ふと目を開けた次の一瞬は寝起きに常のごとく状況を把握できなかったが、身を上下から(横臥の姿勢であったので正確には左右から)包むあたたかな布団、背に回されたたくましい腕、後頭の髪を梳き撫でる優しい指、ついでに頬に当たる弾力のある胸の感触で、比較的早く眠りに落ちる前の記憶を取り戻した。明日から十日間の出張、という事実への多少の気だるさも浮かんできたので、夕食後の荷詰めの折に交わした胸弾む未来についての会話と、さらにその後の甘くいやらしく胸とろけるように幸福な恋人との情夜の記憶で上書きする。もちろん仕事は仕事として真剣に取り組むが、今はまだその時間ではない。
とは言え実際のところ何時なのか、もしや目覚ましが鳴る一分前などということはなかろうな、と時刻を確かめる意思半分に身じろぎすると、あ、と頭上に静かな声が落ちた。
「起こしてしまったかい」
頭を撫でる指が止まる。轟は喉を反らして恋人の顔を仰ぎ、横臥のまま首を振った。
「いま何時だ?」
「ええと」
枕元の時計を見上げる気配。たびたび綽名に使われるほど眼鏡の印象が強い飯田だが、実際は裸眼で車の運転ができる程度の弱近視で、夜目も効くし、高速移動中に周囲の事象を確実に捕捉する動体視力に至っては、並のヒーローでは及ぶべくもない鋭さを誇る。メガネ詐欺じゃん、などと冷やかしを投じて、どこの何が詐欺だというんだね人聞きの悪い、などと反駁されていたのは、学生時代の級友の誰かしらであったか。
「一時半になるところだ」
ともかく、そのさほど悪くない目で読み取られたのは思いのほか早い時間だった。とすると起床前にふと目を覚ましたというよりは、まだ本格的に寝付いていなかったという状況のようだ。
そうかと相槌しながら身をもそもそとずり動かして、抱き枕にしていたらしい相手へさらに近く添い寄る。腕いっぱいに納まる身体は本人が時おり気にかける(こちらは全く気にしていない)通りやわらかくはないが、確かな存在感に満ちてあたたかく、抱き締めるのも抱き締められるのも非常に心地いい。
子どものような所作に誘われたのか、ふふ、とひそやかに漏れた笑いの息がつむじをくすぐり、今度は大きな手のひら全体を使って頭への慰撫が再開された。情あふれる手
遊びに身中の熱がぼんやりと高まるが、二度目の火が着くほどではない。
互いに若く、仕事柄活力も体力も並以上にある。無論のこと精力も性慾も、となれば宵のうちから夜更け、時には休み休みに明け方まで抱き合い情を交わし続けるのも特別にまれなことではなかったが、昼からの出とは言え、双方とも翌日に仕事を控えた夜とあっては、さすがに精根尽き声涸れるほど求めるのを真面目な恋人は許してはくれなかった。普段でもまだまだこれからというところで終わりを言い渡されてしまい(それでも世間一般的に見れば長く激しいようなのだが、ほかと較べたことがないのでお互いに詳しいところは知らない)、丁寧に跡を清めてから穏やかな共寝に移っている。気分的にも習慣的にも、この時間に深く寝付いていないのは妙なことではないだろう。飯田からも早く寝たまえという小言はなかった。
「十日か……」
終了宣言の際には不服を漏らしたが、こうして寝入りばなのぬくもりに身をひたすのも悪くない。あと三十分ばかりは起きていられるだろうかと定めて、眠気の波にさらわれるのを防ぐため、ふわふわと雲のように揺れ浮かぶ思考をあえて声にして呟いた。
「仕事に集中していればあっという間さ」
飯田から返った言葉は事実に違いなかったが、自分へ聞かせる鼓舞のようでもあったため、向こうに着いたら連絡する、と改めて宣言する。
「夜も電話する」
「うん。だが、無理のない範囲でな」
