迅速な伝令と各分隊の隊長格の者たちの適切な指揮により、混乱やまぬながらも天軍は身動きのできる兵をまとめ、撤退の手筈をととのえた。
 残った兵の数が少ないこともあり、充分に訓練された騎士たちが何を企図して動いているのか、魔族たちには判ぜられなかっただろう。よしんば気付かれていたとしても、まともな統制のない魔軍にそれを阻む手段はない。
 撤退の備えに邪魔の入らぬよう、双剣を手に最前線で魔族の攻勢をさばきながら、レイは横手の巨樹を見上げた。石塔を巻き、陽に灼けた赤い空を突いてそびえる姿は、天の都に立つどんな樹よりも雄々しくうつくしく見える。
 前方から振り下ろされた大槌を避け、逆にその身を下から斬り上げた勢いのまま空へ舞い上がり、樹の頂きに並ぶ高さで静止する。乾いた風に揺れる梢を見やり、次いで、脚下に視線を落とす。
 戦場は落陽の色に増してなお紅く濡れていた。数千の魔族と、それに討ち倒された天兵の流す血が、かしこに溜まりを成している。血の海の中に傷付き千切れた羽が浮かんでいる。異常の進化を遂げた醜悪な怪物が奇声を上げ、望まぬ変容を強いられる天使たちが苦悶のうめきを発する。
 唄にも残らぬだろう惨景の全てを、ただ一本の樹が作り上げている。天界に生まれた聖樹のために、天の子たちの命が今まさに荒野に投げ打たれようとしているのだ。
「くそ、こんなこと……」
 こんなことが、あっていいはずがない。言葉を終わりまで継ぐこともできず、唇を震わせるレイの背に、呼び声がかかった。
「レイシス様、撤退の準備がととのいました。ご用意を」
「リュードか」
 馴染みの声に名を確かめつつ振り返る。若い二つ羽の騎士・リュードは、レイの率いる直属の中隊の副官であった。その無事にひとまず息をついてから、訊ねる。
「もう聖境を作るんだな?」
「はい。砦と戦場の半ばに結界が張られることになっています」
「そうか」
 そうか、と口の中でくり返す。
 それでは、本当に天主は傷付いた兵たちをここに残していくつもりなのだ。樹の力が確実に及ばないと見越した位置に壁を築き、魔性の力の一片たりと天域に容れまいとの大義を示すことで、仲間を置いていくことに対する躊躇いの責を、無事な天兵たちが負わず済むようにするつもりなのだ。
 天界を統べる父なる王として至当であろう決断。その選択の苦渋を理解し、父に寄せる敬愛は変わり得ぬながらも、岩のように硬く揺るがぬ言葉に、剣身を叩きつけてやりたい心に駆られた。
「……親父、か」
 ぽつりと呟いて、また大樹を見やる。隣でリュードが小さく首を傾げた。
 形は違えど、同じ父のもとに生まれたその存在は、格で言えばどんな高位の天使より力を持つものであるのかもしれない。しかしその種を開かせたのは、穢れた血を持つ魔の者たち、天の光を嫌い畏れる悪鬼たちだ。
「レイシス様?」
「いや、なんでもない。兵が無事に戦場を離れるまで殿役をやる。無事な一隊を連れて援護してくれるか」
「はい、お供いたします」
 頼む、と頷く口元にふっと奇妙な形の笑みが差し、リュードは敬慕する上官の顔を怪訝な面持ちで見返した。


 その瞬間はなんの前触れもなく訪れ、ひと呼吸のうちに戦場の全ての意識を支配した。
 天軍が撤退を開始し、その過半がひとつ峰向こうの砦へ向かって戦場を脱した頃であった。追走する魔族たちを抑えていた四つ羽の天将の双剣が鋭い閃きを帯び、放たれた雷刃が魔軍の群れひとつを切り裂いて、同線上の巨樹の幹を焦がす。ぽかりと開いた道を白い光が走り、呆気に取られる魔族たちの、そして天使たちの視線が追いついた時には、既に『天のいとし子』の名の誉れ高き将は、伸び絡んだ枝の間へ単身飛び入り、伝説の大樹の身に深々と剣を突き立てていた。
「レイシス様!」
「レイ、何を……!」
 若い天兵たちと、同じく後に残っていた天軍長の叫びが重なる。それに返るのもまた、怒号に近い叫び声だった。
「止まるなっ!」
