「仲直りはできましたか?」
カウンターに着くなりそんな声をかけられ、首を傾げるアラートをあたふたとごまかしてからの酒席の始まりとなった(そもそも仲違いしたとも言っていないはずなのだが、そこは長年こうした店を構える者の洞察というやつなのだろうか)。事前に連絡して頼んでいた食事を摂りながら、グラスを傾ける。これほどゆっくりと酒を呑むのも、それを悪くないと思うようになったのも、生涯でこの十日が初めのことかもしれないと思うと、なんともおかしな体験であったものだ。
局区を出る前に、何かあれば中座するかもしれない、とあらかじめ断りを入れられていた。消防任務への急行などはこれまでにもあり得たものであったから、今日あえてそれを口にすることの理由、「何か」の語が指す意味は明らかだったが、何も言わずにわかったと頷いた。
そうして唯一の翳には触れないまま、会話は終始穏やかに、取り留めもなく進んだ。食事が済んでも互いに腰を上げようとはせず、自然と杯が重ねられる。
あまり酒に強くないのか、次第に酔い心地の気配を見せ始めたアラートは、これまで以上に態度をやわらげ、よく笑った。いつの日からか、硬い口調が時折崩れるようになったことには気付いていたが、今夜はそれも顕著だった。インフェルノ、と名を呼ぶ声がやけに甘く響くようにさえ聞こえて、そのたびどぎまぎと視線を外し、自分の思い上がりを叱らなければならなかった。
やがてなにげない受け応えまでが胡乱になり始めたのを見て、そろそろ引き上げたほうがいいのでは、と提案しかけたその時、ほつり、アラートが会話にならない声を漏らした。
「お前は、いつも俺に心配ばかりかける……」
ぼんやりとした瞳灯の映り込むグラスを両手に握り、その赤色の水面へそっとささやくように、憂いの宿る言葉が紡がれる。
「絶対、帰ってくる。約束してるから。……帰って、くるよな……」
胸が締め付けられるように感じた。通信でのやり取りを聞いた瞬間よりも、はるかに強く激しくスパークが揺らぎ、痛んだ。妬心はあったが、それを超えて、傍らの真面目で不器用な上官が、いじらしく、愛おしく思えた。
腕をそっと背の後ろに回し、奥の肩へ触れかけて、一度宙に止める。そこから再びぎこちなく持ち上げた掌を、できる限りにやわらかく、頭の上に置いた。びくりと背を跳ねさせたアラートが、手の下からこちらを見上げる。伝え得る限り真剣に、言った。
「帰ってくるさ。絶対な」
淡い青の灯が微酔から覚め、揺れる。
「あ……すまない、今……」
「いいよ。あんま抱えてんなって」
平然と耐えているように見えるのが、うわべだけだと言うつもりはない。初めに受けた印象よりもずっと、彼の心は
靭い。だが、その気丈さや我が責務への忠実を凌駕して、相手を案じる想いがある。ただそれだけのことなのだろう。
「……ありがとう。インフェルノ」
よくよく考えればひどく無責任な言葉でもあったが、アラートは感謝だけを口にし、酔いの赤みの差す顔を穏やかにほころばせた。今度はこちらがぎくりとさせられて、ああ、だの、おう、だのとあやふやな応えを返しつつ、そっと手を引く。名残惜しげな目に追われたように感じたのは、おそらく思い過ごしであったはずだ。
「本気で、俺が行くまでに帰ってくりゃいいな。そしたら一発殴ってやるのによ」
冗談でもなく呟けば、
「ふふ」
今度は吹き出されたので、なんだよ、と訊いたが、答えは返されず、おかしげに肩が揺れるだけだった。怪訝に口を尖らせて眺めつつ、喪失の恐れに震える指を見るよりはよほどいい、とも思う。
ややあって平静を取り戻したアラートは、まだ酒の残るグラスを奥へ離して言った。
「少し呑みすぎてしまったかな……。私はここまでにしておくが、お前はまだ呑むだろう?」
「あー、いや、どうっすかな」
