ジュブナイル・ロマンス


「二人とも、来てくれてありがとう! この度はよろしくお願いします」
「こちらこそ頼ってくれてありがとう、緑谷くん!」
「俺らで力になれりゃいいな。よろしく」
「時間になったら相澤先生も来るから、座ってゆっくりしてて」
 戸が開くや破顔して立ち上がった旧友の出迎えにこちらも笑みで応え、どうぞ、と示された椅子に並んで腰かけた。年季の入った調度の揃う部屋を懐かしげに見渡して、しみじみと飯田が言う。
「招かれる側で雄英の応接室を使ったのは初めてかもしれないな」
「そういやそうだな」
「前にA組の皆に来てもらった時は会議室だったもんね」
 頷き応えつつ奥の給湯器でてきぱきと茶を淹れる姿は、この場で教師として過ごした年月の長さを物語っている。去る春先にはあれこれと噂が広まり、近く卒業となってしまうのかと不安を募らせていた生徒もいたそうで、教師を続けることを改めて報告した際には祭りじみた騒ぎが起きたらしい。
「調整のほう、うまく行ってるか」
 出された湯呑みを礼述べて取り上げ、温かい緑茶をひと口含んでから、机を挟んで向かいに座った緑谷に訊ねかける。少々言葉の足りない問いだったが、気の回る親友は昔と変わらず自然に意を汲んで答えてくれた。
「兼業スケジュールの調整もアーマーのほうもどっちも順調だよ。アーマーは先月からラボで追加ギミックの最終テストをさせてもらってる。凄く多機能だから全部を使いこなすのにはまだまだかかりそうだけど、マニュアルを読んでるだけでも面白くて……」
 半年前の同窓会の場でもA組の仲間たちへの謝意とともに力説していた、特製装備の素晴らしさを再度述べ、けど、と言う。
「なんか使えば使うほど体積の半分ぐらいはセンサーとリサーチャーとデータ収集機構だなって改めて……」
「モニタリング兼ねてんの聞いた発目が試作上げまくって、爆豪が煽って端から積んだらしいからな」
「メリッサさんが途中で気付いて止めに入っていなければ、さらに開発期間と費用が増大していた可能性があったと聞いたな……もちろん今後の社会のためにもなる革新的発明ではあるのだが」
 使途不明のボタンなどがあったら押さないことをお勧めするぞ緑谷くん、と真剣な顔で助言をする飯田に、ともに発目製アイテムにまつわる苦い記憶を複数持っているという緑谷も真剣な顔で頷く。
 名の出た幼馴染の態度からの連想で、アーマーの適合に伴い、今後いくつかの声に応じて活動のペースを変える予定はあるのかと、話題は一歩先へと進んだ。
「今のところは考えてないかな。熱心に誘ってくれる人がいたり、興味を引かれる話をもらったりもするけど、まだまだ今の場所でやりたいことがあるから。ほかの先生たちに教わることも沢山あるし、雄英の外でも教師っていう立場でもっと何かできることがないかと思って、根津校長に色々と相談させてもらってるんだ」
 もうすっかり頭が上がらないよ、と頭をかく緑谷へ、素晴らしい志だ、と飯田が拳を握って賛を贈る。
「ここ最近は教育の方面も年々要請事項が増えて、大変な忙しさだということだからな。ヒーロー活動との両立は大変だと思うが、緑谷くんならきっとやり遂げられるさ! 俺も何かあればいつでも協力するぞ」
「俺たちも、な」
「うむ、そうだな!」
「ありがとう。飯田くん、轟くん」
 三人で未来を語り、笑い合う時間を妙に懐かしく感じた。緑谷が教師という先行きを選び、道の分かたれた卒業の日から今日までの交流に違和感を覚えながら過ごしていたわけでは決してないが、あの頃の夢がまた揃ってここにあると思うと、やはり感慨もひとしおだ。
 うっかり目尻ににじんだらしい涙を慌ててぬぐい、賛辞への照れもあったのか、今のところそんな感じかな、と緑谷は自ら話を切り上げ、こちらへ水を向けた。
「ふたりは忙しいんじゃない? 飯田くんはカウンセリングチームアップで全国巡りの真っ最中だし、轟くんもしょっちゅう遠出してるみたいだし……今回の件も実は割とダメもとで、お願いしたいけどスケジュール的に難しいだろうなと思ってたんだよ」
 気遣わしげに訊ねてくるのに、飯田と視線を交わして頷き合ってから、順に答えた。
「俺はまあ予定通りっつーか、もともと今年は仕事増やすつもりだったからな。事件対応なんかはあり次第だが、今まで溜まってたもんの片付けだの引継ぎだのも一気にやってる」
「え、そうなんだ」
「俺のチームアップに合わせてくれたんだ。初年度が出張ばかりで最も忙しくなるのは前々から予想できていたから、今こなしておけることをやれるだけやる年にしてしまおうかって」
 大きな緑の目がさらに大きく丸くなり、ああ、と驚きと感心の入り混じった声を発した。家族や事務所の中心人員など、身内以外には話していなかった実状であるため、どんな反応があるかと思っていたが、親友には納得の行く説明であったらしい。
「なんか最近あれこれ書かれたり言われたりしてっからな。仲が冷えたんじゃねぇかとか、別居間近かとか、三年目の離婚がどうとか」
「ああ。周りから色々と声をかけられることも増えて……緑谷くんにも心配をさせてしまっていただろうか?」
 眉を八の字に下げて飯田が問うと、緑谷はぶんぶんと首を振り、そこは全然、と取り繕いの無いことが如実に伝わる真顔で答えた。
「ふたりの仲の心配はしてなかったよ! 全くこれっぽっちも! 離婚とか日本沈没してもないと思ってた!」
「そ、そうか。逆に恐縮だな……」
「そこまで言われると絶対別れられねぇな」
 まあ別れる気などさらさらないが、という想いは口に出さずとも共通のものであったろう。揃って頷けば、でもと緑谷が言葉を続けた。
「凄く忙しそうで、大変じゃないかなとは思ってたよ。ふたりでゆっくりする時間とかちゃんと取れてるかなって」
 こちらの言葉も決してうわべだけのものではない、真剣に友人たちの暮らしを案じてくれていた本音だとわかる。何しろ卒業と同時に恋人として飯田と付き合い始めてから、どころか在学中の時分(級友たちいわく「総天然両片想い無自覚ハートぶつけ合い期」)から、幾度も、下手をすると幾十度にもわたって世話をかけ続けてきた、それこそ頭の上がらない親友だ。自分たちもごまかさず、ありのままを答えた。
「まあ、さすがに去年と比べりゃそういう暇は減っちゃいるが、しんどいってほどじゃねぇよ」
「うむ。遠方にいる際も定期的に連絡を取って話すようにしているし、俺のチームアップのほうの巡見はスケジュールがあらかじめ決まっているから、事前に伝えてもらえばある程度の調整は利くんだ。それに全国行脚とは言っても、もともとその地域に何週も続けて留まるような強行軍というわけではないからな。家にはちゃんと帰れているよ」
