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翌朝、アラートの出発をこの数日と変わりなく見送り、あとは聞き込みにも出ず寝床でごろごろと怠惰に過ごしつつ、昼まではおよそ本気で出動要請が飛び込んで来るのを願っていた。しかし時刻が夜に近付くにつれ、頼むから今ばかりは何も起きてくれるなと心を翻し、結局その望みの通り、街は特段の事件もなく平穏に宴の時間を迎えた。
教えられた酒場が店員たちとも付き合い古い馴染みの店であったことを、インフェルノはもっけの幸運と捉えた。友人には後から向かうと伝えておき、実際には会の開始どころか開店より早い時刻に着いて、つけを倍にして払うからと頼み込み、リザーブされた宴席をうかがうことのできる、それでいて相手方からはこちらの姿を見通せないという、偵察任務でもするかのごとき作為的な席を準備してもらった。必死も過ぎると笑わば笑え。そう胸張って開き直ってしまえるほど、自分はこれを衝撃的な事態と受け止めている。
(だって、あのアラートがだぜ?)
あの絵に描いたような堅物が、任務のあとの打ち上げにすら苦言をこぼしていたほどのあの生真面目な締まり屋が、ただ呑み騒ぐだけの宴会に――どこの誰とも知れない相手ばかりが集まる、あまつさえ「ある種」の主旨を持つ宴会に自ら参加しようなどとは、天地がひっくり返ってもあり得ないはずの出来事のように思えるのだ。
その驚天動地が今夜予定されていると知ってしまった以上、せせこましい料簡だとわかってはいても、黙って見過ごすことはできなかった。まず目の前の事実をしかと見届ける必要がある。何か特別な事情があるのなら助けになってやらなければならないし、もし万が一、例の噂に繋がる事態であるのなら、正式な途中参加者としての「乱入」は策のひとつだ。多少の場の紛糾は覚悟している。
目の前――そう、この期に及んでなお勘違いや同名の別人という可能性に託していた一縷の望みは、装飾壁の向こうに現れた、見誤りようのない赤と白を目にした瞬間、もろくも崩れ去っていた。
「乾杯!」
お定まりのかけ声とともに始まった会の出席者は、インフェルノの友人とアラートを含めて九人。あとの七人はいずれも地方の在職者のようで、知った顔は混ざっていない。見るからに若手ばかりというほどではなかったが、さすがにアラートに並ぶ在任歴と地位を持つ者はないようだった(もっとも、このまま自ら口にせずにいれば、アラートも周りと同程度の存在に見られて終わることだろう)。こうした集まりに出るだけあってか、銘々グラスのあおり方も相応にこなれている。こちらはうっかりと酔ってしまわないよう、さすがに席だけとは行かずにあらかじめ複数頼ませられた軽い酒をちびちびと含みながら、注意深く様子をうかがう。
友人はあと一人来る予定だと初めに告げて、幸いそれ以上あれこれと遅刻者のことを語りはしなかった。インフェルノは合流時刻についての問いに明確な答えを返さずにおき、すまないが仕事の都合で通信もできない、とあらかじめ断りを入れていた。場の流れで「途中参加の知人」に音声連絡でも入れてこられては、応答のやり取りで存在がアラートに割れてしまいかねない。店にいるだけでもその危険は皆無ではなかったが、周囲の喧噪もあり、黙って身をひそめている限りは問題なかろうと思われた。それでもじっと集中を傾ければ、インフェルノのセンサーでも向こうの席の声は相当に聞き分けられた。
