◇


「飯田、ネクタイ頼む」
「え? ……ああそうか、昨日」
「忘れてた」
 翌日土曜。普通科の授業は四限までのため、昼過ぎからの行動開始が予定されている。三十分の事前ミーティングののち、前日と同様に若化の水を飲んで(飯田も少し渋い顔をしていたので、例の激痛は一様に感じるものなのだろう)、着替えの最中にふと昨日の失念に気付いた。
 変わらず別個にされている更衣用の部屋をあとにして、先に着替え終えていた飯田へ、そのまま持って出てきた制服のネクタイを差し出す。飯田もすぐに了解して赤いネクタイを受け取った。
「じゃあそこにまっすぐ立って」
「ん」
 指示に従い、少し顎を反らして正面に立つ。やはり「今」より目線の高さに差があるな、とぼんやり考える間に首の後ろから前へ剣先が回り、するすると布の擦れる小気味良い音を立てて結び上げられていく。見た目の武骨さに反して意外に器用な指は、轟が何度見ても憶えられないような複雑な結び方を幾種類も知っているが、制服に合わせるには不要と判断されたらしい。ものの十秒でできあがったシンプルな三角をきゅっと首元へ締め寄せて、シャツの襟と何やら重要らしい中心の窪みとがてきぱきと整えられて、最後の仕上げに静かな声ひとつ。
「――今日も一日ほどけませんように」
 いつもよりおそらく二センチばかり低く腰をかがめて、結び目に羽触れるような口付けを捧げながらいつものように囁いた飯田は、次の一瞬に周囲で広がったさざめきと息呑む音にようやく気付き、がばりと頭を跳ね起こして言葉にならない声を上げた。やってしまった、と大きく顔に出ている。
「ああああああ」
「ここウチじゃねぇぞ、飯田」
「わわわわわかっていたならもっと早く教えてくれ!」
 轟が平然の調子で自宅での恒例のやり取りを頼んだので、頭が日常の世話焼きモードに切り替わって錯覚を起こしたらしい。場の全ての人間の手を急停止させた飯田はそれらを全て足したよりも激しい手振りをし、集まった視線から逃れるように轟の後ろに隠れたが、悔しいことにおおよそはみ出している。
「今日も仲良しで何よりです……」
 資料を手に歩み寄ってきていた緑谷がぎこちなく言った。違うんだ緑谷くん、と飯田が背中から手刀を出すが、仲がいいことは別に否定しなくても良いのではないか、と思う。
「これはその、俺たちの決め事というか、験担ぎというか……おまじないなんだ!」
「おまじない?」
 似合わない言葉だ、という感想が大きく顔に出ている。しかしああそうと流してしまわずにしかと聴く姿勢を見せるのは、持ち前の胆力の働きゆえか、あるいは場の期待の視線を集めている自覚からだろうか。
 轟の背に貼り付いたまま飯田が頷き、早口に経緯を語る。当然こちらには既知のことのため、かいつまんだ説明以上の記憶が脳裏によみがえった。
 きっかけとなったのは、ちょうど一年ほど前に轟が請け負ったとある任務だった。国外からの訪客の身辺警護という、内容自体はさほど珍しくもない仕事であったが、国内高官への表敬訪問や夜の会食の席への同行を伴う予定となっていたため、大半の時間に正装のドレスコードが設定されていた。堅苦しい格好は苦手だとぼやくのを飯田に頑張れと励まされ、ならばと無事仕事を終えたあとのご褒美の約束まで首尾よく取りつけ、肩こりを得つつも迎えた最終日、パーティの会場となったホテルが爆発した。
 危惧していたヴィランの襲撃などではなく、ガス設備の劣化不具合による偶発の事故であったが、火災の鎮圧、建屋崩壊の対処、被災者の救助と現場を駆け回り、ようやく全ての事後処理を終えたのは翌日の昼過ぎ。直前に仕立てたスーツはあちこちが焼け焦げて煤にまみれ、見るも無残な有様で、ネクタイは端がちぎれ飛んで半分の長さになっていた。着の身着のまま帰宅した轟を玄関まで走って出迎えてくれた飯田の「絶句」の二字そのもののような顔は、今でも鮮明に記憶している。
 これだけで終われば「あの仕事はなかなか大変だった」程度の思い出に収まっていたのだが、どんな因果が巡ったのか、ここから三月続けて正装を要する任務があり、その全てで予定外のトラブルが発生して、轟は毎月一本ずつネクタイを燃えるごみとして処分することとなった。もともと縁起や占いを頭から信じるたちではないが、こう重なるとさすがにジンクスといったものを感じるのも無理からぬ流れで、翌月またも飛び込んできたドレスコード付きの依頼を前に、しばし考え込んでしまった。
 しかし当然断るという選択肢はなく、ならばせめてもと、クローゼットの奥に眠らせていた、そのうち処分しようと考えていた一番古いネクタイを取り出そうとしたのを制して、後ろから伸びた飯田の手が別の一本を取り上げた。
『今日はこれを着けていってくれ』
 そう言って前へ示したのは、前年のクリスマスに飯田がハイブランドのスーツ一式と一緒に贈ってくれたネクタイだった。二本あったのだが、そのうちの一本こそが初めのホテルでの事故で切れてしまったもので、残った半欠け分をしまっておこうとしたのを見つかり、そんなものを記念にしないでくれと捨てさせられてしまっていた。
 いやそれは、と渋る轟の言葉を聞き流し、上等の布を首へ回させて、するすると淀みない手つきで結びながら、飯田は端然と言った。
『これは俺からの宣戦布告だ。絶対に君を家まで無事に連れ帰ってもらう』
 そうして、二の句を失った轟が見つめる前で礼服用の複雑な結びをあっさりと作り上げたのち、その上に贈ってくれた祈りが、先ほど衆目にさらされたところの「まじない」だった。
