◇


 翌日もインフェルノはアラートに付いて朝から演習場へと足を運び、「任命」通りに射撃の指導を務めた。駆け出し連中の一組程度、と初めは高をくくっていたが、どう話が伝わったものか、いつの間にやら他隊の指導まで任される羽目になり(別の教官が何やら含み笑いを漏らしながらアラートに話しかけていたので、こちらの事情を知っていたのだろうか)、結局終日働きづくめとなってしまっていた。不満を漏らせば、それでもじっと座っているよりいいだろう、と研究室行きをちらつかされ、うなって口を引き結ぶしかない。
 手の空く時間はあったので、その間はもっぱらもう一方の組の様子を眺めていた。……と、いうのは角の立たない言い訳で、実際はアラート個人の様子を観察していることを、インフェルノは初日の昼過ぎには既に認めていた。こればかりは仕方ないだろう、と、居直りよりも降参に近い心地でもって、センサーを奥の気配に集中させる。あのお高く止まったとげとげしい上官が、若い訓練生たちの輪の中、無規律な賑々しさに嫌悪の一片も浮かばせず、時に自らそれに加わりすらして、懇切丁寧に指導を行っているのだ。未来見物の種としては、何よりもまず注目すべき光景である。
 演習後は素直に部屋に帰って寝るのみで、まだ調査に芳しい進展はない、と朝一番に言われてしまえば元の時代に想いを馳せる甲斐もなく、自然と耳目は周囲のごく狭い世界に向けられる。飽かず眺めるうちに、抱いた驚きは感心に化け、やがて疑問に変わり始めた。
 「レッドアラート教官」の姿を見た初日、その代わり映えの様をインフェルノは変貌と呼んだ。だが、同じ場にある時間が長くなればなるほどに、その語はいささかふさわしくないのではないかと、そんなことを思うようになった。これは、嫌われ者が長い時間を挟んで別人のようになってしまった、などという、ある種の単純な夢物語として片付く話ではないのではないか、と。
 半ば以上は直感のようなもので、そう考えるに至った確たるきっかけがあったわけではない。だがインフェルノは自分の直感にそれなりの信頼を預けていたし、全く無根拠の考えでもないと感じていた。とは言え、それを明瞭な言葉で語れるほど巡りのいいたちではなく、またそのための材料もまだそれほど多く得ているわけではなかった。
 これはどこから生まれた疑問なのか。解くと何が現れるのか。そしてなぜ自分はその答えを気にかけるのか。
 雑念に近しい無数の問いがあふれては、場内の喧騒に紛れて形もなさず消えていく。問いが何であれ、答えがどうであれ、結局は全て、退屈しのぎの一環に過ぎない。そうやって安気に考えていた。


 演習に参加して三日目、とある事件が起きた。とは言っても、そうまで大層な話ではない。アラートが本局からの呼び出しを受けて場を外している隙に、実物を的にしたい、と言って、一人の訓練生がどこからか大型の廃棄タンクを拾ってきたのが発端だった。中は空だということだったので、まあ問題なかろうといくつかのターゲットを描いて的にしたが、慣れたホログラフと勝手が違うためか、総じて命中精度ががくんと落ちた。手本を求められたインフェルノは、これは一度進言しておかねばなるまい、と浮かべた思考に気を取られて、銃を訓練用のものに持ち換えるのを忘れてしまっていた。
 結果、タンクには見事な風穴が開き、空という事前の情報はなんだったのか、いっぱいに詰まっていた汚水が噴き出して、射撃場一帯と、インフェルノを含む半数の訓練生が泥にまみれることとなった。褐色の水柱を呆然と見つめているところにアラートが戻り、絶句ののちに落ちた雷の程度は推して知るべしである。
