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 演習終了後、訓練生たちと互いに惜しみ合って最後の別れを述べ(本隊に戻り、すぐ他星での長期滞在任務に就くことになった、と説明した)、アラートと二人、本局を出発した。
 まずは馴染みになった酒場へ向かい、主人からの種明かしを交えつつ軽く食事をした。この年長者も初めから全て了解しつつ、さも知らぬように飄々と過去のインフェルノへ応対したわけで、柔和な親切さは確かながら、長年酒場を切り盛りするにふさわしく、なかなか巧みなふるまいを見せてくれたもののようである。例の「出世払い」のつけは、この時代の『自分』に求められるのだろう。恋人をあれだけ心配させた罰だと思えば、さほど心も痛まなかった。
 酒は一、二杯に留めて長居せず、店を出て移動する前に、もう今夜は「変装器」を切っていてもいい、とアラートから許可を得て、元の姿に戻った。まじまじとこちらを見上げる視線が、わずかになごむ。
「その懐かしい姿も見納めか」
 言葉の意味することは既にわかっていた。昨夜対峙した『こちら』のインフェルノは、向き合うと鏡を見るようであったが、実際には、機体の細部の造りが異なっていた。さらにビークルへと変形すればもはや別のものと言ってよく、アラート同様、他星でスキャンした姿らしい。なんのことはない。そもそもの始まりの日、インフェルノを見つけたアラートがタイムワープの発生を推測し、そのおおよその年代さえもを当ててみせたのは、そうした裏話があってのことだったのだ。
 ゆうべ見たきりの、母星のものよりさらに無骨な造りの大型車と、今目の前にあり、どこへ、とも言わず走り出した赤と白の車両は、形こそまるで違えど、出身を同じくするものだとひと目でわかるほどに、身にまとう印象が良く似ている。
「ほんとに、ずっと同じ部隊だったんだな」
 街の灯を見下ろし、呟く。アラートに連れられてやってきたのは、街の高地に建つ、今は使われていない監視塔だった。哨舎が撤去され、空き地のようになった台の上に、申し訳程度の造りの長椅子が据えられている。
「ああ。ずっと一緒だった。遠征先の星でも、良くこうやって二人で街を眺めてたっけな。その星は、まあ少しは戦争もしていたが、それでもその頃のセイバートロンよりずっと静かで平和で……いさせてもらう限りは、ずっとこの景色を守ろう、そしていつか、俺たちの星も同じぐらい平和にしよう、なんて、話してた」
 だいぶ近付いたかな、と、椅子に腰下ろしながら静かに語られる言葉は、おそらく今のインフェルノが理解を寄せられるものではなかった。区画の一変した、しかし空気の穏やかさは『あちら』とさほど変わりない世界。その間に横たわる戦いの記憶は、この身が踏み入ることのできない域のものだ。
 深く思慮せずただ聞くのみにとどめ、勧められるまま隣に腰かける。日頃この位置にある者のことを思い、訊ねた。
「ここまで来て今さらだけどよ……本当に大丈夫だったのか? 二人になって。『あいつ』が知ったらまた撃たれかける気がするけどな」
「ああ、問題ない。ちゃんと断ってから来たから。どうせ今夜から朝までは報告書の作成と提出で軟禁だし」
 明日の我が身だな、とぼそり呟けばおかしげに笑って、続ける。
「まぁ、ああだこうだ言ってたが、本当に腹を立ててるわけじゃないさ。お前が何を考えてるかは、多分俺より良くわかってるんだろうから」
 『お前』は『俺』だと、指突きつけて言い放たれた言葉を思い出す。それに連なる言葉も。
「……『あいつ』は、『俺』じゃない」
 かつての救助員インフェルノは、今この時代を生きる救助員インフェルノの中の一部だ。だが、その逆は成り立たない。『あちら』の自分、この十数日の記憶の有無という意味では、今ここにいる己ですらない己が、こうして彼と穏やかに街の灯を眺める者になり得るのかは、まだ決まっていない。
 こぼれた言葉を別の意図に聞いたのか、アラートは顔を少し俯かせて、すまない、と謝罪の語を口にした。