酒精のない飲料を頼む姿を横目に、首をひねって考える。このペースであれば自分はいつまでも酔わないだろうから、連れがやめたのなら独り続ける気分でもない。しかし、こちらもやめる、と言ってしまえば、それは場を開くのと同義だ。
「そうだな、もう一杯……」
最後なのだから、と未練を許し、空のグラスをカウンターの向こうへ示す。何にしましょうと問いが返ったので、適当に、と答えた。不思議に、この店で出されるものは全てが口に合う。
「なあ、主任……」
軽い世間話へ話題を戻そうと、言葉を先んじつつ隣を見やった、その瞬間、
「おい、危ねぇっ」
センサーがグラスの落ちる画を捉え、咄嗟に手を伸ばし、中がこぼれる寸前に受け止めた。置いていたものではなく、今の今までアラートの手の中にあったものだ。カウンターに置き戻して、何事かと訊ねるより早く、がたんと音立てて赤と白の機体が立ち上がった。
「マスター、すまない。裏口から出ても構わないだろうか?」
「ええ、どうぞ」
唐突な問いにも、間を置かず返った答えにもついて行くことができず、椅子に腰かけたままぽかんと固まったインフェルノの体を、出るぞ、と言ってアラートが横から引き上げようとしてくる。
「な、なんだよ?」
「いいから、早くっ。あ、今夜の会計は……」
「先日の分と合わせて、つけておきますよ」
「ありがとう」
アラートは礼を言ったが、請求、ではなく、つけ、の言葉が使われたことに違和感を覚え、椅子から無理やりに降ろされながら、店主の顔を見やる。インフェルノの視線に気付いた高年のサイバトロニアンは、何も言わずに口元に指を立て、意味深げにほほ笑んでみせた。
ぐいぐいと背を押されてもつれるように店の裏口から外へ抜け、センサーを働かせつつ次の行動を考えているらしいアラートの隣、わけもわからず待つ。ぶつぶつと落ちる呟きは、何やら穏やかな内容ではない。
「鉢合わせないのだから裏口から出たことにはさすがに気付かれるだろうな。走ると目立つし、一度このあたりでやり過ごすか……」
何かから逃れて出てきたらしい、ということだけは察せられる。敵襲のたぐいならば店をほうって逃げるとは考えがたい。とすると、アラート個人が狙いなのだろうか。一線を退いているとはいえ、いまだ相当に地位のあるらしい保安部員だ。なんらかの工作の標的となる要素は充分にある。
「おい、あんた何かに追われてるのか? もしそうなら俺が相手するぜ」
勇んで言うが、すぐにかぶりを振られる。
「私が見つかるぶんには別にいいんだ。問題は……」
言い差した途中ではっと言葉を止め、ちらりと後ろをうかがうが早いか、アラートはまたインフェルノの手を引いて早足に歩き出した。脇の小道を指し示し、意外な言葉を口にする。
「もうお前だけ先に行かせている暇はないな。いったん身を隠す」
「俺?」
まさか、こちらが狙われているとでも言うのだろうか。存在さえごく一部の者しか知らないというのに、追われる理由などまるで考えつかない。思考が困惑の渦にはまっているうちに、体のほうは小道からさらに奥へ入った壁の隙間のくぼみに押し込められてしまう。
「狭ぇ」
「我慢しろ。これでも安心できない」
勘のいいやつはたまにセンサーの効くやつより面倒だ、とこぼす顔には、緊迫とともに、場にそぐわない苦笑が浮かんでいるようにも見えた。
首ひねりながら、狭すぎてまともに立てない、せめて前後を替わってくれ、と頼み、向き合って立つ位置を交替する。自分が壁代わりに外に立てば、くぼみ側の機体を隠し込んで狙撃から守ることができる、という思惑もあったのだが、そうして身をひそめ始めていくらも経たないうちに、別の難に気付いた。
(近ぇ……)