 今春から本格的な活動を開始したカウンセリングチームアップの主要メンバーに名を連ねる四名のうち、飯田は大所帯の事務所チームの、八百万は複数の事業提携機関の監督責任を担う立場であることもあり、プロジェクトの主幹を務める麗日とその補佐の蛙吹ほどには現場に張り付いていないのだと、轟も以前受けた説明が改めてなされる。
「チームのことは兄やほかのメンバーにも任せられるし、ずっと帯同してもいいと申し出ていたんだが、麗日くんに叱られてしまって。『自分がしんどい、寂しいと思っている人が、他人のしんどいや寂しいを受け止めることなんてできんよ』とね」
 自分が幸せでいるからこそつらい人に寄り添ってあげられる、共に道を考えてあげられるのだと諭されて、実にその通りだと納得した、と飯田は笑って語った。
「お前向きの仕事だよな」
「うん、そうだよね」
「だといいんだが」
 プロジェクトのために学んで資格の取得もしたが、いざ現場へ出るとまだまだ不足ばかりだ、と巡見のたび疲労と反省と向学心をいっぱいに抱え帰ってくるパートナーの姿に、轟は日々感心しきりでいる。緑谷の選んだ教育の道にしろ、他者に真摯に向き合い、寄り添い、言葉と力を尽くすことのできる人間だからこそ成せる活動だろう。おそらく一番近く長くその恩恵に預かってきた身としては、二人の資質を疑う余地などない。
 真剣に肯定の意の頷きを返すと、こちらもまた照れを感じたのか(そうしたところは良く似ている親友たちだ、と思う)、飯田はひとつこほんと咳払いをして、まあ、とさらなる説明を挟んだ。
「俺の仕事の半分は麗日くんたちのボディガードだからな」
 無論あの三人が後れを取る相手などそうそうないとは思うが、若い女性というだけで軽視したり妙なことを考えたりするような嘆かわしい輩もいるようでな、と、ひゅんひゅんと腕振って言う。
 飯田がいてくれて実際とても助かっている、とは、先日別の仕事で現場を同じくした蛙吹から受けた報告だ。性差なき社会、機会と評価の平等が謳われる現代でも、明確な人数比率の差もあり、女性ヒーローを男性以上にアイドル的、タレント的にまなざす風潮はいまだ根強く存在している。ことに教育分野では旧態依然とした文化の残る現場が他より多く、事前の打ち合わせの最中にさえ、所詮は社会経験の乏しい若い女性、などとあからさまな侮りの態度を見せる人間もいるらしい。そんな折、飯田が横から存在を示すことで空気を変えてくれるのだという。
 三代五名にわたって続くヒーローの血筋と縁故の後ろ盾、兄から継いだ高名な事務所の申し分ない実績と認知度、そして何より謹厳実直を地で行く当人の気質と毅然とした振る舞いが、そうした場では実に効果的に働くようだ。飯田自身、たとえ七光りと言われようと、自分の負うものが皆のためになるなら惜しまず使っていくつもりだと語っている。
 さらに具合の良いことに、飯田は世間へ公表済みの既婚者だ(そしてその相手は誰あろう自分だ、とこれを思うたびに轟は我が身の幸福を噛み締めている)。女性三名のチームに独身の男性一名、となると下世話な声が引きも切らなかったであろうと容易に想像がつき、そうした勘繰りが軽減される点でも大変に適役であったと言える。
「いまだに麗日たちのファンから礼が来るよな」
「うむ、有難いことだ。ぜひとも信頼に応えなくてはな」
 チームアップの発表がなされてすぐ集まった声の中に、危惧したやっかみやそしりの言葉はごく少なく、大半がそれぞれのファンからの「私の大好きなヒーローをよろしくお願いします」という激励のメッセージだった。これも品行方正なヒーローとして知られる当人の日頃の行いと、「あの雄英A組」のリーダーとして彼を名指し続けてきた級友たちからの評価の積み重ねの賜物だろう。
 さすが飯田くんだね、と率直に賛辞を発した友へ、今度は照れを見せず、飯田が言葉を返した。
「君はどうだい」
「え?」
「君も、俺を君の大事な人を護るに足る人間だと思ってくれるかい」
 静やかに問いかけて、赤い瞳がまっすぐに友を見つめる。
 これぞ対等と言うのだろうと、学生時分からその関係を信頼の到達点のひとつとして眺め、学びの対象とも思っていた親友たちは、今も少しの視線の交錯で相手の心を察するようだ。そうして、これははっきりと言葉にすべきことと決めたらしい緑谷は、驚きの反応をすぐに収め、背すじを伸ばして改めて飯田へ正対し、深々と頭を下げながら言った。
「うん。三人を……麗日さんを、よろしくお願いします、インゲニウム」
「うむ、任された! 不届き者には指一本触れさせないから、どうか安心してくれ」
 一転朗笑を浮かべ、広い胸を叩いて依頼を請け負った飯田に、緑谷も轟もつられ笑った。自分たちにとってこれほど頼もしい了解の言葉は、世にいくつもないというものである。


 それぞれの近況の話題がひと段落したちょうどその時、部屋の戸が叩かれ、緑谷の応答ののち開いたドアから、また久方ぶりにまみえる顔が覗いた。瞬時に立ち上がった飯田に一手遅れて轟も腰を上げ、揃って礼をする。
「相澤先生、ご無沙汰しておりました!」
「お久しぶりです」
「ああ、よく来たな」
 まあ楽にして座れ、と促され、再度着席する。相も変わらず教師らしからぬ猫背の元担任は、先の同窓会には話の主役となるだろう轟と緑谷への配慮か「お前らだけで気にせずやれ」と言って姿を見せなかったため、前回まともに顔を合わせたのは、二年前の飯田との結婚式の折だった。主賓の座にも上らずスピーチはこれまた緑谷ひとりへ譲った恩師に、頼み込んで乾杯の発声だけ務めてもらったのだが、さすがに身綺麗にしていたその時より、髪を適当に流し無精ヒゲを生やした今日の風貌のほうが、逆にこれぞイレイザーヘッドという懐かしさを感じさせた。
「緑谷に任せようとも思ったんだが、雄英と警察からの正式な依頼だからな。形だけで悪いが同席させてもらう。よろしく頼む」
 今日ここに自分たちが訪れた第一の所以たる、ヒーロー・ショートとインゲニウムへの事件対応依頼。卒業生、元同級生への気軽な頼みではなく、二名のプロヒーローへの正式オファーであることを確固とさせるため、上層の立場(と言うと当人は柄でもないという顔をするが)の人間として顔を出してくれる運びとなったらしい。双方に必要な気遣いに感謝し、よろしくお願いします、と再び頭を下げた。
