◇
「おはよう轟くん。ゆうべは良く眠れたかい」
「はよ。枕が硬かった」
あくびを噛みつつ合流したのは雄英の最寄りから街ひとつ挟んだターミナル駅で、十年前の大戦による破壊と終結後の復興整備を契機に大々的な再開発が行われ、大戦後さらなる発展を遂げた木椰区と並び、県内有数の繁華街となった都市の中心地である。
連休最終日の祝日ということもあり、若者向けの娯楽施設が集まる駅前は朝から人であふれていた。飯田も轟もそれぞれの出発地で若化を済ませ、賑わいに溶け込んでいる。この喧騒の中に悪意を持った犯人の一味が紛れているのかもしれないと思うと、あくまで仕事だという事情に増して浮かれた気分にもなれないわけではあるのだが。
などと考えた途端に、
「とりあえず移動しようか。私服の十六歳の轟くんも格好いいから、また人目を集めてしまうかもしれないしな!」
そんなことを飯田が言うので、さすがに笑いが漏れた。
「こんだけ人がいりゃよそ見るやつもいねぇだろ。お前からそう見えるんなら嬉しいけどよ。そっちはなんつーか、あの頃とも少し雰囲気違ぇな」
「うむ……今日は事務所から出たものだから、朝からよってたかって着せ替え人形にされてしまったんだ。担当外のスタッフまでぞろぞろと若返ったところを見に来るし……」
二日目までは雄英から出発したため問題にならなかったが、「若化」の水の変質持続時間の都合上、遠地への持ち出しが難しいとのことであったため、個性主である雄英生に轟の泊まった寮から飯田の事務所への移動を頼んだ。今朝早くに初めて直接顔を合わせた、化学版の発目といった雰囲気の男子生徒は、目の下に濃い隈を作りつつ「合法的に色々な試験データが取れてとてもありがたいです」と悪びれなく語り、施設見学をしていかないかとのイダテンスタッフの誘いに嬉々として応え、今日は一日インゲニウム事務所に待機しているという。
「天晴さんも来てたんじゃねぇか」
「それどころか父さんまで来ていたんだよ。今回の仕事はまだ顧問報告期間外だったはずなのに。知り合いのサイドキックに用事だとか言っていたが、わざわざ祝日にすることでもなし、絶対こじつけだ。母さんにも見せようなんて言ってビデオカメラまで持ち出していたし……君の写真も見たいから何枚か一緒に撮ってこいとも言われてしまった」
「ははっ。仲いいな相変わらず」
「にしたって公私混同は困るよ」
公私混同の極みのような仕事の真っ最中に何を言っているのかとも思ったが、頬を膨らませる飯田が面白くまた可愛らしいので、無駄な指摘はせずにおいた。飯田の家族や旧知の事務所員たちにしてみれば、遠方の高校へ通わせているあいだに見守る暇もなく立派な大人になってしまった末っ子が、急にその頃の姿を見せに戻ったかのようで、楽しくて仕方がないのだろう。轟も巻き込まれつつ恩恵に預かることしばしばの、質実剛健かつ先進的なプロフェッショナルチーム、という世間の評価とは多少ギャップもある、あたたかくほほ笑ましい韋駄天たちの輪だ。
道を歩き出して横目に眺めた飯田は、当時〝休日のお父さん〟の呼び声高かった私服とはまた一風違う、どちらかと言えば最近の普段着に近い服を身に着けている。轟が事務所のサイドキックに一式渡された「デートのために気合を入れたコーディネート」と同様の狙いのものであるらしく、大人びていながら年齢相応の未熟さも感じさせるという絶妙な装いで、身内への不平をこぼす顔を余計にあどけなく見せていた。
「見せたくはねぇけどな……」
「何がだい?」
首傾げる飯田を曖昧にごまかし、せめてもと壁側へ寄せて歩いた。あえて観察されねばならないのは承知の上だが、あの下卑た書き込みの数々を目にしてしまったあとでは、どうだ俺の恋人は魅力的だろう、などと見せつけてやる気にはとてもなれない。
「こっちでいいのか? もうちょっと死角に入る道とかねぇのかな」
「死角に入っては意味がないのでは……?」
デートらしからぬ会話を交わしながら、目指す施設には十分もかからず到着した。今日はとことん王道です、との予告の通り、轟でも行き先の候補のひとつとして挙げられただろう、周辺で最も規模の大きなシネマコンプレックスだ。メジャーなデートスポットであると同時に、作戦の第一手となる周辺探査の効率化のため、朝の一時間ばかりは動かず一か所に留まっていてほしい、という事情から、水族館や遊園地といったその他の王道を押しのけて採用されたプランであるらしい。同様の都合により全体に移動は最小限のスケジュールとなっており、駅周辺で全てを完結できる地域が選ばれたのも、そうした理由の上でのようだ。
消去法での選出の割には上映作品のプレゼンの時間が長かったが、と思い起こしながら、あらかじめ購入しておいた電子チケットを使い、中層の劇場へ入場した。災害ものは仕事意識が引き出されて気楽に観れない、恋愛ものは轟が寝る恐れがある、朝一番にスプラッタホラーは論外、云々と、こちらも結局は消去法に近いいきさつで選ばれたタイトルは、新進気鋭の脚本家とベテランの名監督がタッグを組んだとして話題の、封切り間もないSF作品である。
「古典小説を下敷きにしたパスティーシュ作でもあるとのことだ。一般公開後の評判も大変いいし、楽しみだな」
「そうか。途中で寝ちまったら起こしてくれ」
「さあどうかな」
君の寝顔も俺には見ものだからなあと笑った飯田は、予告の間のコマーシャルに登場したヒーロー・ショートのスクリーン一面の大アップに隣へ振動が伝わるほど動揺し、横にいるんだが、とつついた指に素直に振り向き至近で目を合わせて、同じ動作で動揺した。これでまず元は取れたと頷いたのち、ようやく上映開始を知らせるブザーが鳴った。
映画は空想の宇宙進出時代を描いた広大な世界観に、眠気を催す隙を与えない派手な画面演出とアクション、二転三転するミステリ仕立てのシナリオが盛り込まれた、濃密に濃密を塗り重ねたような内容で、一歩誤れば破綻必至の満漢全席を、型にはまらないアイデアとベテランの手腕で見事まとめ上げた、といった作品であった。評判の良さも納得と言え、轟も最後まで飽きずに観賞することができ、それ以上に飯田が気に入ったようだった。
「いやあ素晴らしかったな轟くん! 俺が読んだことのある原典の作はもっと古い時代のタイムリープものなんだが、未来に舞台を変えての新たな解釈にはあっと言わされたよ。まさしく温故知新の良例だな! 若手の作家だということだったが、ほかに作品は出しているのだろうか。本を書いているならこれを機に国内でも出版されているといいのだが」
興奮の面持ちで語るのを蕎麦すすりながら聞く。映画館と同じ通りに看板を構えたごく大衆的な店だったが、値段の割に味はなかなかだ。
十割ものを出す姉妹店もあるらしい。頭の中の蕎麦店リストに名を加えつつ、しゅばしゅばと動く馴染みの手刀をなごみ眺めた。
「伏線の張り方も見事だったし、ネット配信が始まったらそうした物語の流れをじっくり追いながら観てみるのも良さそうだな。映画館だと迫力があっていいが、どうしても画面効果に目を奪われてしまって……」
絶えなく湧く水が滑るように続く声の途中、ごとりと湯呑みを置く音をやや大きく挟んでしまったのは決してわざとではなかったが、あ、と腕振りとともに言葉が止まって、眉と肩が同じ角度に下がり落ちた。
「すまない。俺ばかり夢中になって喋ってしまった……」
せっかくデートでふたりで観たのに、とうなだれる飯田を、すぐ首振ってなだめた。
「んな気にすんな。俺もいい映画だと思ったぞ。お前の話は面白いし」
口を挟む暇なく喋られていたのは確かだが、決して気遣いの嘘ではない。古今東西の本や雑学に造詣の深い飯田の話はなるほどと思うことばかりでためになるし、情味豊かな言葉を聞いていると、自分の心まで豊かになるように思える。
