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「財布」
「ある」
「身分証」
「財布ん中」
「新幹線の切符……はアプリか。携帯」
「ある」
「モバイルバッテリー」
「いつも思うけど要るか?」
「まあ施設で充電できるだろうが、万が一のことは考えねばだぞ」
「じゃあ持ってく」
淡々とリストを読み上げる声に淡々と応え、ローテーブルからはみ出して床まで広げた大小の物品を使い馴染んだボストンバッグに放り込んでいく。時折追加の掛け合いが起きるが、いつものこととて長々とした議論にまではならない。
「ヒーロースーツ」
「事務所から送った」
「下着」
「二枚入れた」
「向こうで洗濯はできるんだろ?」
「そう聞いてる」
「ティッシュ、ハンカチ、タオル」
「ある」
「医療キット」
「ある」
「包帯が切れていると言ってなかったか」
「今日の帰りがけに買っておいた」
「おお、優秀じゃないか! これで最後だぞ。役所提出用の捺印済み滞在許可申入れ書類」
「……お」
「……ん?」
賛辞にふふんと笑おうとして堅く長々とした品名に手が止まり、顔を見合わせ、跳ねのついた柳眉の間に皺が寄る過程をつぶさに目撃した。
「んんん……一番重要な物じゃないのかい……」
「おとといハンコついて俺どこ置いてた?」
「俺の記憶違いでなければ青色のクリアフォルダに挟んで棚の書類入れに戻していたよ……」
立ち上がり教えられた場所を探ると、言われた状態の物がすぐに見つかった。すげぇなと今度はこちらが賛を送るが、やはり常のこととてごまかされてはくれず、もう、とタブレットに表示されたチェックリストを指差しながらの小言が落ちる。
「君が絶対に忘れられないと言うから、わざわざ赤文字で書いたのに」
「逆に目が滑ったかもしれねぇ」
「まあ無くはないな……次回からはやめておこう」
こんな些細なことでも反省と学習と改善を怠らないのが飯田の偉いところだ。細かい、口うるさいと評する者もいるが、轟はいつも素直に感心している。お陰で同居者たる自分の生活水準もこまやかな部分から劇的に向上した。当初は事務所のサイドキックたちにも秘訣を訊かれなどしていたが、そのたび飯田の名を出していたところ数か月でありがとうございますもう満腹ですと撤退を宣言されてしまっている。
「メールで出させてくれりゃいいのにな」
ソファの座面を背に隣へ座り直し、言い訳半分の意見をこぼすと、それは確かに、と公正な元委員長も同意の頷きをくれた。
「紙の書類は逸失の恐れがあるし、捺印も前時代的な作法だとは思うが……そうするしかない事情が残る地方もまだまだあるということだな。郷に入っては郷に従えと言うし、少し面倒だがあちらのやり方に則っておこう」
「ん」
明日から轟が出張で赴く土地は、はや六年前となるダツゴクの破壊簒奪からの復興過程でぽかりと穴空いたように取り残されてしまい、昨年からようやく人や物が戻り始めたという。言わばヒーロー社会の過ちの犠牲となった地だ。飯田の言う通り、こちらの与り知らぬ事情もあるのだろうから、しつこく愚痴をこねるつもりはない。
書類が折れ曲がらぬよう詰めた荷物の一番上に差し入れて、最後にもう一度タブレットの中のリストを確認し、ファスナーを閉じる。終わったぞ、の意を込めどうだとばかり鼻息して隣を見やると、よくできました、の意のこもった微笑が返り、つられてこちらも笑いが漏れた。
東京に支部を構えて同居を始めてから互いに知ったことだが、年間の短期出張の件数は轟のほうが倍以上多かった。飯田は所属するチームイダテンが大所帯ゆえ、宿泊を要する仕事は同地域の事務所へ斡旋し、日帰りで済む任を請け負っていることが多いようだ。日帰りとは言っても大規模な移動用車両をも複数所持するチームであるだけに、その活動圏は非常に広範囲で、関東近郊では知らぬ者なしの名と言っていい。
