◇


 時刻さかのぼって数分前、轟は校舎横の道をひとり歩いていた。
 手にした携帯の画面をちらと見やり、なんのメッセージ通知もないことを確認してポケットに戻す。どうも妙なこと続きだ、と首をひねりつつ、急き立つ気分に応じて足の運びを速めた。とにもかくにも、図書館で落ち合うはずだった相手が目的地を遠ざかる方向へ歩いていた理由は、会って訊けばすぐにわかるはずだ。ついでに一連の妙な出来事について話して、それは大変だったな、といつものようにねぎらってもらいたい。なんだいそのおかしな話はと笑われるだけでもそれはそれで構わない。
 世話焼き屋の委員長に甘やかされる(轟自身は知らないがクラスの仲間たちから「末っ子ろき」「カルガモの雛ろき」だのと呼ばれている)気構えを全開にして、運動場への角を曲がる。見間違いでなければこの先に、と予想した通り、探した友人の姿は灌木前にぽつんと設置されたベンチの上にあった。
 が。
「――飯田?」
 反射に漏れた声は思いのほか大きく疑問調子に響いて、相手をまっすぐこちらに振り向かせた。ぴしゃんと頭上に雷が落ちたような衝撃があって、思わずその顔を凝視する。これこそ見間違いではない。飯田が泣いている。まさしく青天の霹靂の画だった。これはアホになるのも仕方がない、と当人与り知らぬところで級友の個性の欠点をフォローしつつ、ベンチへ駆け寄る。
「飯田、泣いてんのか?」
 警戒を解くため婉曲から問いかけるなどというコミュニケーション巧者の真似事はできず、ずばりを訊く。幸い、友人たちへの警戒値常時ゼロの飯田は、不意の核心に眉を寄せることなく、とどろきくん、とただこちらの名を呼び応えた。いつも溌溂とした委員長らしからぬ弱々しい声に轟は大いに動揺した。動じ過ぎて逆に態度には表れ出なかったが、内心では「誰に泣かされたんだ探し出して吐かせて凍らす」ぐらいのことは考えた。貴公子の王子のと褒めそやされるクール系色男は見た目の印象に反して友情に篤く、爆発までの導火線が短かった。
 頬を流れる涙を袖使って似合わない雑さで拭ってから、飯田はゆるりと首を振った。
「……いや、大丈夫。なんでも」
「ないって顔じゃねぇだろ」
 言葉尻を掬って指摘する。飯田は普段から喜怒哀楽がはっきりとした涙もろい人間だが、泣きの要因にはあまり種類がなく、概ね感動か心配の二パターンだ。主に人のせいで、或いは人のために泣いている男と言える。
 だが、今のこれは違う。かつてその溌溂の裏に隠した翳りを看破した経験と、今日までのそれなりに濃く深い付き合いから、イイダ中級者程度の力は身に付けられたのではないかとひそかに自負する轟は、今目前にしている涙に見憶えがあった。あの昏い路地裏からとぼとぼと歩き出て、轟と緑谷に頭を垂れて落とした、自身の愚と無力を悔いる痛ましく哀しい涙にどこか似るこれは、人のためではなく自分のために流しているものだ。
「飯田」
 あの頃に比べれば少しは伸びたはずの、しかしまだまだ足りない対人技能では、せめて意識して穏やかに呼んでやることしかできなかったが、轟以上にやわらかさを伸ばした委員長はそうした前進を察してか、もう一度涙を拭って顔を上げ、わずかに表情をゆるめて頷いた。
「うん……まあ、あったんだ。ちょっとしたことが」
 曖昧な言葉でも、「感動的な本を読んでいて」などとごまかされなかっただけ悪くない。何があったんだとさらに踏み込み訊ねると、さすがに長い逡巡の間があったが、
「隠さず全部吐き出せって、いつもお前が言ってるだろ」
 君たちはたびたび面倒を独りで抱え込む、と心配のあまりに湯気立てて文句する飯田自身の言葉を小ざとく借りてやれば、白旗代わりの苦笑が浮かんだ。
「それを使うのはずるいぞ。……本当に、大したことではないんだ。我が身の不徳といったところでね。人に心配してもらうような話では」
「大したことねぇなら話せ」
「君、結構せっかちだよなあ」
 ふふ、と笑いがこぼれる。悪くない、と轟は内心頷いた。飯田は泣いているより笑っているほうがずっといい。であればこそこちらも心置きなく甘え頼っていられるというものだ、と、歳相応のあれこれに疲れた親へ花を渡す幼児が混ざった心境になりつつ、いきさつを語る気になったらしい友人の次の言葉を待つ。
 いきさつと言えば自分も話したいことがあったし、そもそもお互いなぜ図書館とは真逆のこんな場所に、と動揺を抜け出た思考が少し横道へそれた隙を縫うように、その言葉はあっけなく発された。
「情けない話なんだが、……失恋したんだ」
「は?」
 思わず漏れたせっかちな声は最後の音とほとんど被っていた。は? 脳内で一音をくり返す。正しく、は? である。こちらの耳がおかしくなったのでなければ、失恋、と聞こえた。失恋。文字通り恋に破れるという意味だ。つまり破れる恋があったのだ。飯田の中に。飯田の中に? 飯田が恋をしていた? A組一真面目でお堅い委員長が恋を? 次から次へと疑問符が湧きあふれ、轟の周囲は一瞬にしてひと昔前にネット上で流行した驚き顔の猫を浮かべる宇宙空間となった。
「……しつれん?」
「恥ずかしながら……」
 宇宙猫スペキャと化した轟の問いともつかない呟きに、飯田が律義に頷く。やはり幻聴などではなかったらしい。そのまま少し俯いた顔がかすかに赤く染まっているのを見て、轟の中のカルガモの雛が騒ぎ始める。聞いてないぞ飯田。なんで教えてくれなかったんだ飯田。ひょっとして知らなかったのは俺だけなのか飯田。ぴぃぴぃと鳴く心の一部をそのまま口にする。
「それ、ほかに誰か知ってるのか」
「え? ……ああいや、知らないよ。今日のことだし、その……誰にもそんな話をしたことはなかったから」
「緑谷にも麗日にもか」
「ああ」
 ならセーフだ。何に対してのアウトで何に対してのセーフなのか自分でもしかとは説明できないが、イイダ中級者としてはあの二名と情報量が並んでいれば合格と認識している。