なだめてなお浮かない顔へ、楽しそうなお前を見てるのも楽しい、と正直に伝えると、四角い目がぱちくりと瞬いて、さっと頬に朱が差した。一昨日から続く幼びた反応に今日もまた調子付きつつ、感慨のままに言葉を続ける。
「あんま考えたことなかったけど、デートってそういうもんなのかもな。一緒にいるやつがどうすれば楽しいか、ちゃんと楽しんでくれてんのかって悩んだり、迷ったり、喜んだりってのが大事なんだろうな」
好きな相手のことを第一に考え、憂いなく笑って過ごしてもらうために、張り切って下調べをしたり、多数の候補を並べて真剣に比較したり、何度も何度も計画の是非を確かめたりするのだろう。
「俺はお前といられりゃなんでもいいやとか思って、そういうの二の次っつーか、なんとなくにしちまうけど、本当は気にしたほうがいいよな。今回は全部事務所のやつらに任せちまったから、それで今お前が楽しんでると思ったら、ちょっと悔しいかもしれねぇ」
言葉の間に我知らず苦笑いがこぼれたようで、慌てて首を振り返された。
「いや、俺だってそう変わらないぞ! 君とならどこへ行ったって何をしていたっていつも楽しいから、正直あまり細かいことは気にしなくなってしまっているよ。付き合いも長いし、今はもう家族でもあるのだし……高校生や大学生の若者がするようなデートと少し心がけが違うのは、きっと何もおかしいことではないさ」
きちきちと語り、
薄暮色の目をまっすぐこちらに向けて、けど、と飯田はやわらかに言葉を継ぐ。
「おとといの話じゃないが、そんな風に思って率直に伝えてくれるのは凄く嬉しいよ。君がそうやって俺とのことを真剣に考えてくれているというだけで、充分に思う」
「飯がいつも蕎麦でもか」
「俺だって蕎麦は好きだよ」
もちろんそれで一日の栄養が偏ってしまっては駄目だが、とらしい警句は忘れずに挟みつつ、一度深々と頷いて、言う。
「うん、そうだな。今回は仕事なのだからとどこかで後ろめたく感じてしまっていたように思うが、緑谷くんや事務所の皆が真剣に考えてくれたのだし、君もそんな風に言ってくれるなら、過剰に気にかけて楽しみ切れないのは良くないな。……よし、轟くん。残り半日だが、俺はこのデートを最後までめいっぱい楽しむことにするぞ!」
ぐっと握りこぶしを作って高らかに宣言する顔を見返し、こらえ切れずに噴き出した。え、と飯田が困惑を浮かべる。
「どうして笑うんだい?」
「いや、お前ほんと真面目だな」
気にせず楽しめ、からつなげた話なのだから結論としては間違っていないが、そこへ至る道のりがいちいちに真剣で、実に飯田だ。真面目で、少し迂遠で、こころ優しい。
揶揄のつもりはないと謝しつつ、自分もそうすると同意を述べると、困惑はすぐ笑みに晴れ、嬉しげな頷きが返った。自分こそ、いつもこうしてまっすぐな情を向けられて、充分以上の幸福を得ていると思う。
「じゃあ、轟くんの映画の感想も聞きたいな」
「ん。お前は早く食え。つけ汁冷めちまうぞ」
「あっ、そうだな、申し訳ない……」
話し手と聴き手を交替し(飯田は相槌の言葉も多いが)、時間をかけて昼食を済ませ、愛想のいい店員から含みありげな微笑と「仲良しですね」の言葉を贈られて店を出た。事前依頼の有無にかかわらず、飯田と過ごすようになってから妙に飲食店で同様の反応をされやすくなったが、長居の機会が増えたからか、それとも別の要因があるのか、いまだに良くわかっていない。
「さあ轟くん、次は買い物だ!」
「デートで買いもんってするのか」
「ウィンドウショッピングというやつだな! 普段の買い出しとは違うぞ!」
張り切る飯田に引かれて次に訪れたのは、近隣では最大の店構えだという大型スポーツショップである。八階建てのビルが一棟まるごとアスリートブランドのテナントを集めた店舗となっており、カフェなどの飲食店も併設されているほか、最上階には展示スペースもあって、今はヒーローの記念グッズの展示販売が行われているらしい。
「かさばらない程度になら実際に買ってもいいそうだ」
「むしろ実際に買わねぇ買いもんって意味あんのか?」
「まあ
素見しと言うか、ウィンドウショッピングというのはそうしたものだからな。商品を眺めて回って楽しむんだよ。手持ちがなくても気軽にできるという点で学生らしいんだろう。実を言うと俺もあまり経験はないが……せっかくだから通例にのっとってやってみようじゃないか」
「そうだな」
ここまでの道程と同じく、特段の持論がない以上、特段の異議もない。女性陣からはもっとファッショナブルな場所がいい、との意見も出ていたそうだが、一変というほどではなくともこの年齢の頃からは互いに体格が長じているし、高校生と二十も半ば過ぎのプロヒーローとでは、さすがにドレスコードが異なる。その点、スポーツ系のアパレルや小物はフリーサイズのものが多く、十代も二十代も選ぶ品はそう変わらない。さらにともに普段使いするので、いかな朴念仁どもでもそうそう興味を散らさないだろう、という万全の配慮により選ばれた行き先であるとのことだ。いずれ飯田を自分のプランで楽しませようと試みたとして、こうまで考えることがあるとなると、なかなか頭を悩ませられそうである。
手厚い采配を受けてなお「使えればなんでもいい」の思想が抜け切らない轟ではあったが、ここぞと気合いを入れ直した飯田がそんな連れのための商品をあれやこれやと見立て、買わない買い物は思いのほか盛り上がった。どんなものごとに対しても常に真剣に取り組む性分のうえ、分け隔てなくポジティブで面倒見のいい飯田は、学生の頃にも「どんなに連れ回しても不平をこねないし、意見を求めたら真面目に考えて言ってくれる」という理由で、女子たちの買い物に連れ出されることがしばしばあった。ついて行ったってどうせ荷物持ちだろうと指摘しつつ、それでもハーレム状態は妬ましいと、峰田がハンカチを噛んでいたことを思い出す。
「あ、これも君に良さそうだ。白はどうだい? 少し汚れっぽいかな」
「いやお前、さっきから俺のばっかじゃねぇか。自分のも見ろよ」
「しかし轟くんと一緒に服を買いにくるのも久しぶりだから……自分のものはいつでも探せるし」
そんなことを言いながら、良いと思った商品をせっせと携帯のメモアプリに記録している。「通例」にのっとり今日は見るだけにしておいて、後日本当に買い求めようという心づもりだろう。几帳面で人想いの伴侶を持つと、暮らし向きが実に豊かになる。例のゴシップ記事に、「厳しすぎる生活態度に嫌気がさして」などと根も葉もない憶測を書き並べた記者に見せてやりたい姿だ。日頃の気の回らなさにいつか本気で呆れられるのではと不安を抱くべきは、むしろこちらのほうだというのに。
じゃあお前のもんは俺が探す、と競争意識を芽生えさせて前のめりに棚を見回していると、インゲニウムモデルのスポーツ用品の多さに改めて気付かされた。健康増進のためのスポーツ振興事業や、関連企業との提携を積極的に行っているというだけあり、実用的な品が豊富で、展開も幅広い。
「これいいな。着てみてぇ」
「え、あっ」
店の奥にディスプレイされていたウインドジャケットを手に取る。用途別にいくつか使い分けをしているというインゲニウムのアーマーの中でも、学生時代の後半から身に着けている速度特化タイプのものをモチーフとしたのだろう、白と紺を基調に先鋭形の意匠をあしらった一着。疾駆の際に輝きの尾を引く瞳の色をイメージしてか、赤の流線がさりげなく描かれているのも心にくい。
「秋冬のランニング用のやつ、ファスナーが壊れててちょうど欲しかったんだよな」
「そうだったな。いやしかしその品は、その……」
頷きつつも、飯田はどこか慌てた様子で別の商品を指差す。
「あ、ほら、こっちのネイビーのジャケットも君に似合いそうだぞ。ギャングオルカモデルは耐水性が評判なんだ」
「悪かないが、ちょっとごつ過ぎねぇか」
「強そうでいいじゃないか」
あからさまに逃げ渋る反応に首傾げ、お前のやつだっていいだろう、速く走れそうだし、と主張を重ねると、うっと一度口ごもり、