「偉そうなことを言って隠していたが、終わってみれば結局、お前を身代わりのようにしてしまったのは否定できないな……」
 そんなこと、と挟みかけた声より早く、言う。
「なぁ、インフェルノ。お前は、その……俺のことを好きだって、言ってくれたけど。多分それは、俺がお前のことをずっとそういう風に見てしまっていたからだと思う。お前は人の気が良くわかるから、影響させてしまったというか、勘違いさせたというか……」
「違ぇよ。そんなんじゃねぇ」
 言葉の途中で食いかかるように否定した。一体何を言ってくれるのかと、この期に及んでの呆れが湧く。
「正直、んな大層な気を回してる余裕なんざ、これっぽっちもなかったぜ。そりゃ、あんたが丸くなってたからってのが関係ないとは言わねぇ。むしろ、関係大ありっつーか、なんつーか、……悔しかったんだよ。あんたのそういう部分は知ってたけど、そこに俺は近付けてなかったし、近付くやつがいるとも思ってなかった」
 にもかかわらず、『こちら』の彼は、歴然と変わっていた。何かのために、誰かのために、長じていた。
「あんたを好きだっつったのは、今の俺の正直な気持ちだよ。『あっち』に戻りゃ、確かにそいつはいったん無くなっちまうのかもしれねぇけど、少なくとも、俺はあんたに近付きたいと思ってた。いつかあんたに特別に認められてやろうって、思ってたんだよ。『あっち』の俺は気付いちゃねぇが、多分、惚れたはれたの一番軽いやつなんだろうな」
 たとえ相手に好意を向けられていようが、育つべき心がわずかにでもなければ、これほどの想いを得るわけがない。明日には消えてしまうのだとしても、そこへ至った思慕があったことを、否定されてしまいたくはない。
「……あんたは、いつから変わったんだ?」
「え?」
 じっとこちらに耳傾けているアラートへ、やにわに問う。答えごと消えてしまうとわかっているからこそ口にできた、一種不正行為じみた問いだったが、しるべとなり得る明確な答えは返らなかった。
 胸へ問いかけるように、語られる。
「いつから、だったのかな……。色々なものが積み重なった結果かもしれないし、あとになっても気付かないぐらいのきっかけがいくつもあったのかもしれない。そういうのはきっと、急に始まっているんだろうな。いつ好きになっていたのかを憶えてないのと同じで。でも、いつもお前は近くにいたよ」
 ずっと同じ部隊なんだからな、と向けられる笑いに無意識の排気が落ち、どうした、と訊ねかけられる。逡巡を呑み、初めにありながらずっと語っていなかった事実を、ようやく伝えた。
「『こっち』に来る前にお咎め喰らったって言ったの、憶えてるか? その時、あんたと結構やり合っちまったんだ。今までで一番ひどかったんじゃねぇかな。……正直、あんまうまく行ってない」
 珍しくその記憶を引きずっていたことも、苛立ちや嫉妬を助長させたのかもしれない。特別に近くある画を、どうしても思い描くことができないのだ。
「合わねぇ部分も多いけど、あの部で働いてる誇りだとか、信念みたいなとこは、同じだと思ってたんだ。そうしたら、あんたがそれと真逆のことを言って、ついかっとなっちまって。けど後で考えてみりゃ、俺は自分てめぇの意見ばっかくっちゃべって、あんたの……上官としてじゃなく、あんた個人の意見は聞かなかった。ひでぇ言い草だったし、もし今度のことで部隊を追い出されでもしたら、そっからもう別の未来になっちまうよな」
 長々と述べた自省の告白に、
「で、俺も自分から話さなかったんだろう?」
 横から確認の問いが入れ込まれる。膝へ落としていた視線を起こし、まあそうだが、と返すと、見下ろす顔がほころんだ。
「ならお互い様だ。とすると、お前の帰る時間の俺は、今度こそ本気で嫌われたはずだとでも思って落ち込んでるんだろうな。可哀そうに」
 くすくすと声さえ立てて笑うので、その内容含めて呆気に取られて見つめるうちに、釈明が続く。
「いつもそうだったよ。今もそうだ。性格から何から違いすぎて、なんでも言い争いになるんだ。初めは単なる喧嘩のようなものだったし、ひどかったな……。でも、それが理由で嫌いになったことなんてない」