「じゃあ、早速今回の依頼について説明します。正式受諾まで出せない情報がほとんどで、事前の送付資料では伝わらない部分ばかりだったと思うから、少し長くなるけど初めから話をさせてもらうね」
「ああ。生徒たちが関わる事件だということだったしな」
「正直ほとんどわかってねぇから、一から頼む」
 うん、と頷き、テーブル端に設置されたディスプレイに手元の資料を映し出して、緑谷はヒーローであり教導者である雄英教師の顔で話し始めた。
 〝事件〟の始まりはおよそ半年前、ちょうど年度の改まった春の時節であったと目されている。発覚と雄英内での事態把握に今日までの長い時間を要したのは、被害者が自身を被害者と認識しない例が多かったこと、被害を受けたと認識した場合も、周囲へ報告せずに終えてしまう者がほとんどであったことが主な原因であった。
「資料には『雄英近郊に出没し生徒に危難を及ぼす数名のヴィラン』とあるだけで、ターゲットのプロファイル情報は特に載っていなかったが……逃走や隠蔽に秀でた個性を有しているということだろうか?」
 飯田の質問に、緑谷が眉寄せて首を振る。
「そうだろうと推測されてはいるんだけど、犯人の個性の詳細についてはほとんど掴めていないんだ」
 原因の原因は被害者側の特質にあって、と資料が先へ送られる。緑谷の言葉の通り、「被害者の特徴」というタイトルで情報のまとめられた画面の冒頭を、見たままに読み上げた。
「『全て二名で行動中の互いに親密な関係にある雄英生徒』」
「うん」
「親密な関係、っつーのは」
「うん……早い話が、お付き合い中の子たちなんだ……」
「なんと」
 思わず、といった様子で飯田の漏らした声に緑谷が顔を少し赤くし、この特徴があったから事前に情報を送れなかったんだ、と説明する。確かに、学校と事務所間で機密保持の契約を結んでいるとは言え、生徒同士のごくプライベートな交友に関わる問題となると、うかつに外へ漏らすことはできないだろう。この資料は各生徒へ了承を得たうえで、学内でのみの閲覧が許可されているという。
 被害者はいずれも雄英生同士のカップル。放課後、もしくは休日に雄英敷地外で共に行動している際に事件に遭遇している。さらにページの送られた資料に記載された、その被害内容は。
「『付きまとい、卑猥な声かけ、暴言、露出下半身の見せつけ、盗撮ほか』」
「ううむ……君よく真顔で読み上げられるな……しかし緑谷くん、これは」
「変質者だの変態だのってやつじゃねぇのか」
「はい……」
 肩を縮めて緑谷が頷く。
「大活躍中のふたりにこんな地域の小さな事案をお願いしようとしていて申し訳ないんだけど……」
「いや緑谷くん、事件に大きいも小さいもないぞ! 確実に被害は出ているんだろう?」
「別に小さいとも思えねぇしな」
 恐縮したように言う緑谷へ、揃って否定の言葉を返した。世を揺るがす大事件、などと考えていたわけではないにせよ、さすがに予想外の展開ではあったが、歴とした犯罪行為が半年にわたって続き、子どもが害されているという点では、むしろ火急で取り組むべき案件とさえ言えるだろう。
 そうだねと頷く緑谷へ、とは言え、と浮かんだ疑問を訊ねかける。
「この程度っつーのもなんだが、雄英周りでただの変態が半年も捕まらねぇってのは妙な話に聞こえんな」
「うん。色々重なってるんだよね」
 先にも説明があった通り、事件の始まり自体は半年前だが、被害に遭ったカップルが自分たちの関係を詮索されるのを厭い、親や教師など大人へ報告するのを避けてしまっていたため、事件発覚が大幅に遅れたという事情がまずひとつ。雄英側での認識は生徒間で噂になり始めてからようやくとなり、記載されていた被害内容は最近のもので、当初は数回の声かけのみなど、軽度の事案にとどまっていたという経緯も把握されている。
 また犯人――おそらく複数名のチームであろう犯人たちの姿がいまだ判明していない、という事情が加えてひとつ。被害者への聞き取り調査において、犯人の姿として挙げられた容貌や背格好の特徴が、全て大きく食い違っているらしい。複数名どころの話ではなく、二十件あれば二十通りの証言が出てくることから、犯人たちの中に容姿をごまかす個性の持ち主がいるものと推測されている。
 そしてさらに事態をややこしくしているのが、「事件を起こしているのが犯人たちだけではない」という点だという。
「このあたりは相澤先生が警察と一緒に調べてくれたんだけど、どうもお金のために遊び半分でやってる人間がいるみたいなんだ」
「金銭の発生するたぐいの犯罪には思えないが……」
 それがね、と険しい面持ちで先へ進められた資料には、ウェブブラウザの表示をそのまま保存したらしき画像が張り込まれている。映し出されているのはSNSとおぼしきサイトのようだが、見慣れないデザインだ。さらにページが進み、投稿のひとつが大写しになった。顔に薄くモザイクのかけられた、雄英の制服を着た男女の姿の写真画像と、下に添えられた「雄英カップルにちょっかい・十五分・音声あり」のテキスト。
「……これは」
「写真画像と動画の裏取引用のサイトだ」
 落ちた呟きを引き取り、横で話を聞いていた相澤が答えた。教え子たちに語らせるものではないと思ったのか、そのまま自分が調査に加わって得たという情報を説明する。
「いわゆるダークウェブってほど潜り込んじゃいないが、会員制のクローズドなシステム内でデータの閲覧権を売買している。流れてるのはほとんどが著作権だの肖像権だの無視した違法データだ。まあ正直昔からあるもんで、警察が潰してはまた出てのいたちごっこをしてるような場だが、そこで今回の事件の犯人らしいアカウントが、うちの生徒の画像や動画を商品にしている事例がいくつか見つかった」
 表の動画投稿サイトでもまま見られ、時に大きな騒動に発展するような、嫌がらせや悪ふざけの様を映した映像。ターゲットは一律に雄英生だが、仕掛ける側として映っているのは今回の首謀者たちではないという。
「何人か箱にぶちこんだが、小金を掴まされたチンピラどもだった。データを売った利益を元手に人を雇って、映像に〝出演〟させているらしい。そいつらから大元が釣れると思ったんだが、データ売買にしろチンピラたちとの連絡にしろ、足跡を消しながら複数の場を転々としているようで、今のところ尻尾が掴めていない状況だ。かなり知識のある連中だな」
 このサイトは調査中に警察が潰したし、ほかの「場」を含め、流れていたデータも今は見つけ次第の対処をGeLに依頼している、と名うてのサイバーセキュリティ企業の名を挙げ、相澤は浮かない顔の三名へ補足を語った。