「だってなんだかその、君が俺のモデルだとわかりやすいデザインのものを身に着けていると、少し当てつけがましいというか……気にかかる人もいるんじゃないかと……」
両手の指をすり合わせながら、そんなことを言った。
「とっくに結婚公表してんだし、今さら匂わせも何もねぇだろ」
「それはそうなんだが……」
何か過去に物思うことでもあったのか、飯田は轟のファンの心証を過剰に気にかけるところがある。応援してくれる人間をないがしろにしようなどとは思わないが、そもそも択一の天秤に乗せる問題でもないだろう。ファンを大切にすることと、唯一の恋人を想うこととは全く別の話だ。
ついでに恋人のタイアップ商品を気に入って欲しがるのは、それはそれでまた別の話ではないか、とジャケットの前で数分の押し問答を演じたが、いずれにせよ今日は保留だと躱し切られ、唇尖らせてメモアプリを開いた。買っておいたよと先手でギャングオルカモデルを渡される前に、帰宅一番忘れず注文せねばならない。
それぞれのメモ帳を覚え書きでいっぱいにして、荷物が増えない程度の小物でいくらか散財もしたのち、併設のコーヒーショップで休憩を取ることにした。時計を見れば到着から三時間近くが経過しており、趣味として過ごす場合は一日がかりもあり得るということであるから、女子たちのウィンドウショッピングにはついて行きたいが付き合えない、とぼやいていた元級友たちの言葉も多少頷ける。
オープンスペースの席に向き合って座り、のんびり一服しながら買い物の感想を語り合っていると、飯田の携帯が当人とともに震えて電話着信を知らせた。
「うちの事務所からだ。緊急ではないと思うが出てくるよ」
「おう」
フロアの隅へ遠ざかる背を見送りつつ、何か動きがあったかと自分の携帯を再度確認したが、一時間前の定時連絡を最後に、今回の仕事に関する続報は入っていない。さすがにそろそろ接触があっても良さそうなものだが、と息をついた矢先、今度はこちらに着信があった。画面に表示された発信者名は、予想外の「インゲニウム事務所」である。
「……もしもし?」
なぜ自分に、と首ひねりつつ、声をひそめてその場で応答すると、若い男の驚き声が返った。
『ん、インゲニウムじゃ……? あれ、かけ間違った? ひょっとしてショートさん?』
「はい」
『わーすみません! アドレスが並んでまして、というかお二人しか登録してない臨時端末から発信してまして。インゲニウムは一緒ですか?』
「今そっちの事務所からの電話に出てます」
『ああ管制のほうですね! 連携取れてなくて申し訳ない……私、チームイダテンの科学研究班の者です』
研究班、と口の中でくり返した語が、この数日中のとある記憶に届く。
「水の件ですか、もしかして」
『あ、そうです! うちの主任がお伝えしてたんですよね。その後変わりありますか?』
「いや、特には。……何か気になることが?」
『多少興味深い発見があったので、引き続き気にしていよう、という程度です。インゲニウムにはメッセージで報告しておきますので、あとで確認するようお伝えいただけますでしょうか』
「わかりました。……あ、それ俺にも送ってください」
『承知しました!』
最後まではきはきとした間違い電話が切られ、すぐに自分と飯田を宛先に入れたメッセージが届いた。「液剤Aの組成に関する追加報告」と題された長文に目を落としかけたのと同時に、飯田が早足に戻ってくる。
「やあすまない。どうも進展がなさそうだな」
「いまお前のとこの研究班のやつから電話があって、メッセージ送るから見てくれだとよ」
「え? なんで君に……ああ、本当だ」
画面に向いた視線が素早く左右に往復し、特に問題なしと見て取ってか、頷きひとつで了解を示した。改めて見つめた顔に遠慮や気がかりの気配はなく、何事かと逆に首を傾げられたので、なんでもないと答えてカップの底に残ったコーヒーをすすった。
休憩後は時間もちょうど良さそうだからと最上階へ移動し、展示を見て回って買い物を終えることにした。パーティションでいくつかに区切られたフロアに、国内外の現役ヒーローから引退した往年の人気ヒーローまで、なかなか世に出ない希少品を含む様々なグッズが所狭しと飾られている(轟は憶えていないが、飯田によれば数か月前に事務所に展示許可依頼があったという)。それぞれの品へ展示終了後決済の入札予約が可能であるほか、会場の一角には最新グッズの販売スペースも設けられているようだ。
「ショートのコーナーもあるぞ! チャート初ランクイン記念のフィギュアが、っふふ……今や懐かしいな」
「ツラ曲がってんな……こんなんあったっけか」
広報関係はほぼ人任せにしているため、特に独立間もないうちは、把握外の良くわからないものばかり出回っていた記憶がある。これは正規品か海賊版か、と問われて「さあ……」としか答えられないような品をレアものとして飾られるのはいささか複雑な気分だ。一方の飯田のグッズはさすがの品質揃いだったが、当人は自身のものが飾られていることより、先代の兄のグッズと並べ扱われていることに感動していた。
もちろん雄英出の友人たちのグッズも多数あり、同窓会気分で品評を交わしながら眺め歩いて、最後に販売コーナーに立ち寄った。こちらは現役ヒーローのグッズがほとんどだが、現チャートナンバー1のルミリオンに並んでスペースを取っていたのは、デビュー五十年を迎えたオールマイトの記念グッズだった。最前列のトレーディングカードの棚では、限定復刻を謳う商品の横で「本日発売」と手書きされたポップが躍っている。
「これ、おととい緑谷が話してたやつじゃねぇか」
「ああ、確かにそうだな! ファン待望の復刻商品だとかで、朝一番に買いに行きたいと悔しがっていたっけ……そんなことを言いながら生徒のための仕事を優先する彼はとても立派だが。この箱はもう空になってしまっているし、売り切れだろうか。さすがの人気だ」
旧時代の象徴、過ぎた日の遺物だと自身を笑ってはばからないが、かの英雄が残した崇高な意志と勇気が繋いだ輪、成した偉業の大きさは、ひと言ではとても語り尽くせない。
その重要な一片たる友人のために何か土産にできるものはないか、とふたり棚を見回していると、ふと、カードの箱と箱の隙間に何やら挟まっているのが目に留まった。ぴったりとくっ付いたケースを両側へこじ開け、ラックの間からひとつ下の段へ落下させたのは、薄い金色の袋である。表面に印刷された図柄は箱のパッケージと同じものだ。
「ん、パックひとつ残ってたぞ。つーか落ちてた」
「おお、良く見つけたな! たまに目ざといな轟くん!」
「褒めてるか?」
「残り物には福があると言うし、ぜひ買っていこう」
異議なく決まったが、レジが大混雑していたため、会計は飯田に任せ、自分はフロアの隅に移動した。展示場の仕切りの外には、スペースの関係で下の階から追いやられてしまったのか、それとも臨時出店なのか、一店だけ通常のアパレルショップが商品を並べている。品揃えもスポーツ関連ではないものが半々といったところだ。
待つ間を使ってなんとなく向けていた「たまに目ざとい」目が、また自然と棚の一角に吸い寄せられる。見つけたものが何かを理解した次の一瞬で衝動的に決断し、足を踏み出した。
「――お待たせ轟くん、買ってきたよ」
「おう。悪ぃな、並ばせちまって」
「いや大丈夫。専用のギフトケースに入れてもらえたから、雄英に帰ったらふたりで渡すとしよう」
喜んでくれるといいな、と笑う飯田の真正面へ足を進め、近さを指摘される前に、背に隠していた腕を無防備な肩の上に伸ばした。
「えっ?」
「これやる」
長いマフラーをくるりと巻き上げてからようやく首が動じたのは、油断ではなく信頼の現れとうぬぼれてもいいだろう。飯田は事態に追い付けていない様子で、また疑問の記号を飛ばしている。
「やる? やるって」
「デート記念」