 生徒たちと並んで滾々と説教を受け、その後の時間は清掃作業に充てられた。所定の時刻までに全ては終わらず、主犯とその友人らしき数名の訓練生とともに居残りとなり、責任を持って最後まで終えるように、完了したらうろつかず速やかに機体の洗浄に行くように、ときつく言いつかる。
 さすがに一切反論叶わず、身を縮めて了解を唱えての別れぎわ、アラートは一度足を止めて半身を振り向かせ、ああそれと、とインフェルノのみへの指示を付け加えた。
「今夜は用事があるから、洗浄が済んだら教官居室まで来てくれ」
 詳しい内容までは語らず、またすぐに身を返して歩き去ってしまう。毎度突然だな、と思いながらも今は身にこびりつく悪臭のほうがよほどに気にかかり、すぐに作業へと戻った。
 やっとのことで清掃を終え、生徒たちの案内で洗浄室へ向かう(初日には気付かなかったが、近年集中して増築がなされているとかで、自分が所属していた頃の施設とは中も外も大幅に様子が変わっていた)。半端な時間であるためかほかに使用者はなく、遠慮なく一角を占拠して使う。
「あー、久々に思いっきり怒られたなー」
 頭から湯を浴びて不快な泥を洗い流していると、隣のブースに入った訓練生がしみじみと声を落とした。見れば今日の「主犯」で、どの組にも一人はいる賑やかな調子者である。今回は迷惑をこうむったとは言え、かつては自分もこちら寄りの生徒であったので、なんとなく好感を持って見ていた。
「久々でもないんじゃね」
「タンク拾ってきた時点でお前が教官に叱られてる姿が見えてたよ」
「もうそれ趣味だろ。お前説教部屋のフリーパス持ってるって話だもんな」
 途端に横からずばずばと野次が飛ぶ。お約束、といった様子で反発もせず、「主犯」の訓練生は答えた。
「いやなんかさぁ、いつも落ち着いてる教官に、ああやってちょっと熱の入った感じに『何やってんだー!』って怒られると、新鮮で楽しくなったりしない? 俺のために湯気立てて怒ってくれてる……! みたいなさ。まあ、いつもの理路整然な完璧お説教もぞくぞくする感じでいいんだけど……」
「出たマゾ」
「楽しんでないでまず反省しろよ」
 珍妙な発言を友人たちにばっさりと斬り捨てられるも、どうにか同意を求めたかったのか、
「先輩はそういうの思いません?」
 と、隣で笑って聞いていたインフェルノに水を向けてくる。頬を掻いて答えた。
「いや、俺も正直説教は遠慮したいけどよ……人の話じっと聞いてるだけとか、かったるいだろ」
「えー」
 不満げに上がる声を聞きつつ、だが確かに、と別の側面から考える。
 一方的な非が明らかであったとは言え、今日の説教は、元の時代で散々聞いたものとは様子が違った。何が原因で咎めているか、それを許すとどういった事態が起こりうるか、今回はどんな罰があり、どんな対応をせねばならず、今後再発のないよういかに改善すべきか、といったことを整然と語るやり方にほとんど変わりはないのだが、聞き手として受ける印象がまるで異なるのだ。雑な言葉で言えば、腹が立たなかった。ほとんど反発を感じなかったのだ。
 変貌、という語がまた浮かび上がり、即座にまた否定される。日ごと、どころか時ごとに長じて伝わる『あちら』との差は、やはりそうした言葉ひとつに押し込めて説明されるものではないように思う。
「なあ、あのセンセイは前からあんな感じなのか?」
 今度はこちらから隣へ問うと、意外げな顔をされた。
「前からって言っても、俺らまだ入ってそんなでもないんで……先輩のほうが知ってるんじゃ」
「あ、いや、俺もそう親しいってわけでもねぇからよ」
 慌てて取り繕う。あわよくば今に至った何かを、とも思ったが、アラートが自分のことをどう説明したのか詳しくはわからないので、あれこれと語って矛盾が生じては面倒である。それこそ説教の種となるし、訓練生たちに妙な目で見られるのも好ましくない。なんだかんだと言っても、慕われて悪い気はしないものだ。