これではまるで、自分がアラートを壁に追いつめてどうにかしようとしているようではないか。誰に追われているのか、何をやり過ごそうとしているのかは知らねど、今この場で最も怪しく見えるのは明らかに己である。あまつさえ、おそらく迂闊に後ろへ飛び出させまいとしているのだろうが、アラートの手がインフェルノの機体前部にそっと指をかけている。掴めば掌の中にすっぽりと納まってしまうだろうその小ささを改めて認識した瞬間、ブレイン内部の処理が飽和状態に陥った。
心が流れ出るままに、言う。
「なぁ主任。あんた、忘れてねぇか?」
「え?」
「俺があんたに告白したこと」
きょとんとこちらを仰ぎ見る顔に、警戒の色は微塵もない。それこそが仕事だろうに、と妙に冷静な気分で考えながら、伸べた手で両側から肩を包んでやれば、さすがに動揺が浮かんだ。
「おい、何を……」
「なんだろうな」
自分でもわからなかった。ただの戯れのようでもあったし、真剣に慮しての行動のようでもあった。いずれにせよ、咎められることは間違いない。手に力がこもってアラートが顔をしかめたのがわかり、止めなければ、と思うが、不安定な理性が衝動を制しきれずにいる。
「やめろ、インフェルノっ」
「……俺は」
行き先も知らぬまま、手が、口が、何かを紡ごうとした、次の一瞬だった。
「――そこまでだ」
低い声とともに、がつ、と硬い音が後頭を揺らす。銃口を突きつけられたのだと理解するのに説明はいらなかった。
「両手を上げてゆっくりこっちを向きな。少しでも妙な動きしやがったら頭を撃ち抜くぜ」
静かな言葉の中に、明確な殺気にも近い、強い険が宿っている。ごくゆるやかに手を持ち上げながら、せめてアラートだけは逃がさねばと思い決め、機を計る。ライフルはないが、右手をガンモードに変形させて振り向きざまに撃てば、相討ちには――と、そんな考えを読み取ったかのように、まさに換装の命令を走らせかけた右腕を、アラートの手が掴んできた。
離してくれ、と求めるこちらの目配せよりも、眼下から静止を訴えかけてくる視線のほうが強く、当惑と同時に、隙が生じた。
一度背後を離れた銃身が斜めに振りかざされ、衝撃が側頭を見舞う。よろめいた機体をさらに横へ押しのけられ、踏みとどまれずに開いた「壁」の位置へ、即座に後ろから割って入られた。咄嗟に伸ばす手はむなしく宙を切り、かばいこもうとした小さな機体は、相手の腕の中に奪われてしまった。
「くそっ!」
かっと頭に熱が昇り、早くも通路を出る方向へ動いている敵へ向け、換装完了させたハンドガンを構える。外の通りからの逆光で表情も何もうかがえないが、かなりの長身だ。頭を狙えばアラートに当たる不安はない。しかし、それを察せないはずもないアラートが、あろうことか、両手を高くかざし、対峙の間に立ちふさがろうとする。
「馬鹿、やめろっ。撃つな、インフェルノ!」
鋭く声が上がる。あまりに切迫したその響きにトリガーを引くのをためらい、叫び返したのは、一人だけではなかった。
「どいてくれ主任っ、一発で仕留める!」
「おい、前へ出るなアラート! なんでそんな奴かばうんだよっ?」
重なる声。互いにしかとは聞こえなかっただろう激した言葉は、しかし断片のみでも、身の動きを止める混乱を生むには充分だった。
銃構えたまま立ち尽くす両者へ、命令が飛ぶ。
「インフェルノ、『変装器』を切れ! お前はこっちだ。二人とも、落ち着いて相手をよく見ろっ」
疑念に取り巻かれながらも、昂揚が嵩じて半ば忘我の状態にあり、言われるがまま「変装器」への通電を中止して、本来の姿に戻る。相手はアラートの手に引かれる形で通路の端へ身を移し、視覚を妨げるもののない場所で、改めて向き合った。そうして、共に絶句した。
鮮赤冴える大型の機体。呆然の表情はおそらく同じだが、一方はライフルを携え、一方は手を銃口に変形させている。鏡ではない。無論、幻などでもない。
そこにいたのは、まさしく『自分』だった。
「は……?」
「え……?」
