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「ただいま。下のボックスに荷物届いてたぞ」
「お帰り轟くん! さっき通知のメールが来ていたやつだな。ちょっと手が離せなくて……ありがとう」
自分の荷物もあるのに重くなかったかい、と木べらで鍋をかき回しながらカウンター越しに声をかけると、そうでもないと意味通りの軽い返事があり、胸にひと抱えほどのサイズのボール箱がテーブルに置かれた。伝票を確かめた轟が、懐かしい――と言うには前回現場で顔を合わせてからそこまで日が経っているわけでもない友人の名を読み上げる。
「瀬呂からだな。また事務所連名で」
「そうか。どこも律儀でありがたいことだなぁ」
「去年の発表直後なんざ事務所が箱と木と花であふれ返ったからな」
「うちもだ。だからA組の皆は引っ越しに合わせて少しずらしてくれているんだろうな。とは言え既に山になりつつあるが……」
親切で気の回る旧友たちの顔を思い起こしつつ、彼らを事務所代表として連日届く、リビングの隅に固めた荷物の並びを見て苦笑した。すぐに中身を確認して礼状を出すようにしてはいるが、ふたりそれぞれの荷がようやくひと通り片付いたところに満を持してのおかわり、といった様相であったので、全ての始末までには今少し時間がかかりそうだ。
「あいつらは式にも呼ぶんだし、新居祝いとか要らねぇのに」
「俺もそう思うが、事務所のほうで無視できないんだろう。窓口にさせてしまって申し訳なくはあるな」
公益に資するが本分のヒーローとは言え、事務所間の付き合いやら何やらの一切を捨て置いて活動することは難しい。自分も轟も今はそれなりに大きな看板を背負う身である。婚約発表の反響も予想以上のものであったため、何かしらの礼を示さねばと思われるのは普通のことであろうし、それに対して無用に斜に構えた疑いや反感を覚えはしない。
また何かでちゃんとお返ししよう、と言うと、轟も特段の反論なく頷き、箱を残してこちらへ回り込んでこようとする。が、途中でぴたと足を止め、きびすを返してリビングを大股に出ていった。何に気付いて何をしに行ったかはわかっているので、ふふ、と思わず笑って鍋に蓋をする。あとはしばし煮るだけだ。荷物の受け取りにしても夕飯のできあがりにしても、実にいいタイミングでの帰宅だった。
エプロンを椅子の背にかけたところでぱたぱたと足音が廊下を駆け戻ってきて、隣へ並んだかと思う間もなく実に自然な動作で腰を抱き寄せられた。煌めく双つ色に覗き込まれてどきりと胸が鳴るが、手洗いうがいしてきた、と形良い口から出てきた言葉は幼い子どもの報告のようで、やはり笑いが漏れてしまう。
「うん、お帰り」
「ただいま」
再度言い交わし、背へ回る腕に抗わず身を寄せ、口付けを受ける。ちょんと優しく触れ、離れ、また触れてをくり返す、まさしく鳥がついばむようなバードキスだが、いつもいささか数が多いのではないか、と思わないではない。転居から二週間、もはや欠かさずの習いとなり、飯田の小言に応じた轟の帰宅即洗面所行きまでも習慣化したのは良いが、同居三日目から「ただいまのキスとかしてみてぇ」とねだられたものが果たして世間一般的にはこの形で合っているのか、疑問の余地は残る。
やわく唇が擦れ合う心地良さに、ん、と我なく声が漏れてしまい、応ずるように舌先がゆるんだ隙間に触れてきたので、これ以上はいけないと慌てて背へ回し返しかけていた腕を戻し、肩を押して離れた。あからさまな膨れ面を向けられるが、ここは譲れないと努めて顔を引き締める。
飯田とて求められるのは嬉しいし、轟と触れ合うことはずっと好きで、待ちに待った同居生活なのだから何にもはばからずそれらしいことをしたい、という気持ちは同じである。だがだからこそ、少しのことから盛り上がりがちになるのには注意しなければならない。先週もこの出迎えの儀が昂じてそのまま寝室に連れ込まれてしまったし、数日前には遅刻をしかけた。今日は先日と異なりまだ夕飯前、おまけに鍋を火にかけっ放しである。コンロには当然安全装置が付いてはいるものの、火災の危険はもちろん、うっかり鍋底を焦がしなどしたら、転居祝いに立派な調理用具一式をどんと贈ってくれた八百万に申し訳が立たない(こうした事態を予見してなのかどうか、見たこともないような材質の見たこともないような加工付きで、弱いガス火程度で焦げる代物なのかどうかはわからないが)。
「またあとでだ。君も空腹だろ」
「……ん」
いっときむくれても、道理を通せば無用にごねはしないのが轟の良いところだ。自分と同い歳の成人男性、しかも世の衆目一致するところの男前を形容する言葉ではないとは常々思うのだが、次を約束されて我慢と期待の入り混じった顔で素直に頷く様がなんとも可愛らしくもあり、見るとどこまでも甘やかしたくなってしまうので、飯田はいつも二重の我慢を強いられながら制止をかけている。
