「轟くん、今日の昼の番組なんだが……」
 夕飯前も夕飯中も話題に上らなかったため、傍らに寄り添う心地良さに気を取られて早々に忘れかかっていた話を、当たり前にと言うべきか、飯田は赦免事項として片付けてはいなかったらしい。油断していたというわけではないが、不意の切り出しにはたとして隣を見ると、逡巡のにじむ横顔があった。
 轟の反応に逆に慌てた様子で腕を振り、
「あ、ええと。別に怒っているとかそういうことではないから、構えなくてもいいぞ。ただ君のほうで何もなかっただろうかと思って」
 ちょっと聞きたかったんだ、と言う。
 今日の昼、と言われれば心当たりはただひとつ。トークコーナーのゲストとして呼ばれたテレビ番組だ。収録は十日ほど前のことで、自身の記憶はそろそろ薄れてきていたのだが、放送後に何やら話題となったらしく、現場で冷やかしのような声をいくつかかけられた。帰りがけにチェックしたニュースのエンタメ欄に自分と飯田のヒーロー名が躍っているのが目に入り、これはもしややらかしてしまったか、と頭を掻きつつ帰宅して、特に言及がなかったことに一度気を抜いてからの今である。
 じっと見つめても動揺は表れず、口にした言葉自体は嘘ではないらしい。ネットニュースを見たこと、周りと少し話をしたことを伝え、ほかには特に何も、と正直に答えると、そうかと頷きが返った。
「お前に何かあったのか?」
 こんな訊き方をしてくるということは、と考えて訊ね返せば、いやこちらも特にはと首が振られる。
「まあ同じように身内のあいだで多少話題になったり、たまたま観たのがよその施設内だったから、その……驚いて少し跡を残してしまったりはしたが、格別の問題は起きていない」
「嫌だったか?」
 だからこの話は終い、と流れてしまいそうなところへ間髪入れず問いを投げ込むと、ぱちぱちと四角い目が瞬き、困ったような苦笑が浮かんだ。図星を突いたということでもないようだが、何か思うところあって口に乗せた話なのだろうから、適当に済ませずきっちり解きほぐしておくべきだ。そうした企図が正しく伝わったのだろう、飯田は首を振りつつも、大丈夫だからと逃げてしまわずに言葉を続けた。
「決して嫌ではなかったよ。ただ少し気恥ずかしかったのと、予想以上に世間の話題になっていたから、君が何か困ったり嫌な思いをしたりしていないといいと思っただけさ。君のファンには情熱的な方も多いから」
 飯田は今日講演の仕事を受けていたとかで、ともに行動していた広報スタッフと番組を観たのち、熱狂的なファンとのトラブルについての雑談を交わしたのだという。それ自体は特定の人や事務所を指して語られた話ではなかったが、きっかけがきっかけであっただけに、轟の状況が気にかかってしまった、という経緯であったらしい。
「心配してくれんのは嬉しいけど、お前ちょっと俺のファンとか事務所とかに気ぃ回し過ぎだと思うぞ」
 応援してくれるファンは有難いし、もちろん大事だ。だがあくまでヒーロー・ショートとしての仕事、そして轟焦凍としての生活が先にあるもので、他者の応援や支援のために活動をしているわけではない。
 承認欲のために優先すべきものを見誤ってはならじ、と時に世へ警鐘を鳴らされるそうした原則を、飯田も当然に理解しているはずだが、生来の心配性と気遣い屋の性質ゆえか、時おり轟の周囲に対してこうした妙な遠慮を見せてくることがある。交際公表前はしてしかるべき配慮であったかもしれないが、公にパートナーとなった今ではやや過分な気兼ねではないか、と感じることもままあった。事務所の切り盛りに一日の長あっての思考なのだろうとはいえ、そこは引いてくれる必要などないと諭してやりたくなる。
「もし離婚しなきゃファンの数が十分の一になるとか言われても、俺は絶対お前と別れたりしないからな」
 もとより比較するものではない、くだらない喩えだと承知していて、あえてそう断言した。飯田は少し目を見張ってみせたものの、想いは誤りなく伝わってくれたと見え、何を馬鹿なことをとも言わず、ありがとう、とはにかんで笑った。