 存外器用なその指で因果の糸目を結び直したとでも言うかのように、効果のほどは覿面かつ絶大で、その日の仕事は全くの無風、事件事故が起きるどころか居眠りさえできそうな安閑とした時間が流れ、轟は家を出発した時と変わらぬ装いで恋人の待つ家へ帰った。予告の時間まで腰を落ち着けていられず廊下で待ち構えていたとおぼしき、笑みを通り越して泣き笑いになりかけている顔に出迎えられて、理性の結び目も見事にほどけ、捧げ返した口付けは唇にとどまらず――と、この先はまあ自分独りの胸にとどめるべき余談である。
 ともかくも、以来この「まじない」はネクタイを締めて仕事に臨む際の恒例行事となったのだが、もちろん人へ語り聞かせたことはないし、それなりに奇妙を感じさせる内々のじゃれ合いだという自覚はある。枝葉を大きく端折りながらも、焦りのため言葉の流れの節々に危うさを感じさせる飯田の説明に返ったのは、色々の感慨を親友への気遣いともに凝縮したらしき、「そうなんだ凄いね」というごく短く穏やかな言葉ひとつであった。
 凄いのはお前さんだ、の視線が救国の英雄・デクに集まる中、飯田はそれでもまだ狼狽が治まりきらなかったようで、止まらない手振りで自ら墓穴を掘りに行く。
「ううううむ、とても良く効くおまじないだからな! 君も結婚したら彼女にやってもらうといい!」
「へっ? ぼぼぼぼ僕は大丈夫です! ちゃんと結べるようになったし!」
「俺も自分でちゃんと結べるぞ」
 盛大な巻き込み事故の現場に自立の主張はひとまず挟んでおいて、二人して大汗をかいている愛すべき親友たちを横目に、赤いネクタイの結び目を撫でる。現役でこれを着けていた頃も良く曲がりや乱れを直されていたな、と懐かしく思い出しながら、三々五々仕事に戻り始めた仏像顔のサイドキックたちに混ざり、本日の任務の始まりを待った。


 今日は高校生らしく健全に公園デートから始めましょう、とスタッフから改めて予定の説明を受け(昨日の諸々が不健全とみなされたのかどうかは定かではない)、緑谷の見送りに手を上げて雄英を出発した。人目に止まりやすいよう、わざと駅を通って目的地へ向かうルートが設定されているため、道程はおおよそ前日と同じである。飯田もだいぶ緊張がほぐれたのか、ネクタイの一件を除いてはごく自然で落ち着いた態度を見せていた。向かう先の馴染み深さも多少関係していたのやもしれない。
 雄英近郊には大小の公園が点在しており、今日はそのうちの最も広い自然公園が行き先として選ばれていた。池や橋を日本庭園風に設えた一角は紅葉の映える撮影スポットとして知られ、奥には中規模の植物園が併設されているなどの見どころもあり、観光地というほどではないが、近所の家族連れの憩いの場であるのみならず、外部からも人が訪れる場となっているらしい。学校からはやや距離があるため、飯田は主に休日のロードワークの順路のひとつとしてこの公園に親しんでいたとのことで、轟も一度か二度だが共に走りに来た記憶があった。
 なおこの日の行き先の選出にあたっては、雄英スタッフおよび両事務所間での協議もそれなりに紛糾したようで、過去の経験談をもとに語る行動派のメンバーから、公園に男ふたりで行っても時間を持て余すのではないか、男子高校生の放課後と言えばカラオケかゲームセンターだろう、との主張もあったのだが、「うちの二代目は歌自体はうまいけどレパートリーは中高の校歌とかですよ」「そんなこと言ったらうちのショートは童謡ぐらいしか知らないから開始五分でタンバリン係です」という意見の並びに封殺されたという。ともに理解が深い同僚を持って何よりのことである(ゲームセンターに関しては「ふたりとも何をしたらいいかわからずに入り口で固まるか、『カップル』ではなく『妙な動きをする客』として目立つかの二択」という進言で即時却下となっていた)。
 ともあれ公園ならば周囲の警戒も容易で、逆に犯人たちにこちらを見つけさせるという要件にも適っている。加えて生徒からの被害報告が数件上がっていた場所だということであるから、その点でも候補から落とす理由はなかった。
「相変わらず綺麗に整備されていて気持ちがいいな!」
「歩いて入んの初めてだな、俺」
「そうだったか。ではゆっくり見て回ろう。今の時期は紅葉が綺麗だぞ。植物園では国内で珍しい木や花が見られて、庭園のほうの池には大きな錦鯉もいる」
 あんなに穏やかな場所で不届きを働くとはますますけしからんことだ、と昔なじみの地での犯罪に憤りを募らせていた飯田だが、いざその場に到着してすぐに良い思い出が甦ってきたらしく、快活さを取り戻し、先に立ってきびきびと案内を始めた。これはこれでカップルと言うよりツアーガイドと観光客のような趣ではあったが、かつての委員長の姿を見るようでほほ笑ましく、うんうんと素直に頷きながら並び歩いた。
 たっぷり一時間半をかけて園内を散策するあいだ、それらしい不審人物からの接触はなく、追行班からの目撃報告もなく、結果なにごとも起きずに「公園デート」は終わった――というのは今回の案件に関連する事象に限ってのことで、実際の出来事を語るとなかなかに盛り沢山の時間であった。
 道端に落ちていた財布を拾って公園の管理事務所へ届け、散歩中に腰を痛めてしまったという老爺に行き会って救急搬送を手配し(これは追行班にあとを任せた)、飼い主の手元から逃げ出してしまった迷い犬を捕まえて事務所へ預け、泣いていた迷子を保護してこれまた事務所まで送り、母子の感動の再会劇を見届けて、三度目の顔合わせとなった事務員に感心な学生さんだと讃えられてひと掴みの飴をもらい、素性を訊ねられかけて慌てて逃げ出した。