インフェルノを賑やかし役に頼るようなことを言ってはいたものの、友人も元来そのあたりは得手としていたはずで、まあ旧友と騒ぐ機会のおまけとでも考えていたのだろう。すぐに参加者の中心となり、如才なく場を盛り上げている(それがわかっていたため故意の遅刻にもさほど心痛まなかった、という事情もあった)。色恋沙汰の有無に依らず様々な相手との付き合いを求めるといったタイプの、なかなか魅力もある男だったが、そんな友人が自分の恋人と知らずに同席する、という点については、特に不安に思っていなかった。相手に困っている身でもなく、アラートのような真面目で堅い性格の相手とはその種の付き合いはしないと公言しており、一方で気の良さゆえに他人の不作法も看過しないたちであったので、何かあれば逆に用心棒代わりに振る舞ってくれるだろうと期待もしていた。
予想の通り、アラートを「場の一人」の枠に入れたらしい友人の態度にまず頷き、当の我が恋人どのに目を移す。こちらはにこやかとは行かないまでも、会の始まりから人並みの愛想の良さを見せており、率直に言えば相当に驚くべき姿だった。確かにひと頃の「無口・無遠慮・無愛想」の評判は薄れてきていたものの、生来の特性や好みががらりと改まったわけでもない。いまだに人入り乱れる社交の場は可能な限り避けているようであったし、教え子や教場の同僚とのささやかな酒宴は楽しんでいる様子だったが、それらにしても、もっと回数を増やしてもいいんじゃないか、とこちらから茶化したほどの頻度だ。
そんな無粋の骨頂のような相棒が(ひとつ註じておきたいのは、これは決して罵りのために言っているのではなく、そうした堅苦しい性格のパートナーを自分は心から愛しているのだ)、騒がしい酒場に開かれた初対面同士の宴席で嫌な顔ひとつ見せず、場に溶け込んで座っている。これを驚かずして、ほかの何を驚けと言うのだろう。
昨夜、事前の連絡通りに早く帰宅したアラートへ、インフェルノは噂の真偽を訊ねる代わりに、明日の夜は旧友たちと呑みに行く、と自分の予定を語った。わかったと頷くのへ「お前もどうだ」と誘いかけると、アラートは注視していたからこそ見えたほんの一瞬の間を口ごもり、すぐに平生の態度に戻ってひと言、「本部での残務があって遅くなる」と答えた。
衝撃と言っていい種々の念に見舞われるインフェルノをよそに酒宴は進み、空気の和んだ頃合を計って、各人の個性に一歩踏み入る話も飛び交い始めた。アラートも自ら話題を提起することこそなかったが、言葉を振られれば自然に返事をしていた。こうした会における通過儀礼とでも言うような、他者の好み――もちろん色恋ごとの対象としての他者への興味を探る問いに、アラートは少し考えの間を見せてからこう答えた。
「ええと、そうだな。私は、明るくて頼りになる相手がいいかな……」
取り立てて膨らませる余地もない、凡庸な回答ではあったが、インフェルノはその言葉の定義ごと真剣に考察をした。
(当てはまってる、よな)
生涯一度も「暗い」と類似の言葉で性格を形容されたことはない。共にいて陰鬱となるなどという評価を下されたこともない。頂戴しがちなのはうるさい、暑苦しい、あたりの文句だが、静かで涼しげなやつがいい、と言われたわけではないのだから構わないだろう。ひとつ目の条件は充分にパスだ。
ふたつ目だって、とひと言に断じかけて、はたと、思考を止める。
――今の自分は、アラートの「頼り」になれているのだろうか?