「失恋……」
「あまり何度も言わないでくれよ、もう」
「振られたってことか」
 胸に住まうカルガモと幼児を抑えきれず、恥じ入って膝をもぞつかせる飯田にずけずけと訊ねてしまう。破れて泣くほどの恋なら相談のひとつもしてくれれば良かったのに。こんな場所で独り抱えずにすぐにでも連絡してくれれば良かったのに。つーか飯田を振るとか随分お高く止まってんなそいつ事の次第によっちゃ探し出して燃やす。スペキャになるほど衝撃を受けた轟の短い導火線は焼き切れる寸前であったが、内情を知る由もない飯田は遠慮のない問いに相応の不興も見せず、穏やかささえ感じる声音で答えた。
「いや、そもそも伝えていないし気付かれてもいないから、直接何かのやり取りがあったわけではないんだ。相手が別の人と交際を始めて、結果失恋したという次第で」
「告白しねぇのか? その……なんか当たって砕けろとかそういうの、あるだろ」
「当たる前にもう砕けているわけだからな……もともと結果はわかっていたことだし、するつもりもなかったんだ。ただまあ、なにぶん慣れないもので、思いのほか衝撃が大きかったという不甲斐ない話さ」
 整然と言い、だがもう大丈夫、良い学びになったよ、とらしい言葉とともに微笑してみせつつ、その目はまるでらしくなくずっと轟の顔を正面に見ようとしない。もう大丈夫、などとはとても思えなかった。
「飯田」
 再度呼びかけ、衝動的に伸ばした手で両肩を掴む。触れた上体がびくりと跳ねたが、頭は斜めに向いたままだ。
「俺の目ぇ見て、全部話せ」
 これもまた飯田の受け売りだった。日ごろは級友たちの悪戯や悪巧みを叱るにあたって「隠さず全て白状したまえ!」などと頭から湯気立てつつ言っているものだが、普段は無骨な型のレンズで印象の緩和されている、実は眼光強い赤目に真正面から覗かれるのはなかなかの迫力で、それなりの効果が伴うようである。轟の目は飯田よりさらに鋭い形をしているからして、効き目があるのではないかと思われた(が、飯田は轟の目に威圧感があるなどと言ったことはなく、むしろ綺麗のうつくしいのと率直に賛じられた記憶ばかりが甦ってうっかり心が和みかけてしまい、表情を引き締めるのに多少の努力を要した)。
 幼い頃から人の目を見て話すようしっかり躾けられたのだろう優等生は、しかし期待に反し、それでもなお頑なにこちらを見ようとしなかった。ゆるりと首が振られ、覇気のない声が落ちる。
「……すまない、無理だ」
「なんでだよ」
「君の顔が見られない」
 いささか予想外の返事だった。話せるかどうかではないのか。他人の顔が見たくないのか、それとも轟の顔が見たくないのか。後者であれば問題である。こちらは飯田の顔が見たいのだ。今すぐにでも。
 じりじりと焦がされていた導火線が弾みで一気に燃え尽き、友人が泣いている状況ではなく、状況を語ってくれない友人そのものに衝動が向かってしまった。掴んだ肩を一度前へ引き寄せ、次に背の方向へ強く押す。思惑通り、前後に大きく揺さぶられた身体は平衡を求めて反射に首を反らし、上方を仰いだ。
 ようやくまともに顔が見えた、と喜んだのも一瞬、すぐさま失態に気付いた。
「あ、」
 こぼれた声が予期せず重なる。こちらを見上げた顔の上に、不意の干渉に対する驚きの次に浮かんだのは、明確な痛みの表情だった。半端に空いた口がわなないて結ばれ、四角い目にじわりと水の膜が張って、瞳の赤をいっそう濃く色付かせたかと思う間もなく、下がった眦のふちから涙があふれ落ちる。その一部始終を目瞬きもせず凝視してしまった轟は、燃え上がった炎から逃げるがごとく咄嗟に身を引き、実際に熱が上がったのは自分の左だけだというのに、掴んだ肩から慌てて手を離した。
「悪ぃ、飯田」
 すぐに謝罪する。こちらもまたすぐに姿勢を戻した飯田は、地面へ俯かせた首を大きく幾度も振った。
「違う、轟くんは何も悪くないんだ。僕が勝手に……ごめん……」
 ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。やっちまった、と短慮を悔い、少ない引き出しから詫びと挽回の方法を探した。全員が人付き合いの師であるA組の仲間なら、こんな時どう場を好転させていただろうか。あれは違う、これも違う、と記憶の棚をひっくり返し、どうにか見つけ出したものを実践すべく、一度引いた足をまた前へ一歩踏み出す。
 ぽん、と手を乗せた頭はやはりその瞬間ほんの少し跳ね揺れたが、逃げの衝動を押し込めてそのまま撫でると、いくらもなく落ち着いて、両肩にまとい付いていた緊張も心なしかほどけたように見えた。ほっと一息しつつ、気付く。このやり方は、誰あろう、今それを受けている友人から学んだものである。実習か何かで失敗し、やらかしたぁ慰めていいんちょー、などと初めに泣きついたのは上鳴あたりだったろうか。互いに冗談交じりではあったのだろうが、よしよしと励まし大きな手で頭を撫で叩いてやる親のような所作が妙に好評を呼び、その後も人懐こい何名かがねだりに行く習いができた。轟は直接頼みはしなかったが、どうも横で眺める顔に何かしら出ていたらしく、君もかい、と笑って手を伸べてもらった回数は一度きりではない。
 飯田くんってお世話上手で犬のおまわりさんて感じだよね、と笑った葉隠の言葉に場の全員が同意していたが、より深々と頷いていたのは自分と緑谷だったはずである。この手に引いてもらえたならきっと大丈夫、という信頼に満ちたターボヒーローの雄姿を誰より間近で見て、人を導くその手のあたたかさを直に知った二名なのだから。