 轟も普段の活動で慣れてはいるが、難事を発見してその場に駆け付ける飯田の目ざとさ素早さといったら舌を巻くほどで、迷子を見つけているというより迷子のほうからこちらへ寄ってきているようにさえ思えた。全ての事件の収拾がつき、そろそろ次の場所へ移動しようと出口へ向かって歩き出しながら、飯田は少し沈んだ面持ちで轟へ言った。
「すまない轟くん。今思えばどれもすぐに別働班に預ければ良かったのだが、つい……」
 せっかくの穏やかなデートの時間を普段の調子でふいにしてしまった、と感じたのだろう、肩落として謝罪を述べる飯田に、何を言うのかと首を振る。
「ヒーローなんだから当たり前だろ。格好良かったぞ、インゲニウム」
 らしくなく丸まった背をぽんと叩き、惚れ直した、と顔横で囁きを落とせば、四角い目がぱちくりと瞬いて、眦を染めつつ嬉しげにその形を崩し、うん、と頷く。
 はてここで口付けを贈るのはありやなしや、と薄い知識のページをめくって考えながら、今日中にこちらにも惚れ直させねばと決意を固める、十六歳(中身は二十五歳)の轟少年であった。


 また一度駅へ戻って向かった次の〝デートスポット〟は、ロータリーから数本道を奥へ入った区域にあった。こんな平凡な過ごし方でいいのだろうか、と内心首ひねりつつ入店したのは、ごく普通のカフェである。
「十年前から既に営業していたそうだが、轟くんは入ったことあったかい? 俺はなかったな」
「俺もねぇ。つーかあることすら知らなかった」
 ごく普通の、とは言っても繁華街を歩けば三軒も四軒も見つかるようなテイクアウト主体のコーヒーショップではなく、いわゆる〝ゆったりと過ごせる昔ながらの喫茶店〟スタイルのフランチャイズ店で、ビジネスでの顔合わせや、友人とのお茶会、もちろんデートなどにも良く使われている、ということだ。高校生男子にはやはりいささか分不相応に思われる店ではあるものの、そこは『数回目のデートで背伸びして大人びた店を選んだ』がコンセプトなので、と説明を受けている。轟にせよ飯田にせよ口を出すほどの知識も経験もなく、唯々諾々と了解したが、飯田はもともと大人びているし、この場合背伸びをしたのは自分ということになるのだろうか、子どもじみて見えるのだろうか、などとどうでもいい気がかりも残った。
「なんか適当に食ったり飲んだりしてりゃいいんだよな」
「予定上は『カフェでお茶』としか指示がないからな……」
「店員には俺らのことは知らされてるんだろ?」
「立ち寄り予定の個人商店には事前協力依頼はしている、とのことだ。もちろん迷惑をかけるようなことはしないに越したことはない」
 窓際のボックス席に通されて向かい合わせに座り、木製表紙の落ち着いた風合いの品書きを開く。「店舗ごとに特色のあるフード系もお勧めです」という事前情報の通り、小さなランチプレートからそれなりに値の張るディナーセットまで豊富なメニューが揃い、公園内を何往復もしたがための空腹もあってパスタやカレーといった名にも惹かれはしたものの、本格的な夕食になってしまいかねない注文は避けることとなった。類は異なれどそれぞれに高出力の個性柄、二人して佇まいの印象に反する健啖家だと評されることにも慣れており、普段の外出であれば互いがいつどこで何を食べようが特に気にかけないが、今回の計画上あまりそうした生活臭を出すのも良くないのではなかろうか、と真っ当な見解を述べたのはもちろん飯田の側である。
 吟味の結果、ゆっくり摘まみ食べながら話して過ごすのに良さそうだとの算段のもと、二、三人前のボリュームがあるというクラブハウスサンドとフライドポテトのセットを頼んだ。生絞りのオレンジジュースがあったことをより喜んだのは、実は轟のほうだった。無用な気兼ねをし始めるのが目に見えているので当人には決して言わないが、大人の落ち着きと精悍さが増し、ますますアンバランス感の強まった飯田とフルーツジュースの取り合わせの画を眺めるのが、年々好きになっている。
 テーブルに注文が揃い、いただきます、と唱和したところで確かめた時刻は夕方四時前。周辺探査の都合上、計画では五時までは店に留まることになっている。最短でも、と註が付けられているあたり、例によってスケジュール検討の際に男子二人で一時間以上も茶をしばくのか、などという意見が出ていたのかもしれないが、その点は当事者としてはあまり問題に思っていなかった。
「なんか情報来てるか?」
「公園を出てからは特に連絡は入っていないな。急報がないだけで何かしら動きは生じているかもしれないが」
「どうにもやきもきするっつーか、なんもしねぇで相手の出方を待ってるだけってのも面倒だな。楽といや楽だが、性に合わねぇ」
「君は昔から行動派だからな。とは言え忍耐も大事だぞ。チームでの連携が重要になる場合は特に」
「まあわかっちゃいるんだが……これ旨ぇな」
「うむ。肉と野菜と卵の配分が良い具合で、ボリュームはあるがとても食べやすいな! 味付けには店特製のオーロラソースを使っているそうだ」
「ただのサンドイッチとは違うのか?」
「サンドイッチの一種には違いないはずだ。パンがトーストしてあることが第一の特徴で、あとは形や具の種類で定義されていたのではないかと……」
 いまだ進展のない業務確認はものの一分で終わり、店と食事の感想から、今日の公園での出来事、ここ最近で見聞きしたニュースなど、他愛ない世間話に話題は流れていった。いつものように何事にも前向きで饒舌な飯田が主体となって喋り、合間に轟が短い感想や問いを挟みながら話が進む。念のため周囲の耳目は警戒に入れて、直接的な語を意識して避けながらのやり取りではあったが、いくら言葉の裏が汲めない者同士とは言え、はや十年の付き合いだ。向き合って顔を覗き間近に声を聴けば、相手の伝えようとするところは容易にわかる。