お前にやる、と肩ごと叩いたマフラーは、白と
紅のツートーンに織られたカシミア製で、「白の幅が広めになってまして、結んでリボン巻きなんかにすると紅がワンポイントになって可愛いんですよ」とのことだったが、やり方がわからないのでとりあえず適当に巻き付けてやった。これはこれで洒落た縞模様のようにも見えて、なかなか悪くない。
戸惑いの表情で首元を見下ろした飯田が、はたと勘付いたように口を開く。
「あっ、これ、ひょっとして君の」
「おう。そろそろ寒くなってきたし、使ってくれ」
「今買ったのかい? 高校生が気軽に出せる値段じゃないだろう……」
「変質者が人の買ってるもんの値段なんざ気にしないだろ」
ええ、と眉を寄せられるが、既にタグも外され身に着けてしまったあとでは、返品だなどと言い出すわけにもいかないだろう。抗議を続けたげな顔のまま口が閉じ、説教には発展せず終わった。もう、といつもの呆れ声をこぼしつつ、胸元で生地を撫でた手つきはやわらかかったので、満更でもなく思っているのは明らかである。
いややはり、などと言い出される前に店を離れてしまえと歩き出す隣で、飯田が思わしげに呟いた。
「記念と言うなら、俺も君に何か贈らないと」
「別に俺がやりたかっただけだからいいよ。まあどうしてもってんなら、さっきのあのジャケットくれ」
「いやそれは……ええと、嵐も通さないで話題のレップウモデルじゃ駄目かい?」
「駄目に決まってんだろ」
むう、とうなる恋人の首を巻きしめる紅白のマフラーを横目に見やり、自分のものだと主張してやっているようでいいのにな、とひそかに笑う。もっとメンズアパレルとのタイアップが増えてもありかもしれないと、後日の事務所での相談事項を最後の覚え書きとして頭の中に書き留めた。
「いまだ動きなし、か……接触しづらいのだろうか?」
「男ふたりだし、慎重になられてんのかもな。取引サイトのほうは動いてるみてぇだから、気付かれてるってことはねぇだろうし、どっかから見てはいるんだろ」
「そうか。悪意で観察されて勝手に商売に使われるというのは、やはりいい気分じゃないな」
「本当にいい気分じゃねぇから見る必要ないぞ」
通りに出る間際に再度本部および追行班と連絡を取って状況を確認し、施設としては最後の目的地となるレストランへと向かった。これまでの被害報告を見ると、犯人側からの接触は夕方から夜の時間帯であることが多く、今ないからといって油断はできない。
「とは言え次の店は全席予約制だそうだから、中まで入ってこられることはさすがにないだろう。その時間で探査に進展があればいいが」
「まあそこは任せるしかねぇな」
こうなるとデートとしては多少不自然に見えても、もう少し人の少ない地域のほうが良かったのでは、と思わなくもないが、犯人の警戒を招く可能性と相殺になると考えると悩みどころだ。明日以降の予備日まで計画が延長されることが決まれば、そうした見直しもあるだろう。
そんなことをつらつらと話しながら夕暮れの中を歩き、目抜き通りから少し離れて、ここだと足を止めたレストランは、予想より小さな店構えの一軒だった。煉瓦壁の外観はやや煤けて古風だが、中へ入ると店内はやわらかな木色の壁と家具でまとめた清潔な造りで、テーブルの間も広くゆったりと落ち着いたレイアウトになっている。通された二階に並ぶ席は十程度、夕飯としては少し早い時間のためか、先客はまだ一組だけだ。
「ビーフシチューが有名なんだろ」
「そうらしい。気を回されたというか、体よく使われたというか」
事務所に旧知の人間がいるかどうかによらず、プロヒーローの好物など世間へ知れ渡っているのが普通であるので、どちらかの嗜好をもとに店が決まるのはまあおかしくない。しかし裕福な家庭出の多い雄英生がデートのために奮発した、との設定をもってしても、さすがに夕飯に高級蕎麦店は渋すぎるとの理由から、今日の昼夜の店選びとなったと思われる。
飯田はビーフシチューと自家製パン、轟はタンシチューとライスのセットを注文し、間もなく並んだ料理に揃って舌鼓を打った。
「うん、これは美味しいな!」
「肉がすげぇやわらけえな。箸でも切れそうだ」
「弱火でじっくり煮込むのがコツだそうだが、あまり時間がかかるとな……取り回しの良さを優先してアルミ製の圧力鍋にしてしまったが、より高圧にできるステンレス製に買い替えるべきか……」
肉を噛み締めながら所帯染みたことを言う飯田に笑い、高校生のする会話じゃないなと指摘すると、ううむとさらに眉を寄せられた。
「まあ店には入ってこねえっつーから、ここでなり切る必要もねぇだろうけど」
「しかしもし今日のプランで進展なしとなると、明日以降は人の少ない場所に移る可能性も高いわけで……今から心しておいたほうがいいのかもしれない」
あくまで真面目に懸念を語る飯田は、腕組みして頭をひねり、高校生らしい会話について真剣に思い巡らせているようだ。つられて轟も学生当時を振り返ってみるが、正直なところ、互いの話の中身に今と劇的な違いがあるようには思われなかった。飯田はあの頃からずっと変わらず真面目で、自分もずっとこの調子である。
ひとつ大きな違いがあるとするなら、相手へ向けるまなざしと、想いのかたちだ。今のように確固たる名も器も与えられず、水の中にたゆたうごとく、日ごとに移ろっていた心の色だ。
「雄英で俺と初めて話した時のこと、憶えてるか?」
「えっ」
ふと問えば、眉根に寄せていた皺がほどけ、まさに十代の若者らしいほうけた顔が浮かび、すぐに焦りに変わる。
「えっ、と、その、たぶん教室で自己紹介をしたのだと思う、が……詳しくは憶えていない……申し訳ない……」
「ん、俺も憶えてねぇ」
「あれぇ?」
訥々と答え、恐縮至極、とでも言うように肩縮めてうつむいた飯田は、轟の軽い声音にぱかりと口を開き、湯気立てて手刀を振った。
「もう、真剣に言うからどうしようと思ったじゃないか!」
「真剣に思い出して憶えてねぇ」
「ぐぬぅ……」
「お前だけじゃなくて、ほとんど誰とのことも憶えてねぇ」
潰された犬じみた声を漏らす飯田に、偽りない記憶を語る。今だからこそ、彼だからこそ打ち明けられる、思い出とも言えない思い出。
「……まあ、もう十年も前なわけだから」
轟の胸中を察したのだろう、飯田は顔から苦みを消し、仕方ないことだとフォローの言葉を発したが、あえて脇へよけて話を続けた。
「何話したかは憶えてねぇけど、第一印象っつーのか、こういうやつがいるなって思ったのはなんとなく憶えてる」
「そうか。どう思ったんだい」
「声がでかくてうるせぇやつがいるなと思った」
歯に衣着せずそのまま答えてしまい、またうなられるかと予想したが、返ってきたのは苦笑の音だった。
「だろうな……皆そう言うんだよ。爆豪くんと言い争っていたのが初めのイメージだって。よほどうるさかったんだろう」
入試会場で会った緑谷くんに至っては「怖い人」だと思ってたなんて言っていたから、まったく恥ずかしい話さ、と衒いなく当時の自分をぼやいてみせる。
「そう考えるとお前もだいぶ変わったよな」
「そうかな。だといいが」
「爆豪はあんま変わった感じしねぇけど」
「いやいや、彼だってちゃんと変わったさ。二年以降に言い争った記憶はほとんどないよ。態度や言葉遣いはまあ、いまだに難ありだけれども……」
ついぞ改めてやれなかった、と相澤とふたりため息していたクラス委員長の姿を思い起こしながら、俺はどうだったかと訊ねかける。
「君の第一印象かい?」
「ん」
「なんだか高校生らしい話というより、お見合いの席での話のようだな」
今度はおかしげに漏らした笑いが、そうだな、と記憶をたどる仕草の中でふっと沈み絶える。
「……優秀な人なんだろうと思ったよ。エンデヴァーの息子だってことも、推薦入学生だってことも初日から知っていたからね。実際に個性把握テストで力を発揮していた君はとても優秀だった」