再び声が重なる。音もまるで同じだった。次の行動が分かれたのは、自分が「それ」を知り、相手が知らなかったためでしかない。説明を求めてアラートへ視線を移した『自分』をまっすぐに見つめたまま、ゆるゆると理解する。そう、紛れもなく『自分』だ。いま目の前に立っているのは、『こちら』の救助員インフェルノなのだ。
ひとつの事実を認め、さらにひとつの仮説を見出す。おそらく真ということになるのだろう、いくつかの疑点を解消させもするその前提の仔細へ思い至る前に、ようやく場が収まったことを感じ取ったのか、アラートがあえぐように言い落とした。
「お前たち、本当に喧嘩っ早すぎるぞ……! 殴り合いならまだしも、撃ち合いなんて。せっかく、無事に帰れるのに、無事に帰ってきたのに、し、死ぬかと思っ、」
終わりまで声紡げずに、震える脚ががくりと折れて、崩れ落ちるように地面にへたり込む。慌てて駆け寄ろうとしたが、ライフルを放り出して伸びた手が、先にその身を支えた。
「あー、悪かった、……のか? 何がなんだかわからねぇんだけどよ、アラート。あいつはなんなんだ?」
と、ぞんざいに指差された『あいつ』であるところのインフェルノ(向こうも「インフェルノ」なのだろうが、自分がそれと認識するのは自分だけだ)は、疑わしげな視線に肩をすくめ、緊張の糸が切れたまま話し出せないアラートの代わりに、ひとことだけ答えた。
「俺はあんただよ。四百万年前のな」
告げた途端に浮かんだ滑稽な表情を見て、男前が台無しだ、と益体もなく苦笑した。
それからのちの時間、事がひとまずの落ち着きを見るまでに、少し、どころではない悶着があったのは語るまでもない。
『こちら』のインフェルノは過去の自分どころかアラートの言葉さえなかなか受け入れず(信用云々ではなく、脅しや騙りを疑ったらしい)、業を煮やしたアラートが酒場の店主に説得の協力を求めて、ようやく共に行動するのを認められる、という振り出しの地点に立った。そこから連れ立って本局へ戻り、今、ミーティング用の小さな一室で、三名が顔を突き合わせている。
二辺に分かれて座る椅子の上でアラートは決まり悪げに肩を縮め、その隣、『こちら』のインフェルノは今にも噛みついてきそうな剣呑な表情で、机挟んで向き合う過去の自分を睨めつけてくる。「同じカッコしてんな気色悪い」との理由で再度「変装器」の使用を命じられ、渋々と従ったため一応は別個の姿になっているが、相手方は変わらずであり、こちらとしては鏡を見ているような気分のままだ(しかも『変装』の命に従えば従ったで「青似合わねぇな俺……」などとげんなりした顔をされ、それを聞いたアラートにはまた吹き出され、理不尽このうえないものを感じた)。
先の小道での出来事といい、自分自身に本気の殺気を向けられるなどとはとんだ珍体験だが、まあその態度自体は無理もないだろう。結果的に何もなかったとは言え、恋人が強引に迫られているのを目前に見たわけなのだから、激怒も当然である。
――そう、恋人、である。立てた仮説に誤りはなかった。この時代の救助員インフェルノこそが、まさしくアラートの待ち人であったのだ。小部屋に腰を落ち着けてのち開口一番の問いとなった、途上のやり取りでほとんど明らかになっていた事実の再確認の言葉に、一人は腰高かつごく堂々と、一人はばつ悪げに頬を染めて、それぞれ肯定を唱えた。
無論のこと、驚愕も、戸惑いもあった。だが自分でも意外なほどに取り乱さなかったのは、そのひとつの答えが、そうした衝撃と同じだけの深さの納得をも、ともに胸へともたらしたからなのだろう。身に過ぎるほどの厚意、詳細な機体データの把握、好みの酒と食事が供される店。ほか様々の大に小に積み重なった疑問や偶然が、その一事でおおよその解決を見る。
そして詰まるところ、この胸を騒がせ苛立たせ続けた羨望と嫉妬は、ほかならぬ『こちら』の自分へ向けられるものであったわけであり。
「……なあ主任、正直、あんたがそのへん全部初めに教えてくれてりゃ、こんなややこしい話にならなかったんじゃねぇか……」