 むしろ自分はそれを嬉しく思っていたのだと、アラートは言う。
「俺は昔から本当に頑固で融通が利かなくて、他人と付き合うのが苦手で、それでも持って生まれた力とそのおまけみたいな地位だけはあって。何を言っても、聞く耳持たないか、諦めて従うかのやつしかいなかった。自分が、そうさせてた。けどお前は、いつだってなんだって、そうやって真剣に俺の相手をしてくれた。地位とか、役割とか、能力とか、そういうものを抜きにして、俺自身と向き合ってくれたから、……嬉しかった」
 遠い日を見つめて語られる言葉が、自分の生きる世界と重なるものなのかどうか、インフェルノにはわからなかった。ただ、今ここにいる保安員アラート――保安教導官レッドアラートの真実であることを、疑いはしなかった。
 『彼』の真実は、どうなのだろうか。
「……落ち込んでるようにゃ見えなかったけどな」
「仲の良くない相手の前でわかりやすく落ち込んだりはしないさ。俺は結構負けず嫌いだからな」
 半信半疑に聞きながら、昨夜の一件を思い出す。事を隠していた理由を、アラートは今のように「仲が良くなかった」という言葉で説明した。「嫌われたらショックだった」とも言っていた。きっとそれも、『こちら』の紛いなき本音なのだろう。
 あの上官も、そうなのだろうか。
 『彼』も、本当は痛んでいたのだろうか。周りに疎まれ、陰口を叩かれて。それでも自分の信念のために、そ知らぬふりを決め込んで。
 胸底の魂がうずく。身を駆り立て、理性を振り切って吼え猛るような激しさはない。しかしこの静かな想いとともにじわりと昇る熱もまた、焦燥という名を持つ情であることは間違いない。
「なんか……向こうのあんたに会いたくなってきたな。帰りたくないと思うとしたら、それだけが引っかかってたんだけどよ。やっぱ帰りてぇや。仲も良くねぇし、これからどうなるかもわからねぇけど」
 とりあえず隊を追い出されなければいいがと呟けば、きっと大丈夫だ、と未来の当人から笑み付きで請け合われる。この穏やかな声も表情も、本当は今の自分が得られるものではない。長じた者につり合うのは、やはり同じ年月をかけて長じた者だけだ。
(全部反則みてぇなもんだな。こっちのことは)
 それならばいっそ、ともたげる自分らしい調子の良さとともに、口を開く。
「けどこっちのあんたと別れんのもサミシイから、記念に抱きしめたりキスしたりしてから帰りてぇんだけど」
 しゃあしゃあと言ってのけるとさすがに笑みは消え、動転の表情で叱声を放たれる。
「な……、いっ、いきなりなんだ!」
「だって惚れちまったんだもん」
「あっ、くそ……、べ、別にそんな顔しても、お前の図体じゃちっともかわいくないぞ」
 ぷいとそっぽを向かれる。無論、わかりきった反応だった。叶わずともいい。口にして叱られるだけでも、ただほんの少し、それがあったという事実を、過去へ持ち帰れない心を、この時間に刻み残していきたい。
 赤く染まった横顔を見て相応の満足を覚え、冗談だよ、と笑って撤回の声をかけようとしたその時、
「……わかった」
 予想だにせぬ応えが聞こえ、半端に開いたままの口から、へ、と間抜けた声が漏れ出た。
「へ? いいのか?」
「お前がどう思ってくれてても、やっぱりそのあたりは俺にも責任があると思うし、……まあ、餞別代わりってことで、し、してやる」
「え? しかもあんたがしてくれんの?」
「嫌なら……」
「お願いします」
 ぴしりと姿勢を正して返せば、早いな、と苦笑が落ち、そのまま動かずいるよう命ぜられて、小柄な機体が身の向きを変えるのをそわそわと待つ。アラートはごくゆるやかな動作で椅子に膝立ちに乗り上げ、伸びの姿勢でインフェルノの肩に手をかけた。そうして一瞬のためらいの間を置いてから、
「元気でな」
 ひそやかな声とともに、頬の上へごく慎ましい口付けが落とされた。
「……口には?」
