髪、長い睫毛に縁取られた大きな瞳、いかにも少女らしい、可憐と言っていいだろう容姿の女子生徒は、この場での決着の覚悟を決めているらしく、轟の返事をじっと待っている。
女子とは逆にこちらに背を向けて立つ轟の顔は飯田からはうかがえない。いつもの慣れて涼しげな表情で悪いと言って、顔を伏せがちにして心苦しさを隠すのだろうか。嫌だな、と飯田は盗み見の勝手と知りながら思った。轟にはいつでも穏やかにいてほしかった。できることなら、笑っていてほしかった。
飯田は恋愛初心者だったが、一年半、それなりに濃く深いと言っていいだろう付き合いを重ねた轟については良く知っている自信があった。胸襟を開いて話すことのできる親友だと思っていたし(と言うと変換をミスったのか「飯田くんがキョウキン開けたら色々大変なことになってしまう……」などとおののいた麗日に轟も真顔で頷いていたが)、終わりがわかっている今の恋心以外に隠し事はない。他のクラスメイトと較べても表情や声音の変化を良く読み取れたし、まあトドロキ中級者と言っていいぐらいにはなれたのではないか、とひそかに自負していた。
だから、そのあとのことばかりを心配して、まるで疑っていなかった。女子生徒の告白を、轟がこれまでと同じく断ることを。
だから。
「――いいぞ。付き合う」
張り詰めた空気がぴしりと鳴り割れたように思った次の間、耳慣れた低く響き良い声がそう端的に言って、どこへ、などとお定まりのコントを演じることもなく、前へ伸べた腕が名前も知らない女子生徒の肩を抱いて、背をかがめて顔を近付けて、そっと口を重ね合わせるまでを見た十数秒、何が起こったのか、まるで理解できなかった。
ゆっくりゆっくりと、否、実際にはほんの数瞬で、脳に流れ込んだ情報を噛み砕き、反芻し、飲み込む。え、と漏れ落ちた無機質な声が自分のものであることに気付いて、ようやく我に返り、知った。
恋は自然に消えはしない。
自ら消すか、誰か何かに消されてしまうか、そのどちらかでしか終わらない。
ひっ、とこぼれた音が驚きからの喉の痙攣によるものか、ただ意味のない反射の声か、それとも嗚咽か、悲鳴か、どれとも判別できないまま飯田は口を押さえ、緩慢に足を返して、次の一瞬でその場を逃げ出した。駆け出す音は聞こえたかもしれないが、ふたりがすぐに角まで出てきても姿を見られはしなかっただろう。
そのまま脇目も振らず走り走って、エンジンを噴かせてどこまでも行ってしまいたくなる前に、自ら足を止めた。常ならウォーミングアップにもならない距離であったというのに、息は切れ、胸は無秩序に高鳴っていて、落ち着いて場所を確認するまでに数十秒を要した。
「教室棟まで戻ってきてしまったのか……」
横手の部屋の窓にベッドカーテンが揺れているところを見るに、保健室の裏のあたりだ。逆側には運動場へと続く道がある。授業中は何かと賑わう場所だが、放課後の今は人通りもなく、ぽつりと落とした声は誰にも聞かれずに消え散った。
とぼとぼと無意識に歩を進め、灌木の前に置かれた木製のベンチに腰を下ろしたところで、はたと我に返る。
(いやいや、待ち合わせをしていたのに何をやってるんだ)
相澤が不在であったことを知らない轟は、教室での会話の通り飯田がいくらか遅れて合流するものと思っているだろうが、それでもせいぜい二、三十分程度の予想だろう。ただでさえ道を戻ってきてしまったというのに、こんなところに腰を落ち着けている場合ではない。早く図書館へ向かわなければ、と、頭では冷静に理解していながら、数分前の事態の再現のように、脚は頑固にその場から動こうとしなかった。
(早く行かないと、轟くんを待たせて――)
いや、待たせているだろうか? あんなことがあったあとで、じゃあこれから勉強会だから、などと言ってひとり場を立ち去れるものなのだろうか?