きっと忙しいだろうから、と語る恋人は、いつもながら人想いで公益を重んじるヒーローの鑑だ。君は欲が薄いななどと言って轟の甘えや我が儘を喜びながら、自身の禁欲性には無頓着でいる。これに関しては過去に幾度か悶着を起こしたこともあるが、こちらの甘えや欲を求めるのが飯田の甘えであるらしい、というなんとも複雑な答えを出しつつ、すったもんだの果てに犬も喰わないと人に言われるような解決に至っているので、今は前向きに受け取ることにしている。なお「『すった』とは『擦る』であって『吸う』ではない!」とは、その過程で飯田からの説教とともに得た知識だ。
おうと軽く頷きながら、「もんだ」は「揉む」で良かったよな、などと蛇行する記憶を辿りつつ(「正確には『揉める』だぞ!」という説教は憶えていない)、腕は背へ回しているので、代わりに顔を目前の壁にうずめてぐりぐりと頬擦りをする。良く発達した筋肉は脱力するとやわらかく、犬猫の肉球のような弾力があって触り心地がいい。体を資本とする界隈では一般に知られている話ではあるが、その見本のような例を実地で知り魅力に驚き恩恵に与るとも言うべき立場となったのは、飯田と交際を始めてからだ。当人はあまりぴんと来ていないらしいが、抱き枕その他として轟が愛好してやまないので、まあ君がいいならと執心を許してくれている。
「十日お前に触ってやれねぇ」
「それは俺に言ってるのかい。俺の胸筋に言ってるのかい」
胸ごとお前だろ、なんとも怪しいな、などと無駄口を交わしながら、背を抱き頭に触れ、指先に馴染んだ相手のかたちを確かめる手から、戯れ言に収まらない情を伝え合う。
明日は誰にもわからない。三日先も、十日先も、確かに起こると言えることなど何もない。だからあと三十分、あと三十分と、未練がましく時間を延ばそうと願う夜も、時には訪れる。
それでも轟の真面目な恋人は、最後には必ず荒怠の念を断ち切って、しゃんと背を伸ばしその大きな手を差し出してくる。
「焦凍くん」
ひそやかに名が呼ばれ、
「今回の出張は少し距離のある場所になるが、いつどこへいたって俺は君のそばに在ること、忘れないでくれ」
やわらかくも芯の通った声とともに、額に口付けが落ちる。
「……ああ」
もはや驚きはない。ただ汲めども汲めども尽きない愛をまた知り、感謝を捧げ、同じだけと願う想いを返すだけだ。
首捩じって左の頬を胸に寄せ、ふにと奥へ沈ませて、喜びに騒ぐ熱を伝える。
「こんなイイもん、忘れねぇよ」
「もう」
笑い混じりに落ちる叱声は、嬉々を教える言葉と同義だ。一度頭を離し、身体を枕(正真の枕)側にずり上げて、まっすぐに目を合わせる。色の仔細までは見えないが、いつも豊かに情を語る瞳の赤はその鮮やかさを増しているのだろうか。
「帰ったら温泉旅行の準備もあるしな」
「その通りだとも」
ふっと笑いを交換し、抱き寄せ合って口付けを交わす。眠気にゆるんだ唇は互いにすぐ開いて舌まで触れ絡んだが、就寝前の心地よい戯れ以上のものにはならなかった。
「寝るか……」
「ああ」
しばし甘く触れ合ってから、今度は自ら宣言して終いとする。なんだかんだと言いつつ飯田は轟の求めに過寛大のうえ、気持ちの悦いこともしっかり好む人間なので、うっかりするとツケがこちらへ回ってくる。
明日確かに起こると言えることなど何もない。だが三日先、十日先、ひと月先にも一年先にも、きっと変わらずあるだろうと思える心は、今ここにも確かにある。あり続けるものをよそに忘れて、未練で延ばす「終わり」など、一時の幻想に等しい。
とは申せ、同じ惑いや幻想をくり返すのが人の常だ。自分もそう悟った人間ではないので、また幾度も成さぬ未練をこねては飯田に頭から愛を浴びせられるのだろうが、そのたびごとに同じものを渡し返す日々もまた悪くはないだろう。飯田とていまだ轟の率直には慣れず、投げかけた情に飽かず照れては、喜びを示し返してくれるのであるからして。
とりあえずは仕事、そして旅行の準備だと当面の予定を決めて、あくびを噛みつつまた足側へ身を下げる。広い胸に顔をうずめ、明日からの枕が多少でもこの幸福に近い触れ心地だと良いが、などと益体もなく考えながら、あたたかな眠りの中へと身を投じた。
Fin.