「そんな映像、買う奴がいるんだな」
「お前らは中にいたからぴんと来ていないかもしれんが、雄英と言えば日本一、二の名門校だ。生徒の大多数がヒーローか大企業か役所の高官の一員になる。下世話な目で見る人間も、金の卵を産むガチョウと見る人間も五万といるだろうさ」
 轟の呟きに端然と返し、だから学校側が守ってやらないとならんが、今回は後手に回った、と息をつく相澤の声には静かな憤懣がにじんでいる。飯田も隣で手刀を振り、憤りをあらわにした。
「未成年者の暮らしを戯れにおびやかすだけに留まらず、それを商品扱いするとは、言語道断な行いだな!」
「俺らはそいつらを見つけてぶちのめせばいいってわけか」
 自分もつい穏やかでない言葉が漏れてしまったが、事の次第とターゲットは把握した。しかし、逆に深まった疑問もある。同じ懸念を抱いたようで、飯田が先に問いを発した。
「ぜひ協力させてもらいたいが、俺たちで務まるだろうか……? いや、もちろん全力を尽くすつもりではあるのだが、俺も轟くんも個人での探査能力に長けるわけではないし、ネットの知識にも乏しいし、警察での捜査以上の助けになれるかどうかとも思ってしまって」
 まさにと頷く。自分も飯田も面と向かっての戦闘やターゲットの確保、救難救助の任には向くが、人探しや尾行捜査などはむしろ苦手な分野だ。まだ飯田は多彩な個性所有者を擁するチームでの活動が可能だが、轟のほうはからっきしである。
 浮かんで当然と言える憂慮に、緑谷ははっきりと首を振って答えた。
「そこは大丈夫! ふたりこそ適任だと思ったから、今回お願いすることに決めたんだよ」
「む、そうなのか……?」
「生徒たちには先週時点でかいつまんで事情を説明して、当面の外出自粛を促した。被害者となる人間がいなければ事件も起きないが、犯人の情報が得られなくなるってことでもある。薄い手がかりを辿って捕まえるまで、ひと月もふた月も外に出るなとは言えんしな」
 そこで、と言葉を区切り、鋭い隻眼が緑谷へ続きを促す。頷きのあと、こちらへ順に視線が寄こされ、
「ふたりに、囮捜査への協力をお願いしたいんだ」
 オトリ、とおうむ返しにした声が重なる。演技も要らんから適役だろう、としらり言った相澤の言葉で、その意味するところが伝わった。
「囮、ということは、つまり?」
「俺たちにカップル役をやれってことか」
「かっ……」
 確かに演技要らずだ、と理解した轟の横で、飯田が動揺の声を漏らす。看過できない反応である。
「カップルじゃねぇのか?」
「いやっ、それはそう、だが! カップルと言うか……二十も半ば過ぎのパートナーであって……とても学生の若い恋人同士のようには見えないのではと……」
 しゃかしゃかと腕を踊らせて弁明する飯田に、そこも大丈夫だよ飯田くん、と緑谷が前からフォローの言葉をかけた。
「サポート科の二年生に、【若化】っていう、人の外見を十年まで若返らせることができる個性を持ってる生徒がいるんだ。二人さえ良ければ、協力してもらう約束も取り付けてるから」
「十年ということは、俺が十六歳で轟くんが十五歳……」
「ちょうど高一の歳か」
 凄ぇ個性だな、と素直な感想を漏らしたが、制約ばかりでまともに役に立たないと、所有する当人は早々に通常利用に見切りをつけ、生命科学の知識を生かしたサポートアイテムの開発に勤しんでいるという。
 つまり、と再び状況の整理に入る。
「俺と飯田がその個性で見た目だけ十年若返って、雄英生のふりしてそのへんをうろついて、犯人をおびきよせようってことだな」
「うん。ただ、単に一緒に行動してるってだけだと駄目みたいで」
 実は事件発覚後すぐに同様の囮捜査を試みたが、警察の捜査官扮する偽装雄英カップルには全くそれらしい人間が寄ってこず、計画が一度頓挫したのだという。捜査がばれた、というわけでもなく、ただ「お眼鏡にかなわなかった」だけであるらしいとのことで、なんとも奇妙な話だ。カップルでないと思われたか、手を出すような魅力がない、または売り物にならないと思われたかのいずれかだろう、と相澤が言う。
「それでお前らに白羽の矢が立ったってわけだ」
「なんという大役……!」
「俺らでいいのかなんとも言えねぇな」
 犯罪者のお眼鏡にかなったと言われてもまるで嬉しくはないが、ともあれ何かの基準を満たす必要があるということだろう。首ひねって疑問を呈すると、何やらの分析解をはじき出していたのか、緑谷は拳を握り、相澤が来る前の会話の再現のように言った。
「ふたりならきっと行けると思う! 見た目も格好良くて目立つし、どこからどう見ても、えっと、仲良しで、ずっとそういう空気が出てるというか、漏れてるというか、昔から見慣れてる僕でもいまだにびっくりするぐらいの感じだから、そのあたりについては全く心配してないよ!」
「そ、そうか。ありがとう……?」
「褒められてるでいいのか?」
 いささかばかり含むところを感じるが、出会って十年、飯田と恋仲になって八年近くの時間をずっと見守ってきてくれた友からの太鼓判なのだから、前向きに受け取るべきだろう。勢いに押され、揃って頷く。
 ひとまず双方了解となったところで、緑谷がディスプレイにカレンダーを表示させつつ今後の動きについて説明を始めた。
「事前にお知らせしておいた通り、正式に受諾をしてもらえたら三日後の金曜日からオペレーションを開始します。初日は関係者との顔合わせと計画の確認を兼ねて昼に集合、夕方から学外での行動開始。本格的な活動は翌日の土曜午後から。一日休みを空けて、祝日の月曜が本命の確保目標日、火曜と水曜が予備日です」
「なかなか慎重な計画だな」
「もちろん初日に犯人と接触して確保できたらそれが一番いいけど、たぶんこっちを認識するまで一日二日はかかると思ってるんだ」
 犯行が衝動的なものではなく計画的なものである以上、ターゲットとなる雄英生がほかにいない状況であっても、すぐさま囮に食いついてくるとは考えがたい。そのため、前の二日間を撒き餌のように使い、祝休日となる月曜に終日ふたりで行動することをにおわせて念入りに犯人をおびき出し、万全の準備の上で逮捕を目指す、という作戦のようだ。
 うまく囮になれればいいがとまだ不安げな飯田に、あくまでそこは問題ない、という態度で緑谷は相手の十八番の「大丈夫」をくり返し、別方の気がかりとして、轟と飯田それぞれの前に両面刷りの紙を並べた。