 他人から自分と飯田の仲について語られる折には、異なる点ばかりで意外な組み合わせの二名だとの声がまず聞かれて、それぞれとの付き合いが長くなるほど、実は似た者同士だとの評価が増えていくのが毎度おなじみの現象となっている。おそらくいずれの見立ても誤りではなく、相違点と類似点のどちらともが大きくはっきりと存在しているからこそ、長年にわたって親しく付き合ってこられたのだろう。異なる形を知っては驚きとともに噛み合わせて、同じ形を見つけては和らぎとともに重ね合わせている。
 無論、そんな詩的なことを当初から感じていたわけではないが、関係の始まりの頃から、飯田とともに過ごすのはとても楽だった。轟の言動で過剰に怒らせたり呆れさせたりすることも少なく(気のいい仲間たちは「まあ轟だから」と最後には見逃してくれていたが、常道をずれがちであるらしい反応がたびたび人を困らせていたのは、自分とて多少なりと心懸かりにしていた点ではあった)、逆にこちらが飯田の言動をうるさいだの堅苦しいだのと気にして距離を置こうと思うようなこともなかった。「ふたりとも賢いのに、ふたり揃うとあまり賢そうな話をしない」などと揶揄されもした、着地点の欠けた会話を取り留めもなく交わすのも楽しかったし、各自よそごとに集中して黙りこくったまま同じ空間に身を置いていても、退屈や窮屈を感じることはなかった。いつも無用の気負いなく、しかし無遠慮になり過ぎることもなく、ただただ自然に並び歩いていられた。
 気付けば当たり前に隣にあり、息をするごとく享受していたものの得がたさを思い知るまでに、それなりの長さの時間と、いくつかの滑稽な出来事を重ねた。失うことを恐れ、永劫終わってくれるなと願った瞬間すらあったのだから、己の心を呑み込めていなかったあの頃でさえ、飯田とふたりこの場で時間を潰せと言われれば、たとえ半日だろうが無理難題とは思わなかっただろう。どうかこの先も共にと、祈り差し出した手をそっと握り返された歓喜が、今この瞬間まで幸運にも続いている。
 まあこのところは多少途切れ途切れではあったが、と考えた轟の頭を覗いたかのように、ひとつ閉じ終えた話題の縫い目に、飯田がぽつりと声を落とした。
「こんな風に君と向き合ってなんでもないことを話すのは、随分久しぶりだった気がする」
「そうだな」
 緑谷にも語った通り、離れていても連絡は欠かさず取り合っているし、余裕があれば画面越しにでも目を見つめ、声を交わして話すようにしている。しかし昨年までより頻度が減っていること、慌ただしさゆえに会話の中身も必要事項の共有が増えがちであることは確かだ。こうして手の届く場でのやり取りとなると、さらに短く少なくなる。
「一刻も早く解決すべき物事に取り組んでいる身で不謹慎だとは思うんだが、こうしてゆっくりと話せる時間ができたのは、正直なところ少し嬉しいよ」
 皆に怒られてしまうな、と苦笑する飯田に、あえて大きく頷いてやる。
「俺も同じこと考えてたから、叱られるなら一緒だな」
「轟くん」
「デートで陰気に黙り込んでるってのも変だろうし、そう思ってるぐらいがちょうどいいんじゃねぇか」
 むしろこのところのある種の「噂」に心配や憤りを示している身近な人間たちからすれば、こうした姿を見せるのは諸手を上げて歓迎の次第に違いない。でなければ計画はもう少し事務的なものとなって、これほど議論紛糾の跡の見える予定表を渡されることなどなかったはずである。
「『三年目の危機』だっけか」
「ふふ」
 夏前にとある週刊情報誌の巻頭を飾り、一部界隈で話題となった〝スクープ〟の見出しを口にすると、おかしげな笑いが返った。その「当社独自取材」と「関係者の証言」により判明したところによれば、人気ヒーローのショートとインゲニウムは、結婚三年目にして「世間の例に違わず」仲が冷え込み、「仕事を口実に」生活を分け、倦怠期を迎えた「別居秒読み」の状況にあるのだそうだ。
 記事の公開当日、偶然に同じ現場にいた自分たちのもとに、当の雑誌の切り抜きがほとんど汚物のように摘ままれた状態で持ち込まれ、並んで目を通し、揃って噴き出した。事実無根と荒唐無稽を足して割らずにじっくり煮詰めたごときその内容に、当事者であるからこそ、もはや笑いしか出てこなかったのだ。
 悪名高いゴシップ誌とは言えよくもここまで、と腹を抱えるふたりをよそにサイドキックたちは憤慨し、真面目な文句から始まって、「ほんの一時でも本当の関係者になれば数十の反証が頭をよぎって書けるわけのない文章」だの、「事あるごとにのろけを喰らい馬に蹴られている自分たちへの名誉棄損もの」だの、「シロップに砂糖菓子をぶち込んだようなあの空気を瓶に詰めて送りつけてやるべき」だのと、おそらく冗談も交えて盛り上がっていたが、最終的には瓶詰めではなく、理性ある抗議文が事務所連名で送られることとなったようである。
「最近はどうだ。こっちはほとんど見てねぇけど」
「あるにはあるようだが、どれも些細なものだし、裏で然るべく対処をしてくれているようだよ。いかんせんそうした事柄に関しては過保護になられてしまいがちだから、どんな対処がなされているのか詳細を聞くのは少々恐ろしいんだが……」
 おおよそ初の〝スクープ〟の影響を少々甘く見ていたと反省したのは少し後のことで、一瞬噴き上がってすぐに鎮火した噂は、下らないと掃き捨てられる一方で、世間に確かな興味の火種を残してしまったらしい。実際に燃えていようがいまいが構わない、見たがる客がいるのだからともかく煙を立ててしまえと、同種のメディアでぱらぱらと火花が撒かれては、まれに世に見つかってごたつきを呼び、そのたび(主に飯田を幼い時分から知る辣腕スタッフたちからの)怒りの鉄槌が落ちるも駆逐には至らず、質の悪いもぐら叩きの様相を呈している。今年に入ってともに過ごす時間が減っているという事実は否定できないだけに、噂自体の根絶はなかなか難しいようだ。