 子どもの挨拶のような行為と裏腹、無性に胸がざわつくのをごまかそうと、あえて戯れを言葉にする。そそくさと座り直しながら「そっちは戻った時なんだ」と小さく返されて、合点が行った。行ってらっしゃいのなんとやら、というやつだ。
「あいつがねだったんだろ。してくれればやる気が出るとか、絶対戻ってくる気になれるとか言って」
「うん……」
 仲がよろしいことで、と冷やかせば、なお頬の赤みが増す。もはや嫉妬よりは、少し距離を置いたほほ笑ましさが先立った。
 夜風に互いの頬が冷めるのを待ちながら、眼下の景色を眺める。この街並みも、今日で見納めというわけだ。
 同じ歴史を辿るのだろうかとなにげなく問うと、わからない、と首が振られた。
「同一の世界なのか、平行の世界なのか、転移のデータだけでは確かなことは言えない。直接的な繋がりのない可能性のほうが大きいように思う。未来なんて不確かなものは、ほんの些細なきっかけでがらりと変わってしまいもするのだろうし、変えることもできるんだろう」
 お前も、とアラートは言う。
「『こちら』がこうだからといって、同じになるとは限らない。思う通りに選べばいい。……まあ、今こんなことを教えても仕方ないか。誰に何を言われたって、きっとお前は迷わずに、自分自身の決めた道をまっすぐ行くんだろうから」
 贈られた言葉を胸へ染み入らせ、何かを返そうと口を開き、また一語もなく閉じる。否定も肯定も、正しい応えではないように思えた。意味のない頷きひとつを示して、ただその穏やかな音の響きだけ、うつくしく揺れる淡色の青の灯の影だけでも、我が身のどこかに残らないだろうかと、幾星霜ののちにも色変わらず在るのだろう夜天を仰いで、祈るように考えていた。


 別れぎわに申し渡された通り、翌朝はまず一人で軍本部へ訪れ、技術部であれこれの検査に臨んだ。あれを見せろ、このデータを出せ、という指示に唯々諾々と従ううち、「変装器」は外され、代わりにあるコードを中枢に組み入れることを伝えられる。問うまでもなく、システムのロールバック用のブログラムで、ワープホールを抜ける際の熱量に反応して実行されるとのことだった。
 一応の諾否を訊ねられたので、迷わず応じた。まるで惜しくないと言えば嘘になる。だが、持ち帰るには重すぎる記憶だ。時空の狭間に跡形もなく消えてしまうぐらいがちょうどいいのだろう。
 全ての検査と調整が完了した頃に迎えに来たアラートに従い、初日にインフェルノの倒れていた地点、すなわちワープホール発生地点に向かう。かつてのリアクター庫の移設後、人の往来の少ない場所であるとかで、念のため一時立ち入り禁止の措置は取っているが、支障は出ないだろう、と道々説明された。演習はと問うと、今日はもともと休日だとのことだった。
「せっかくの休みに悪ぃな」
 前を行く背にかけた言葉に、
「まったくだ」
 そのさらに前方から、声が返る。顔を上げると、道の先に何やら大仰な装置が鎮座しているのが見え、その横に赤色の大型機が腕組みをして立っていた。
「なんだ、もう軟禁解かれたのかよ。報告書は?」
「んなもん死ぬ気で片付けてきてやったに決まってんだろうが。てめぇ、ゆうべは性懲りもなくアラートを連れ出しやがって……」
「連れ出したけど、別に何もしてねぇよ」
 こっちからは、という言葉は胸の中だけで唱え、あとはアラートに場を任せる。最後まで二人きりにさせてなるまじ、という努力であったのだろうが、よくよく見れば装置の担当らしき技師も出動してきており、いずれにせよ、昨夜のうちに別れの儀を済ませておいたのは正解だったらしい(おまけに、未来の『自分』の涙ぐましい努力は、「いつもそうしてくれたら苦労もないのにな」と元上官に一蹴されていた)。
 アラートの指示で技師が装置を作動させ、狭い道の中心に高圧のエネルギー波が生じる。圧縮の完了まで多少かかるとのことだったので、粒子の風を受けながら、前へ語りかけた。本当の、終わりの別れの辞だ。
「今日までありがとうな、主任。色々助けられたし、面倒も起こしちまって悪かった」
「確かに色々あったな。でも、俺は結構楽しかったよ」