 ――などと、表面上はごく真剣に考え、手はうなだれた黒藍の頭を休みなく撫でてやっていたが、轟の内心はほとんどパニックの渦中にあった。犬のおまわりさんが迷子の仔犬になって涙している今、手を引いてやるのは自分だと胸を張りたいところだが、こちとら恋愛どころか人付き合い初心者なのだ。実習で失敗した仲間を励ますような行いですらまだ日々手探りであるのに、失恋した友人を慰めるなど、生まれたばかりの赤ん坊にちょっと今夜のカレーの材料買ってきてと頼むのと同レベルにハードルが高い。現状は言うなれば迷子の仔犬の周りで迷子の仔猫がおろおろうろうろとしているようなものである。案の定、手は出したものの、次に何を言い何を成せば良いのかまるでわからずにいる。
 ここからどうすりゃいいんだ、助けろ緑谷、助けてくれ、と頼もしい共通の友人の名を呼ぶ轟であったが、救国の英雄となった少年もその根は依然としてごく大衆的〝クソナード〟のままであったため、実際にこの場へ呼び出して救援を求めたところで、問題が恋愛沙汰である限り誰の頭にも解決策など浮かばず、迷子の仔犬と迷子の仔猫の輪に迷える仔羊が加わるだけで終わったに違いない。
 結果としてしばしのあいだ無言で友人の頭を撫で続けるという奇妙な時間が流れ、動揺の一周した轟の心中に「こいつの髪さらさらで撫で心地がいいな」などという埒もない感想が湧き始めた頃、こうしてばかりもいられない、と先に気を取り戻したらしい飯田が自ら動きを再開した。右左と掌底で目を強く拭い、手につまんでいた眼鏡をかけ直して、轟の指の下でゆっくりと顔を上げる。
「ありがとう、轟くん。本当にもう大丈夫だ」
 無理のかけらもないといった様子ではないものの、虚勢を感じるほどの声でもなかった。何より目がまっすぐこちらを見て、はっきりと轟の名を呼んだ。それだけでいくらか動揺が鎮まった。すっかり迷子の仔猫の心境になっていた轟は、そもそも自分が動揺する立場になかったことには気付いていない。
 そうか、と頷き、妙な心惜しさを残しながら緩慢に手を引き戻すと、飯田は拳を膝に乗せて背を伸ばし、折り目正しく頭を下げた。
「みっともない姿を見せてしまった。申し訳ない」
「そんなん、別になんでもねぇけど。……どうするんだよ、これから」
「どうとは?」
 首傾げて反問されて、自分で問いを発しておきながら、何を訊き、何を答えさせようと思ったのか、同じように疑問を覚えた。咄嗟に考えをまとめる前に、飯田がああと独り合点を進める。
「そうか、図書館に行くと言っていたのに……その、どうだろう、レポートの提出まではまだ時間もあるし、緑谷くんも不在だし、日を改めてまた三人で集まることにしては」
「ああ、それでいい」
 反射的に答えて、いや待て、と内心で制止をかける。何が「それでいい」だ、何も良くはない。いや、レポート云々については全く異論ないが、訊きたかったのはそんなことではない。ああほら見ろ、簡単に答えてしまったものだから飯田が早々に場をお開きにしようとしている。
「うん、では後ほど俺から緑谷くんに伝えておこう。今日はこれで解散ということで……妙なことで時間を使わせてしまってすまなかった。どうぞ君の用事に戻ってくれ」
 あれほどの揺らぎを見せたあとで、よくもここまで明解に整理された言葉が出てくるものだという感心半分、いいや待て終わるな流すなと表には出ない焦り半分を胸に、轟は押し込み強盗もかくやという勢いで心の中の引き出しという引き出しをひっくり返し、必死に次の言葉を探した。ここでまた迂闊な相槌を打っては本当にお開きになってしまう。そうなればもう飯田に踏み込む隙はないだろう。
 飯田は心の強い人間だ。外殻がと言うよりバネがつよいと評するのが正確だろうか。決して鈍感なわけではなく傷付くことも揺らぐこともあるが、そのたび氷の鎧ひとつで遷音速の加速度にすら耐えてしまう体幹と同じほど強靭な弾性を発揮し、まっすぐ前へ向き戻って、いっそうの強さと賢明さを得て驚くほど素早く立ち直ってしまう。あの路地裏での戦い以降の飯田のそうした特性については、その強さに援けられた者のひとりとして、轟も敬服することしきりだ。犬のおまわりさん、もといクラス委員長の名は伊達ではない。
 しかし、しかしである。この状況で、それと同じ現象が起きたらどうなるか。いや間違いなく起きるだろう。自ら「慣れない」と語った色恋沙汰について、今回の経験を教訓に学び、ことによると人に教えを乞いなどもして、あっという間に強く成長してしまうに違いない。するとどうなるか、である。恋愛沙汰を学んで強くなって次に生じる事態。A組の仲間たちいわく「色男の皮を被ったスーパー朴念仁」の轟にもさすがに想像がつく。
(飯田お前、誰かと付き合うのか?)
 迷子の仔猫からスペキャに戻り、まだ生じていない事態におののいて、轟は友の顔を愕然と見つめた。端整な顔である。そう、お手本のようなメガネだのカチカチのロボだのと茶化されもするが、飯田は男前なのだ。現に、学内でともに過ごしている際、「轟くんはいつも注目を集めて大変だな」と評する周囲からの視線のいくつかは、実際は轟ではなく飯田に向けられたものだ。特に手元の本やノートに黙々と集中している勉強会の折はそれが顕著になり、予定通り図書館で落ち合っていれば、今日もそうした目を感じられただろう。確かに、容姿に目を付けてのち大仰な話し方や動作を見て「あーうん、パス」などと勝手な裁定を下す者も少なくはないようだが、慣れればむしろ親しみやすさを感じられる愛嬌に思えるし、飯田の美点の最たるところは見てくれではなく中身である。特徴的な挙動に慣れるほどに近付き、堅く真面目なばかりではない情の篤さや懐の深さを知って、揺るぎない頼もしさを感じる一方で援け支えてやらねばとも思わせる、少し幼びて抜けた一面にも触れれば、誰もがそばを離れがたくなってしまうに決まっている。
 事程左様に魅力的な人間であるからして、飯田が今回の(いまだ信じがたい事象ではあるのだが)失恋を教訓に本気で色恋沙汰に取り組めば、相手の一人や二人すぐに得られてしまうのは目に見えている。が。
(そうだ、こいつ抜けたとこがあるから、半端にそういうことに強くなったらひょっとして危ないんじゃねぇか?)