 あまり余計な発言はすまい、と口を閉じたが、別の生徒から声が返った。
「入る前は色々聞きましたけど、そのことですか?」
「ああ、あったあった」
 インフェルノが相槌を打つ前に、何やら思い出話の波が渡る。気難しいとか、冷たいとか、口うるさいとか、と次々に並ぶ、決して意味芳しとは言えない語は、まさしく自分が知る上官にふさわしい言葉だった。
「けど実際会ったらそんなこともなかったしなぁ」
 つまり、過去には事実そうした評価があり、今は消えている、というわけだ。それが確かめられただけでもと頷いたところへ、
「昔は、って教官も言うけどさ。そのへんって、やっぱあれが関係あんのかな? 教官の……」
「おい」
 提起の声が転がり、即座にたしなめがかかる。いけね、と舌を出した訓練生の目がこちらをうかがうように動き、なんらかの口止めが(おそらくアラート自身から)なされていることを察したが、教師との板挟みにするのは酷だろうと、揚げ足取って訊ねるのはやめにした。
 沈黙してしまった生徒たちを自ら促し、機体の乾燥を終えて洗浄室を出る。思いのほか長居してしまったことに気付いて、手短かに別れの辞を交わし、教えられた教官居室へと急いだ。早足に廊下を歩きながら、新たに得た情報をまたブレインの内に秩序なく経巡らせる。
 別の時空であるとは言え、一時疑いをかけたような別世界ではない。やはり繋がっている。穏やかならぬ評価の過去を、『こちら』の上官も確かに持っている。
 その事実に自分がなぜかすかな安堵を感じ、秘されたその後の言葉になぜかすかな焦燥を覚えたのか、今ある雑多なデータだけでは、回答は叶わない。
 黙々と足を進め、地上一階にある奥まったドアを開くと、非常灯のみが点いた薄暗い部屋の中、ディスプレイの発光に影浮かばせて、アラートが独りぽつんと座っていた。よどみない手さばきでキーパネルを叩いており、こちらには気付いているだろうに、顔を上げる気配はない。一瞬、メモリの底に沈んでいた画がその姿に重なり、考えの前に、声が滑り出ていた。
「……また独りでシゴトしてんのかよ」
 タイプ音が止まり、淡色あわいろのセンサー光がこちらへ向けられる。首がことりと横へ傾ぐのが見えた。
「業務はもう終わった。日報を整理していたんだ」
 不思議げな声だった。部屋へ踏み入って数歩の者が突然険しい声を投げかけてきたのだから、まあ無理もないのだが、発したインフェルノ自身、驚きを禁じ得ずにいた。言葉も、声音も、ほとんど無意識に作ったものだった。瞬間に湧き上がった情は、先の一件で感じた焦燥に似ていた。
 戸惑いに口結び、二の句の出ずにいるインフェルノを見て、もう一度首を傾げてから、アラートは手元の端末を手早く閉じて立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。正面で足を止め、訊ねてくる。
「どうかしたか?」
「いや……」
 別に、と曖昧に答え、さすがに態度が悪すぎると思い直し、遅参を詫びた。アラートは頷いて謝罪を受けつつも、
「あいつらに付き合って騒いでいたんだろ。特別賑やかな連中だからな……。どうせそうなるだろうと思って、あらかじめ遅番を代わっておいたんだ」
 そう応えて得意げに口の端を上げ、ほかに何を付け加えて咎めるでも問うでもなく、じゃあ行くか、と言ってすたすたと歩き始めた。
「どこ行くんだよ」
 後ろを追いつつ、空腹の訴えも交えてぼやくと、
「いいところだ」
 したり顔を振り向かせてそんなことを言うので、数度に渡ってそれを見返す。アラートは相手の動揺に気付いた様子もなくすぐ向き戻り、朝よりやや早い歩調で廊下を進む。
 本当に、初めて得る情報が多すぎる、と、いわゆる「上機嫌」の状態であるらしい小柄な教導官の背を眺めながら、インフェルノは帰還の日までに生じかねない処理系統のオーバーフローを真剣に案じた。