「実は、さっき言った『若化』の個性なんだけど、ちょっとした副作用があるらしくて、念のため書面で確認をしてもらって、それからの依頼受諾をお願いしたいんだ」
「副作用?」
「眠気とか微熱とかそのぐらいなんだけど、どうも薬やワクチンに近いものらしくて」
 微細な影響でも主作用以外の効果は全て副作用扱いになるからな、と飯田が頷く。
「承知した。すまないが事務所のほうへもメールで資料を送っておいてくれるかい。今日中に医務スタッフに確認をお願いするから」
「うん。すぐ手配するね」
「俺はここでハンコついてもいいぞ」
「いやいや、君も念のため信頼のおける第三者に確認を取りたまえよ。重要なことだぞ」
「じゃあお前見てくれ」
 身体が資本のヒーローとして素人判断は、と小言を漏らしかけた口の前に、冗談でもなく手にした紙を差し出す。轟の目と固い文章の並ぶプリントとに視線を往復させ、次の言葉を迷わせたパートナーは、数秒ののち小さく頷いた。
「……イダテンでの確認で良ければ、預かっている身体データに照らして見てもらっておこう」
「おう、頼む」
 公に誓いを立てて三年目になる恋人は、時折こうして轟から「家族」のつながりに触れるたび、くすぐったげな、それ以上に嬉しげな顔を覗かせる。前に緑谷と相澤がいなければ(二名とも既にさりげなく気配を絶っていたが)自分はその赤くなった頬に口付けを仕掛けていたに違いないと、他人事のように考えた。


 それから二、三の事務的な確認を行い、よほどのことがなければ依頼を受諾することを告げ、首尾よく片付いたら(相澤には固辞されたため)三人で打ち上げをしよう、と約束を交わしてその日は解散となった。翌日と翌々日はおのおのの任地で通常通りの仕事を行い、幸いあとへ尾を引く事件や事故もなく、三日後の計画開始日を迎えた。
 昼からの会議には雄英側の担当の緑谷、相澤、根津校長、周辺を管轄する警察関係者のほか、こちらからの希望でチームイダテンのメンバー数名と、轟の事務所からも数名のサイドキックが参加した。事件と今回の計画のあらましが再度述べられたのち、あいだの二日で協議決定した人員配置についての再確認がなされる。
「対策本部は雄英に設置して、僕と相澤先生……イレイザーヘッドが待機。ショートとインゲニウムはインカムを装備の上、本部と定期連絡を取りながら原則は常にふたりで行動してもらいます。ふたりを視認できる範囲にそれぞれの事務所からヒーローが一名ずつと、警察官二名の計四名が二名ずつ二組で展開し追行、非常事態時の補助対応と周辺の監視を行います」
 緑谷の読み上げを追い、監視要員の協力も頂きかたじけない、と所轄の警察署長が頭を下げると、両事務所のサイドキックたちが笑って応えた。
「うちの猛進貴公子のサポートとフォローは日常業務なのでお任せあれ」
「むしろ警察の方々が心配ですよ。我々は慣れっこですが……目が灼けそうになったら言ってもらえれば交代の人員出しますので」
「うむ。どうやらこれは褒め言葉ではないな」
「らしいな」
 飯田の理解に同調する。まあ身内からの茶々はこちらも慣れっこであり、褒め言葉ではないにしろ疎んじられているわけでもなく、むしろ飯田を巻き込む形で妙な親愛を寄せられていることは知っている。日頃から何かにつけて面倒をかけているのは事実であるし、特に反論する気はなかった。
「今日を入れた三日間の行動計画もふたりの事務所に協力してもらって作成したんだけど、何か変更したい点とかはあるかな?」
 内輪のやり取りに笑いを噛みつつ、緑谷が訊ねてくる。ディスプレイには各日の予定表が映し出されており、今日は夕方からの短時間のため記述も少ないが、昼過ぎから行動を開始する明日、そして終日を要する祝休日の月曜については、分刻みとは行かないまでも、それなりに詳細な行動が決められているようだ。
「いや、大丈夫。決まった案に従うぞ。追行のやりやすさなどもあっての計画だろうからな」
「ならずっと外のほうが楽じゃねぇか?」
 飯田の返答に言葉を重ねたが、いやいや、と横の身内たちからさらに口を挟まれた。
「恋人を一日中休みなく歩かせたら別れ際に九割フラれるぞショート」
「歩かせすぎは定番の駄目デートポイントですからね」
「マジか。やべぇな。いい具合に休憩入れといてくれ」
「ふ、振らないぞ! 俺は歩くのは好きだし、ああいや、そもそもそういう話ではないだろう?」
「そういう話じゃなかったっけ?」
「自分張り切っておふたりの好きそうな店リサーチしましたけど……」
 わいわいがやがやと、作戦会議とは思えぬ盛り上がりを見せる場面もありつつ、もちろん本題に対しては真剣に話し合いを進め、終業の鐘が鳴るのと同時に打ち合わせは終了した。早速放課後デートですね、などと笑うスタッフの言葉に飯田が首を傾げてのち、ああと頷く。
「そうか。ヒーロー科は一限授業が多いのだったな。他の科はこの時間で放課後か」
「俺らは何科ってことになるんだ」
「今回はヒーロー科以外ってことにしたかったから、制服は普通科のを用意したよ」
 聞けばこれまでの数十名の被害者のうち、ヒーロー科の生徒は一名のみだという。雄英の制服は学科ごとにデザインが少しずつ異なるため、知識さえあれば判別は容易だ。犯人たちが名高い雄英のヒーロー候補生の能力を警戒して意図的に避けているらしく、裏を返せば、その知識を利用して罠にかけることもできるというわけだ。
 おのおの持ち場へと席を立つなか、轟と飯田は雄英の制服一式と、ケミカルボトルと言うのだろうか、液体の入った半透明のプラスチック容器を一本ずつ手渡された。例のサポート科の生徒が「若化」の個性を用いて変質させたもので、三十分ほどで通常の水に戻ってしまうという。若化自体の効力持続時間は一回の摂取量に比例し、今日は四時間分とのことなので、今飲めば夜の七時過ぎまで続く計算だ。当初は十年の若化が予定されていたが、こちらからの希望との兼ね合いで九年に調整された。轟は十六歳、飯田は十七歳、晩秋の時分の高校二年生の姿となる。
 制服は若化による体型変化を加味したサイズとなっているので、着替えの前に飲んでほしい、という説明とともに更衣室代わりの部屋へと送り出された。なぜかそれぞれ個室をあてがわれ、隣で裸になったら何かおっ始めかないとでも思われているのだろうか、などと考えていたが、何気なく水を口にして理解した。無味無臭の液体が胃に滑り落ちて数瞬後、全身に激痛が走り、床に膝をつく羽目になったのだ。変化の際に痛みがあることは副作用の話とともに事前に聞いていたものの、身構えをはるかに超えており、うめき声さえ漏れてしまった。