言葉を選ぶ間があったのは、今は入学当初の轟が己の血も個性も嫌い抜いていたことを知っているからだろう。これも今だからこそ遠慮も苦みも呑み込んで、ごまかしなく口にできることだ。
「そういやお前、推薦入試は受けなかったんだな」
気遣わないという気遣いに内心感謝しつつ、使われた語の隣に今さらの疑問が浮かんだ。飯田の成績やヒーロー一家としての知識と出自を考えれば、雄英の推薦入学に挑んでいてもおかしくなさそうなものだ。しかし入試の場にはいなかったし、試みたという話も聞いていない。
ああ、と頷いた飯田の回答は、簡潔で明快だった。
「俺の通っていた聡明中には、ヒーロー科への推薦枠がなかったんだ。ヒーローやその直接の関連職より、公的機関や大手企業への就職のための進学と資格取得を目指す校風でね。授業の質の高さに惹かれて入学したんだが、俺はどちらかというと異端な生徒だった」
「そうだったのか」
これだけ長くともに過ごしていても、知らない話はあるものだ。考えてみれば、自分こそ中学時代の記憶などろくに語ったことがなく、これと同じような、隠す価値もないが語るほどの価値も特にない、というたぐいの雑話を多く抱えている。雄英入学以後の経験の比重が大き過ぎるので、致し方ないと言えば致し方ない。
いつか語ることもあるのだろうかとぼんやり思慮する轟をよそに、飯田はさらに先へと話を進める。
「中学受験前から推薦枠がないことは知っていて、それでも聡明を選んだ。推薦にかからなくとも、一般受験で雄英に受かればいい、受かれるだろうと決めて疑っていなかったんだ。今思えばとんだ驕りさ」
自嘲を聞き、はたと視線を戻して正面の顔を見つめた。言葉の中身に反し、落とす声の響きも、口元に浮かぶ微笑も、どちらもごく穏やかだった。
「この際だから俺も正直に言ってしまうが、君の印象はしばらくそこ止まりだったよ。入学前後の頃、俺は緑谷くんのことばかり気にしていたんだ。全く実力者とは思えなかった彼に、入試で一歩も二歩も先へ行かれていると見せつけられてしまった気がして……ぜひともその強さの理由を知って競わねばと思っていたのは、初日のテストで順位が上だった君や爆豪くんや八百万くんではなくて、最下位の緑谷くんだった。君は確かに優秀で、でもそれは当然の優秀さだと思っていた。俺と同じヒーロー家の出で、ナンバー2の息子で、推薦入学生で。きっと君もいい教育を受けて大事に育てられたのだろうと……そう思っていたんだ」
それも驕りだったと飯田は静かに言う。自分がいかに恵まれて生まれ育ったのか理解できていなかった、と語る淡々とした声を聞き、何か言葉を挟もうと口を開いたが、投じるべき語が出てこなかった。半端な仕草に気付いた相手が、理解を示すように小さく頷く。
「兄さんが傷を負って、ヒーローを続けられないとわかって、あの路地裏で復讐のために力を使って、無様に倒れて……こんな不条理があるかと思った。世界で一番の悲劇の主役とさえ感じられたよ。……君と緑谷くんが、救けに駆け付けてくれるまでは」
懐旧の画には今も残る
疵が血をにじませていたが、やわらかな声音はその響きを変じない。この話は何度もしているから少し省略しよう、と笑いを深めさえして、飯田はなお続ける。
「あの日君にもらった言葉が、俺を救い上げてくれた。君は俺の恩人で、憧れのヒーローになった。けれど、それで終わりじゃなかった。友人として君と親しくなって、普段の顔を知って。戦いが始まって、複雑な生まれを知って……あの数日限りに悲劇の主役を気取った俺なんかより、ずっと長く深く思い悩んで苦しんで、それでも前を向いて、懸命になりたいものを目指している君の姿をそばで見て、やっと気付いたんだ。君は初めの印象通りの、恵まれた才能にあふれて強くて優秀な、雲を見上げて追いつきたいと願うような憧れじゃなくて、僕と同じ地面の上に立っている、一緒に泣いて、笑って、肩を並べて支え合って歩いていける、そんな憧れの人なんだって」
「……それ、憧れって言えんのか」
何もかも慮外の、それも過分な賛をも含む言葉に面食らって、そんな馬鹿げたような問いしか返せなかった。言えるさ、と破顔が向けられる。
「身近な家族や友人に憧れを抱いたって、何もおかしなことはないだろう? むしろもっと気持ちが強くなったよ。いつか自分も目指すべき空の向こうにいると思っていた優秀な君が、本当はずっと近くに立っていて、自分と同じような努力をしているんだと思い直した時に、ようやく僕は、僕の中の〝君〟を心の底から語れる言葉を――飯田天哉が轟焦凍を想う気持ちを、見つけられたんだ」
やわらかに贈られる笑みと声に、かつて克した胸の中の霧を、もう一度跡形もなく晴らされるような心地がした。追想は時に忘れたはずの痛みを呼び起こすが、駆け足の中で見過ごした癒しや優しさをも新たに教える。
「長々と語ってしまったが、それが君の印象についての話かな」
締めの言葉を聞き、そういえばそこから始まった話題であったと、口を半開きにしたまま頷いた。
「なんつーか、……すげぇよな、お前」
ただ思うまま、子どものような感想が漏れ落ちる。
「何がだい?」
「いや、よくそういうこと照れずにすらすら話せるよな」
揶揄の意図なく、純粋に感心して発した言葉だったが、何か引っかかるものがあったのか、飯田はむ、と唇を尖らせ、こちらへ手刀を向けて言い返してきた。
「それを言ったら君も相当だからな! 俺がいつもどれほど動揺させられているか……」
そういえば意外とずけずけ言うやつだなってことも君の初めの印象だった、と腕組みしてこぼしてみせる。
「俺はもう少しあっさりだろ」
「俺はこってりだってことかい?」
味はわからねぇけど、と返しかけてこれは違うなと脇へ捨て、心外だと言いたげに大きく曲がったへの字を眺めて、そのいかにも堅苦しげな形を優しくゆるませていた最前の言葉を想う。ずっと変わらず真面目な委員長の中にいっぱいに詰まっているあたたかな情は、存外簡単に外へ飛び出てきて、受け取るごとに轟の心を塗り替えていった。
「お前がそういう風に言ってくれんの、俺は嬉しいよ」
昔からずっと、と告白すると、への字がほどけて、四角い目がまっすぐこちらに向き戻る。
「そうやって自分でわかってねぇようなところ褒めたり叱ったりしてくれんのも、見えてねぇとこに気付いて背中押してくれんのも嬉しかったし、やる気になったし、ほっとした。俺もお前みたいにわかりやすく話せりゃいいけど、得意じゃねぇから。いつもありがとな」
「焦凍くん」
思わず、といった調子でこぼれた声。あの頃には使わなかった、今日まで育ったものの全てを表すような呼び名を聞くたび、心の色はなおも幸福に移ろって、底の見えない器の中に、大切な名を得た想いを降り積もらせていくように感じる。
大きな口がまたゆるびを帯びて、穏やかに応えた。
「昼にも言ったろ。俺こそ嬉しいよ。少し急で驚いてしまうこともあるけど……。得意じゃないことでも人のために努力して歩み寄ろうとしてくれる君は、やっぱり俺の憧れの強くて優しいヒーローだ」
「そろそろ天晴さんに勝ったか?」
「そこはさすがに別々の枠にさせてほしいかな」
冗談に笑い合い、結局高校生らしい話にならなかったと振り返って、もう一度笑った。開き直って続けた思い出話はいつまでも尽きず、定時のメッセージの着信に身体を揺らされて、ようやく予定の退店時間を過ぎていたことに気が付いた。
時刻は八時を回り、あたりは夜の景色に様変わりしていた。ハロウィンの名残りか気の早いクリスマスの準備か、街路樹にイルミネーションの光がきらめき、街並みを彩っている。
風が冷たくなったなと言って紅白のマフラーを巻き直す様を満足して眺め、並んで店を出発した。別れを惜しむそぞろ歩きは、幾日も、時には幾月も間を空けながらたまの逢瀬の機会を得ていた頃の自分たちも、デートなどとは意識をせずに、ただ望んでしていた記憶がある。