 笑みを向け合う。次に彼とこんな会話を交わせるのはいつになるだろうと一瞬考え、すぐに打ち消した。その未来は、『こちら』を基準に求めるものではない。自らの手で選び、掴むものだ。
 ゆっくりと伸べた手に、アラートはすぐ自分の手を差し出して応えてくれた。一度力込めて握り、もう片方の手も添えて、やわらかく包み込む。小さな手指が掌の間でかすかに揺れ、視界の隅で彼の恋人が一歩足を踏み出しかけるのが見えたが、構わずそのまま言葉を続けた。
「メモリが戻ってもどっかには残るかもしれねぇし、もっと色々訊いとくんだったな。あんた、好みとか結構昔からそのまんまなタイプだろ?」
 口説くのに使える、と言うと、見下ろす顔がぽかんと驚きを浮かべた。
「そんなこと知っても……お前は別のやつの手を取るかもしれないぞ。むしろ、そっちの当てのほうが」
「いいや、ゆうべ部屋でじっくり考えたんだ。やっぱ俺はあんたと、……『あっち』の主任と、お近付きになりたいってな。待ってな、きっと落としてみせる」
「インフェルノ……」
 たしなめるべきか、喜ぶべきか、と想いが揺れ動くのがつぶさに見え、最後にアラートは、そのどちらでもなく、ただ「ありがとう」とひとことの礼を口にした。大きく頷き返し、また手に力を込める。
 そこへ、
「いつまで手ェ握ってんだクソガキ! ぐだぐだ言ってねぇでさっさと帰りやがれ!」
 はやばやと我慢の限界が来たらしい怒声がかかり、横から伸びた同じ色の腕に、機体ごとアラートを取り返される。こらえ性のない恋人に背から囚われ、一度はじたばたと抵抗を見せたアラートだったが、どうしても離れないと見るや諦めたらしく、肩抱かせたまま言った。
「……時間だな」
 倣って向き直った道の上に、巨大な光の渦がそびえている。あの日に目にしたものとほぼ同じ、彩色移ろわす時空の扉だ。
「一瞬だけ転移路を開いてすぐに消滅させますので、前で待機していてください。念のため衝撃には備えを」
 技師の言葉に従い、渦を背に負う位置に立つ。数歩離れたアラートたちと向き合い、最後の言葉を投げ交わした。
「んじゃ、世話になったな。あんたの生徒たちにもよろしく。たぶん妙な噂立ってると思うけど、うまいこと流しといてくれ」
「ああ。お前もしっかりやって、早く出世しろよ」
「なんだよ妙な噂って……」
「あんたもあんまりコイビトに心配かけんなよ?」
「うるせぇ、余計なお世話だ。どうせてめぇもそのうちこうなるんだよ。……ま、んなガキっちぃ野郎にアラートは落とせないだろうけどな」
「そうかもな。……今は、まだ」
 いくら楽観的な自分とて、始まってもいないものの先を幸福に想像することは、さすがにできない。だが、未来は変わり得るものだ。変わることも、変えることも、まだ遅くない。
 鏡と会話するかのごときやり取りに苦笑の排気をし、インフェルノ、とアラートが静かに呼びかけてくる。かすかな逡巡をよぎらせてから、言った。
「俺たちのこれまでには、本当に色々なことがあった。喜ばしいことも、愉快なことも、幸福なことも、もちろん沢山あったが、……受け入れがたいような苦渋も、哀しみも、沢山あった。もしできることなら、お前がそれを経験せずに済むよう、祈っている」
 元気でな、と昨夜の送り出しの辞をくり返し、手を上げる。渡された言葉の意味はあえて訊ねず、ああと応えてこちらも腕を振りかざした。数字の読み上げが始まるや、背後に散る音と光が刻々と強まり、熱が背を焦がすのを感じたが、最後まで振り向くことなく、寄り添って立つ大小ふたつの影を見ていた。
「じゃあな!」
 もはや視界は不定のもやの中に没しており、声が届いたかどうかはわからなかった。覚えのある浮遊感が、機体とともに意識をも重力から解き放ち、急激に薄れゆく知覚のなか、後進プログラムが回路を走り始めたのをかすかに感じる。失われる記憶を惜しむごとく、慟哭に似た音を立てて扉が開かれるのを最後に聞き、それきり、全てが白に包まれた。



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