 自分を例に取って主語を極北まで伸長するナード仕草を知らず知らずにキメつつ、轟の思考は急ピッチでさらに向こうプルスウルトラへと突き進む。なお自分の「抜けた」部分については棚上げ以前の問題としてあまり自覚していない。
 旧友たちの話や世間一般の通説から総合的に判断するに、色恋の世界というのは海千山千の妖怪が巣食う魔境のようなものであるらしい。いかに飯田が強く賢明な人間だとしても、一回の経験程度では思うに任せない舞台なのではなかろうか。飯田は幼い時分から歳の離れた兄やその同僚と親しんできた育ちのゆえか、少し年長の相手の言葉に追従しやすい、時に鵜呑みにさえする傾向がある。チョロいだの便利だのと揶揄されるそんな癖を、わかって悪用してくる不届きな輩もいるのではなかろうか。
 たとえば、髪を似合わない金に染め似合わない顎ヒゲを生やして黒く焼けた肌にごつい金のネックレスをひけらかしすぐに馴れ馴れしく肩へ組みかかってくるようなチャラいサーファーなどが相手でも、言葉巧みに誘われれば飯田は受け入れてしまうかもしれない。そうして二股どころか三股四股をかける相手にいいようにもてあそばれて、今回の失恋よりずっと酷く傷付いてしまうかもしれない――と、混沌の極みプルスケイオスへ落ちる轟の思考は、世の全てのモテ男を羨む峰田による偏見語りがソースの九割、という偏りに偏り抜いたものであったが、そこは色恋含む人付き合い初心者のこと、精査の術を持たないため充分に起こり得る事態として想像されていた。普段は石橋を叩きに叩く慎重な性格であるくせ、やにわに意を固めるや、ちらとも振り向かず思い切った方向へ全速力することのある飯田だ。傷心から立ち直りすぎて予想だにしない選択を採る可能性はゼロではない。
 高波寄せる海岸を背にした金パツ顎ヒゲにやけ顔のサーファーと、浅黒い腕に肩を抱かれて面映ゆげに頬を染めた飯田の姿を思い描いてしまい、それは困る、困るぞ飯田、と、友人の想像上の未来を案じつつ、自分の胸にも言いようのない嫌気けんき/rt>が湧き上がるのを感じ、轟はもやを払うように頭を振り立てた。凡百のサーファーの想像図などより飯田のほうがはるかに良い身体をしており、そこも似合わないし釣り合わないだろ、と勝手に決め込む。
「……轟くん?」
 以上ここまで全て妄想であり、わずか五秒の白日夢であった。それでも五秒停止したスペキャ轟を案じて名を呼びかけてきた飯田に(喜ばしいことに隣にサーファーの姿はない)、意味なく複数度の頷きを返してから、轟は告げた。
「役に立つかわからねぇけど、俺で良けりゃ、次は初めから相談に乗る」
 なんの話題か一瞬判じかねたようで、見下ろす四角い目がぱちくりと瞬き、やがて困ったように八の字に眉を寄せる。
「ありがとう。だがとても個人的な話だし、君にわざわざ面倒をかけるようなことでは」
「俺が同じことで相談したら、お前は聞いてくれるだろ」
 語尾を奪って口を挟めば、はたと息呑むように声が止まり、目線が横へ外れる。またも小ざとい言葉を使ったゆえのものとしても妙に反応が大きい。しかし重ねて問う前に、飯田はやや早口に答えた。
「ああ、もちろん聞くよ。俺も、……もし次があれば、君に相談する」
「おう」
 轟の考えた「相談」は相談と書いて審査と読むに近い意味合いのものであったが、自分でも今ひとつ気付いていないので当然飯田に伝わってはいない。とりあえずのところ、飯田を五股上等のサーファー(偏見のすがた)を含む不心得者にやすやすと渡してはなるまい、という決意だけは固まっていた。飯田は生まれも育ちも良く学力や品行、おまけに容姿も申し分ない世間一般で言うところの「優良物件」に違いなかったが、そんな評価のはるか以前に轟の親しい友人だ。強く賢明で、いつも真面目で心根の優しい、雄英に入って初めての友だという緑谷に並べて自分を親友と呼んでくれる、大切で大好きな人間なのだ。そんな大事な相手を横から気軽に持っていかれるなど、到底に我慢できたものでは――
 事ここにおいて、一時宇宙までプルスウルトラした轟の思考はようやく落ち着き、胸の底に納まっていた心に届き始めたが、続けざまに起きたふたつの出来事が、答えに手を伸ばすのを中断させてしまった。
「君は本当に優しいな……」
 ひとつは感じ入ったように発された飯田の言葉で、思わず思量の止まるほど、穏やかでいて心奪われるように甘く響く声だった。そうしてまた次の一瞬、轟がそれにふさわしい相槌を考える間もなく、事もなげに、同じ声で爆弾が投じられた。
「轟くんを好きになって、良かった」
「……は?」
 今度の一音はせっかちにはならず、ひと呼吸の間を置いて口から漏れた。たちまち宇宙へ逆戻りした轟キャットが凝視する先で、飯田はただ穏やかに笑んでいる。とろりとした目で何か夢でも見ているような、自分の発言をしかと理解しているかどうか怪しい、しかし無性に惹きつけられる表情を浮かべて、まるで独り言のように言葉を続ける。
「しかし、手が早過ぎるのはあまり感心しないな。彼女もいきなりで驚いたんじゃないか。まあ君のような人に触れられて悪い気のする人間などいないとは思うが……まだ学生なのだし、もっと手をつなぐとか、ハグとか、そういった段階を踏んで」
「待て飯田、待て」
 は? で埋め尽くされた宇宙空間をどうにか泳ぎ抜け、滔々と不可解を語る親友に待ったをかけるが、やはり半分がた無意識の言動であるのか、ん、と返る反応は妙に鈍い。つい先ほど自分が覗いたのと同じような白日夢を、飯田も見ているのかもしれない。
 これは今度こそ絶対に間違えてはならない場面だと轟は直感した。ここで下手を打てば本当に全て終わりになってしまう。飯田を夢から目覚めさせて、お開きになりかけている場の主導権を握って、妄想など入る余地のない言葉で告げなければならない。何を? 何か、ずっとこの胸の中にあるものを。
 飯田、と意を決してもう一度呼んだ。はずだった。
 いともたやすく遮られてしまったのは、幾十年にも渡って人の施療と指導を続けてきた女性の持つ迫力の賜物だったのだろうか。
「轟、ちょっとおいで」
 決して音高くはない声に呼ばれて、飯田ともども咄嗟に振り向く。保健室の窓から顔を出して手招くリカバリーガールの様子はいつものごとく柔和ながら、今取り込み中なのでと断りがたい空気を発している。幸いその気配は飯田にも伝わり覚醒と待機の構えを促したらしく、では俺はこれで、と去って行ってしまうことはなさそうに見えた。