夕食の間に事態は多少動いていた。作戦域内で不審な動きを見せていた人間を六名、警察の職務質問を通じて補導し、うち二名の事件への関与が発覚した。具体的な企ての中身は濁されていたが、どこかで轟たちに〝ちょっかい〟をかけるよう、それなりの金銭を報酬として依頼されていたらしい。例によって主犯たちの詳しい情報は持っておらず、依頼受諾までの連絡手段も既に閉鎖されており、こちらからは接触できないものの、片道での指示が来る可能性にかけて拘留監視が続けられている。
なお、なぜ遠方からの様子見に留まっていたのかと問うと、「なんとなく隙がうかがえず実行できなかった」と答えた、とのことだ。
「うーむ、隙か……あまり意識していなかったが、どこかで身構えてしまっているのがわかるのだろうか……?」
「つってもそのへんは職業病みたいなもんだしな」
「しっかり楽しんでいるつもりだが、何もかも忘れて役柄に徹するのは難しいな」
何も知らない一般生徒を囮として利用することなどできないし、こればかりは仕方がないと、当初の予定に沿って街の中心部をさらに離れ、県営の公園へ向かった。二日目に訪れた自然公園とは異なり、有事の際の避難場所を兼ねた緑化地帯、といった趣の、広域の遊歩道に近いスペースだが、帰宅前に喧騒を避けてひと息と思う者はそれなりにいるらしく、この時間でも園内にはまばらに人影があった。
「つーか、二人連ればっかじゃねぇか?」
「うむ……皆カップルということだろうか……」
いや決めつけは良くないぞ轟くん、となぜか言ってもいないことを叱ってくる飯田は、やや挙動不審になっている。幾度目かの「今さらどうした」だが、周りを意識すると逆に自分たちの状況が気になってしまうらしい。ふたりの場ではあれほど惜しみなく情をあらわにする一方、社会の
矩を重んじる飯田らしい切り替わりではある。
とは言え確かにそうした関係の二人歩きが多いようで、ベンチに並んであからさまにその手の空気を発しているカップルもいる。周りにあてられて飯田の挙動がこれ以上にロボット化してしまうと、隙も何も関係ないところで人が近寄りづらくなるのではないか、などと思いつつ道脇を離れようとしたその時、つん、とジャケットの左袖が横へ引かれた。
「……飯田?」
見やった顔は夜闇に隠れないほど赤くなっていた。前の地面に視線を落とし、長い指でそっと轟の袖をつまんだまま、口がロボ一歩手前のぎこちなさで開いて、驚くほどかすかな声を発する。
「手を、つながないか」
「……お」
「あ、ええと……皆つないでいるから、そのほうが不自然に見えないかも、と……」
こちらも思わず動じてしまったため、飯田は慌てて弁明の言葉を続けた。反省一秒、すぐに切り返す。
「不自然じゃないから、つなぐのか?」
はたと顔がこちらを向き、かち合った瞳をふるりと揺らして、小さな、真摯な音で答えが返る。
「……俺が、君と手をつなぎたいから、つないでほしい」
「ん。俺もつなぎたい」
頷きと同時に袖へいじらしく触れていた指を取って、自分の手の中に握り込んだ。個性の熱に劣らずあたたかな手からほんの少しの震えが伝わり、柑橘の実が馥郁と香る。周囲への意識がきっかけであれ、こんなあてられ方なら悪くない。
あったかいな、とささやいた声はまるく幼く、いくつも歳下の子どもの手を引いているようでいて、肌から伝い合う想いのかたちは確かに同い年の恋人のものだった。
「なんか、今日観た映画のやつみてぇだな」
「うん?」
倒錯とも混乱とも違う、あえて言えば微酔に近しいような、地に足の着かない気分で呟く。飯田の相槌もまた酔い心地の音で響いた。
「タイム……なんとかってので、高校の頃のお前に会ってる気分だ」
「タイムリープかい?」
デートが主題のタイムリープものなんて聞いたことないよ、と笑われる。恋愛ものはあるというのだからどこかで描かれていてもいいように思うが、飯田が言うのならそうなのだろう。
「デートのほかに事件も謎も犯罪もあるだろ」
「まあそうだが」
そう考えると変な作戦だな、とまたしても今さらの評を述べるのに同意し、昼食の席では胸に留めた映画の感想を改めて口にした。
「もし俺がなんかの力で時間を戻れたら、どうするかなって考えてた」
つないだ手がわずかに揺れ、顔横に視線を感じる。
「俺もお前も、戻って無かったことにできたらとか思うようなこと、あったろ」
「……うん」
ごまかしはしない。割れた器、傷付いた夢。こぼれ広がって戻せない冷たい現実を、憤り嘆きながら受け入れ、踏み越えて、彼も自分も、ただひたすらに明日を目指した。
「痛ぇこととか哀しいこととか全部無かったことにして、苦しんだり泣いたりするやつもいなくなって、皆幸せになれるって言われたら、俺もお前もやるかもしれねぇって思った。……そうしたら、俺はここにいる俺じゃなくなって、お前もここにいるお前じゃなくなって、一緒に映画観たり飯食ったりもしてねぇんだろうし、そもそも会うこともなかったかもなって、思った」
痛みと哀しみを代償に得た幸福だなどと言うつもりはない。どちらの未来が良かったかなどと、馬鹿げた比較をするつもりもない。ああそうなのだ、とただ思った。数百、数千、数万、それ以上の無数の偶然を積み重ねて、細い細い一瞬の糸を紡ぎ合わせて、ふたり至ったただひとつの今なのだと。
うん、と飯田が傍らで頷く。轟のつたない言葉をいつも根気よく聞いて、呆れず真摯に心を受け取り、またまっすぐに返してくれる、優しい恋人。
もしもを重ねれば果てがない。ただこのあたたかな手が、今この時、確かに自分とつながっていてくれるのだから。
「そういうことあれこれ考えたら、このへんの歳の頃に戻って、高校生のお前とデートとか青春とかしてみるぐらいでいいか、って思った」
「……そうだね」
俺もそれがいいよ、とやわらかに笑うひとの手をひとつ強く握り、引き寄せ、腕に捕らえて口付けてしまおう、と決めた、その時だった。
「やめてください!」
女性の叫び声。手をほどいて瞬時に身構え、あたりを見回す。目を凝らし耳を澄ますまでもなく、すぐに騒ぎの元は見つかった。横合いの道上、およそ三十メートル先に人影がふたつ。ロングスカートを履いた若い女性と、明るい茶髪のやや年嵩の男。身をひねって歩き出そうとしている女性の腕を男の手が掴んでおり、どう見ても親しい間柄という様子ではない。
「轟くん」
「おう」
頷き合い、集音マイクのスイッチを入れ、早足で二人のもとへ向かう。例の件にかかわるにしろかかわらないにしろ、追行班を援護に呼ぶにはまだ判断が早い。往来の少ないこの場に陰からどやどやと複数の人間が出てくれば、ヒーロー事務所か警察の関係者だと自ら名乗りを上げるようなものだ。最後まで姿を隠しているだろう主犯一味に即座に囮捜査と気付かれ、そのまま逃走を図られる可能性がある。今の状況ではあくまで通りすがりを装って自分たちが対処せねばならない。
「いいじゃん、こんなとこで一人でいるとかナンパ待ちでしょ?」
「違います、離して!」
声上げる女性に対して男の態度は軽佻だが、手に込められた力は強く、弾みで暴力に発展しかねない気配もうかがえ、速やかな安全確保が必要と思われた。こうした時の役割分担はいつも自然と決まる。轟はターゲットから数メートルの距離を置いて立ち止まり、飯田はそのまま足を進め、二人のすぐ横に立った。
「警察に通報したぞ。手を離すんだ」
毅然と告げる。真剣に相手を威圧すると決めた時の飯田の声と佇まいには迫力があり、夜の暗さと今日の大人びた服装が加わって、成年の人間にも見えるはずだ。男は体格や剛力に訴える凶漢といった様子ではなく、権威の名にしり込みして逃げてくれればいいと考えた第一手である。
「んー?」
大儀げに半身を振り向かせた男の隙をうまく突き、女性が腕振って指の拘束を払い落とした。飯田が即座に足を一歩進めてあいだに入り、女性の肩を軽く後ろに押し出す。轟はこちら向きにたたらを踏んだ女性の視線の正面に動いて高く手を上げ、避難を促した。