「あと二十分ほどで煮えるから、先に頂き物を開けてみようか」
「そうだな」
オープナーを取ってこようかと思ったが、足を返す前に轟がばりばりと外箱のテープを剝がし始めたのでまあいいかと任せることにした(綺麗な顔に似合わぬ大雑把さには学生時分から既に慣れている)。中から取り出されたのはカラフルな絵と写真がプリントされた縦型の箱で、熨斗の上からでも商品の名がわかった。
「あ、これはミキサーだな!」
「雄英の寮にあったとろろとか擦るやつか」
「それはおそらくフードプロセッサーだな……最後にはそちらもあったが……」
残念ながら夕飯は蕎麦じゃないぞ、と釘を刺しつつ、こっちはスムージーなどを作るものだと説明する。あの時も瀬呂が買って寮のキッチンに置かれて、皆であれこれと作った記憶を語ると、轟も思い出したらしくああと頷き言った。
「上鳴が唐辛子入れて切島と尾白が火ぃ噴いて爆豪がキレたやつだな」
「変なことを憶えているなと言いたいところだが、俺もそれで説教をした記憶があるよ……あれは全くもって爆豪くんが正しい。カプサイシンは水で洗っても落ちづらいから」
そうした学生らしい悪乗りにも用いられつつ、初代は酷使で早くガタが来てしまい、二年次には大容量の二台目に買い替えられて、卒業までずっと愛用されていた。自分も緑谷たちと共に飲みやすく栄養のあるプロテインスムージーなどを試し作っていたものである。
「そういや先月現場で瀬呂に会った時、持ってるかどうか訊かれたかもしれねぇ」
「ふむ、さすがの配慮だ」
かつ轟なら理由を察することなく忘れてしまうに違いないと見越しての問いだろう。見くびりではなく理解が深いゆえの行動である。
「雄英の頃、君と瀬呂くんは仲が良かったしな」
「まあ割と話してたと思う」
寮でも轟の隣室だった瀬呂は、持ち前の洞察力と器用さで、日ごろ何かと抜けたところのある轟をさりげなくフォローしてやっていた。適度に笑いも交えながら入学間もない頃の尖った態度にあえて触れるなどして、非日常の事件から一挙に距離の詰まった自分や緑谷以外の同級生たちとも早期に馴染むことができたのは、轟自身の努力はもちろんだが、瀬呂の気回しによる助けも大きかったのだろうと思う。
「彼はとても視野が広くて公平で公正な視点を持っている人だったから、俺も委員長として何度も助けられたし、きっと知らないところでずっとクラスを支えてくれていたんだろうな」
歳相応の悪ふざけはしていたし、時おりデリカシーに欠ける言動が出るきらいもあったが、広範に気遣いのできる柔軟さは実に見習うべきものだった。今以上に頭の固かった自分は彼の態度に教えられることが非常に多かったし、轟がされていたように、そうした学びの目さえ届かないところで色々とフォローも受けていたのだろう。
また今度改めて感謝を述べねば、彼のことだから礼の言葉もさらりと躱してしまうかもしれないが、と昔日に思いを馳せていると、懐旧の態度から何を汲み取っていったのか、隣で轟がまたむくれを見せる気配がした。じとりと向けられた視線を受けて、事が妙なところへ転がらないうちに理由を訊き確かめる。
「どうかしたかい」
「お前あいつらのこと思い出すたびに褒めてねぇか」
「そうだろうか。まあ皆それぞれに素晴らしい人だったから……」
自分も褒めろということか、それならそれでいくらでも、と口に乗せかけた賛をさえぎり、
「誰か褒める時すぐかわいい顔するから、外でもやってねぇか気になる」
そんな思いがけない指摘が出てきたので、ぎょっとして反論に言葉を変えた。
「か……いやいや! していないぞそんな顔!」
「してる」
「してないよ!」
俺みたいな大きくてごつい男相手にそんな形容をするのは君とイダテン古参の先輩方ぐらいだ、と正論を述べたが、轟はしていると断言して譲らない。かと思えば少しく気勢を落とし、
「まあ、あの頃の俺があいつらに遅れちまってたのは事実だから、それに関しちゃ――」
「そんなことはない!」
ぽつりとこぼした言葉へそれこそ本当に聞き捨てならないと、飯田は先の倍ほど声を張って否定を差し込んだ。馴染みの軽い驚き声が返る。
「確かに、クラスの誰かと比較すれば劣っていたところはいくつもあった。君だけじゃない。俺だってほかの皆だってそうさ。だから互いを教師に切磋琢磨して学び合っていたんだろ? 君だけが特別に遅れていたなんて、そんなことは絶対にない」
現に俺は君から沢山のことを学ばせてもらったよ、と最前述べかけた賛を改めて言葉にする。
「君に貰った言葉がずっと俺の大切な道しるべだったし、君の優しさと頑張りはいつも俺に勇気を与えてくれた。それに」
言いつつちらと壁の時計を見やり、まだ時間に余裕があるのを確かめてから、隣へ一歩身を寄せ、当時と比して丸みの取れた頬へ自ら口付けを贈った。