自問の声は存外に重い音で心へ響き、何を今さら、と容易く一笑に付されることを許さなかった。
かつてであれば、それができていたのかもしれない。誰より何より頼られていると、自分はそれを目指してここまでやってきたのだと、笑って答えることができたのかもしれない。常にその身の傍らにあり、最も近しい部下として相棒として、凛と届く指揮の声に応えていた、あの戦火の下を共に駆けた日々の頃であれば。
だが今は身を置く場が別れ、立場も変わり、直接に頼り頼られる関係とは言えなくなった。それでも誰より近しく親しいと自負しているが、自負は自負であり、客観の評ではない。同じ部署、同じ中央所属の経験者であればともかくも、少し外に過ごしていたなら、まさしく今夜がそうであるように、アラートの名を保安部長の立場に結び付けない者もごまんといる。俺の相棒と語って伝わるほうが珍しく、当時のごとく、一方の名に一方の名が連想されるほどの間柄ではない。これまでが異様であったのだと言われれば無論そうだが、それを承知してなお、インフェルノは不意に足元が抜けてしまったような感覚に捕らわれた。
避けえぬ戦禍であったとは言え、肝心な時にそばにいてやれなかったこともあった。この身の不甲斐なさゆえに、独り痛ませ、悩ませ、傷付けもした。必ず報いると誓っている。しかし思う通りに成せたとはまだまだ言いがたい。それどころか、今の慣れない足場に立ち続けるため、彼の経験と地位に助けられているところさえ多分にある。
寄る辺ない心地で手元に落としていた視線を上げれば、宴はひとまとまりの時間から次の段階へ進んだようで、辺境の輸送航空員と名乗った参加者とアラートが横に並んで一対一で会話しているのが見えた。いかにもたらし者といった風体の男で、あからさまに色含ませた態度を示しているが、アラートはそれに積極的に応えないまでも、厭わしげにしている様子でもなかった。
ほとんど肩の触れかかる位置に男が身を寄せるのを目にし、思わず椅子蹴って立ち上がりかけたのを、拳握ってこらえる。アラートは助けを求めていないし、気付かずして危難の場にあるわけでもない。
(興味もない宴会におとなしく出るやつじゃねぇし、もし数合わせだとかで無理に参加させられそうになったら、俺に言うよな?)
こうした場のあしらいならインフェルノのほうが明らかに経験に長けており、代役なども苦にしないことを、アラートはよく承知しているはずだ。それでいながら一切の相談も報告もなかったということは、彼が間違いなく自らの意志でこの場へ足を運んでいるのだという事実を示すにほかならない。
隣の輸送員のみならず、他の参加者も決してアラートを場違いの者と見てはいない。それらしい興味を示し、実際の賛辞を口にする者もいた。これもまた、おそらくはもはや驚くべきものではない、ひとつの事実なのだ。
突き付けられ、知らしめられたものを逃げようなく認め、インフェルノはこの数日というもの自分が何を気にかけ、根本の問題と捉えていたのか、ようやく気が付いた。
見目についての好評そのものに、あえて訊けばそうした評価がなされるという答えそのものに、違和感を覚えたわけではない。
(……俺、あいつが実際そうなんだとか、今実際にそういう風に見られてるんだとかってこと、全然知らなかったんだよな)
かつての保安員レッドアラートは、とかく過度の悪評と誤解に取り巻かれがちな存在だった。それは当人の振る舞いに根ざすものでもあったから、ひとつひとつの中身を改めてとやかくやと言う気はないが、噂や陰口の場に居合わせるたび、インフェルノは様々に反論をしたものだった。事実無根の話はきっぱりと否定したし、欠点は認めた上で、それを補う長所を語って聞かせた。