「あ……ありがとうございます」
駆けてくるのを隣に止めて保護する。男は女性を追うそぶりは見せず、そのまま飯田へ相対した。
「一人で暇そうだから、ちょっと仲良くなってもらおうとしただけなのに」
「彼女は嫌がっていただろう。強要は立派な犯罪だ」
「まっじめー」
ひゅうと口笛が吹かれる。厳めしい警告にもひるまないのは、事を理解していないというよりは、それなりの場慣れによる余裕のあらわれに見えた。おそらくまだ実際には通報していないことも察しているのだろう。
加勢すべきか、しかし相手の素性や仲間の有無がはっきりとしない以上、すぐに女性から離れるわけにもいかない、すぐさま手向かいをしてくるようにも見えない、と迷う視線の先で、見定めた目を笑うように、男の手が動く。
「あー、じゃあお兄さんにお願いしよっか。無理やりじゃないなら仲良くしてくれるんだろ?」
「なに?」
ゆるりと、警戒を働かせない程度の緩慢さで腕が上がり、手が飯田の上体へ伸べられた。暴力や逆上、あるいはなんらかの個性発動の前触れであれば、次の刹那に蹴り払われていただろう指は、それまでの空気のまま攻撃性をほぼ感じさせなかったため、慎重で根の柔和なヒーローの懐へあっけなく届いた。
「眼鏡くん、おっぱい大きいねえ。なんかで鍛えてる?」
「え……、えっ?」
ぎゅうと揉み込むように胸へ触れかかられた飯田が戸惑いの声を発し、動揺する目で男の顔を見返して、何を覗いたのか、ひっと小さな悲鳴の形に唇を動かすのが見えた。
向けられたものが明確な敵意や悪意、それに付随する実力行使であったならば、今この瞬間にもなんの問題もなくいなして制圧できていたはずである。よほどの理解不能状況――いや、たとえそうした混迷に陥っていても、犯罪者の前で抵抗なく身体を硬直させるなど、ヒーロー・インゲニウムに限ってそんな失態はあり得ない。何かが、それも幾重にも重なって明らかにおかしい――
などと、冷静に考えられていたのは頭のごく一部だけだった。
「飯田!」
インゲニウム、と呼べば飯田はヒーローの己を取り戻して、しかるべき対処ができていたかもしれない。しかし男の手に触れられ、向けられた慾への怯えを浮かばせた彼の顔を見た瞬間、轟は作戦遂行中のヒーロー・ショートではなく、この身の
齢と意識を同じくする、十六歳の轟焦凍になっていた。
(そいつに触るな)
頭を沸かせた熱が炎となって巻き上がり、夜闇を焦がす。
(そいつは俺の親友で、俺の大事な――)
駆け出し、衝動の火をくり出す寸前、心中で叫んだ言葉が急冷の弁を引いた。大事な――大事なパートナーだ。自分の想いの名さえ知らず、ただ焦がれ、見つめていたクラスメイトではない。
咄嗟に踏みとどまり、炎を左半身に引き治めて、逆側の足先へ相克の熱を集め、発した。氷が地面を走り、男の足元へ襲いかかる。わざと速度をゆるめて回避の間を与えたのは、飯田の前から引き離すためだ。思惑通り驚愕を浮かべて後ろへ飛び退った男の脚へ、今度は狙いあやまたず冷気を見舞い、ひと息に氷塊にして縛める。多少勢いあまって首下のあたりまで氷を伸ばしてしまったが、まあ問題もなかろう。
男の手から解放された飯田がふらりと後ろへよろめくのが見え、すぐにも隣へ駆けつけてやりたく思ったものの、ここから事態が急転することはわかっていた。追行の二班も既に動き出している。自分の衝動が招いたものだ。自分の手で収集せねばならない。
『ターゲット二名確認! 北西A、黒のキャップ、茶のジャケット、赤のスニーカー。南東B、長髪、獣型の垂れ耳、灰色のコート、茶のブーツ』
『ターゲットBは別働員の確保圏内です!』
氷に捕らえられて相手が何者か察したのだろう男は咄嗟に腕を振り、仲間へ向けたと思しき合図を発した。無論こちらもそれを予測済みで、合図に反応した動きを追行班の誰かの索敵個性が感知したらしく、インカムに急報が行き交う。女性の保護と茶髪の男の身柄確保は駆け寄ってきた後続へ任せ、北西側のターゲットを探すと、前方の冬枯れの桜の脇を駆け逃げていく、黒い帽子を被った人の背が見えた、――と思った瞬間、その輪郭が揺らぎ始めた。何かしらの身隠しの個性を発動させている。あいだの距離はおよそ五十メートル。公園の出口が近い。雑踏に紛れさせては厄介だ。
逃がすか、と上方へ氷柱を伸ばしての追跡を試みかけた瞬間、
「いっ……!」
全身に激痛が走り、思わず身を固めた。覚えのある痛み。これは若化の効果が身体に作用する際、そして効果が切れて元の年齢に戻る際に見舞われた痛みだ。しかしこの時間に予定されていたものではない。早過ぎる。
ぎしりと軋んだ手足と胴体が伸び育って、やや服が窮屈になったのを感じながら、なんとか足を前に踏み出した。後を引く痛みではない。効果切れの早さを疑問に思っている暇もない。ともかく追跡を、と顔を上げ、脚下へ氷を生み出しかけて、視界の隅に流星を目にし、やめた。前へなぶられた髪に一瞬遅れ、足で駆け出し、風を追う。
黒帽子の個性は葉隠の透明化のように完全に姿を隠匿できるたぐいのものではないようで、宙にかすかな揺らぎが見える。ならば問題はない。いかに逃走の業が巧みでも、疾風から逃げおおせられる者などいない。鮮烈な青のバックファイアの軌跡を連れ引くターボヒーローの背は既にはるか道の先にあり、轟にはほぼ視認できなくなったターゲットの足を迷いなく追っている。
飯田は高速移動中の周囲の状況を「像」ではなく「動」で捉えていると語っていた。どんなかすかな揺らぎも綻びも見逃さない目にひとたび見止められたが最後、追走を振り切るにはそれこそ雲霞と消えるしかない。平常の遠点視力との差を考えると(あれはあれで実際は矯正せずとも生活に支障ない程度らしいのだが)、精神面では非常に理性的だが、身体能力の上でははかなり野性動物味のある人間だと言えるのかもしれない。
思わぬ動揺に見舞われた直後でもその野性的な即応によりいかんなく力を発揮し、瞬く間にターゲットに追い付いて、横から脚を払ったらしい。衝撃か接触で解ける個性であったのだろう、黒帽子の人姿が浮き出るように隣に現れた。
黒帽子は前へ数歩つんのめるも、意外な身ごなしの良さを見せてすぐさまの転倒を免れ、しかし大きく崩れた体勢を立て直そうとしてか、あるいはもろとも倒れた隙に逃げるつもりでか、進路をふさいだ飯田へ手を伸ばした。
「天哉!」
右手を振り出し、溜め構えていた冷気を最速で走らせたが、一手間に合わない。急減速をかけながらのうえ、相手の身体の位置が直前まで正確にわからなかったことも響いたのだろう、飯田の反応もわずかに遅れた。黒帽子の手が首元へ届き、触れかかられる。しかしその指は服の襟元までは届かず、鷲掴んだのは紅白のマフラーだった。ゆるく巻かれていた毛織の生地は前傾していた頭をするりと抜けて、勢い余ったヴィランの身体を己ごと宙へ放り出した。
悲鳴とともに舗装路に叩きつけられた黒帽子の身に氷の波が届き、そのまま地面に縫い止める。追うように飯田の身体が傾ぎ、ふらりと横へ倒れかかったところに轟の足が追い付いて、ともに道上に崩れ落ちながらも、ぎりぎりで抱きとめることができた。
「て……飯田、大丈夫か」
両ターゲット確保の報がインカムに流れるのを聞きながら、腕の中へ声をかける。横抱きに触れた身体は服越しに伝わるほど熱を持っていた。急の運動による体温上昇だけで説明できるものではない。
「おふたり、無事ですか!」
座り込むふたりのもとへ追行班の二名が駆け付けてきて、警官が黒帽子に手錠をかけた。もう一名はインゲニウム事務所の女性サイドキックで、飯田の様子を見て驚きの顔を浮かべ、すぐに作戦用のものとは別の回線で通信を始めた。
「イダテンの医療班を呼びます。インゲニウムの状態は……」
「熱が出てる。怪我はねぇと思うが、呼吸も少し荒い」