「お」
「……顔のことは良くわからないが、何にしたって、こんなことをしようと思うのは今までもこれからも君だけだよ」
ちゅ、とかすかな音立ててすぐに離れ、当然だろう、とあえてつんとした声を作って言ってやる。
轟は少し目を丸くしていたが、ややあって返った、おう、という短い相槌は明らかに機嫌を上向かせていたので、こちらもひそかに安堵した。うっかり当時の自己卑下を思い出させてしまったが、そもそもはやはり「ほかの連中ばかりずるい、俺も褒められたい(そして何やらの顔を向けられたい)」という言わば焼きもちが元の話であったのだろうから、こうしてきっぱり応えてしまえば尾も引かないはずだ。
その特殊な生まれ育ちのゆえに個人的な欲求が極薄であったかつての轟が、ようやくその発露とも言うべき悋気を見せるようになったのは、高校二年次の終わりの頃であったろうか。初めは何かおかしいと相談されて一緒になって首を傾げ、微差とは言え対人コミュニケーションの経験や知識については一歩前にいた飯田が先にその正体や自身の思慕に気付いてからも、轟は自覚のないまま無垢に訊ねにきて、まさか当人から「君は俺が自分より皆を構うのに嫉妬しているのだな」などと言うこともできずに困り果てたものだ。両者無自覚の頃はおそらく緑谷を筆頭とする周囲を困らせていたのだろうと気付き、穴があったら入りたいという心地であった。
今となっては轟もさすがに自身の心の揺れ動きを理解して、近頃はこうして「俺は妬いているぞ」と前面にアピールしてくることさえある。長じてようやく得た稚気を全開にする様は、わずらわしいよりほほ笑ましい、構ってやりたいの気持ちが勝り、やっぱり君のほうがよほど可愛いじゃないか、と指摘してやりたく思ったが、不毛な水掛け論に発展するだけとわかっているので強いて言葉を呑み込んだ。
「ともかくだ、これはキッチンに置いて有難く使わせてもらうとしよう」
ひとつ咳払いを挟み、蛇行しかけた話題を祝いの品へと引き戻す。日々彼への思慕が深まるのはいいが、伴う交誼は適当なところで止めておかねばそれこそ鍋の底を焦がしてしまう。
「使い方は寮にあったやつと大して変わらねぇんだろ」
「そのはずだ。当時のものよりはまた性能が上がって……む」
付属の説明書をぱらぱらとめくって、中の項目と、熨斗紙に隠れたパッケージの中央に躍る、特徴的な文言に気が付いた。
「凄いぞ轟くん、このミキサーはなんとAI搭載で喋るそうだ!」
「すげえ要らなさそうな機能だな……」
ばっさりと切り落とす評に反論はせず、そうだなと笑って頷いた。きっと瀬呂も店頭で要らない機能だとひとしきり笑ったのち、あえてこの品を選んだのだろう。飯田や轟に欠けた遊び心を知る人だった。こちらの反応を想像して、まああいつらのことだから何にもならんだろうと苦笑する姿が目に浮かぶようだ。
予想を裏切るような礼を返したいところだが正直浮かばないな、と自身の発想の面白みのなさに改めて感じ入っていると、外箱を片付けようとしていた轟が底に何かを見つけたらしく、薄い紙片を差し出してきた。簡易の熨斗紙が巻かれた白封筒の中に入っていたのは、ミキサーのパッケージと同様の色とりどりの絵とともに、アドレス読み取り用の二次元コードが印刷された小さなプラスチックカードだった。
「フルーツギフトカード?」
「素材まで一緒に贈ってくれたのか……」
この気回しの域に追い付くにはさらに十年以上かかりそうだと嘆息する。興味深げに横からカードを覗き込んでいた轟が、ふと思い出したように言った。
「これでなんか頼めるんだな。オレンジにするか?」
「そういえば瀬呂くんもオレンジが好きだったな」
初めて個人的な話をした日もそれがきっかけであったように思う。確か寮のミキサーを初めて使った時も、そのつながりで相伴に預かったのではなかったろうか。
回顧とともにそれもいいなと頷き、だがと続ける。
「たぶんいくつかコースがあるものだと思うから、ちゃんと調べてからふたりで決めよう。ほかに轟くんの好みのものもあるかもしれない」
きっと彼ならそうしろと言ってくれるんじゃないかな、と言うと、轟もそうだなとやわらかな声で同意して、夕飯前の締めとばかりに飯田の頬へ口付けを寄こす。テーブルに置き損ねた小さなカードが天板の上を逃げるように奥へ滑り、「俺をダシにしないでくれる?」と愉快げに笑ったように見えた。
その後キッチンの隅に置かれたミキサーは日々の栄養補給にたまの甘味にと活躍し、妙に饒舌なAIをどちらからともなく「セロ」「セロくん」と呼び始めてすっかり定着してしまった結果、上鳴・峰田とともに遊び訪ねてきた贈り主を天然育ち弟コンビ由来の幾十度目かの困惑にさらすことになるのだが、それはまたとある別の日の顛末である。
end