 待ってろ、と念のため重ねて言い残し、早足に窓へと向かう。言葉は端的だった。
「さっきの件、イレイザーヘッドから連絡があったよ。応接室にいるから今から行ってきな」
「わかりました。ただ、今……」
 肩越しに振り向いて言いかけたものの、
「ちょうどいいから一緒に連れていきな」
 目から鼻へ抜けるといった風情の指示を受けて、はあ、と頷くしかなかった。仔細を訊ねる前に小柄な老女は中へ戻ってしまい、ベッドカーテンが健康人を追い払うように揺れる。首傾げつつきびす返してベンチへ戻ると、不安げに眉寄せた飯田がすぐに訊ねてきた。夢からは完全に覚めたようだが、同時に直前の自分の爆弾発言も忘れてしまったようだ。
「何かあったのかい? まさか怪我をしたんじゃ……」
「怪我はしてねぇ。なんかあったにはあったみてぇだが、俺にも良くわからねぇから今から聞きに行く」
 お前も来いと言って指示を伝え、同行を促すと、不思議げな顔を浮かべながらも素直に立ち上がる。これでしばらくそばを去られずに済む。年長者に従う性格のやつで良かったと、先とは真逆のことを考えた。


「ああ、来たか轟。に、……飯田?」
 靴を履き替えて校舎内に入り、指定された応接室のドアを叩くと、中から現れた相澤が二人の並びを見て怪訝な顔を浮かべた。リカバリーガールに言われて、と経緯を述べつつ飯田を振り向いた轟は、怪訝の理由がそこにないことに気が付いた。見馴染んですっかり違和感が抜け落ちていたが、長時間の落涙により飯田の顔には明らかな泣きの痕跡が残ってしまっていた。一方連れ立ってやって来た轟はまるで平然の顔で、「私が泣かせました」と札を掲げているような絵面になっている。とんだ濡れ衣である。
「俺ではないです」
「……そうか」
 先手を取って主張すると、相澤は数秒の沈思ののち追及を見せず頷いた。鋭い隻眼がまあこいつらだしな、と語っている。どちらの何に対する信頼なのか定かではないが、あって良かった、とひとまず安堵する。
「まあ入れ。こちら、ヒーロー科卒業生の市貝いちがいさんだ」
 並んで入室すると、奥のソファに座っていた男が立ち上がり、相澤の紹介に合わせて会釈をしたので、こちらも揃って礼を返した。相澤より五、六歳は年長だろうか。体格はそれなりだが、一見はあまりヒーロー然とはしていない。
「どうも初めまして。活躍はかねがね拝見しているよ。まさか直に会うことになるとは申し訳なかったな」
 朗らかに挨拶をした男は、頬を掻きつつ意味の取れない言葉を続けた。ひょっとして、と挟んだ轟の呟きに、横で相澤が頷く。
「リカバリーガールから報告を受けた。お前が保健室に運んだ一年、さっき目が覚めたそうだ。『轟先輩に信じられないような罵倒をされてショックで気を失ってしまった』ってことだが……」
「ええっ」
「は?」
 隣立つ飯田と驚きの声が重なった。どうも今日はこの反応ばかりをしているが、これこそ全く身に覚えがなかった。とんだ濡れ衣第二弾である。潔白を訴えようと踏み出す前に、まあ聞け、と相澤が制止の手を上げる。あとを継いだのは卒業生の市貝だった。
「いや、本当に申し訳ない……校内を案内いただいている時に、私の個性が暴発してしまって、壁越しにその子に当ててしまったようなんだ。図書館の近くの、ぼろぼろになった運動場のそばにいただろう?」
「あ、はい」
 肯定を返す。今日出くわした「妙なこと」の原因が、おぼろげに見えてきたようだ。市貝の話が続く。
「私の個性は『錯誤』と言って、口から発する超音波を聞いた相手に誤認識を起こさせるものなんだ。五感の先の脳神経に直接作用して、実際には見ても聞いてもいないものごとを、本当にあったかのように錯覚させる。対象が想定した『最悪の事態』をそのまま再現する形でね」
 効果が働く時間は対象との距離で前後するが、最長で二十秒程度だという。それだけあれば確実に相手を混乱でひるませることができるだろう。強い個性だな、とぽつり感想すると、実はそうでもなくてと苦笑が返った。
「連続使用には三十分のインターバルが必要だし、射程も指向性も今ひとつでどうにも使い勝手が悪くて……補う体術も苦手だったから結局ヒーローの道は一度諦めて、やけになって田舎に帰って、両親が手放しかけていた畑の面倒を見始めたんだよ。そうしたらそっちにのめり込んでしまってね。個性は鳥や害獣を追い払うのに使ってる」
 今では雄英も卸のお得意先のひとつさ、と笑い、今日はランチラッシュとの顔合わせのため訪問したのだと語った。
「寮の食事の準備でまだ手が離せないということだったから、代わりにイレイザーヘッドに校内を久々に見学させていただいてたんだ。あの古い運動場も色々思い出があって。中を覗かせてもらっていたら、急に天井が崩れてきて、回避の弾みで音波が……いや、実戦で使っていないとどうも駄目だね。後輩に個性をかけてしまうとは。ごめんよ」
 事のあらましと謝罪を聞き、そうか、と轟も頷いた。
「じゃあ俺も、あの一年と一緒にその個性にかかってたのか」
「らしいな。リカバリーガールからの報告によると、お前が見たのは……」
 確認の視線を受け、記憶を辿って話す。
「運動場の裏で話を聞いてたら、あの一年の頭が急に割れて、中から気持ち悪ぃ紐みてぇなもんが伸びてきて襲われかけて、応戦しようとしたら相手が一人で勝手にぶっ倒れました」
「いや随分えぐい錯覚だね?」
「さてはお前ら、ゆうべ寮のテレビであの映画を観てたな」
「なんか有精卵からの物体がどうこうとかいう……」
「遊星だ」
 名作古典SF特集と銘打ったロードショーの中身はほぼパニックホラーで、観ていた仲間たちからは幾度も悲鳴が上がっていたし、印象的な恐怖シーンは横目で眺めただけの轟の記憶にも残っていた。こうやって人の通らない場所で向き合って話してる最中に、相手の頭からあんな化け物が出てきたらたまんねぇな、などとぼんやり考えたことがそのまま脳に反映されたというわけだ。
「それでどうしようかと思って、一回表の道に戻ったらB組の宍田と拳藤が通りかかったんで、声かけて頼んで保健室まで運んでもらいました」
 気絶した人間を運ぶのは本来かなりの重労働だが、宍田は人ひとり軽々と背負うことのできる体格を誇るうえ、相手が女子生徒であってもやましさを感じさせない紳士的な性格をしている。そこにB組委員長の拳藤までいれば事態の証人としては万事間違いないといったところだ。この偶然の行き会いについては今日一番の幸運だったと言える。