「別にこの野郎に教えてやる義理はねぇが、俺にはひとこと言っておいてくれてもいいだろ。そしたらすぐ技術部のイカレ連中にくれてやる手回しもできたのによ」
同じ声でのふたつの問責を受けてアラートはさらに身を小さくし、胸の前に指を合わせて俯いたまま、ぽそぽそと答えた。
「だ、だって、仕方ないだろ。今こうやって対面して何もないのが不思議なぐらいで、実際、何がきっかけで論理混乱が起きるかわからなかったんだ。少しでも危険性は排除しておきたかったし、それに」
一度声を切って少し顔を上げ、二人の元部下の顔を順繰りにうかがうように見てから、続ける。
「会って少しの頃なんて、ちっとも仲が良くなかっただろ。恋人だ、なんて言って、嫌がられたり軽蔑されたりしたらショックじゃないか……。万が一受け入れてくれたとしても、お前が遠征でいないのの代わりにするみたいで、それはどっちにも悪いと思ったし、でもほかの誰かに任せないで俺が面倒見てやりたかったし……」
だから、その、すまない……と、声が次第に消え入る。常の厳格はどこへ行ってしまったのか、幼ささえ感じるしどろもどろの弁明の様子をしばし眺め、ふと横へそらせた目が、今こそまさに鏡のごとく、『自分』とものとかち合った。動作が同じなら、確かめるまでもなく思いも同じだ。数瞬置いて、無言で頷き合う。
――今回は不問にしておいてやろう。
上役に対する尊大な赦免は、心の広さゆえのものではなく、むしろまったく真逆の、何かへひた向かう心の小ささ、愚かさゆえに至った、俗に言う、「惚れた弱み」の産物であった。
(なんだこのヒト、可愛くね?)
(アラートは昔っから可愛いんだよ。いいからテメェは壁でも見てろ!)
声なく通じてしまう珍奇な自問自答をし、またしても同時に取り成しの言葉をかける。
「まあ仕方ないよな。俺としちゃ言ってほしかったけどよ、任務中だったし、聞いてすぐ帰ってこられたわけでもなし、気ぃ遣って黙っててくれたんだろ?」
「面倒なことになったのは俺がぐだぐだ考えちまったせいもあるから、あんただけの責任じゃないさ。前も言ったが、世話焼いてくれたのには感謝してる」
連なる声を受け、戸惑いの視線を上げてから、アラートは頬に差す赤をぽふりと濃くして頷いた。今度は反応が分かれ、妙に照れてるな、と首傾げる向こうで、傍らを眺める『自分』が訳知り風ににやついている。少々気に入らないものを感じたが、意味を訊ねるのはさらに輪をかけて気が進まず、大げさな咳払いで注意を引いて、長い席になるだろう今夜の討議の先を求めた。
三者それぞれの問いと答えが飛び交い、語る時間の軸も行きつ戻りつしたが、アラートが隠していた二人の関係と、それにまつわる種々のことごと、そして突然に帰還した『こちら』のインフェルノの行動の経緯が、主な議題となった。
アラートはまだ少し論理混乱の危険を気にかけていたものの、未来の己と直に対面してさえ揺らがなかった図太さが認められたのか、身近な出来事に限り、一歩踏み込んだ話も明らかにされた。
『こちら』の保安員アラートと救助員インフェルノの二名は、配置替えも除隊もなく、かなり最近まで同じ部隊に所属していたらしい。アラートが教導隊へ籍を移したため直属の上司部下の関係はなくなり、インフェルノも所属こそ変わらないものの、今は分隊長として部下を率いる立場であるという。
軍内ではともに名が知られ、今度の遠征も周知の件であったことから、過去のインフェルノが無防備に出歩けば、様々な面倒に見舞われることは目に見えていた。そのため「変装器」の使用などの慎重な行動が義務付けられ、当人の預かり知らぬところで、各所への根回しも相当になされていたようだ。
「あんたの生徒たちにも教えたのか? やけにじろじろ見られてたぜ」
ずっと気にかけていたことを訊ねると、