あんなこと、と自分の思考に流れた言葉を辿り、まだほとんど薄れていない記憶をたぐり寄せる。別人との見間違いであるとか、別の言葉との聞き違いであるとか、そういったいかにもな落ちではあり得ない。確かに見て、確かに聞いた。彼は、あの女子生徒に、
「付き合うと、言ってた」
言って、それで、だから、つまり。
(そうか)
(轟くんがあの女子と交際することになったんだから、俺は)
(俺は、失恋したんだ)
言葉がすとんと胸に落ちた瞬間、不意に視界がぼやけて、いつの間にか俯き見ていた地面がもやの向こうに消えた。眼鏡の損耗でも、視覚機構の疲労や疾患でもなく、ただレンズが濡れてしまっただけだった。ぱたぱたぽたぽたと目からあふれ落ちていく水が、水平になったレンズの内側に溜まってしまっただけだった。
おやおかしいな、と他人事のように思う。全てわかっていたことだ。どこにも行き先のない恋だったのだから、いつかは消えてなくなるしかなかったのだ。確かに想像より少し早かったし、突然だった。それでもいつかは落着すべきところに落着した、それだけのことだ。それだけのことなのに。
「失恋、してしまった……」
身の内にこぼしたはずの言葉が、喉をあふれて口から滑り出る。A組の仲間たちが聞けば「委員長風邪でも引いた?」と心配されそうなほど平坦で力のない声だった。
してしまった、だなんて偉そうに、何もしていないのだから当たり前だ、と冷静に諭す心と、嫌だ、つらい、哀しい、とみっともなく駄々をこねる心が胸の中でぶつかって、ぱたぱたぽたぽたと水滴となって外へ転がり落ちていく。もはや機能していない眼鏡を力の抜けた指で外し、顔を袖でぐいぐいと押さえ拭ったが、湧き出る涙は止まらず、今度は地面を濡らし始めた。
こんなことで泣くとはヒーローにあるまじき云々、などと己を叱咤にかかる言葉に、ヒーローでも泣くときゃ泣くだろ、といつかに聞いた彼の言葉が応えて、なおさらに涙腺を刺激する。それは自身に向けられたものではなかったが、ほかのいくつもの穏やかな声や表情とともにしかと記憶している。昏い路地裏で夢も何も見失い、無様に倒れた自分を照らし導いてくれた彼の言葉、理不尽と逆風ばかりの生まれを受け容れ、苦難に立ち向かい、懸命に前を目指す轟焦凍という同い年の綺麗で優しい親友は、あの日あの時からずっと、飯田にとって熱くあたたかい燈し火のような存在だ。
ただそばで過ごせればいいと思っていた。きらきらと輝くひとをそばで見て、言葉を交わして、時に笑い合って、それを幸せに感じることが恋なのだと思っていた。間違っていたわけではなかったが、それは半面でしかなかった。幼い頃、兄がちゃんと教えてくれていたのに。
『誰かを特別に大事に思って好きになったり、自分を好きになってほしいと思ったりする気持ち』
そうかこれが恋というものなのか、と、ようやく正しい理解を得て、改めて心の中を一文にまとめて、もう叶わないことを知る。
(俺は轟くんに、好きになってほしかったんだ)
彼の特別になりたかったんだと、声の代わりにまた涙が落ちて、音なく地面に染み入り消える。
初恋は成就しないというのも当然の話だ。右も左もわからず始めた恋が望ましい場所へまっすぐ行き着けるはずなどない。こんなことならもっと早く沢山恋をして、轟と出会う前にしっかり学んでおくのだった。ああ、だから峰田くんや上鳴くんはいつもそんな話をしているのだな、と、「あれはオイラがいたいけな園児の頃――」で始まる級友たちの武勇伝語りの様を思い出し、今度何かの機に教えを乞うことにしようと、いざ実行すれば「委員長熱でも出た?」などと真剣に案じられそうなことを考える。
これまでに読んだ恋物語、とりわけ幼い頃に接した絵物語のほとんど全てで、綺麗な王子様の相手は綺麗なお姫様だった。ちょうど今日、彼に告白した女子生徒のような、慎ましやかで可憐な少女たち。だからそう、きっとこうなることは初めから決まっていたのだ。彼が来る者拒まずをしない誠実な人だったから、少しのあいだ夢心地を分けてもらえた。初めての恋は決して悪いものではなかった。いい勉強になった。そう多少無理やりにでも飲み込んでしまえば、本当に気分が軽くなったように思えた。
(轟くんに行けなくなったと連絡と謝罪をしなくては)
軽くなった、とは言っても、ようやく心の整理が付いたに過ぎない。泣き濡れた顔もととのっておらず、今すぐには、ひょっとするとこれから幾日かのあいだは、まともに顔を合わせられそうになかった。轟は少し周囲の状況の機微に鈍いところもあるが、仲間の憂いの気配はしかと察せられる人間だ。こんなことで無用な心配をかけたくはない。何事もない態度で話せるようになる頃には、きっとこの恋心も胸から消え去って、全てが元通りになっていることだろう。
携帯を取り出し、メッセージアプリを立ち上げながらそんなことを考えて、本当にそうだろうかと自問を唱えて手を止める。本当に全て元通りになるのだろうか。元通りにできるのだろうか。この想いがいったいいつから心の一部になっていたのか、それさえわからないのに。もしあの路地裏が始まりなのだとしたら、それまでの自分が轟とどう向き合いどう話していたのか、思い出すことなどもはやできやしないのに。
参ったな、とまたねじがゆるんで流れ始めた涙とは裏腹、笑いが口の
端に浮かぶ。何もかもが後手で、自嘲して笑うことしかできなかった。ぽろぽろと奇妙な笑い泣きを落としながら、かすかに震える指で轟宛のメッセージをどうにか組み立て、まさに送信ボタンを押そうとした、その時だった。
「――飯田?」
耳馴染んだ声が、確かに自分の名を呼んだ。はたと顔を上げて横を振り向くと、綺麗な双つ色の瞳と視線がかち合って、小首傾げて浮かべた不思議げな表情が、驚きの色に塗り替えられていくのがはっきりと見えた。
どうしてこんなところに、という疑問まではおそらく全く同じで、相手にだけ追って現れた疑問は、きっとぐちゃぐちゃになったこちらの顔に対してのものだ。まともに合わせられないと考えたばかりの顔を飯田は咄嗟に前へ伏せたが、既に遅すぎた。本当に、何もかもが後手だ。
「飯田、泣いてんのか?」
十数歩の間を駆けてきた脚が目前に止まり、心配の声を発する。一番させたくなかった態度を取らせてしまったと悔やむ一方で、優しい気遣いに浮き立つ心があった。胸の片隅でのんびりしているなどと、とんでもない思い違いだった。本当は彼の言動を見聞きするたび、いつもこうして騒がしく一喜一憂していたのだ。
「……とどろきくん」
緩慢に顔を上げ、名を呼び返す。まだ未練がましく恋をしているふやけた声だった。今ここで全てが終わるかもしれない。早々に踏ん切りをつけられるという期待をもってそう考えたのに、ねじの壊れた腺からまた涙が数粒あふれ流れた。