してやっていた、などと言うつもりはさらさらなく、そのことで何かが変わったと思ってもいない。ただ自分がそうしたかったからしていたのだ。部下として、相棒として、アラートを尊敬していたし、誇っていた。相容れない考えも欠点も全て引きくるめてアラートという存在を好いていたから、ただ好きなものを好きだと語り、その事実が伝わればいいと思っていただけだった。
そう、かつての救助員インフェルノは、アラートに好意を寄せるほんのひと握りの奇特者のうちの一人だった。彼の美点を他人に語り、あわよくば気付かせようとする、稀有の側の存在だったのだ。
それが、なんということだろう。何千何万の日が過ぎて、いつの間にやら事態があべこべになっている。自分の知らない、気付いていない相棒の姿を、当たり前のように他人の口から語られている。なんということだろう! 険しい道を散々に遠回りして手にしたはずの幸福を、いつしかあって当然のものと思い上がっていたのだろうか? 互いの立つ場所が離れたことを顧みずにいるうちに、姿を見失ってしまったのだろうか? あんなにもはっきりと、色うつくしく見えていたのに。今この瞬間もなお、誰よりも何よりも鮮やかに場に浮かび上がって見えるのに。
「……なっさけねェ」
築き上げた自慢の城が急にちっぽけな小屋に変わってしまったようで、討ち出る意気もなく自嘲の呟きをこぼす。――と、吐いた呼気が手の中のグラスを曇らせるのとほぼ同時に、壁の向こうでその二つ色の機体がすっくと立ち上がったので、遅きに失しながらもぎくりとして口を押さえた。おそるおそるもう一度視線を向けてうかがうと、幸いこちらへ気付いたわけではないらしく、端末機を手に周りへ断りを告げている。
「申し訳ない。仕事の連絡が来てしまったから、少しだけ席を外させてもらう」
例によって場にそぐわない四角張った言葉も、今夜の会の中では個性のひとつとして受け取られているらしく、軽い笑いとともに一時の見送りの声が上がった。
(しかしまあ、こんな時間に寄こされた連絡でわざわざ席外すってのもあいつらしいな)
少しの憂慮と少しの安堵を同時に得ながら、何か緊急の要請だろうかと予想し、いや、と打ち消す。
アラートが現在所属する教導隊は、準隊員扱いの訓練生が大半を占める編成上、隊長に相当する教導官含め、緊急動員の対象としては下位の存在である。いくら優秀な消防指揮官と言えど、常に手が不足していた当時ならばともかく、今は代替不能の要員ではない。非番時に連絡が入る事態などよほどのもので、何より先に待機中のインフェルノに報せがなければおかしい。しかし傍らに置いた自分の通信端末は、友人のメッセージを受け取ったきり、一切沈黙している。
その背が店から消えていくらもしないうちに、次はアラートの隣にいた輸送員が席を立ち、ひと言ふた言口にしてやはり場を離れた。瞬間、ふっと予見の画がブレインをよぎる。その足が外へ続く戸の方向へまっすぐに向かうのを見止めた間には、あ、と声さえ漏れていたかもしれない。予感、と言うよりは、積年の頼みとしてきた直感に突き動かされるまま、インフェルノは迷いなく椅子を立ち上がった。胸は急いてものこのこと後を追っていくほどまだ浅はかにはならずに済み、通りがかった顔馴染みの店員へ声をかけて、裏口へ通してくれるよう頼む。どうぞと笑った顔はまず消防の用事と勘違いしてくれているものではなかったが、気にせず手招きに従い、駆け出そうとうずく脚をなだめながら、店の奥へ向かった。
店の裏手は隣立つ物流施設のバックヤードとなっており、広い敷地に大小の倉庫と荷箱が並んでいる。裏口から出て気付かれぬように探そう、というもくろみは、相手方が先に裏へ来て姿の見える位置に立っていたために、初めの声を耐えることのほかはむしろ容易な仕事となった。押し開けた戸の向こうに小さく見えたのは、ちょうど角を曲がってきた輸送員が、灯りを避けて佇む赤と白の機体のもとへ、ゆっくりと歩み寄っていく場面だった。