「なんか妙なこと言われたり書かれたりしたらちゃんと言えよ。すぐに凍らせに行くから」
「いやいや物騒だな……今のところは大丈夫さ」
「本当だな」
「ああ」
 何かつっつきやすい要因でもあるのか、交際を公表した当初から、そうした捏造ゴシップや勘繰りの声は、轟より飯田へ向けて発せられることが多かった。おそらく轟には気を遣って秘されたままの面倒もあるのだろうと思うと、胸が悪くなるばかりだ。
 当事者がむやみに反応すると火が広がって相手を喜ばせるだけ、という有識者たちの忠告もあり、現状は無視を決め込んでいるものの、本音を言えば表に出て、自分の思うところをはっきりと述べて一蹴してやりたい。もとより自分たちには、四年以上も離れて暮らしながら想いを通わせ続けた実績があるのだ。「次」の定まらない別れのたび、身を切られるような寂しさに見舞われた当時の憂いを思い返せば、ほんの一年の生活のすれ違いなど、今さら支障のひとつにも数えられない。まったく甘く見られたものである。
 大仰な轟の言葉に苦笑を漏らしつつ、しかし真剣に口にされたものであることは理解しているのだろう、すぐに表情を戻して、飯田は返事を重ねた。
「君に嘘をつきたくはないから、些末な話まで洗いざらい全て、とこの場で言い切ってしまうことはできないが……何か気にかかることや思うところがあれば、必ず話すようにするよ。もちろん君からも気兼ねなく伝えてほしい」
「ん、わかった。まあ今まで通りだよな」
「そうとも」
 自分と相手のためにならない、無用な隠しごとや遠慮はしない。出会って十年、大小の失敗や行き違いを重ねて得た教訓のひとつだ。離れて過ごす時間が長い今だからこそ、いっそうの心がけにしよう、と頷き合う。
 浮かぶ笑みのやわらかさに惹かれて、グラス横に置かれていた手に腕を伸ばし、指先を触れさせた。骨張った甲に手を重ね、つつ、と起伏をなぞってやんわりくすぐると、指の下のなめらかな肌が跳ね動いたかと思った次の瞬間、ばばっと音を立てんばかりの勢いで飯田が立ち上がった。
「おっ……!」
「お?」
「お、お手洗いに、行ってくるよ」
 ぎくしゃくと言って、轟の返事を待たずにぎくしゃくとした動きで席を大股に離れていく。照れています、と大書されたような背中を見送りながら、くつくつと笑いを噛み落とした。手を握るより何倍も凄い(と形容すると、また不埒なものに直面したというように顔を赤くするのだろう)ことを数えきれないほどしてきているのに、なんとも仕掛け甲斐のある反応をしてくれる。付き合いたての頃はともかく、今はさすがにここまで過敏になることは珍しいので、「見た目に中身が引っ張られる」という仮定もあながち間違いではなかったのだろうか。
 それこそ馬鹿な失敗も間抜けな空騒ぎも含め、多種多彩にくり広げてきたあれこれのやり取りを懐かしみつつ、わざわざ皿のこちら端に寄せられていたサンドイッチの最後のかけらを食べ尽くして帰りを待っていると、不意に声をかけられた。
「すみません、お友だちが落としましたよ」
「ん?」
 見上げたテーブル横に立っていたのは、一人の女性だった。その後方からも視線を感じる。どうやら通路を挟んで店の内側の席に、二人連れで座っていた客のようだ。
 耳奥に入れたインカムに一瞬ノイズが走り、轟と同時に店外の追行班も警戒態勢に入ったことを教える。広いガラス窓に面した席であるため、こちらの動きはほぼ問題なく視認できているはずだ。襟元に隠した集音マイクの電源を入れて、音声ごと状況を伝える構えをととのえる。
 女性は相手の瞬間の反応に気付いた様子なく、前へ手を伸べ、これ、と轟の顔の正面で指を開いた。白い手のひらに転がる小さな飴玉の包み。首を傾げかけ、公園での出来事を思い出す。万一に正体がばれてはならじと慌てて場を離れながら、にこやかな初老の事務員に渡された飴の山を、飯田は急いた動作でズボンのポケットに押し込んでいた。その後バッグに入れ直していた様子もないので、浅い部分に引っかかっていた粒が急ぎ足の弾みで布の内をずり上がり、外へひとつこぼれ落ちてしまったのだろう。
「ありがとうございます」
 追行班からの連絡は入ってこない。少なくとも現時点までに接触や目撃のあった人間ではないようだ。礼を言って飴を受け取ると、女性はほほ笑んで頷き、きびすを返して席に戻っていく、かと思いきや、その場で再び口を開いた。
「あの、その制服、雄英高校のですよね。実は私の親戚の子も今年から通ってて」
「はあ」
 急の転換について行けず、乾いた相槌を打ってしまう。女性は構わず言葉を続ける。
「とても頭のいい子で……お兄さんたちもきっとすごく優秀なんでしょうね」
 今度は相槌を打つことすらできない。親戚の自慢話がしたいのか、通う高校の内情を訊きたいのか。後者なら現役生ではない自分には少々困った話題になるが、と考えつつ曖昧に頷き、今回の事件に関わる可能性も捨てきれないと、相手の様子を観察する。
 身なりに妙なところはない。「お兄さん」と轟を呼んだが、若化中の自分たちよりはおそらくいくらか歳上だろう。通路向こうの席からこちらを見ている友人らしき女性とともに、十代後半から二十代前半といったところか。人の容姿に対する審美眼にはあまり自信がないのでなんとも評しがたいが、一見して華やかな印象を受ける佇まいだ。香水を付けているのか、それとも何かの個性の作用か、身じろぎのたびに強い花の匂いが香ってくる。話しぶりは明瞭で、初対面の人間に対する物怖じも感じられず、愛想よく振る舞えているとは言いがたい轟に多弁を投げかけてくる。