「いや、あいつらに本当のことを教えたらすぐに外まで広がりそうだったからな……。『よく似た兄弟機のようなものだが、非常に仲が悪いから、いる時にインフェルノの名は出すな』と伝えておいた」
との答えだった。
「それでよくやり過ごせたもんだ……」
「演習ほどの長時間の付き合いになると、こっちのお前を知っていればすぐに気取られてしまうしな」
初めから似ていることにしておいたほうが、むしろばれにくい、という判断であったらしいが、別の誤解が生じている予感がひしひしとする。おそらく、あの想像力豊かな生徒たちの頭の中では、突如現れた教導官志望者とアラートとその遠征中の恋人の三角形が、多種多様の展開を見せているに違いない。噂話も盛り上がろうというものだ。
そのほか、隣の組の教導官や、やはり酒場の主人にもタイムワープを含めたおおよその事情を伝えて、何かトラブルがあった際のフォローを頼んでいたというから、さすがに念の入った措置である。
母星でのそうした日の一方、他星へ遠征中であった『こちら』のインフェルノは、大過なく任務を終えて、アラートとの通信の三日後(つまり、自分たちが穴に落ちていた頃か、搬送されて意識を失っていた頃)には遠征先を発っていた。そして宇宙空間での帰路、奇縁であるとしか言いようがないのだが――突如出現したワープホールに、船ごと落ち込んだのだという。
「そっから三日ぐらい妙な場所をうろうろしたな。レーダーは働いてたし、そのへんに詳しいやつも乗ってたから、こっちはそんなに焦っちゃいなかったんだ。ただ、詳しい理由は説明されてもよくわからんかったが、ワープホールをくぐった時に船の備え付けから個体機用から何から、通信機が全部いかれちまったせいで、報告は飛ばせなかった。相当心配かけてるんだろうなとは思ってたけどよ……」
これで時間移動までしていれば非常にややこしい話になったのだろうが、こちらは単純な空間転移だけで済んでいた。任務上科学者が同行していたことも幸いし、転移先に見つけた別の(以前から存在確認済みの、正規航行路としても使われる)ワープホールを利用して、セイバートロン星のごく近くの空間まで戻ることに成功した結果、無事帰還、どころか、十五余日を予定していた帰路が大幅に短縮され、今夜の騒動となったわけである。どうやら、連れ立って酒場へ向かう姿を見た、という話を誰かから聞いたらしい。
「んで急いで行ったらあの始末だぜ。おやっさんは裏から出たとしか言わねぇし、妙な顔で笑われるしよ」
語るうちに怒りがぶり返してきたのか、また鋭く睨みつけられる。それに関しては言い訳もなく甘んじて受けたが、アラートは結果的に事を大げさにした行動を詫びつつも、そうしてひとり憤っている相手へ問いただすべき点を聞き逃さなかった。
「事情はわかった。で、なんでお前はなんの報せもなく店に来たんだ? 俺は事態に動きがあったら緊急連絡をもらえるよう依頼していたんだけどな。お前が向かってくるのを聞くまで気付かなかったぞ」
ぎくり、と音が聞こえそうなほどの反応で赤の機体が身をこわばらせ、隣からの視線を避けてよそを向く。話が始まる前の動揺をまた鮮やかに一変させて、元上官は淡々と指摘を続けた。
「呼びかけてこなかったということは、機体の通信機も直していないんだろうし、もし俺たちが局を出てからすぐに帰投したのだとしても、まだ留め置かれていた時間のはずだ。そもそも俺の居場所を訊いたこと自体……お前、本局に寄らずにターミナルから家へ直行したろ?」
「あー、そのぅ……」
はい、と言わずとも、否定がないことが全ての図星を肯定している。アラートは完全に説教モードに切り替わり、声を高めた。
「遠征から帰ったら必ず検査検疫、その後すみやかに報告だ。いつも言っているだろうっ」
「けどよ、今まで何度も行き来があった星で、特に問題も起きてねぇし」