「ただまあその、色々と説明が必要になってしまうこともあるし、単純に恥ずかしく感じることもあるから、そういう話をするとわかっている時は、事前に教えておいてもらえると有難いかな」
 無理にとは言わないが、とまだ気後れを見せているが、轟自身、昔からその手の開示の加減に難があることは重々自覚している。先にここからここまでと確認できるのであれば、こちらもそのほうが助かるというものだ。
 特に反発も感じずわかったと応じると、頷きののち、飯田は「本当はね」とさらに言葉を続けた。
「君がああやっていつもはっきり言ってくれるのはとても嬉しいし、俺もそういう風に話せたらなと……そうできなくて申し訳ないと、思うこともあるんだ」
 今日も少し回りくどい話をしてしまってね、結果的に伝わってくれたようだが、と、講演仕事中に何やらあったらしいことを語り、
「彼は俺のパートナーだって、世界一素敵な恋人だって、高いビルの屋上から世界に向けて叫びたくなることだってあるんだよ」
 そんなことを言って、また頬染めて笑う。
「だから本当はいつでも自由に話してほしいし、誰に気を遣う必要もないはずだとわかってる。人気商売なのだからと言われたって、咎められる筋合いなんてないとわかってる。だが、俺の話ばかりをされた時の君のファンの方の気持ちも想像できてしまうんだ。俺も君が大好きだから」
 色々とすまない、と頭を下げられて、細かいことを気にするな、叫びたいなら叫べばいい、などと感覚だけで応えてしまうほど、この頃は自分も馬鹿ではない。正直なところ飯田はそんなことをしてもさほどおかしくないキャラクターではあると思うが、それは十年近い付き合いを経た身内の見方であり、今は空転気味の勢い以上に品行方正、謹厳実直の印象強いヒーローとして、百名を超える人間を引っ張る立場だ。何かと戯言を吐いて世間を動揺させては、ああショートかなるほど、と許される位置に気付けば収まってしまった自分とは違う。
 得てきたものが異なるだけで、どちらが良くどちらが悪いという話ではない。無理をしてまで守る必要はないが、無理をしてまで変わる必要もない。疑問や違和感が生じた時は、こうして何度でも言葉を交わせばいい。
「お前がそんな風に思ってくれてるってわかってるし、ちゃんと伝えてくれるから俺は全然いいぞ」
 謝ってくれる必要はねぇけど、とその点だけは忘れず否定し、少し目線を下げた顔に手を伸ばしてこちらを向かせ、ほの赤い肌を撫ぜて言う。
「そうやって照れてる顔かわいいから、できたら独り占めしてぇし」
「んえ、……もう」
 放り込んだ戯言に目を開き、口尖らせつつ、逃げずにそのまま頬を預けてくる。許可とみなしてさらに身を寄せ、尖った唇にちょんとキスをしてやれば、ふふ、とやわらかに笑いが落ちた。
 調子付いて抱き寄せた身体から清かな甘酸が香り、早鳴りする鼓動とともに、胸に詰まった心のかたちを教える。豊かな言葉よりもさらに雄弁な、問わずして語られ続ける尽きせぬ愛だ。
 そのあたたかさを存分に享受し、ふんふんと鼻を鳴らしながら首筋へすり寄っていると、くすぐったげに揺れる言葉が落ちてきた。
「大人になっても猫みたいだなあ、君は」
 よしよしと頭を撫でる指が心地良いので、はや幾度目かの指摘に今さらの反論はしない。でも本当に猫じゃなくて良かった、と続いた声にのみ首を傾げると、
「君がオレンジ嫌いじゃなくて良かった、ってことさ」
 じきこのソファにも匂いが染み付いてしまうかもしれない、と照れくさげに言うので、ぜひそうなればいいと再び重ねた口の中で応えながら、許可を求める問答は省略し、もはやゆるびきった身体をやわらかな座面へ笑って組み伏せてやった。


end.

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