 言われるまま保安局を連れ出され、記憶のものとだいぶん様子の異なる(答えがはぐらかされることはもはやわかっていたので、その理由を訊ねはしなかった)風景の中を走り、ここだ、と合図を受けて車体を停止させたのは、街外れの小路の上であった。
 物音ひそやかな狭路の半ば、身を寄せ合うようにして建つ店の並びの中の一軒に向かい、アラートはまっすぐに歩を進めていく。小さな看板の下には「閉店」の字が浮かび上がっていたが、ためらいなくドアを開け、ごく自然な足取りで中へ入ってしまった。
「いらっしゃい」
 表に掲げた言葉の無視を咎めもせず、静かな声で二人を迎え入れたその店は、小ぢんまりとした酒場であった。やや古めかしいが品のいい造りの店内には、左手のカウンターの中に店の主とおぼしき店員が立っているのみで、ほかには一人の客の影とてない。遅くなってすまない、と声をかけながらアラートはカウンター沿いに歩き進んでいったが、途中でふと何かに思い当たったかのように、突然足を止めた。後ろで蹴つまずきそうになり、抗議する。
「急に止まるなよ」
 悪い、と謝罪があり、
「いつも端に座るから、つい癖で。今日はほかに誰も来ないし、そこにしよう」
 言って、カウンターの半ばの席を指差す。状況の良くわからないまま、ひとまず言葉に従って椅子に腰かけた。並んで座ったアラートへ、店主がカウンター越しに声をかけてくる。飾り気ない細身の機体は見るからに旧式で、おそらくインフェルノより、そしてアラートよりもずっと旧い時代に生まれたサイバトロニアンだ。
「言われた通りに準備しておきましたよ」
「ありがとう」
 アラートが礼を述べると、頷き笑んでからおもむろに身を返し、店の奥へと姿を消した。二人残され、ようやく問いの機会を得る。
「なんなんだよ、この店」
 ほかに誰もいないのだから遠慮も不要のはずなのだが、粛然とした空気に圧され、無意識に声を細めた。なんでもないように答えが返る。
「見ての通り、酒場だ。いい雰囲気の店だろ?」
「ちょっと静かすぎっけどな……」
 人の声のない酒場というのもどこか異質だ。普段自分の使う店が上等の部類とは言えないためでもあるのだろうが、酒を呑む場など大概が喧騒にあふれているものという印象が強いので、余計にそう思う。
「あ、奥のスクリーンが変わっているな……私も少し久しぶりに来る」
 隣の仕草につられ、店内をひと回り見渡す。確かに、雰囲気は悪くなかった。静かに呑む客のための場で、開店中であってもこの落ち着きは変わらないのだろう。いかにもアラートなどが好みそうな店だ。インフェルノはどちらかと言えば人の多く集う賑やかな場所のほうが好きだったが、誰かを誘ってゆっくり話をしようと思ったなら、こうした店を選ぶかもしれない。
「外には閉店って出てたぜ」
「ああ。本当は休みなんだ。明日にしようと思ったんだが、連絡を入れたら今日からでも構わないと言ってくれたから、甘えることにした。感謝しろよ」
「なんで俺が……」
 あんたがなんか頼んだんだろ、と言いかけたところに、店主が両腕に何かを載せて戻ってきた。横のドアからカウンターを出てこちらへ歩み寄り、手にしたプレートを二人の前に手際よく並べていく。その上には、とりどりの調理食が盛り付けられていた。
 狭いテーブルを皿で埋め、最後に二種のエネルゴンカクテルをそれぞれの前に置いて、インフェルノがぽかんとしている間に店主はまたカウンターの中へ戻る。どうぞ、と穏やかな笑みで勧められ、戸惑いながら隣をうかがえば、廊下でのしたり顔がまたこちらへ向けられていた。どうやら、してやられたということらしい。
「食っていいんだよな」
「そのために用意してもらっていたんだぞ」