アラートは驚きもせずにその登場を迎え、向き合ってではなく、隣に並んで立つことを男に許した。倉庫の壁を背にし、開けたスペースを前方へ見渡す場所にいるので、こちらは店の壁を離れて近付いていくことができない。相当に声量を落としているらしいのも手伝い、交わされている会話も届いてはこなかった。
店の中にいた時と同様、輸送員の男は過剰なほどにアラートとの間を詰め、わざとらしく顔を近付けて話している。なんとも胸のむかつく光景であったが、アラートはそれをわずかにも咎めず好きにさせるままでおり、傍目にはごく親密げな様子にさえ見えた。
こうした酒宴の途中で気の合った者同士が一足早く場を抜け出すのは、少々不作法であるとは認められるものの、真剣に不興を買うほどの行いではなく、非常にまれと言えるほどの事態でもない。これと思う相手が見つかり互いに長居は無用と考えたなら、通信機へメッセージを飛ばすなり、それこそ近くに座って直接にささやくなり、誘いを伝える手段などいくらでもある。同時に席を立った二人が戻らなければ、残った参加者たちもすぐにそれと察し、肩をすくめて苦笑いするのみだ。仕上げとして支払いにそれなりの色を乗せて去れば、後からしつこくやっかまれもしない。
ともかくも、先の場の中でどちらかが誘い、どちらかが応えたことは明らかである。どちらがましであろうかと考え、あまりの甲斐のなさに、すぐさま問いを頭の隅へと掃き捨てた。どちらであれ、厭わしい現実になんら差はない。
厭わしい――そう、確かにそうなのだろう。ほんの短い時間のうちに思わぬ動揺に見舞われ、到底受け入れがたい疑惑を事実と知ってしまったのだ。その事実は言うなれば裏切りでもあるのだから、厭わしいと唾棄し激しても、正当の態度と認められるはずだ。
だが、とインフェルノは思う。
(なんでだか、怒鳴り込んでく気にならねぇんだよな)
動揺のために初めの勢いが萎えてしまったということはある。今の彼を取り巻く評に気付けていなかったのだから、当然の帰結ではないか。そんな諦念に近い思いもある。だが、酒場の喧噪を離れて目の当たりにした「事実」は、熱帯びた頭をかえって冷静にさせるのだ。
(相手の野郎は今すぐにでもあのにやけっツラをぶっ飛ばしてやりてェが……アラートのやつ、ちょっと固くなったんじゃねぇか?)
事ここに至って及び腰になったのだろうか。いや、場の賑やかさに紛れていただけで、中にいた時と振る舞いはそう変わりないように思える。周りに何もないぶん、距離は空いても仕草も表情もよく見えていた。男がささやきかけるのに笑って応えているが、その面差しに今は衝撃よりも違和感を覚える。見たことのない笑みだ。なぜ自分以外に、などと羨みに至るものではない、純粋に奇妙な表情なのだ。
冷徹だ薄情だという評がもっぱらであった頃は、「三年に片頬しか笑わない」などとまことしやかにささやかれてもいた。実際のところを言えば、アラートはむしろ割合に感情が外へ出やすいたちで、しかめ面が多いのは単に真剣に、あるいは深刻に考え込んでいる時間が多いためであるに過ぎない。我こそがそれを揺らがせてやろうと、下らないちょっかいを仕掛けては湯気を噴かせていたものだが、もちろん本当は笑みを見るほうが好きだったし、今も変わらず好きだ。得意げに口の端を上げる笑いも、ごくまれに見せる満面の破顔も、困ったようにはにかむ穏やかなほほ笑みも、全てじんと身に沁む幸福を与えてくれる。
だが、今のアラートが浮かべているのは、そうした馴染みある笑みではない。もちろん不機嫌には見えないが、どこか胸に落ちない固さがある。おそらく自分が隣であの表情を向けられたなら、どうかしたのかと相手の調子を問うだろう。