「で、保健室で事情を話してたら、飯田が奥に歩いていくのが窓から見えたから、追っかけて――」
 本来は真っ先に話そうと思っていた、あのベンチで合流するまでの経緯を語りつつ隣に目をやり、思わぬ様子を見て声を呑む。先ほどから無言の飯田は、ぽかんと口を開けた状態で完全にフリーズしていた。両手を半端に上げた姿勢で凍り付いたまま、顔色だけが壊れた信号機のように赤くなったり青くなったりしている。ロボかよ、と轟は胸の中で呟いた。
「だ、大丈夫かい?」
 後輩の異変に気付いて心配の声を上げた市貝に、慣れた相澤が首振って応える。
「こいつはこれで大丈夫です。錯誤の残存はどうですか?」
「え、ええ。見たところ確かに二人とも最近かかった痕跡はありますが、残ってしまってはいないみたいです」
「二人とも……?」
 それは、と耳に残った言葉の説明を求めるには至らず、無制御下で発動した「錯誤」の影響が身体に残り、誤認が再現されてしまう可能性を危ぶんでいたのだと、この呼び出しの理由を最後に話は終わってしまった。
「お前が話した一年はまだ保健室に留めてるから、リカバリーガールから事情を伝えてもらっておく。……飯田、おい、飯田」
「……は、はいッ!」
 呼名こめいでようやく再起動のかかった飯田の応答は完全に裏返っていた。相澤は依然ロボ状態の教え子の顔を数秒見つめてふうとため息し、
「まあ、後遺が出なかったんなら別に全員分の報告がなくても構わん。逆に手間だ。もう行っていい」
 やる気なく追い立てるように手を振って、轟、と最後にこちらを呼んだ。
「そいつの世話は任せたぞ」
「あ、はい」
 言われなくともと答えるより先に昂揚を感じた。なんだかんだと飯田をクラスのリーダーとして重んじている相澤から、何らかの公認を得たような気分になったのだ。二人へ素早く礼をし、脇目も振らず部屋を出る。
 何らかとは何か、「二人ともかかった」とはつまりどういうことか、飯田はどこの誰への恋に破れたのか――もう答えそのものを口走るのを聞いた気がしないでもないが、ともかく今日噴出した全ての問題に蹴りをつけるべく、ぜんまい仕掛けのおもちゃのようにぎくしゃくと動く迷子の仔犬こと飯田の手を引いて、張り切りキャット轟はずんずんと廊下を進んだ。目指すは一路、ほかに邪魔者のいない、あの校舎裏のベンチだ。


       ○


 期待の通り、保健室裏のベンチには誰の姿もなかった。保健室には当然リカバリーガールと、ひょっとするとまだあの一年の女子生徒もいるかもしれないが、こちらの話し声の届く距離ではない。よしんば届いたとて、何やら察しているらしい老嬢と今度正式に断りの返事をする少女に聞かれてまずい話にはならないはずだ。
「お前も座れよ」
「あ、ああ」
 先にベンチに腰を下ろし、ここまでほぼ無言で着いてきた飯田にも着席を促す。積極的に着いてきたと言うよりは逐電の理由を考えかねてと言った様子の飯田であったが、まだ少しのぜんまい感を残しつつ、それでも素直に隣へ腰を下ろした。大柄な人間ひとりあいだに挟めそうな距離があるが、まあ構わない、と、地上に帰還し迷子を脱したキャットは少々調子に乗っている。
「さっきの話、大体わかったか?」
 ともあれ主導権は確保した。ここからは慎重に進まなければと、核心を避けて状況の確認から始める。今こそこの一年半で仲間たちに学んだ会話と社交の技能を活かす時だ。「轟くんファイト」である。
 クラスメイトたちのあたたかい応援を幻視しつつ発した問いに、飯田は硬い動作で頷いた。
「個性事故に遭ったというのは、理解した」
 誰が、とまでは言わないところに戸惑いが見て取れた。構わず、改めて今日のここまでの出来事を語る。
「ん。お前と別れて外に出る前に、靴箱から呼び出しの手紙が出てきて、今日このあと待ってるっつーから、図書館に行く前に済ませちまおうと思って、会ってた。で、さっき話した通り妙なもん見て、相手がぶっ倒れて、宍田たちに手伝ってもらって保健室に運んだ。途中で連絡できなかったのは悪ぃ」
 初めはこの「妙なもん」の話をしてお疲れと言ってもらい、笑わせてもやるつもりだったのに、思いもよらないところへ転がってしまったものだ。
「中で事情話してる時に窓からお前が見えたから、外出て声かけた」
 すると友人はぽろぽろとつらそうに泣いていて、しかも失恋しただなどととんでもないことを言い出して、轟を宇宙に放逐した。
「お前、あそこにいたのか? 俺が一年と会ってる時」
 切り出した問いに飯田はびくりと肩を揺らし、たっぷりの間を置いてから、また機械人形のごとくぎこちなく頷いた。そうして、すまない、と絞り出すように言う。
「相澤先生が不在で用事が早く終わったから、図書館の手前で君に追いついたんだ。そうしたら君が道をそれていって、何事かあったのかと思って……盗み聞きをするつもりはなかったんだ。だが結果的に、後ろからその、君が告白を受ける場面を見てしまった」
「何があった?」
「何、が、とは」
「お前も、あの個性にかかったんだろ」
 もはやここに間違いはあるまい。おそらく轟の後方に立っていたのだろう飯田にも、あの瞬間、「錯誤」がもたらされたのだ。轟が表の道に向かった際、飯田の姿はどこにも見えなかった。たとえ結果としての出歯亀がばれることとなったとて、飯田が女子生徒の倒れる場面を見て救護に動かないはずがない。つまり違う何かを見ていた。真面目な彼が咄嗟に場を離れ、待ち合わせの約束を違えて遠くのベンチに座り、ぽろぽろと涙を流すほどの何かを。
「俺が、見た、のは……」
「ん」
 切れぎれの言葉を焦らず待つ。導火線にまだ火は着いていない。
「君が、告白されて、付き合うと言って、あの女子生徒を抱きしめて、……キス、していた……」
「マジか」
 予想を超える吐露に思わず声が漏れた。それほど具体的で生々しい幻覚を見るものなのか。いや、ぐちゃぐちゃの化け物すら確かにそこに現れたと認識させたほどなのだから、人間の脳が想像し得る限りの場面は全て再現してしまうのだろう。この場合、化け物でも見たほうがすぐに違和感を生じるぶん、異変に気付きやすかったとさえ言える。