 あまり間近でパートナーに見せたいものではない苦悶を十秒ほど演じたのち、これはむしろ敵を行動不能にするのに使えるかもしれないとすら思いながら立ち上がった時には、どうやら若化は完了していたらしい。もそもそと着替えを済ませ、鏡に映した姿は、確かに今は見馴染んだものではない、しかし憶えのあるものに変わっていた。
「……おお」
 会議室へ戻ったのは同時で、互いのみならず、周囲からも驚きと感心の入り混じる声が漏れ広がった。
「凄い、本当にあの頃の飯田くんと轟くんだ!」
 緑谷が興奮した面持ちで寄ってきて、順にこちらを眺めて感嘆を上げてのち、何やらぶつぶつと考察を唱え始める。成長しても変わらずの、いや、なお色濃さを増したらしい個性マニア、ヒーローオタクの反応だ。ここにも懐かしさを感じつつ、もう一方の懐かしの顔、本日からの「デート」の相手の姿を見る。
「……飯田だな」
「もちろん、飯田だぞ」
 こぼれた呟きに笑いが返った。俺はあまり変わっていないだろう、と自分で言う通り、当時から大人びていた容姿は、確かに髪をセットしていないという点を除けばがらりと様変わりしたわけではないが、しかし確実に若くなっている。二十半ばの人間の目を通して見ているためなのか、クラスの父か母かのように大きく頼もしかった委員長は、それでもやはりまだ子どもだったのだ、と納得する不思議なあどけなさのようなものが感じられた。
「君はやはり若く見えるな。格好良さはずっと変わらずだが。そのぐらいの髪の長さも懐かしいよ」
 さらりと賛じる言葉は添って数年になる大人のもので、なんとも奇妙な感覚だ。一体これから何がどうなるのだろうかと、日頃の荒仕事とはまるで異なる任務を前に今ひとつ心構えができていないまま、周りの準備は着々と進んでいく。
「髪と言えばどうします、ショート」
 横から声をかけてきたのはこちらの事務所のスタッフだった。ああと頷き、首をひねる。
 ターゲットに囮の偽生徒とばれないためには、当然プロヒーローであることを気取らせてはならない。世間への素顔の露出が少ない(それでも最近少しずつ増えており内心複雑に眺めている)飯田はともかく、自分がなんの変装もなしに街に繰り出すことなどできないとはさすがに理解している。そのために連れてきたスタッフの持つ個性が、過去に幾度も世話になっている、触れた物質の色相を変化させる「変色」だ。
 全く異なる色にしてしまうこともできるが、よほど二色に分かれた頭の印象が強いのだろう、一方の色へ寄せるだけで人目が集まるのを防ぐ効果は絶大のようなので、今回もそれで行こうと傍らへ訊ねかける。
「お前は赤と白どっちがいい」
「えっ、俺が決めるのかい? そうだな……どちらも素敵な色だから迷ってしまう……」
「始まった始まった」
「お早めにお願いしまーす」
 真剣に悩み始める十七歳のヒーローの後ろをそんな失礼なことを言いながら人が行き来する間を使って、先に顔の火傷痕を変色と化粧で隠した。それでもなお迷っていた飯田が最終的に「駄目だ決められない……俺は優柔不断な男だ……」と嘆き始めたので、揃えるのが楽な白にさせてください、とスタッフから切り出してようやく出発の準備がととのった頃には、緑谷が若戻らずして学生時代に返ったような、憶えのある菩薩じみた顔でこちらをほほ笑み見ていた。


「では出発いたします!」
「あとよろしくな」
「ふたりとも気を付けて。何かあったらすぐ連絡します」
「ああ、こちらも」
 校門前で緑谷たちに見送られ、ふたり並んで雄英を発った。少し遅れて追行班も動き始める予定だ。出動総員が小型インカムを装着しており通信手段は確保しているが、常時の音声接続はないため、定期連絡を含む通話とメッセージのやり取りで相互の状況確認を行う手筈となっている。
 外出自粛の令はしかと行き渡っているらしく、周囲に同じ道を行く生徒の姿はなかった。もともと平日の人出はそう多くなく、悪目立ちして警戒されることもないだろうという判断での計画だが、かと言ってこれ幸いと食い付いてくるのかどうか、まだ半信半疑のままだ。飯田は少し緊張しているようで、動きが普段よりぎくしゃくしている。いやあの頃はこんなようなものだったかもしれない、と記憶を辿っていると、話して落ち着こうという考えでか、予定表の映し出された携帯を片手にスケジュールの確認を始めた。
「ええと、今日はとりあえず駅まで歩いて、十八時まで屋外で自由行動だったな。今からだと二時間ないぐらいだ」
「大したスケジュールじゃねぇよな」
 同じ発言を会議室で漏らした折には「そこをショートがしっかりエスコートするんですよ」などと叱られたが、正直なところ今も昔も苦手な分野だ。まあなるようになるだろうと楽観を共有するつもりで言葉を返すと、逆に不安感を深めてしまったらしく、飯田の無意味な手の動きが大きくなり、反対に声は小さくなる。
「ちゃんとそれらしく見えるだろうか……」
「緑谷があれだけ問題ねぇっつってたんだし、大丈夫なんだろ」
「そ、そうだな。うん、彼が言うなら」
 そこはこちらを信用してほしい、と思うも、自分が半信半疑でいることをぜひにも信じろとは言いづらい。長年の親友の言葉に仮託しておくのが間違いないだろう。
 友人の名から連想したのか、今思えば、と飯田が学生時代を回顧する。
「あの頃は放課後に街に出ることなんて滅多になかったんだな。出かける時は何か特定の用事がある時で、それこそ緑谷くんやほかの誰かと連れ立っていたし……君とふたりでこの道を歩いたのは、ほんの数えるほどじゃないだろうか」
「かもな。授業終わんの遅かったし」
 ヒーロー科は他の学科のクラスより授業が一限長く、実習疲れも重なって授業後に出かける余力のないことのほうが多かった。主に連休を使って計画されていた外出の際も、互いに「行動を共にすることの多いグループの一員」でしかなかった。
 それが少し変わったのは、と延ばした回想に気付いたわけではないだろうが、ふと気付いたように飯田が訊ねてきた。
「そういえば、なぜ十年ではなく九年の若化をお願いしたんだい? 一年の頃のほうがまだ子どもらしくて良いのではとも思ったんだが」
 計画に待ったをかけ、当初予定を変更させたのは轟だ。飯田は特に口を挟んでこなかったが、自身の容貌への不安も伴って気にかけてはいたらしい。少し迷い、かねて用意の言葉で答えた。
「……一年の頃は、まだお前のこと『そういう』風に思ってなかったから」