「あ、急にごめんなさい。このお店で雄英の子を見るのは珍しいから、つい……モデルさんみたいに格好いい男の子だなってびっくりしちゃいました。もしこれから少し時間があれば、学校の話とか色々聞かせてもらえませんか? 私の友だちも弟が雄英志望してるらしくって、参考にさせてもらえたらなって。良ければここのお代は私たちが出すので!」
「えっと」
 どうも妙な流れになってきた。果たしてこれは犯人一味による「仕掛け」なのだろうか。
 言い淀む轟に対して女性はあくまで明るく、場所を移動したほうがいいかな、雄英生もカラオケとか行くんですか、と話を進めていく。追行班からの指示はまだない。無論おいそれと予定を外れるわけにはいかないが、犯人関与の可能性があるのなら、短絡に邪険にして不信感を与えても面倒だ。一般的男子高校生はこんな時にどう振る舞うものなのだろう。俺たちカラオケは向いてないらしいんで、などと答えるのはよろしくないということだけはわかる。
 考えあぐね、強まる花の香りから顔を逃がして正面へ目を向けると、通路の先で立ち止まり、戸惑いの表情を浮かべている飯田の姿が見えた。席を離れている少しのあいだに他人が帰り道に立ちふさがり、あまつさえ残った連れに前のめりに話しかけてきているのを見れば、それは当然困惑もするだろう。
 何か合図をせねばと思いつつもう一度その顔を見やって、弱々しく下がった眉に目が止まり、はたと気付く。
「飯田」
 声高に呼んだ。女性の言葉が途切れ、呼ばれた相手は肩を跳ねさせる。多少周りの視線が集まるのを感じたが、さほど珍しくない苗字なのでこれだけで気付かれる心配はないだろう。
 なおも躊躇を見せているのは半ば予想通りであったので、二度呼ぶ代わりに伝票とふたり分の荷物を持って席を立ち上がり、すみません、と声かけて女性を道脇へ一歩のかせた。その横をすり抜けてつかつかと歩き、弱り顔の恋人に合流する。
「轟くん……?」
 彼女は、と問いを発しかけるのを先んじて、らしくなく引けていた腰に手を回し、ぐいとそばへ引き寄せる。腕の中に爽やかな柑橘の実の香りが立ち昇り、やはり自分には花よりこれのほうが好ましい、と目を細めながら、ぽかんとこちらを見ている二人の女性に告げた。
「俺、こいつと付き合ってるんで。まだデート中なので、失礼します」
「え? しょ……あ、いや、えっ?」
 唐突な宣言への驚きと、反射的に下の名(転じてヒーロー名)を人前で呼びかかった焦りとでしゃかしゃかと一人踊りを始める飯田の腰を抱えたまま、店の出口へ向かう。背後で何やら高音の声が上がっていたが、店への事前依頼の効果もあってか騒ぎを生じる気配はなかったため、そのまま何食わぬ顔で会計を済ませて退店した。時刻は五時五分。もう三十分は会話に興じていられたと思うが、食事は空にしていたので、まあ及第点だろう。
 駅へ向かって道を歩き出して数歩、顔一面にはてなを浮かばせながらも素直に付いてきた飯田が、ためらいがちに口を開いた。
「轟くん、先ほどのあれは……」
「あー」
 どうにも説明しづらく頭を掻き、不明瞭に発した声が、
「確か、『逆ナン』というやつだな!」
「あ?」
 さらりと飛び出してきた言葉を受けて、間の抜けた驚きの音に変わった。
「学生の頃に峰田くんと上鳴くんに教わったよ。本来は性別ごとの決まりのない行為に『逆』と冠するのは少々違和感があったが……峰田くんたちは都市伝説に近しいものと称していたから、確かに相当珍しいことなのだろうな。俺も実際に目撃したのは初めてだ」
 さすが轟くんだな、と拳を握る飯田の横顔をあっけに取られて見つめる。よもや自分の行動は筋違いであったのかと、探るように訊ねた。
「……お前、いいもん見たとか思ってないだろうな」
「えっ、いや、まさかそんなことはないぞ! 少し驚いてしまいはしたが!」
 弾かれたように答え、君も困っていたようだったし、と、そのあたりは確かに正しく見立てていたようだ。ならばあの場面のあの反応は。
「あんな顔するから、こっちも少し焦っちまったろ」
「あんな顔とは?」
「置いてかれた犬みてぇな顔」
「んが」
 ぱかりと口を開き、犬とはなんだい犬とは、とまさしく大きな犬じみた様子で宙を腕掻きし、わんわんと訴えてくるのへ、
「妬いてくれてんのかと思った」
 そう正直に伝えると、ひたり、声と動きがともに止まる。
 困惑にほんの少しの嫌気けんきを混ぜて女性を見つめる、これまた珍しい飯田の表情を目にして、ようやく彼女らの意図するところに気付き、自分の迂闊さに思い至った。この任務で喧伝すべきは〝一般的男子高校生〟の姿ではなく、〝デート中の雄英カップル〟の姿なのだから、恋人を差し置いて誘いの声をかけられたのなら、相手が悪気のない素人であれ、「商品」目当ての犯人の一味であれ、多少邪険に扱うぐらいが相応のはずである。不審な動きの捕捉は追行班に任せればいい。
 あの淀みない話しぶりを思い返すに、見るからに真面目堅物な飯田が場を離れ、轟ひとりになったのを好機と取って声をかけてきたのだろう。ひょっとすると飴を拾ったのもあの瞬間ではなかったのかもしれない。自分がほいほいと誘いに乗るような軽い人間に見られたのか、それとも飯田が一方が決めればおとなしく付いてくるだろうと軽んじられたのか、いずれにせよ気分のいいものではない。
「……妬いてはいないよ」
 前へ上げた腕をゆっくりと身の横に引き戻し、飯田は小さく応えた。
「違うのか」
「君の人気には慣れているからね」