だからこそ、男がやにわアラートの肩へ手を回すのを見ても、瞬間に沸き上がった激情はすぐさま冷静な声に押しとどめられて、反射の行動までには至らなかった。何を怖じ気付くのかといきり立つ声も無論ある。だが、衝動に身を任せてこれまで幾度も失敗をしてきた。そろそろ一手待つ見極めを身につけてもいい頃だ。
是非の答えはすぐに示された。男の指が肩へ触れ、しかと掴んで引き寄せられる前に、アラートはわずかに体をかわしてそのくびきを解いた。ごくさりげない動作ではあったが、明らかに意図的な身ごなしだった。変わらぬ笑みを相手へ向けたまま、誘うように足が動き、二機の立つ位置が自然に入れ替わって壁を離れる。表情は見えなくなったが、インフェルノは上官として従い続けた小さな背から無言の指示を感じ、中枢でいっそう凪いでいく信号の波を感じながら、知覚を前へ研ぎ澄ませた。
交錯は刹那の間であった。
最的確の位置と距離を膳立てしたアラートから、おそらく前もって取り決めたのだろう合図が示されて、上方から狙撃の弾が放たれる。射線はあやまたず標的の機体を捉えていた。――が、あまりにも敵の反応が早かった。
合図の一瞬後、急襲の引き金が引かれたのとほぼ同時に男の足は動き始めていたのだから、何か特殊なレーダーを装備しているに違いない。武器が速射性能の低いスナイパーライフルであることを見て取り、身をひるがえし逃げを打つのではなく、目の前の機体を盾にせんと前へ出たのも、敵ながら誤りのない判断だった。そこへ二度目の「だが」が働いたのは、抵抗を向けた相手が悪かったと不運を嘆いてもらおう。
いかにもな後方支援型と思ってかかったのだろうが、アラートは自分がそうと知るからこそ反撃への用心を怠りはしない。今も味方の狙撃があるからと油断せず、即座に白兵に対応できる体勢を崩してはいなかった。ついでに言うならば、かの保安員は足癖の悪いほうで、脚部に重量の集中する造りであるぶん、本気の蹴りはなかなかに痛い。
しかしさらなるついでを言うならば、彼にはその御足を振るう労を課させない、優秀な元部下がついている。
「アラート、伏せろ!」
狙撃が外れると察知した瞬間、既に叫んでいた。初めの一手の指示は自分へ向けられたものではなかった。ならばそれをしかと見極めて待てば、二手目の主導を得るのはたやすい。アラートが迎撃姿勢に入るより、狙撃者やほかのどの仲間が追撃を仕掛けるより早く、狙い定めて放った光弾の一撃目が、アラートの腕に触れかけていた輸送員の手を貫く。次の弾はわざと体勢崩して地面へ伏した赤白の機体の上方を通過し、敵機の胴の中心で弾け、その身に強烈な電磁波を流した。
ぐらりと揺らいだ身体はおまけの脚払いを受けて転倒し、機敏に立ち上がったアラートが、その肩をかかとで地面に押さえつける。
あの癖の悪い脚も自分はこの上なく好きだが、ああやって踏まれているのを見て羨ましいとは思わないなと、ようやく周囲から駆け集まってきた保安部員たちとそれに指示を下す相棒の姿を眺めながら、そんな無駄なことを考えた。
「なんでこんなところにいるんだ、インフェルノ」
輸送員が移送されて周囲の状況クリアが確認されるまで、一応の部外者として隊の輪の外に控えていたインフェルノに対し、アラートは私的な言葉を投げかけてはこなかった。事態収拾の一連は迅速であったが考えをまとめるには充分な間となり、ようやく向けられた予想の通りの問いに、ひるみもせず答える。
「なんでって、言ってたろ。今夜はダチと呑みに行くって」
「あ……」