大規模かつ東京を遠く離れた地域の案件ではチームの半数ほどを引き連れて長期遠征を行うこともあるそうだが、隣県やそのひとつ向こうの県程度の距離となると、トレーラー一台でその日のうちに行って帰ってきてしまう。何しろ車に勝る走りのターボヒーローだ。朝別れて夜に帰り、今日は道が混んでいたから先行して千葉の南端まで走ってきたよ、海風が心地よかった、などとけろりと言うのだからもはや滅多なことでは驚けもしない。
そんな出張の少ない飯田は、自分の経験にもなるからと、同居を始めて以降、轟の準備に付き合ってくれるようになった。開設二年にも満たない東京支部はまだ人員が最少で、出張ひとつでもサイドキックに任せきりにすることはできない。片や心配性、片や大雑把な取り合わせの自分たちであるため、他のものごと同様に意見の相違が生じることもままあったが、うまく中間を採るなどして改善を重ねた結果、今日まで大きなうっかりは免れている。今では最後の読み上げクロスチェックに至るまで手慣れたものだ。
「これをしていると、子どもの頃を思い出すな」
リストアプリを落とし、タブレットをテーブルに置き戻しながら、しみじみとした声で飯田が言う。
「チームの手伝いとかか」
「いやいや、さすがにそれはさせてもらえなかったよ。家族で出かける時の話さ。両親が一緒のこともあれば兄さんとふたりのこともあったが、少し遠出して遊園地や動物園なんかに遊びに連れていってくれるとなった時に、その準備を任されてたんだよ。物の準備もそうだが、当日の目的地までの道のりの下調べだとか、施設内でのルートの検討だとか、そんなことまでしていた」
今思えばあれは教育の一環だな、と首ひねって回想する飯田はまさしくその賜物の子と言えるだろう。やや四角張ったものの考え方などにも影響が出ているかもしれないが、長所に寄与しているところのほうがずっと多い。納得して頷く。
「まあ何しろ子どものことだから、やりたいことを盛り込み過ぎて前段階で破綻してしまうこともあったが……何日も前から本やネットで情報を調べて、あれをしようこれをしようと考えるのはそれだけでも楽しかったよ。当日思った通りにできれば嬉しかったし、失敗したら次はもっとしっかり準備する、なんて宣言して兄さんによく笑われていた」
懐かしいな、と浮かべる笑みは近ごろますます兄の天晴に似てきたようだ。言えばまたひとつなぎ兄との惚気話が出てきて悋気が膨らみそうなので教えはしないが、こうして昔の記憶を訪ね、いっぱいに愛されて育った日のことを語ってほほ笑む飯田を見るのは純粋に好きだ。そうかと相槌を打って、続く小さな思い出話に聞き入る。
とても家族円満とは言えない複雑でいびつな幼少期を過ごし、人の思い出を聞くたびあれも知らない、これも知らない、と感心してしまう轟を気遣い、明確に対照的な家庭環境であったのも手伝ってのことだろう、飯田は一時期あまり自分の話をしなくなってしまったことがある。そこへあれも知りたいこれも知りたい全部話せと自らねだり、轟は半ば強引に優しい躊躇いの口を開かせた。その後いつからか、こうして遠慮をせずに(実際には「そもそも表に匂わせない」という配慮をしていることもあるのだろうが、それは歯がゆくもあたたかい思いやりだと理解している)、幼い頃の幸福を語り分けてくれるようになっている。
「いいな、そういうの。準備も面倒じゃなくなりそうだ」
子どものごとく感想した轟に、飯田は赤い瞳をきゅうと細め、
「次の休みに、やってみるかい?」
やわらかな声でそう言った。
「休みの準備?」
「休みに出かける準備だよ。最近はなんだかばたばたしてしまって、行き当たりばったりに過ごしていることが多かったろ。もちろん君とならどんな休日だって楽しいが、次にまとまった休みを重ねて取れることになったら、少し前から調べものをしたり、計画を立てたりして、一緒にじっくり準備をしてみるのもいいんじゃないだろうか」
きっといい思い出になる、と提案するのに、一も二もなく頷く。どこに行く、と幼児気分のまま訊くと、そこから考えるんだよ、と笑いが返った。