 だからその指摘は間違いだ、とは言わず、ふっと息をつき、続ける。
「さっきの今だから、隠さず打ち明けてしまうけれども……嫉妬を覚えたわけではないが、そう見えてしまうような気分だったのは事実だ。君が俺を好きだと言ってくれる気持ちを疑うことなんてないのに、それでもいざああいう場面を見ると嫌な気持ちになってしまうのが、自分の心の狭さを感じて余計に嫌なんだよ」
 贅沢な話さ、とこぼれる苦笑混じりの声とは裏腹、本物の犬なら頭上の耳がすっかり寝てしまっていただろう面持ちでそんなことを言われてしまえば、いいぞ存分に妬いてくれ、などと調子付いた言葉を返すことはできない。
「……そういう時は遠慮とかする必要ねぇぞ。嫌なら嫌だって言ってくれりゃいい。横から急に入って悪いってんなら向こうだって同じだろ」
「うん、いや、さっきはひょっとすると例の件の関係かもと思ったもので……」
「まあ、色々と間が悪かったよな」
 そもそもの始まりは女性側の「逆ナン」であり、自分たちにはなんら落ち度はないと結論付けて、それぞれの反省を締めとしようとしたが、轟が前へ向き直るより早く、でも、と飯田が早口に言った。
「その、これだけは言わせてくれ。……ありがとう、焦凍くん。君があんな風に俺とのことをはっきり言ってくれて、嬉しかった」
 え、と首の角度を固めて見つめた顔は先に正面へ戻り、いつもまっすぐ人を見る視線が前方の地面のあたりをさまよっている。体温が上がっているのか、鼻先に再び柑橘が香った。
「いつもしてくれていることと言えばそうなんだが、この姿においては君との関係は人に知られていないわけだから……なんだか無性にどきどきしてしまった」
 格好良かった、と、公園で伝えた言葉をとろりとした声音で返される。含羞の融け出した瞳が重たく潤むように揺れて、ありふれた賞辞に深い情の色を添えた。
「……おう」
 公共の場で何をしてくれているのか、と叱られる心構えさえあったところを思いがけず賛じられ、妙に婀娜めいた風情につられてこちらの心拍まで上がってしまい、淡白な相槌を打ったあとは、真面目な言葉が出てこなかった。
「そうか、……惚れ直したか?」
「それこそいつものことだよ」
 ふふ、と落ちた笑いは常の調子半分で、当人に自覚があるのやら無いのやら判然としない。
(オレンジジュースにアルコールが入ってた……わけないよな)
 ともあれ機嫌は良さそうだから問題もなかろうと、また他愛のない世間話を転がしながら、駅までの道をゆっくりと歩いた。往来が増えてきたところで襟元のマイクを集音状態にしたままであったことにようやく気付いたが、こちらはまず確実に叱られるであろうことがわかっていたため、両事務所の仲間たちの鷹揚さと口堅さに期待し、黙って電源をオフにした。
「――じゃあ、俺はここで」
「ん。家着いたら連絡入れてくれ」
「ああ」
 帰路を急ぐ学生と会社員の人波の中、わざと改札正面の目に触れやすい場に並び立ち、短い別れの辞を交わして、飯田ひとりがそのまま構内へと進む。轟は帰寮、飯田は週末の実家帰省を想定した行動の演出である。
 改札を抜ける前にくるりと半身が振り返り、
「あさっては十時集合だぞ、遅れないようにな! 間違えてこの駅で待っていたりしないように!」
 腕上げて次の待ち合わせ場所を高らかに叫んだ態度が、犯人たちへの印象付けの意図を越えてあまりに自然であったため、こちらも素の感情で手を振り返してしまった。学生の頃から付き合っていたならこんなやり取りもあったのだろうかと、駆け足に通り過ぎた青春を回顧して笑いを漏らす。
 広い背が角を曲がって雑踏に消えるまでを見送り、轟がきびすを返して歩き出したのを合図に、本部から「お疲れ様でした」とねぎらいの一声がインカムに入った。今日のオペレーションを予定の通りここで終了とすること、同じく当初スケジュールに従い三十分後にブリーフィングを行うことが伝達され、ひとまずの解放に息をつく。信号待ちの時間を使って携帯を確認すると、今夜はこのまま早上がりとなる飯田から、緑谷との三人のグループチャットに「あとはよろしく」と律儀なメッセージが送られていた。


「計画通り、犯人側にふたりの存在が捕捉されたとの情報が取れました。引き続きよろしくお願いします」
 昨日から続く手応えのなさを考え込みながらひとり雄英に戻り、十分足らずの休憩を挟んで始まった会議の冒頭、本部からの思いがけない報告で場が湧いた。
「良かったですねショート! しかし耳が危うく砂糖漬けになりそうでしたので、次回からはこちらで集音モードを変更できるマイクに換えましょう!」
「おう……すまねぇ。あいつには黙っといてくれ。たぶん聞こえてたのバレたら湯気噴いてぶっ倒れる」
 了解ですの言質を取ってのち始まった、それぞれのチームからの報告をまとめると、主犯一味からは確実に目をつけられており、確保目標日である二日後の予定も既に伝わっている、しかし雇われの〝出演者〟を含め、犯人たちの実像や、ウェブ上での動きを除くここ数日の行動は掴めていない、という状況が見えた。今日行き会った公園客たちも、喫茶店で声をかけてきた女性たちも、全員素性シロとの確認が取れたらしい。撒き餌にはうまく食いついてきたが、釣り上げられるか否かは次の一手次第となるようだ。
「月曜中に接触してきそうなのか?」
「例の取引サイト上での発信内容を見る限り、可能性は高いと思います。ただ犯人側も自分たちの動きをわざわざ事前に明かしたりはしないはずなので……」
「待つしかねぇってことだな」
 性には合わないが、任じられたからにはやり通さねばならない。至らない部分は飯田の慎重さが補ってくれるだろう。もちろん飯田が不得手とする振る舞いが必要になった時には、自分が代わりに担うつもりだ。