はっとしたような声が漏れるとともに、やや嵩高に作られていた態度が崩れ、まごつきさえ現れた。じゃあこの店にいたのか、という確認に、まだ場に加わってはいないがその予定だった、と大まかな事実だけを述べた。半端な時間にしろ、裏手に出た理由にしろ、不審な点はいくらでも挙げられるに違いなかったが、そこを突いてこない、そもそも気付かれていない様子であるのは、アラートが我が方の「弱み」を自覚し、気にしているためだろう。
「お前こそ、『本部で仕事』じゃなかったのかよ」
少々意地が悪いとは思ったが、そのずばりを指摘してやれば、ええと、あの、とごまかしの理由を探すようにうろたえを見せたあと、
「……おとり捜査だったんだ」
ぽつりと告白する。そうしてインフェルノが次の句を発する前に、まだ後処理があるから一度店へ戻って中座を断ってくる、と早口に述べた。
「んな律儀にならねぇでもいいと思うけどな」
「だが、あの輸送員の分の支払いもあるし、多人数の席に紛れていたから、途中で二人も消えたら妙に思うだろう」
「……本気で言ってるか?」
「何がだ」
首傾げられ、その言葉に嘘がないことを理解するとともに、引きずっていたあれこれの疑惑の、少なくとも一部が綺麗さっぱりと散ったことをも理解した。隊員に声かけて店の表へ回る足取りを当たり前のように追ったが、今度は特に慌てる素振りも見せない。酒宴に出たこと自体に引け目はないのだろう。どうやらこの真面目一筋の教導官どのは、こちらの想像よりはるかに――疑いの正否などという事象とはまるで外れた部分ではるかに深刻に、今夜身の周りにあった色々を察していないようだ。
一からを真面目に考察し始めるといよいよブレインが火を噴きそうであったため、呆れと脱力と憤りと反省、実に様々なものがない交ぜとなった心地をひとまず脇に放置しつつ、さてどうしたものかと思い巡らせているあいだに、店の戸を入り直すところまでやってきた。場末の酒場だけに客の奇妙な行動にも慣れたもののようで、店員たちも連れ立って戻った二人に不審の視線を向けてはこない。
「長々と失礼した。実は急に用事が……」
変わらぬ盛り上がりを見せていた宴席に戻り、中座を切り出しかけたアラートの言葉は、こちらへ気付いた旧友が上げた不思議げな声にさえぎられた。
「あれ、インフェルノ?」
え、とアラートが驚きの反応を示したが、疑問を発する隙も、酒の回った参加者たちの歓呼に埋め消される。
「あ、遅れて来るって言ってた友達か。でっかいなぁ」
「おーいらっしゃい、まだまだ始まったばっかりだよ。そっちの席が空いてるな」
「あれ、なんで一緒に……インフェルノお前、ひょっとして」
「アラートくんもお帰り、さっきのやつ振ってきたの? じゃあ今度は俺と話そうぜ!」
「え、あの……」
「おう、待たせたな」
次々に投げかけられる言葉、わけても最後の親しげな呼びかけを聞き、インフェルノは次の行動を決めた。戸惑うアラートの肩を軽く叩いて大きな手振りとともに前へ進み出、友人に余計なことを言われてしまうより先に、酔客たちの注意を自分に集める。
「立ったまんまで悪ぃが、まず自己紹介しとくぜ。俺はインフェルノ。保安部中央部隊所属の救助員だ。最近分隊長に
昇進って、せっかく増えた給料を部下に呑まれまくってる。今日はちょっと野暮用があって出てくるのが遅くなっちまった。そうだな、あとはお約束の質問に先に答えておくか? 特技は火消しと射撃。苦手なもんは事務仕事。酒の好みは辛口だ。それと――」
一度言葉を切り、場へわざとらしく笑みを向けてから、続ける。
「単なるダチだとか仲間なら、似たような性格のやつと馬鹿やって騒いでるのが好きだが、真剣に付き合うんなら自分にないもんを色々持ってる、尊敬できるようなやつとがいいと思ってる。真面目で芯がしっかりしてて、俺みたいな厳ついのでも遠慮なく叱り飛ばしてくるぐらいが張り合いがあっていい。見た目はそこまでこだわらねぇけど、でかいのよりは少しちっせえほうが好きかな。胸は平たいほうがひっつきやすくて良さそうだ。装甲はシンプルなやつにちょっと飾りが付いてる感じで、ついでに俺は赤が好きだからそれなら特に目ぇ引かれる。ただまるっと自分と同じってのもつまらねぇし、赤白二色ってのも綺麗なんじゃねぇかな。んで頭にカワイイ耳が付いてて、唇は少し厚めでぽてっとしてると色っぽくて最高だ」