 あ、と不意を突かれたような声が返る。前を向いたまま頷き、続けた。
「別に見た目に中身が引っ張られるとか思ったわけじゃねぇけど、まあ一応な」
 全くの他人から始まり、深い興味のないクラスメイトでいた一時は今思えばごく短い期間だった。一年の体育祭後の事件をきっかけに日常から関わりを持ち始め、それなりに親しい友人と呼べるようになった関係を築いて、迎えた社会の崩壊と、過酷な戦いの連鎖。幾重にも心を揺さぶった大激動の出来事ののち、気付けばほかの誰とも違う場所に彼を見て、誰より近い距離にその存在を望むようになっていた。
 うん、と隣で頷きが重なる気配がする。同じ時節から同じようなことを考えていたらしいと語り確かめ合ったのは、卒業と同時に付き合い始めてからのことだ。
 同時に隣をうかがい見て、視線が交差する。かすかに頬を染めた飯田が、照れまじりの微笑とともにぽつりと言った。
「なんだか、また君と恋を始めるみたいだ」
「……お」
 どうにか驚きが一音にとどまった。君はいつも真顔で凄いことを言う、などと赤面とともに指摘してくること常々の飯田だが、こんな台詞のあとに「少し照れてしまうな」程度の感想で前へ向き戻れるのだから、お前もなかなかのものだと物申してやりたい。
 とは言え不安は多少薄れたようだ。半分の理由の話題に取り紛れ、もう半分の「九年」の理由に気付かれなくて良かったと、こちらについても重ねて安堵をする。
 そっと横目に見る顔と同じほど、今の自分も幼く見えるのだろう。だが十年前、一年生の秋の頃は、おそらく今よりもう少し開きがあったはずだ。飯田は高校在学時期中の発育が周囲より少し早く、轟は逆に少し遅かった。入学時に計測した数字では三センチとなっていた身長差は、初年度の半ばには四センチから五センチほどに広がっていた。身体の幅も厚みも同様に差が大きかった。二年の夏ごろからようやくまた追いつき始めたのだ。
 生来の資質上の差異は致し方なく、飯田のたくましさは自分にとっても実に魅力的に感じるものだが、野暮だ無粋だと言われる轟にとて、それなりの沽券と矜持はある。端的に言って、恋人には少しでも良いところ、より具体的には良い身体を見せたい。「十五歳の轟くんは幼くて可愛いなぁ」よりは「十六歳の轟くんも格好いいな……」の感想がほしい。そして出発前、思惑通りにその言葉を得たというわけだ。
 まあなんとでもなろう、と既に今日の目標を達成した心地で歩く。並び行く相手は当時自覚なく恋い求めていた姿だ。三日眺めても飽きることなど決してないのだからと、口にすればまた叱られそうなことを胡乱に考えた。


 雄英高校の最寄り駅周辺は、そのビッグネームのお膝元の割には、といった具合のごく平凡な発展を遂げている。十年前の全寮化に伴い生徒の登下校時の立ち寄りが急減したため、今は学生向けの店舗よりも、雄英に用事のあるヒーローや職業人向けの店舗や施設が多く、ビジネスとアカデミックが融合した趣の街となっている。それでも平和な世の証か、自分たちが在学中の頃よりは多少賑わいも増したようだ。
「八年も空くとどこに何があったかさすがに憶えてねぇな」
「明日もここへ来るし、周辺の道と建物を把握するために少し歩こうか」
 色気のないやり取りだが、まあ本気で遊びに来たわけではない。必要なことと頷き合って歩を進める。会話の中身については人が明らかに寄ってきた時以外は気にする必要はない、と言われていた。多少の不自然さがあっても通りすがり程度の接触で変装中のヒーローと看破するのはまず無理な話であろうし、もしあからさまに警戒や監視の態度を取る者が現れれば、何かしら胸にやましさのある人間ということになる。見つけ次第に追行班が逆監視に入り、犯罪への関与が確認できれば即お縄の運びだ。
 と、そうした段取りを念頭に行動を開始したが、記憶とは不思議なもので、八年の霧はたちまち晴れていき、まだ褪せていない昔日の色が初めの緊張や気構えをいくらもしないうちに塗り潰して、あれもあったこれもしたと、途中からは思い出話に重心が傾いていた。飯田は合間合間にはたと仕事意識を取り戻したような自省を見せるのだが、またすぐに懐旧の波に呑まれていく。
「ううむ、こう身近な場所だと色々と思い出されて楽しくなってしまう……」
「別にいいんじゃねぇか。自然にしてろって言われたし」
「楽しめとは言われていないが……」
「楽しむなとも言われてねぇだろ」
 それは仕事なのだから前提なのではないか、とぴしぴし腕を振る常の仕草も、十七歳の姿で見ると倍増しに愛くるしくしか感じられない。飯田は当時から今に至るまで妙に歳上受けの良いところがあるが、いかにも好まれそうな真面目さに加え、それと裏腹のこうした愛嬌も要因であるかもしれない、とひとつ学びを得た気分になる。
 なんだかんだと尽きない会話を転がしながら駅前をぐるりとひと巡りし、最も人通りの多いショッピングセンターの前へ至ったところで、飯田がおやと声を漏らして足を止めた。視線の先には店前の広場に止まった小さなフードトラックと、立ち並ぶ人の列。見ればドーナツの移動販売のようで、轟も飯田の反応の理由に気付いた。
「一年生の時に、麗日くんたちとドーナツを食べに行ったのを憶えているかい?」
「俺もちょうど思い出してた。寮ができる前だよな」
 問いかけに頷く。確か林間合宿直前のことだ。日本初進出で話題になっていた東京のドーナツ店が県内で出張販売を行うとのことで、麗日が食べてみたいと口にした話に周囲が乗った流れだった。轟はドーナツそのものへの興味はなかったが、土曜の放課後に立ち寄れば、翌日の見舞いの際に母と姉への差し入れにできるのではないか、という提案に惹かれて同行した。振り返ればあれが人生初の「学校の友人と放課後どこかへ遊びに行く」という経験ではなかったかと思う。体育祭後に時おり帰路を共にするようになった飯田や緑谷との交流も、それこそこの駅での寄り道程度までに収まっていたはずだ。
 病室で前日の話をした時は二人とも喜んでいたな、と懐かしく思い返していると、
「あの翌日、保須へ兄さんの見舞いに行ってね。ドーナツの話をしたら凄く驚いて喜んでくれたよ。『天哉も友だちと買い食いをするような歳になったのか』なんて」
 と事もなげに語られたので、思わず顔を見つめた。視線に気付いた相手にどうかしたかと問われ、いやと首を振る。言葉にできるほどの明確な感慨が湧いたわけではない。ただ胸がじわりとあたたまって、またひとつ重ねて共鳴る想いを見つけたというだけ。