 計画の大筋に変更はなく、三日目の予定の再確認を最後にブリーフィングは終了した。食堂ですぐに夕飯を用意できると声がかかり、飯田が家で準備して待ってくれているから、と辞去して例のアルカイックスマイルを向けられたが、もともとそのために早上がりをしてもらったという公私分担の事情であり、ほかに言い抜けようもない。
 飯田への連携はイダテン側のスタッフが事務所の定例報告を兼ねて行ってくれるとのことであったので、素直に任せて帰り支度にかかっていると、会議室の外から、轟、と名を呼ばれた。タブレット片手に廊下へ手招きを示していたのは、会議中は進行を緑谷と警察側の担当へ任せ、オブザーブに徹していた相澤であった。
「会議では詳細を省いたが、当事者のお前は知っておいたほうがいいだろうと思ってな」
 そう言いながら立ち上げたタブレットに、任務受諾の際にスクリーンショットを見た、会員制の取引用SNSが表示される。差し出された端末を受け取り、一瞥して、数秒足らずで頭痛を感じた。
 ずらりと並んだ今日の日付の投稿記事に貼られていたのは、まさしく自分と飯田の写真だった。公園を並び歩く姿から、池の鯉を眺めている場面、迷い犬を保護している場面、場所を喫茶店に変えての談笑の光景、女性の誘いを断った瞬間、駅への道中、改札前での別れと、今日の路程が順を追って載せられている。どの記事にも「客」からのコメントが多数付いており、最新のものはわずか数分前の投稿だ。
「ご丁寧に商品価値のリサーチ中ってとこだな。昨日の時点で見つかってはいたようだ。今朝載せた写真の反応を確認して、正式にターゲットに決めたんだろう。よほど高値に見積もられたらしいな」
「全然嬉しくないですね」
 だろうな、と頷く相澤の声が冷え切っているのが救いだった。もしひとりで眺めていたら、頭が煮えた勢いで備品のタブレットを破壊していたやもしれない。
 客の評判に応じて値段の吊り上げか何かをするのだろう、相澤の説明通り初日の「デート」の光景から始まる、言わば観測気球代わりの記事には、匿名を隠れ蓑とした品のない言葉が山成して投げかけられている。

『これマジカップル? すげー大当たりだ』
『釣りかと思ったら証拠写真あり過ぎて笑う』
『雄英生とか手の出し甲斐あるな』
『これは即金だわと思ったらまだサンプルですか』
『きらきらしてるわー。絶望させたい』
『白髪のほうショートに似てない?』
『本番はよ』
『眼鏡のほうがネコ? 白髪くん腰抱いちゃって王子様じゃんw』
『いちゃつき過ぎNTR不可避』
『最近ぬるかったからまた泣かすぐらいやってほしい』
『メガネくんおっぱい大きいね。おじさんの挟ませて』

 かろうじて意味を読み取れるコメントが数割、半分以上は全く意味のわからないスラングと、目にしたそばから唾棄して頭の中でも読み上げたくなくなるような淫猥な文章ばかりだ。
 液晶がみしりときしみを立てたことに気付いてか、相澤がすっと轟の手から端末を取り上げ、最新の記事まで画面を戻した。改札を挟んで手を振り交わすふたりを捉えた画像の下に、「近日取引登録開始」という一文が添えられている。
「この画像は動画の切り出しだな」
「こんなに撮られてんのに気付かなかったのか……話も聞かれてたってことですか」
「お前らも追行班も盗撮を捕捉できなかったとすると、医療用レベルの超小型機器と、認識阻害のたぐいの個性を利用していると見ていい。かなり慎重に望遠で撮影している。音声録音していたとしても、この距離ならせいぜい飯田の大声ぐらいしか入ってないだろう」
 逆に言えば、あえて叫んだ月曜の予定は認識されており、この「近日」の語を指すということだ。会議では過程の濁されていた推測事項に改めて合点が行った。
「気分のいいもんじゃないだろうが、こういう連中が相手だってことはまあ憶えておけ。構え方も違ってくる」
「はい、ありがとうございます。飯田には……」
「あいつは態度に出やすいからな」
 お前に任せる、と短く述べた恩師の気遣いにもう一度頭を下げ、すぐに秘匿を決めた。近頃の飯田は相澤が印象を残しているのだろう学生時代ほど大げさに反応過剰にはならないが、それでも昔からこうした猥雑さが苦手で忌避していることは事実であるし、何より自分が単純に見せたくなかった。飯田の写真に下劣な言葉を投げつけた変態どもの目と局部を端から凍らせに行きたいぐらいだ――と、くさくさした気分のまま帰路に就いたため、
「お帰り焦凍くん! 最後まで居残って疲れたろう、お疲れさま。風呂も沸いているし、今ちょうど煮物が……どうかしたのかい?」
 先に帰って夕餉の支度をしてくれていた飯田にすぐさま変調を察せられ、向けられた心配の視線への愛おしさと、最前の鬱積とがない交ぜになった勢いにより帰宅時の習慣としている戯れが長引いてしまい、日中二度まで回避した説教を遂に頂戴することと相成った。
 翌日はともに朝からそれぞれの事務所へ出勤し、普段通りの仕事をこなしたのち、夕方から雄英との三地点間でオンラインミーティングによる打ち合わせを行ったが、特に状況の変化はなく、手短な予定確認に終始した。その後、「待ち合わせ」の演出の万全を期すため飯田はそのまま事務所に、轟は雄英へ移動して一泊し、翌早朝、気持ちの良い秋晴れの陽が昇るとともに、〝ラブラブ青春デートで変態野郎ども檻ぶち込み大作戦〟(命名・イダテン若手スタッフ)本命の三日目が幕を上げた。


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