精神的なショックもあるはずだが、後ろでも見ていただろう憤懣やるかたない変事の説明は省略した。あとは、と見下ろして気付く。飯田の身体は若化したままだ。轟のように効果が切れてしまってはいない。
「う……」
「飯田」
伏せられていたまぶたが開き、幾度か重たげに目瞬きをしてから、轟の顔を見返した。
「轟くん……?」
「おう。どこか痛ぇとことか苦しいとことかないか」
状況を掴みかねているらしい呼びかけに応え、具合を訊ねるが、答えは返らなかった。胸元に支えた頭がゆるりと横へ向き、地面を見て、あ、と声を漏らす。マフラー、と小さく呼んだ紅白の布地は、黒帽子の手に握られたままアスファルトの上を勢いよく滑ったため、無残にかぎ裂きに破れ、小石と砂で汚れている。
「君がくれたばかり、なのに……」
ごめん、と弱々しくこぼれた言葉を追うように、その目から涙があふれて、ほろほろと頬を流れ落ち始めた。
「お前のせいじゃねぇ。気にすんな」
なだめながら顔の向きをこちらへ戻してやって、抱きしめる力を強くする。常ならこれしきの事故で泣くような弱い人間ではない。やはり心身に明らかな変調が現れている。そろりと胸へ伸ばされた手をこちらから掴んでやると、すがるように握り返された。触れ合う指の熱さに、この数日で得たいくつかの知識が呼び起こされる。
『――ショートさん、少しお時間よろしいですか』
初日の作戦終了後、帰り支度を済ませ、飯田の合流を待っていた轟を呼んだ壮年の男性スタッフは、チームイダテンの科学研究主任を名乗った。短い自己紹介と挨拶ののち、今日の数時間の「デート」中に何か変わった点はなかったかと問われ、特に何もと首を振ると思わしげな仕草を見せたので、気になることでもあるのか、と逆に訊ね返した。
『今回の「若化」の副作用についてはお聞き及びでしょうか』
『ああ……なんか良くなさそうだったんですか』
『いえ、過去事例を見る限りではさほどの作用強度でもなく、発症頻度も低く、医療部でも問題ないだろうと判断されたのですが、水溶液での摂取であることが少々気にかかりまして。インゲニウム……と言いますか、「エンジン」保有者の血筋の特質らしいのですが、一般人類の平均より液体からの養分吸収効率が高いのです。簡単に表現すると燃費がいいと申しましょうか。中でもほぼ異常値と言っていい反応が現れるのが柑橘飲料です』
なるほど、と頷いた。超常のものとして扱われる個性の仕組みについて数学的な考察をしたことはないが、そうした理屈のもとにあの爆発的な、しかも持続性の高い推進エネルギーが生み出されていると言われれば納得はできる。
『柑橘飲料の栄養素は九割以上エンジンの稼働のために消費されますし、他の液状物質も通常は特に問題なく吸収処理されているようですが、ごくまれに強く作用する場合もありまして。まあ「アルコールに弱い」ですとか「肉を食べると腹を壊しやすい」ですとか「カフェインの覚醒効果が効きやすい」ですとか、そういった体質の一種の延長と思っていただければわかりやすいかと。もちろん幼少の頃から注意はされています』
噛み砕いた説明を聞き、つまり、と言いたいところは轟にも伝わった。
『「若化」した時に、副作用が強く出るってことですか?』
『出る〝かも〟しれない……そもそも副作用自体が全く出ない場合も大いにありますし、あくまで可能性の範囲ですが、おっしゃる通りです。天哉くん、失礼、インゲニウムからはお伝えがないかもと思いまして、念のため私から。気に留めておいていただけると幸いです』
肯定を受け、任務受諾時に見たプリントの中の副作用の注意の記述を思い起こした。眠気、発熱、発疹、悪寒、胃痛、脱力感、食欲不振、エトセトラ。市販の風邪薬や胃腸薬にも五万と書かれているような大量の注記に、若干の思考放棄をしたことは否定できない。全ての可能性を厭えば服薬などできないというもので、無視か妥協に至るのが普通だろう。
とは言え、飯田家お抱えの医師とも言えるイダテンスタッフの忠告をそれと同列に扱うのは浅薄な考えであり、轟を大事な二代目のパートナーとして重んじ、内部事情を伝えてくれた研究員には心から礼を述べた。帰路、飯田にも話題を振り、教えておいてくれればと軽く愚痴を言うと、昔からのことで思慮不足になってしまっていた、申し訳ない、と神妙に頭を下げられた。
そして今日のスポーツショップでの買い物の休憩中、間違い電話とメッセージで新たに伝えられた報告が、「『若化』個性による変質水と、柑橘飲料の組成の高類似性」であった。インゲニウム事務所に残った雄英生が、施設見学の流れで研究班にデータ提供をして判明したものらしい。
もう一度本気で記憶の山を掘り起こす。副作用の記載の中には、身体的作用のみならず、精神的作用を指す言葉も含まれていた。末尾に記されていたからといって、前に書かれた効果より出にくいなどということはなかったはずだ。
高揚感、焦燥感、不安感、恐怖感の増進等の、情緒不安定。
「くそ」
これは自分の失態だ。ずっと隣で見ていたというのに、学生姿に戻ってのデートなどという非日常にまぎれて、確かにあったはずの違和感を重く受け止め、おかしいと指摘してやることができなかった。
ほぞを噛み、熱が悪寒に転じたのか、かたかたと震える身体を抱き撫で、あたためる。与えられた任務を遂げんとする強い意志で一瞬プロヒーローの形を取り戻した精神は、今また思わぬ加害を受けた十七歳の少年、あるいはより幼く不安定な子どもの心に戻っている。
「轟くん、ぼく……何か、すごく変だ……ごめん……」
「謝んな、大丈夫だ。もうすぐお前のとこの医者が来てくれるから。診てもらおうな」
努めて穏やかに言い聞かせながら、じっとこちらを見仰ぐ不安げな泣き顔に笑みかけて、轟のジャケットの前身頃の内側に頭を隠してやった。たとえ個性の副作用による不可抗力のものであったとしても、自分が率いるチームの同僚や後輩たちに、こんな弱った姿をさらしてしまうのは本意ではないだろう。当人も轟の気回しを察したのか、少し安心したようにほうと息を吐き落として、素直に頬を胸元へ寄せてくる。
追行班と現場に駆けつけてきた両事務所のメンバーも、ふたりの様子を見て非常事態と悟り、本部と連携して事態の収拾に動いてくれた。ほどなくしてイダテン保有の医療車両が到着し、轟と話した研究員を含むスタッフたちにあとを託して戻ろうとしたが、飯田が轟から引き離されるのを嫌がったため、勧めに従い、現場の始末のほうを任せて同乗することとなった。「家に帰るまでがデートなんですから、最後まで恋人についててあげてください。どっちにしろあなたも検査が必要なんですよ。なんでそんな早く大人に戻っちゃってるんです」とは、出発際に頂戴した、我が事務所のサイドキックからのお叱りの言葉である。
移動中の報告により、確保した三名が間違いなく今回の事件の主犯格であり、遠隔地に残っているという、ウェブまわりの犯行を担当するもう一名の身柄確保まで今夜問題なく遂行できると見られ、計画はおおよそ成功裏に達成されつつあること、保護された女性は警察の車両で自宅へ送り届けられ、ふたりへの感謝の言伝があったこと、ショート・インゲニウム両名も検査後入院等の必要がなければ速やかに帰宅し、
作戦をつつがなく完了させることなどが確認され、奇特な任務は幕の半分を無事に下ろした。
車の中で短いメッセージのやり取りをした緑谷とは、インゲニウム事務所到着後、轟が改めて電話で話をした。飯田の様子を聞いて心配をあらわにし、あとのことは全て雄英側で請け負うので、ふたりはゆっくり休んでほしい、と懇願するように言ってくれた親友に感謝し、後日改めて打ち上げに行くことを約束して通話を終えた。三人のグループチャットにすぐに届いた「お疲れ様」「お大事に」「ゆっくりしたまえ」の三連続のオールマイトスタンプに笑い、ふと思い出してメモアプリを立ち上げ、ずらずらと並んだ商品名の末尾に、「次会うとき緑谷に土産のカード渡す」と書き足した。