演説のごとく一気にまくし立てた言葉を唖然と聞いた観客たちは、声が二度目の区切りを迎えるや、示し合わせたかのように一斉に、新参の話者の後ろに硬直して立つ保安員へと視線を向けた。インフェルノはそれに応えてもう一度大仰に笑いを浮かべ、
「で、今日ここに来てみたら、まあ好みにぴったりの相手が見つかっちまったわけだ。だから」
言って、ぽかんと口開けたまま固まっているアラートの肩を引き寄せ、我に返って蹴り繰り出される前にその脚を横へすくい、体ごと胸の前に抱き上げた。
「このまま家までまっすぐ持ち帰るんで、あとは残ったやつらで楽しんでくれ」
きっぱりと言い切り、勘定はあとで知らせてくれと最後に置いて、次の誰の反応も待たずにきびすを返してその場を離れた。一瞬後、背の向こうでわっと色さまざまの声が上がったが、振り向くことなく悠々の足取りで歩き続ける。ひゅう、と終いに送られた口笛は、友人からのものであったろうか。
混乱のため完全に動作を一時停止していた機体がようやく腕の中で騒ぎ始めたのは、否応なく降り注ぐ視線のなか店を出て、道へ歩き始めて数歩目のことだった。
「なっ……な、な、な、何をしてるんだ! インフェルノ!」
「昔っから思ってるんだけどよ、アラート。お前、本気で理解できねぇことがあった時だとか、そうやって処理オーバーして固まっちまったり、やたら視野が狭くなっちまったりする癖、危なくねぇか? そろそろ真剣に治したほうがいい気がするぜ」
「今のはお前のせいだろ、馬鹿!」
「ごもっとも」
さすがに丸め込まれず上がった怒声に頷きつつも、離せ降ろせと暴れ立てる身体は解放しない。周囲には似たような店も多く、いつ誰に行き当たるかわからない状況で、アラートのあせりが急激に高まっていくのがわかった。
「なあ、俺はさっきの件の続きがあるんだ。仲間に迷惑をかけるから、戻らせてくれ」
「やだ」
「や、やだ?」
上手からがなっても効果なしと察してか、責務の全うと仲間意識を題目に、諭す調子で言われるが、今度はこちらがひと声で却下する。虚を突かれたような顔を見下ろし、足だけはその場に止めた。
「どうせもうお前がその場にいる必要もねぇ、明日でもあさってでもできる程度の事務処理だろ。このまままっすぐ家に帰るってんなら降ろしてやる」
「な……」
勝手な言い分を怒鳴りつけたいが、うまく憤れない、という表情。そんなことはない今日中にやらねば、というごまかしは長年の同僚には通じず、さらに、今夜の行動について図った相棒への黙秘を、アラートはまだ気にしている。うかがうように上がった視線がすぐ気まずげにそらされたあたり、なかなか剣呑な顔になっているのだろう。実際にはこちらも憤りのためだけの表情ではないのだが、都合よく独り合点されているのを訂正する気はなかった。
「……わかった。部隊に連絡を入れるから降ろしてくれ」
無言の押し問答のすえ、折れたのはアラートだった。疑いは挟まず言われた通りにしてやり、数歩離れて通信を始めるのを後ろでじっと見届ける。
「――ああ。ちょっと別の急用で……すまない。レポートは明日以降速やかに提出する。皆によろしく言っておいてくれ。……うん。じゃあ、あとは任せた」
ぷつんと聞こえよがしに回路を切断し、これでいいんだろう、と振り向いた恋人へ、
「上出来」
お返しとばかり満面の笑みを贈ってやれば、深い排気とともに、ほのかな笑いもその口元から漏れたようだった。