「遊園地でも動物園でも水族館でもいいし、映画館や博物館を回ってもいいし、美味しいものを食べに行ってもいいし、ショッピングモールへ行って一日ゆっくり買い物してもいい。大人だからなんでもできるぞ」
穏やかに候補が並べ述べられるたび、脳裏に浮かぶ言葉に輝石の粒がまぶされきらきらと輝くようで、きっと幼い頃の飯田もこんな想いでいたのだろうと、さらに納得が深まった。そのうえ今の自分には、どこへ行くにも世間にはばかることなく並び立てるようになった恋人が必ず隣にいてくれる。なんと恵まれた大人だろうか。
「旅行みてぇだな」
浮き調子に言うと、ふむ、と頷きが返る。
「旅行もいいな。たとえば関東の温泉地あたりなら短く一泊でも割とゆっくり過ごせるだろうし」
「温泉か。行きてぇな、温泉」
映画も買い物も悪くない。高校時代に直で見損ねた兎耳のカチューシャを付けた飯田を遊園地で眺めるのも悪くない。だが温泉の響きとぬくもりと、浴衣の裾を乱し湯にほてった身体を布団に横たえる恋人の姿に勝てるものなどない――と、九割がた温泉行きに傾いた轟の思考を横から見て悟ったのだろう、飯田は苦笑の息をついた。
「何を考えているのか知らないが、気が早いぞ。明日からの出張の準備をしてたんだろ。十日間の!」
「十日か……」
「次の休みの準備のために、しっかり無事で帰ってきてもらわないと」
俺ひとりでやったって意味がないんだからと小言し、満杯になったバッグをぽんと叩いて、声落としつつ続けた。
「……いつもあれこれと言ってしまうが、たとえ何を忘れたって、君が怪我なくここへ帰ってきてくれるのが一番だ」
気を付けて、と贈られる真摯な言葉をああと正面に受け止め、返す。
「お前もな。俺はお前みたいに走って駆け付けてやれねぇから」
「うん」
頷き見つめ、そっと伸べた手を肩へ回し、抱き寄せる。髪を撫ぜるように側頭を触れ合わせてから、滑らせた指で顎の線を取り、首傾けて口付けた。やわらかく啄んで離れ、また触れ、唇の合わせに舌を這わせてより深く重ねようとしたところで、つっと顔を引かれる。追う間もなく相手が立ち上がって、腕の中に寒々しい空間が残った。
「短けぇ」
不服に口尖らせて見上げると、まだ準備が全部終わってないだろ、と二度目の苦笑が降った。
「風呂に入って寝間着に着替えて歯を磨いて寝るまでが準備だ」
「お前も風呂……」
「俺は夕飯の前に済ませたから」
あっさりと断られ、真面目め、と時間を無駄にしない恋人にもう一度口を尖らせると、そういえばとそ知らぬふりで飯田は言う。
「轟くんは確か十四時前の新幹線だったろ」
「……おう」
「荷物の準備がおざなりになると思って言ってなかったんだが、俺も明日は午後からの出なんだ」
「……は?」
間抜けた声に続けて言葉を挟む前に、だから、と眦染めた赤い瞳が横目にこちらを見下ろして、
「俺も、『寝るまでの準備』は済ませてあるんだ、が」
どうだろう、とひそやかに囁いたので、一も二もなく頷き立ち上がり、がばと一度抱きしめて驚きに跳ね上がらせてから、脇目も振らず風呂へ向かった。そんな急がなくたって逃げないぞ、と背を追う声には笑いがにじみ、照れと喜びを同時に伝える。
空のかばんに少しずつ物を詰めていくように、飯田と過ごす時間は知らないものごとの発見と明るい驚きにあふれて、轟の空白を満たしていく。それはいびつな過去を受け容れ別れを告げる
餞の荷でもあって、ここから毎瞬毎秒連なる幸福な未来への準備の荷でもある。君の行く道がいつも穏やかでありますようにと、祈りとともに差し出される手を握り、ふたり荷を分け合って歩く日々、笑い飛ばせる程度の多少のうっかりや物忘れはご愛敬だ。
とは言え今夜はもう小言をつかれないようにと、重ねて脱ぎ捨てかけた服を丁寧にほどいて籠へ入れ、浴場へ踏み入る。少し時間をかけて浸かって心の準備もさせてやろうかなどと意地の悪いことを考えながら、シャワーの栓をひねって頭から湯を浴び、次の休みの準備までにも気早に思いを馳せた。
Fin.