 言いつつ監視でもするように見てくるので非常に落ち着かなかったが、エネルギー低下の空腹を感じていたのは事実だったため遠慮も挟まず、無視を努めて目の前の食事に手をつけた。ひと口目で、すぐに気付く。
「……旨い」
「だろう」
 エネルギー補給に経口摂取、まして手間が増えるだけの調理など必要ないと言う者もいるが、せっかくそのための機能と感覚が備わっているのだから、楽しめるものなら享受せねば損だ、というのがインフェルノの意見だ。とは言えさほど強いこだわりを持つわけでもなかったが、今は素直に称賛の言葉が浮かんだ。これなら連れてきた側が得意になるのもまあ頷ける。
 再び隣へ向けた視線を疑問と捉えてか、アラートがようやくこの状況の理由を語った。
「お前が食事のことであれこれうるさいから、一度あっと言わせてやろうと思ったんだ」
「なんだそりゃ」
 実際のところは、「まあ私も久々に来たかったし」と続いた言葉のほうが主眼のようではあったが、妙な意趣返しもあったものだと呆れ半分に笑う。当人がこの言動を笑いの種と思っていないらしい様子が、なおさらおかしみを誘った。
(なんつーか、また別人に思えてきたな)
 過去との繋がりを見出したかと思った途端にこれだ。次から次への事態に理解は行きつ戻りつするばかりだが、もはや慣れたという感が強く、そう煩わしい気分にもならなかった。何より、酒と食事を前にして、いつまでも陰気に考え込んではいられないものだ。
 馳走に預かる礼を改めて店主に述べ、軽くグラスを掲げる。酒は二杯までだ、と注を挟んできたアラートに苦笑を返して含んだ鮮赤色の混合酒は、好みの辛口の味だった。
 ほかに客のいない奇妙な空間にもやがて身が馴染み、酒を傾け、食事をつまみながら、ぽつぽつと話を交わした。初めこそ『こちら』の現況についての問いに再び挑んだが、アラートが頑なに答えなかったため、不服こぼしつつ諦めた。すると必然的に、ごく少ない共通知識であるところの演習と訓練生の話題が選ばれ、雑談の域を出ない会話が続く。それですら――それこそ、であるのかもしれないが、自分の時代の上官とは、一度とて成したことのないやり取りだった。
「しっかし、今日のあれは驚いたぜ」
「なんで拾ってくる時に液体が入っていることに気付かないんだ? まったく……」
 今度スキャニングのテストでも抜き打ちでやってやるかな、と言うのにそりゃご愁傷様だと返せば、アラートは表情を険しくさせた。
「笑いごとじゃない。さっきも言ったが、中身が毒性の物質であれば被害が出ていた状況だ。その場合に現場責任が問われるのはお前だぞ。訓練生たちに混ざれば部隊長扱いだからな」
「あー、まあそうか……」
 ぴしゃりと言われ、頭を掻く。もし生徒たちを負傷させていたとするなら、確かに笑うことなどできない。いつの間にやら下っ端の感覚が身についてしまっているものだな、とさすがに反省を覚えていると、
「……まあ、お前はまだ部下を持った経験がないんだしな。お前たちだけ残して場を外した私にも監督放棄の非がある」
 そんな言葉を続けられて、思わずその横顔を見つめた。
「なんだ」
「いや」
 口では適当にはぐらかしつつ、なんとなくわかり始めたかもしれない、と心中に答える。『こちら』と『あちら』の決定的な差が、わずかながらに見えてきたのかもしれない。
 自分の時代の「レッドアラート主任」は、どこで誰と何をしていようが、いつも同じ顔、同じ態度でいた。他者の規律違反を厳しく咎めながら、自身は協調などどこ吹く風で、わずかとて己を揺るがせることがなかった。