「底無しだな、お前」
「え? 食欲の話かい?」
「違ぇけど、食べてくか?」
 妙な勘違いを笑いつつ、列を指差した。それなりに並んでいるが、回転が早いのでさほど待たずに買えそうだ。
「いいのだろうか」
「ずっとうろついてるよりは一回ぐらい座るかなんかしておいたほうがいいんじゃねぇか」
「そうか。犯人たちに見つからなければいけないわけだしな」
 時間的にもちょうどいい具合だと頷き合い、席探しを請け負って一度別れる。まあどこかの植え込みの脇などでも良かろうと見回していると、運良く二人掛けのテラス席が空いたため、入れ替わりで座ることができた。前に座っていた男女の二人連れから驚きの視線を感じたものの、さすがに素性がバレたわけではなかったらしく、幾度か振り返って見られたほかは何事もなく去っていった。数分後、お待たせと言ってドーナツとコーヒーのカップを器用に抱え持ってきた飯田に話すと、君があんまり格好いいからびっくりされたんだよ、と笑われた。
「君は髪の色を変えても良く目立って見えるから、この役目にはやはり適任だな」
「お前もだろ」
「うむ、俺は身体が大きいからな!」
 いや違ぇ、と言う代わりに動きもでかいしな、と付け加えて笑い返してやった。容姿の話は面倒(かつ身内いわく頓狂)な議論になりがちだから、お互い適当に流しておくぐらいがちょうどいい。
 金属製の小さな丸テーブルを挟んで座り、ドーナツを頬張る。小腹が空いていたところなのでこの間食もちょうど良かった。やわらかな生地も抹茶のクリームも甘過ぎずなかなかいい味だと賞味しつつ、目では前の光景の観賞を始める。飯田はシンプルなチョコがけのオールドファッションを両手で包み持ち、小ぶりのドーナツなどふた口み口で呑んでしまえそうな大きな口を小さく開いて、端から齧り取りながら食べている。自認する通り身体も動作も大きいが、生活の中で見せる挙措は何事につけとても上品だ。「育ちが良い」を全身で体現しているような男の丁寧な仕草を眺めて感心するのが、共に暮らし始めてからの轟の日課になった。
 不意に赤い瞳がこちらを向いて、ぱちりと視線が合う。あまりじろじろ見過ぎていると叱られるので一瞬ひるんだが、四角い目は眦を吊り上げるのではなく逆に形なごませて、ふふ、と微笑した。
「付いてるぞ、轟くん」
 本当の子どもみたいだ、と失敬なことを言いながら伸べられた手が唇のすぐ横をやさしく撫でていき、前へ引き戻されたと思う間もなく、まさに眺めていた大きな口へ運ばれて、薄く開いた隙間から覗いた赤い舌が、クリームを掬い取った長い指の先をぺろりと舐め上げた。
「お前……」
 絶句する。前言撤回。上品でない仕草もそれはそれで非常に価値がある。
 してやったりとすら思っていないような平然の表情で自分のドーナツへ戻ろうとする相手の制服の襟を捕まえ、叱られるのを待たずに引き寄せて、先ほど撫でられたのと同じ場所へ唇を触れさせた。ほんの少しだけ這わせた舌の感触が伝わったらしく、広い肩が盛大に跳ね上がる。
「な、な、な」
 ほんの一動作、周囲の目にもほとんど留まらなかっただろう二秒足らずの悪戯ですぐに元の体勢に戻り、見つめ直した顔は火が着いたように真っ赤だった。ドーナツひとつ丸呑みできそうなほどに大きく開いた口から、意味を成さない声がこぼれ落ちている。
「付いてた」
「絶対嘘だろう……!」
 さすがに騙されず、今度はしっかりと指摘の言葉が出てきた。自分じゃ見えてねぇだろ、と悪魔の証明を求めればぐぬぬと歯ぎしりが返り、轟の代わりに手元のドーナツに噛み付くが、やはりそのひと口は品良く小さい。
「もう、こんなところで……」
 人に見られたら、とこぼしかけたのだろう小言が止まる。こちらからさらにその先を続けてやった。
「カップルに見えるよな」
 そのためにこうしてここにいるのだから、何も悪いことはない。
 ぐぬぬとまたうめきを漏らしてドーナツに当たり、大きなハムスターじみた仕草ですぐに完食してこれから戻りますと本部へ連絡を入れた飯田は、まだ耳先に赤みを残していた。まったく本当に、三日どころか何年経っても見飽きることのない愛らしい恋人である。
 身辺をととのえて雄英への帰路を歩き始めた頃には常から長続きしない憤慨も失せており、ぽつぽつと今日の仕事の振り返りを語った。と言っても実働があまりに短く、これという成果が出た実感はない。
「本当にただ楽しんでしまっていただけな気がするのだが」
「まあこういうもんじゃねぇのか、デートって」
「デートか……」
 なんだか凄くおかしな気分だ、と首をひねって言う。
「仕事なのにただ歩いて世間話をしていたり、ドーナツを食べたり、おまけに一緒にいるのは君で、十六歳で、あの頃の格好で」
「俺も正直混乱はしてる」
 校門を出てからずっと、いや、制服姿の十七歳の飯田と顔を合わせてからずっと、妙な夢を見ている気分だ。目を閉じまた開けたら布団の上にいて、今までのことは全て幻想でしたと言われても疑いなく信じるだろう。そのとき二十六歳の飯田が傍らにいてくれればいいが、寮の一人部屋で目が覚めて、首傾げながらドアを開けたところにおはよう凄い寝癖だな、などと言って十七歳の飯田が通りかかったとしたら、愕然、どころか絶望すら覚えてしまう。また一年余りの日を悶々と過ごして、卒業式当日の告白にはいと言わせて、二百キロの距離を隔てて五年別れて暮らさねばならない。
 今になって振り返れば感嘆すべき忍耐強さだと自賛し、その結実として肩触れ合う場所へ至った幸いに改めて感謝しつつ、ほんの十数センチで届く位置にある手を我が手に取った。
「しょ、……轟くんっ?」
「手ぇつないだりとかもすんじゃねぇか。デートって」
 覚めない夢なら最後まで楽しむが勝ちだろうと、指絡めて大きな手を握る。そうか、デートか、そうだな、と、使命感で逃げの動作をこらえた様子の飯田だが、つい先ほどキス紛いのことをしておいて今さらではある。
 雄英敷地内には侵入されていないようだ、との情報を忘れ、駅前をあとにしてからもそのまま手を引いて歩き、予定の時刻ちょうどに校門前で離れた。お疲れと迎えてくれた緑谷のみならず、待機班と追行班の事務所メンバーたちは揃って首尾上々だと思われますと言いながら仏像顔を浮かべ、解散前のブリーフィングでは翌日から追行の捜査員が年嵩のベテランの人間に交替すると報告を受けたが、理由は特に語られなかった。


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