「だからと言って例外はない! 未知の不具合が生じている可能性だってあるんだ。それに……今夜の本局の通信担当はお前と親しいやつだったな。ひょっとして、俺に連絡を入れないよう口止めしたんじゃないか?」
「う。……いやあの、いきなり行って驚かせてやろうかなー、みたいな……」
「驚いたさ! おかげでお前同士の殺し合いを見るところだった!」
「す、すまんアラート、悪かった」
こちらも先ほどの衝撃がぶり返したらしく、肩震わせて叱声、を超えた怒声を上げるのを、横で『自分』があたふたとなだめにかかる。直属ではなくなっても上下関係が変わっていない――と言うよりは、そのあたりが関わらなくなったがゆえの、互いの遠慮のなさなのだろうか。
ああこれこそ「相手のために怒る」というやつなのだろうな、とかつて見ぬ激情を前から眺めながら、他人事のように考える。うろたえ謝る一方で、早くお前に会いたかったんだよ、などとさらりのたまってみせもするこの『自分』は、洗浄室で聞いた訓練生の言葉にも、それなりに同意するのかもしれない。
ふっと口の端から笑いが漏れた。視線を下げ、机に置いた腕を見下ろす。沈んだ青色は、何度見ても己のものにはならない。やはり、違うのだ。
やがて痴話喧嘩が収まり、未来のインフェルノは遠征後の処理をこなすべく軍本部へ強制連行されることとなった。一人にするとまた逃げかねないからと、隊長が消えて困っているだろう(「あいつらこのぐらい慣れっこだから平気だって」という声は黙殺された)部下に連絡して迎えに来させることにしたらしく、アラートが通信のため廊下へ出て行く。その背を見送ったのち、当該の被連行者はぶつぶつとこぼしていた不平を止め、再び鋭い目を前へ向けてきた。
「何があったか、ま、聞かなくてもおおかた予想はつくけどよ……。てめぇ、妙なこと考えて勘違いしてんじゃねぇぞ。『お前』は『俺』だ。それは認めてやるよ。だがな、『俺』は『お前』じゃねぇんだ」
『あいつ』もだ。冷厳と発せられた言葉に、問いも反論もなく、ただ頷きを示す。つい今ほど、己でも改めて理解したことだ。
それきりまた沈黙が落ち、しばしののちアラートとともに部屋に現れた保安部隊員に引き渡されて、最後にもう一度無言の睨みを投げ寄こしてから、『自分』は本部へと連れ出されていった。重く音響かせる足取りが角の向こうに消えるまでを見届け、部屋に戻った途端に、アラートが深々と排気の音を鳴らした。
「とんだ夜だったな……もうとっくに日をまたいでいるじゃないか」
賊と交戦して穴に落ちた時にも、ここまでの疲れは見せていなかったな、と思い返しながら、さて何を言うべきかと考えたが、気の利いた言葉は浮かばなかった。氷解した疑問から新たに生まれた問いは多々あったものの、それを今から口にするのは詮無いことだとわかっていた。どの問いに対するどの答えも、己のものであって、己のものではない。
「今夜は俺も局に泊まる。お前ももう休め。……そうだ、射撃演習は明日で終わりの予定だったんだが、どうする? 出るか?」
そうこうとしているうちに、先に訊ねかけられる。この一夜のうちに様々な表情を覗かせたアラートも、少し砕けた口調だけを残して、今はすっかり常の平静を取り戻している。ああ、と即座に答えた。
「半端になっちまったから、最後ぐらい見届けて終わりたいしな」
「そうだな。それがいい」
同意を得て頷き合い、部屋を軽く片付けてから、ともに廊下を出て歩き出す。待ち人の帰還とともに癖が戻ったのか、それとも今日まで自分が気付かなかっただけなのか、前を行くアラートの脚は不自然に廊下の片側に寄っていた。歩みを速めて隣に並ぶことはせずに、鮮やかな赤と白を眺めるまま、インフェルノはただ黙々とその背を追った。