 それはおそらく、スパークが凍り付いているなどとさえ言われるあの生真面目な上官が、いつも独りでいるからだった。どこで誰と何をしていようが、彼は常に孤然としていた。歩み寄らず、歩み寄られず、全てを当たり前のように自分のみで始め、自分のみで終わらせていた。深夜の執務室で独り黙々と残務をこなす上官の姿を、夜歩きの帰りなどにインフェルノは幾度も見かけたが、一体あの中の何割が、本来は他者の手に配分されるべき仕事であったのだろう。
 見るたび言い知れぬ苛立ちを感じた記憶の中の画と、険をぶつけて首傾げられた今夜の画との狭間に、その差は瞭然と浮かび上がる。今ここにいる「レッドアラート教導官」は、自と他を隔絶したまま暮らしてはいない。場に合わせて口数を多くも少なくもしてみせるし、演技じみた態度を取ることもある。きつく言い過ぎたと思えば、大回りなフォローの言葉を入れてみせもする。対峙している相手の顔を、ただ眺めるのではなくしっかりとうかがい、気にかかる様子があれば、どうかしたか、と我から訊ねかけてくる。彼は他者が自己に力を及ぼすことを理解し、受け入れている。そして自らもまた他者に影響を与え、関心を持たれることを知っている。
 変貌という言葉は、それに匹敵するインパクトを感じる状況ではありながらも、やはりどこかしっくりと来ない。独特の堅さも、過剰に思える慎重さも、細かな小言家である部分も、やれまたか、と呆れを感じる程度には、そのままであるように思える。それが呆れのままにとどまらず、自然と穏やかな笑いが混じ入るのは、そうした態度がただ我が信条を推すだけのものではなく、周囲をまなざし、慮してのちに生まれたものであることが伝わるからだ。「俺のために怒ってくれている」。まさしくそういうことだ。
 数百万年が過ぎても変わらず生真面目なこの教官は、今は独りではない。ほんのわずかな差ではある。しかしそれこそが何より大きな、決定的な差でもある。そうして、そこへ至るには、
『――そのへんって、やっぱあれが関係あんのかな?』
 何かがあった。そう、やはり何かがあったのだ。
 その何かのために、彼はこうまで変わったのだろうか。
 それが無ければ、変わり得ないのだろうか。
「……インフェルノ?」
「あ」
 呼びかけに気を戻す。場の空気に影響されたのか、ついあれこれと考えて沈黙してしまっていた。まったくらしくない、と内心にこぼすと、
「お前が黙り込んでいると気味が悪いぞ」
 似た意のことを実際に口にされ、ひでぇな、とぼやきながらも笑いで返した。これも同じだ。決して軽妙な言い回しではないが、こちらを気にしての揶揄だということは伝わるから、無用の腹立ちを生まない。
 理由を答えなかったインフェルノの沈黙を、アラートは時空転移の件を考えていたものと判断したらしい。現況を少し語った。
「解析自体は滞りなく進んでいるが、確実な遡行転移のために必要なデータがなかなか揃わないようだ。偶発的なワープホールの発生は未知の部分が大きいからな……行って戻ってきたという例が少なくなってしまうから、仕方がないんだが」
「ふぅん。ま、こっちでうだうだやっててもなんにもならねぇし、気長に待つさ」
 我ながら呑気な言い方だ、と思うが事実には違いなく、アラートも反駁してはこなかった。代わりに、こんなことを言う。
「じゃあ、食事もしばらくここでいいな」
「へ?」
「マスター、何日か続けて通うから、すまないが後でまとめて請求を出してもらえるだろうか。今朝の個人回線のほうに連絡してくれればいい」
「承知しました」
「お、おい、ちょっと待てよ」
 横で進むやり取りに慌てて口を挟む。何かおかしいことでもあるか、とでも言いたげな顔を向けられたので、まさか軍の経費ではなく個人で支払いをするつもりなのか、そもそも今夜だけの話ではなかったのか、と勢い込んで問う。平然と答えが返った。
「接待でもなし、酒場の代金を経費にできるわけがないだろう。通うにしても何十日の話じゃない。囚人扱いに戻りたいと言うなら別に構わないが」