 あの瞬間、想定された最悪の事態が、轟にとっては昨晩のSFホラー映画の現実化、女子生徒にとっては轟からの拒絶と罵倒、そして飯田にとっては、と、ここまで材料が揃ってしまえば、あとの絵解きは実に容易だ。
 ませた小学生でも回答できそうな初級問題を、しかし恋愛初心者に違いない飯田は、必死の様相で頭を下げて、解無しにしようとする。
「轟くん、本当に申し訳ない……どうか、このことは内密にしてもらえないだろうか……」
「内密にったって、俺は知っちまったぞ」
 ほかの誰に隠そうという気なのかと思って言うと、怯えたように肩を縮め、
「……できれば、忘れてほしい」
 そんなことをぬかし始めたので、待て待て待て、と内心で身を乗り出した。できないしする気もない。前の言葉も含めていったい何を言い出すのかとは思ったが、そもそもそうしたことを思わせたこと自体、いまだ迷子の仔犬でいさせていること自体、おそらく話運びがうまくいっていない証拠だ。
「忘れねぇ」
 断言し、え、と上がった顔を真正面から見つめ返して、肩を掴むのではなく、膝に置かれていた手を取り上げ、自分の手に握った。
 クラスの話上手たちに倣って婉曲に進めようだとか、うっかり逃げられないように外堀を埋めてからだとか、そういう小賢しいことを考えたのが間違いだ。いつかはそうした話術も身に付けられればいいと思うが、今はその時ではない。もっとまっすぐありのまま話さなければ。
「忘れたら、お前、変なサーファーとかに引っかかるかもしれねぇだろ」
「サーファー……?」
 ありのままが過ぎて純粋に首を傾げられた。これは違った。今一番の真剣な心配に間違いないとしても、これは轟の見た白昼夢の話だ。想像ではなく現実の、これからの話をしなければならないのだ。轟くんファイト。
「お前の『最悪の想定』が俺があの一年と付き合うことで、それでお前が失恋したと思い込んで、俺に好きだって言って、それを全部忘れてくれってんなら、俺は絶対に忘れねぇ」
 揺れる赤い目を飯田の褒めてくれる自分の色違いの目で覗き込み、単刀直入に言葉を並べる。優しい仲間たちはいつも「轟はそれでいいか」と笑って受け入れてくれる。飯田だって、わかってくれる。少し言葉がつたなくとも受け取ってくれる。きっと、お互いにお互いを同じぐらいの深さで知っているから。
「俺は正直レンアイとか良くわかってねぇけど、お前が俺を好きでいてくれんならすげぇ嬉しいと思うし、お前の特別でいられりゃいいなと思う。いつも大事にしてくれるお前のこと、俺も大事にしたい。もっとお前のこと知りてぇし、一番そばにいたい」
 横から出てきた(出てきていない)サーファーだの顔しか見ない連中だのに持っていかせてなるものかと、握った手に力を込める。触れた場所からじわじわと広がる熱が胸の中まで沁み入って、ずいぶん前からそこにあったらしい心に今度こそようやく届いた。そうかこいつがそうなのか、と感動とともに頷く。
(俺、飯田に恋してんだ)
 どこか他人事のようでいて、確かに今ここにある心。握った手からも相手へ伝わるだろうかと改めて見つめた顔は、壊れた信号機どころか郵便ポストのように真っ赤だった。大きく開いた四角い目に四角い口がなおそれらしい。
「おっ……」
「お?」
 口が四角形を保ったままはくはくと開閉し、声が絞り出される。全体への反応かと思いきや、まず出てきたのは愕然の言葉だった。
「俺が、君に、好きだって、言った……?」
「そこか」
 やはりあの発言はなかったことになっていたようだ。確かにそれさえなければまだ「親友に自分より仲の良い恋人ができてほしくない」という『最悪の想定』に留まり、たとえば今朝の寝起きの轟ぐらいならごまかせていたかもしれない。だがプルスウルトラを経た轟はもうごまかされない。頷き、言ったぞ、とさらり答えた。正確には「好きになって良かった」だったが。思い出で終えるかのようなニュアンスに目をつぶれば、なおのこと想いの深い言葉だ。また少し調子に乗って口を開く。
「俺もお前のこと好きだぞ」
「ひえ」
 あ、これは間違ったかもしれねぇ、と同じテンポで告げてしまってから少々後悔した。片や夢心地で記憶逸失、片や溜めなし平熱に返事が悲鳴。とんだ告白合戦である。A組の仲間たちは「轟と飯田はそれでいいか」と言ってくれるだろうか。特段隠す気もないがあまり声高に喧伝しないほうがいいかもしれない。芦戸あたりのブーイングが大きそうである。
「あとは聞こえたか? もう一回言うか」
「だ、大丈夫だ! ちゃんと聞こえていた! ちゃんと……その……」
 真っ赤な顔を俯かせて、消え入りそうな、しかし夢や妄想や錯誤など入る余地のないはっきりとした声で、飯田は言った。
「僕も、とても嬉しい……君が好きで、君に好きになってほしかった。君の特別になりたかった」
 君に恋をしてたんだ、と、潤んだ赤の瞳に上目で笑みを贈られた瞬間、轟の心臓には数万本の集中線が殺到し、中心に古典的な形状の特大の矢が刺さった。お前たまに一人称変わるのなんなんだよそれ俺以外の前であんまやるなよなんかクルだろ、と今さらも今さらなことを思いながら、顔には一切の動揺を出さず、返事は「おう」のひと言で済ませかけた。が、さすがの恋愛初心者でもそれはまずいとわかったので、どうにか先を続けた。
「じゃあ、今日から好き同士で、恋人ってやつだな」
「こ、こい……うん……」
 確認の言葉にごく小さな頷きが返る。照れていつもの勢いが引っ込んだ飯田はかわいいな、これもあんまほかのやつには見せたくねぇ、と早速の彼氏面を胸中で披露し、しかしずっと見ているとポスト色のままのぼせて倒れてしまいそうだったので、惜しみつつ手を離し、座り位置をさりげなく詰めて前へ向き戻る。
「……まさかこんなことになるなんて、思わなかった」
「そうだな」
 それは本当にそうだと、感慨を分け合う。自分が呼び出されていなければ、相澤が不在で飯田の用事が早く終わっていなければ、揃って錯誤の個性にかかっていなければ。いったいいくつの偶然が重なって事ここに至ったのだろう。なんとも奇妙で慌ただしい時間だった、と感じ入るのとは別に、飯田は別の記憶も甦らせているらしく、落ち着きを取り戻した声でぽつぽつと語り出した。
「子どもの頃に読んだ本の中では、君みたいに綺麗な王子様は、みんなあの一年の女子生徒くんのような、綺麗なお姫様と恋をしていたから」