賊との交戦と負傷の話は伝わっていたらしく、翌日の演習は、場内に足を踏み入れた途端の騒がしい質問攻めと、それを冷静に散らすアラートの一喝で始まった。そのやり取りをもう新鮮に思わず、どころか妙に懐かしい気分で聞いたことにおかしみを感じながら、しばし指導に集中する。初日を振り返ればはっきりと動きが良くなり、全体のスコアも上昇を見せ、なりゆきに過ぎない仕事ではあったが、得た成果は純粋に誇らしく思えた。
「ちょっといいか」
その話は、昼の小休憩中、呼び出された演習場の外で聞いた。
「突然なんだが、先ほど技術部から報告が来てな。明日にも元の時代に戻れることになった」
ぽかんとして顔を見返す。さもあらん、と言いたげな首肯の動作のあと、詳しい説明が続いた。
「ゆうべ、あいつの乗っていた船がワープホールを抜けたって話があったろう? 偶然と言うのかなんと言うのか……その時のデータがうまく保存されていて、お前のほうの件に応用できることがわかったそうなんだ。元の時代の元の場所に、まず間違いなく無事に遡行転移できると予測が出た。ただ……」
「ただ?」
口ごもるアラートを促す。もはや驚きも尽き、このうえ何が起きても受け入れられないことはないだろう、と思ったが、
「やはり、異なる時空で得た情報を有したままの転移には危険が伴う。事前に、『こちら』へ来る直前の状態にまで、メモリ内部を含めた全システムのロールバックが行われる必要がある」
驚くべきこと、ではない、初めから充分予想されていたはずの言葉に、今は少なからぬ動揺が生じた。
今日までの十幾日かが、全てこの身から消える。これまでの、そしてこれからの生涯に比すれば、ごくほんのわずかな、些細な時間だ。だが、あっさりと切り捨てるには、あまりに密度の濃い時間でもあった。
インフェルノの沈黙を共有するようにしばらく無言で待ってから、アラートはまた静かに口を開いた。
「俺は、帰れるのであれば、できる限り早く帰ったほうがいいと思う。『こちら』にいる限り色々な危険がつきまとうままだし、また負傷でもすれば、先日と同じような治療がかなうかどうかわからない。……だが、本当に急の話だから、決定はお前に任せる。今日の演習後か、また明日にでも……」
「帰るよ、明日」
語尾をさえぎり、きっぱりと返した。はっとした顔が上がり、わずかにでも惜しんでくれているのだろうかと、調子もよく気が浮いた。
「だらだらいても邪魔になるだけだからな。『あいつ』も戻ってきたことだし、その偶然、よっぽど早く帰らせたいんだろうぜ」
「すまん」
「別に謝るこっちゃねぇだろ」
確かに急な話だが、渋る理由はない。少なくとも、『こちら』には。
「じゃあ、明日戻れるよう手配しておく」
頼む、と頷き、少しの間を置いて、呼びかけた。
「主任、あんたさえ良けりゃなんだが……今夜、また一緒にいられないか」
首が傾ぐのに、頬を掻きつつ続ける。
「本当は昨日のが最後のつもりだったんだけどよ、妙なことになっちまったし……」
追憶にもならない時間だからこそ、想いのまま、心寄せる者と過ごしたい。後ろめたさはなかった。もはや憂いも疑念もわだかまりも、妬心すらもない。これはただ望みのままの望み、純粋な我儘だ。
口に出して伝えはしなかったが、自分をひたと見つめる若造の情動を充分察したと見え、アラートは頬に熱の色を昇らせて、きょときょとと視線をさまよわせた。これもまた、かつてでは気付こうともしなかったはずの他者の目への意識、変化と成長の賜物なのだろうか。
「……いいぞ」
「ほんとか?」
「うん……どこか行きたいところはあるか?」
そうだな、と考え、
「あんたがいつも行ってる場所がいい」
我ながら似合うところのない感傷的な願いだと自嘲しつつも、できれば二人きりで、とさらに我儘を付け加える。拒まれれば無理に押し通すつもりはなかったが、わかった、とアラートは承服した。
休憩の時間を過ぎたらしく、場内から生徒たちが呼ぶ声が聞こえる。じゃあと手を振って、一時別れた。