「そりゃ、俺だってアレのほうがいいとは思わねぇけどよ……にしても、自分で食った分ぐらいは自分で払うぜ」
「お前、使える金を持っているのか」
 指摘を受け、はっと言葉を呑む。これまで軍営の施設内にいたから気にならなかったが、ほぼ身ひとつで来てしまった上に、軍用どころかほとんどの生活回線にさえ接続できないのだ。先立つものなどあるはずもない。
 今さらの理解に顔をゆがめるインフェルノを見て逆に口角を上げ、アラートは言った。
「射撃演習の講師代と思っておけばいい。私はこれでもそこそこ高給取りなんだ。もし相手に持ち合わせがあっても、ヒラの新人に出させるほうが恥だ」
「くっそむかつく……言い返せねぇのが余計むかつく」
「頑張って出世するんだな」
 掛け合いしつつ椅子を降り、店主にもう一度そろって礼を言ってから外へ出る。既に日の変わる時刻だった。
「本局まで一人で帰れるな?」
「ああ。……あんたは帰らねぇのかよ」
「帰るさ。ただ途中で道が分かれるからな」
 聞けば街の中に居を構えているのだと言う。他の多くの教導官や士官陣と同じく、局内の宿舎に部屋があるものと思っていた。なんでわざわざ、と理由を訊ねるより、アラートが別の問いを発するほうが早かった。
「どうだった?」
 え、と反問しかけて、店の感想を求められたことに気付く。ただ言葉どおり訊かれているだけのようであったので、こちらも正直に答えた。
「まあ、悪くなかったな」
「そうか」
 頷き、
「なら、良かった」
 ふっと浮かべた笑いににじんでいたのは、得意でも揶揄でもなく、安堵の色に見えた。しかとメモリに残る前に身が返り、行くか、と言ってトランスフォームされてしまえば、もはや表情はうかがえず、相槌以外の言葉を口にすることもできなかった。
 まだ見慣れない異星式のビークルの轍を追って走りながら、声なく呟く。
(なんであんた、俺にそんな気を遣ってんだ?)
 今日の一件にしろ、それまでのこまごまとした指示や世話にしろ、手厚い、と言っておかしくないだろう、この時代においては「元」であるはずの上官からの気遣いは、今夜少し内実のほどけたアラート自身の変化とは、また別の所以のものであるように思える。
(別人だとでも思っとかねぇと、調子が狂っちまう)
 だが実際には、その語が用いられるべき状況でないことを、自分は知っている。
 ひとつ消えてはまたひとつ現れる問い。そのたび不得手な演算に精を出す回路。数百万年だ。いくら楽天的に生まれついていても、何も疑問に思わずいられるほうがどうかしている。加えて行動に制限が課されているとくれば、その問いの矛先が、手の触れる狭い世界の中にあるものに、そこにいる者に向けられるのは、致し方ないことだろう。
 寄り道しないでまっすぐ帰るように、との忠告を最後に別れ、街の灯を横目に走る間にも、部屋に戻って寝台に転げてのちも、ぼんやりと思考を続けたが、いずれの問いかけへのいずれの答えも、ついぞ見出すことはできなかった。


      ◇


 翌日も、さらにその翌日も、インフェルノは早朝から夜までの演習講師役を真面目に務め上げた。訓練生ひとりひとりの名も頭に入り、適当に付けた偽名で自分が呼ばれることにもようやく慣れた。そうして周りとの距離が縮まる一方で、もの問いたげな視線を受ける回数も増え、何がそんなに気にかかるのかと逆に訊ねてしまいたかったが、殊勝にこらえているらしいものを無理に言わせるのも気が咎めて、ひとまずほうっておいている。
 演習後はアラートと連れ立って例の酒場へ行き、「講師代」の食事をした。開店中の店には、もちろん別の客の姿も訪れ、時にアラートの知り合いのようなそぶりを見せる者もいたが、やはり素行の悪い連中が来る場ではないと見え、浮かべた驚きそのまま不躾に話しかけてくるようなことはなかった。