 まさか俺なんかを好きになってくれるなんて、と、自分を下げる見解には同意できなかったが、まあ飯田をか弱く可憐なお姫様に喩える者はいないだろうという点には頷ける。そうした物語に登場させるなら、凛々しい王国の騎士といったところだ、などと考えていると、まるでそんな想像を読み取ったかのように、言葉が続いた。
「……そういえば、少し変わった話があったな。人に読んでもらったから、まだ小学校に上がる前だったか……旅をしていた王子と隣国の姫がまやかしの魔法で恋に落ちるんだが、王子には友人でもあるお付きの騎士がいて、あとからその騎士が王子のことを好きだということがわかるんだ。あの頃は理解できなかったが、今思えばあれは三角関係というやつだな」
「子どもに読むもんじゃなくねぇか」
 どこかで聞いたような話だと思いながら感想を挟むと、現代童話という触れ込みのものだったからそうかもな、と苦笑が返る。
「そこからどうなるんだよ」
「確か王子と姫は国へ帰って結婚式を挙げることになって、騎士はふたりを祝福して故郷へ去っていくんだ。それで終わりではなかったと思うんだが、結末は憶えてなくて……なんだか哀しい話に思えて、途中で読むのをやめてしまったのかもしれない」
 現代的過ぎて子どもにトラウマを残しそうな物語だ。それで正解だったろう。今度実家に帰った時に探してみようかと飯田が言うので、やめておけと首を振った。
「おおかたその魔法だかまやかしだか使ったやつが別の国の敵の差し金で、結婚式の最中に攻め込んでくるとか、そういう話だろ」
「なるほど、確かにありそうだ」
 凶刃迫り、王子危うし、の場面に騎士が救けに飛び込んでくるという展開を夢想する。双方かろうじて生き残るか、王子をかばって騎士だけが斃れるか。それで王子が目を覚ますお定まりの流れならまあまだいいが、より現代ナイズされて、王子を救けて自分の想いに蹴りを付けた騎士が故郷に帰り、素朴で心優しい村娘と結ばれる結末なども考えられる。いやそれは困る、困るぞ飯田、と、轟の頭の中では片恋の騎士とつい今ほど得た恋人の姿が完全に重なっている。
「しかし無礼講の習いもあるだろうし、誓いの式の最中に攻め込まれたらたまったものではないな」
 今度飯田の実家の近くに仲の良い幼馴染などが住んでいないかそれとなく訊き出さねばなるまい、と決意する轟をよそに、すっかり現実的な思考を取り戻した飯田が現実的な見解を述べて首をひねる。なんの気なしにこぼれたその言葉に天啓を得て、名を呼んだ。
「なあ飯田」
「なんだい」
「キスしねぇか」
「……へぇっ?」
 一拍の間を置いて悲鳴とも奇声ともつかない裏返った声が上がり、こちらを向いた顔がみるみるうちに赤く染まる。
「ななななな、なんでっ?」
「誓いのやつ。ボケナス王子と一緒にされたくねぇから」
「ボ、ボケナス……?」
「村娘にもサーファーにも渡してやるつもりねぇし」
「一体どこから村娘とサーファーが……いや、えええっ?」
 男前が顔をポスト色にしてしゅぴしゅぴと混乱に手を踊らせる姿はやはり少し滑稽で、なんとも言えず愛嬌があって、可愛らしい。手刀が胸の前に揃ったタイミングを見計らい、合わせた両手の中に捕らえた。
「あ、」
「お前の『最悪の想定』、俺が付き合うって応えて、相手にキスしたんだろ? それ、お前がキスしたいってことじゃねぇのか?」
「えっ……」
 はたと動きが止まり、揺れる赤の瞳が驚きを張ってこちらを見つめる。
「違うか?」
「え、でも、そんな」
 わからない、そんなはっきりと考えていない、だが違うとは言い切れない。疑問と焦りと戸惑いの思考の流れが如実に見て取れる。轟が告白を受け入れるという事態を忌避したことは間違いなく、その後ろめたさも加わってきっぱりと否定ができないのだろう。
(飯田お前、やっぱりチョロくねぇか)
 自分ごときの話術に丸め込まれるのは相当である。先ほど自分で言っていたように、「轟くんの手が早かったら嫌だなあ」という想定の可能性もあるだろうに。先に気付いていたが、教えてやろうとは思わなかった。轟とて恋愛初心者だが、無知ではないし、時にはそれなりに小ざとい方法だって選べるのだ。
「飯田」
 礼儀正しく育った優等生は、相手から目を合わせられれば話を聞かねばと反射に耳を傾ける。そして世にふたつとないほど綺麗だなどと言う目で間近に覗いてやれば、もう視線を外すことなどできない。
「一生大切にする」
 強く賢明で真面目で優しい、轟の特別に大事な親友で恋人だ。ボケナス王子のようにその得がたさを忘れて去らせてなどやるものかと、誓いを述べて顔を寄せる。うん、とこぼれた泣き混じりの声に引かれるまま、唇を重ねた。特に味はしない。ただやわらかく、あたかかく、心地いい。
 角度を変えるだの、口を開き開かせるだの、初心者同士にそんな踏み込みは不可能だった。触れた場所から幸福が行き交うのを知って満足して、息が切れる前に離れた。見つめる顔は変わらず真っ赤だ。おそらくこちらもそれなりに赤くなっているだろう。
「……は」
「は?」
「初恋は、成就しないものだと、聞いた」
 ぱかぱかと四角い口を開閉し、ポスト色の迷子のロボ、もとい飯田は言う。
「そうなのか? 俺もお前が初めてだし、迷信だな」
「と、統計的にどうなのか、確認したことは、ない……」
 現実的な話題を持ち出して、どうにか心を落ち着かせようとしているらしい。初めてのキスの直後の会話だろうか、とは思うが、「飯田はそれでいい」とも思う。このまま行けば、遠からずイイダ上級者を名乗ることができるようになるかもしれない。
(……もう一回してぇ)
 ロボ仕草をぼんやりと眺めながら、思う。四角い口のやわらかさをもう一度味わいたい。今度は目を開けて顔を見ていたい。一歩も二歩も踏み込んだ深い口付けをしてみたい。さてどこまでなら許されるだろう。まだ中級者なので、多少バクチだ。
 とりあえずいったん我に返らせて、おそらく出てくる照れの表情を堪能して、それから考えるとしよう。なにせ初恋同士だ。少々の騒動は覚悟している。難しく悩むことなどない。考えねばならないのはこの大きくあたたかな手を離さないことだけだ。
 数日後、今日の女子生徒に「恋人いるから」と真正直に告げた断りの言葉が光の速さで校内を駆け渡る騒動が勃発し、当面それを匂わせる接触厳禁の令が当人から言い渡されるとはつゆ知らず、轟は浮き心地で握った手に力を込め、できて間もない恋人の名前を呼んだ。


end

←back

NOVEL MENU