 おそらく自分こそが一番の場違い者なのだろう、と自覚はしつつも特に気にかけず、目の前の食事と隣との会話に集中した。背に注がれる視線を途中で忘れる程度には、値打ちのある時間だった。
「――だからよ、そいつはいっそ省略しちまえばいいんじゃねぇかと思うんだよな。いっつもそのルート指示待ちで足止め喰うんだぜ」
「市街地であればそれでいいかもしれないが、遠征先の未知の地勢では不可能だろう。都度その場判断をしていては肝心な時に混乱するのが落ちだ。実現するならまず指示系統を明確に分けて――」
 演習の合間、そして酒場での食事中、話して改めて思い知らされたのは、自分とアラートはとにかく様々な部分で正反対だということだった。見方も考え方も、その帰結としての言葉も行動も、まず同じ地点から出発するということがない。共通の話題になるのはそれぐらいだろうと、気付けば仕事の話ばかりしていたが、まるで色の異なる意見が飛び交う様は、はたから見れば会話と言うよりは議論そのものに映ったことだろう。
 議論。そう、決して口論ではない。元の時代で上官と日々交わしていたやり取りとは、その点で明確に違っていた。知識も経験も大幅に劣るインフェルノは、やはりどんな話題でも言い負かされることのほうが多かったが、くさくさとした気分が残ることはなく、むしろ充足感さえあった。どう言えば納得を得られるかと考え、次にはどんな意見が来るかと待つ、嫌気より快さが勝るという点でごくありふれた対話。それは、例の「わずかな差」がもたらす違いのようだった。何を言っても冷たく突き放されないことがわかるから、こちらも熱を惜しまない。語るにも、そして聴くにも。
 どうしようもなく合わない部分が多々あることは、いかに酌量しても覆らない、何百万年過ぎても変わらぬ事実のようだ。しかし、そんな相手と丁々発止の会話を交わすことを、インフェルノは純粋に楽しく感じた。意見が食い違い、どちらも譲らぬままひとつの話題が終わっても、それをまた次へ次へと続けるのに倦みはしなかった。普段気の合う友人たちと広げるような、初めから方向同じくすることのわかった埒もない騒ぎとはまた違う、一種感動にも似た発見のある時間を、得がたく価値のあるものだと感じた。
 議論の中では厳しい物言いをすることもあれど、ほとんどの場合、アラートは教育者らしい落ち着いた物腰でおり、こちらへ無闇な悪感情を向けはしなかった。時には冷静を揺らがせて笑いをも浮かべたが、それが初めに衝撃を受けたほど珍しい表情ではないことにも、やがて気付いた。口角上げる得意げな笑いだけでなく、ふわと口元をほころばせるような、穏やかな笑みを浮かべることがあるのにも、気付いた。
 近付くだけで棘刺すような威圧を感じ、寄ると触ると諍いの生じた『あちら』の上官の姿を思い返せば、まるで絵空事のような状況ではあった。世の中どんな信じがたい事態に出くわすかわからないものだ、としみじみ感じ入りながら、しかし同時にインフェルノは、それとは逆しまと言えることを考えてもいた。
 『こちら』と『あちら』との差は、たとえば人格回路を換装したとでもいうような、赤が青への単純な変貌ではないと知っている。異なる時空だからと言って、全くの別人ではないのだとも、既に理解している。
 信じがたい、などと突き放して言いながら、自分はどこかでこれをあり得べきことと知っていたのではないだろうか。
 絵空事、などと持って回った名を付けるのは、よもやと嗤いながらも打ち棄てきれず、心のどこかにその画を望み描いていたからではないのだろうか?



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