 不意の刃を逃れようと激しくざわめき立てる大樹の肌にしがみ付くようにしながら、首だけを同胞たちに向け、声を上げる。唖然と樹を見上げる軍の向こうには、既に聖魔を分かつ大いなる力がある。
「結界を越えられるやつは早く向こうに下がれ! 超えられねぇやつも、少しでもこいつから離れてろ! うまくいけば、きっと――」
「レイ、よせ!」
 ファラエルが制止の言葉を放って飛び、リュードもそれに続いた。
 しかし、もはや遅かった。
「命の樹よ、その身にまだ魔を退ける破邪の力が残っているなら」
 剣を握り、刀身から伝わる激しい魔力の波を感じながら、「生命の樹」の源に呼びかける。天域に生まれた禁樹の内で聖魔がせめぎ合い、互いに相手を喰らい尽くそうとしているようだった。
「まだ混沌を律し、生を尊ぶ理を、残しているなら」
 混乱に振り立てられる枝に固く足をかけ、樹に突き立てていないもう一振りの剣を天に掲げ、祈りを紡ぐ。
「天に生まれた同胞として、痛みを分かつ心があるなら――」
 悪しき魔の力を受けて長じた身ならば、それを斬り裂く剣はある。そしてその魂が天の光とともに生まれたのならば、深く開いた傷の内に注ぐ、同じ故郷の言葉がある。
「その大いなる力をもって、我とともに滅せよ!」
 澱んだ大気を裂き、雷鳴が戦場を貫いた。
 樹の周囲を取り巻いていた魔族の群れが一瞬にして蒸発し、黄昏に走った閃光に目を灼かれ、妖鬼たちが苦痛の声を上げる。雷光はなおも消えず、自らを贄に等しい媒介と成して、禁樹の魔をそれ自身を滅ぼすための力へ転じた天将の身ごと、浄化の炎となって樹を焼いた。
 聖樹は天を焦がす巨大な松明となり、夜闇を糧に燃えさかった。
 翼を止め呆然とその様を見つめていたファラエルは、荒野を包んでいた魔性の気が確かに薄れ始めていることに気付いた。あたりを見回せば、身を襲う「進化」に苦悶していた手負いの天兵たちの身体が、少しずつ正常の様を取り戻しつつある。
 最縁に貼り出した巨樹の大枝が音高く折れて地に落ち、灰となって消えた。石片と化した樹皮が雨のように幹からこぼれ落ち始め、事を理解した魔軍から怨嗟の声が上がったが、天軍の側に歓声はなかった。この功のために何が代償とされたのか、みな既に気付いていた。陽の没した戦場を分かつ、一片の魔性も通さぬ不可視の楯が、遥か空の高みまでそびえ立っていた。
「聞け、同胞たちよ!」
 闇落ちた荒野に、雄々しい声が響く。
「飛べる者は飛べない者に、歩ける者は歩けない者に力を貸せ。まだ余力のある者は魔性に侵された者を浄めて助けてやれ。ここに残るしかない者は、最後の剣を構えて、仲間のために俺の後に続け!」
 見るからに傷深い、もはやかすかにしか力の残らないだろう身体で空に背を伸ばし、毅然と放たれた一喝は、戦場を一瞬の静寂と、それを破る天兵たちの喚声で包んだ。
 各々の任のためきびすを返し、翼を広げる兵たちの目が全て自分を離れるのを見届けるや、空中でぐらりと身を傾かせたレイを、横から飛び来たファラエルの腕が支えた。
「レイ!」
「……ファラエル、撤退の指揮、頼む。一人でも多くの兵が、引き上げられるように」
 荒い息の下から言う。ファラエルは驚愕覚め切らぬ表情のまま、強く首を振った。
「お前、自分が何をしたのかわかっているのか。その身体では……」
「ああ」
 もう、結界の向こうに行くことはできない。淡然と返す。生命の樹の魔力を直接身に受けたレイには、その強大な魔を浄化する力も、時間も、残ってはいなかった。
「なぜあの機を待った? 結界が閉じる前なら、今の状態でも」
 引き上げられたはずだ、と続くのだろう声を、勢い込んで遮った。
「俺一人の賭けで、場を滅茶苦茶にしていいわけないだろ? もし俺が樹の力を律しきれないで、閉じきってない結界の向こう側にまで暴走させでもしてたら、どうするんだよ? そんなことになれば、逆に壁が樹の成長を助ける盾になっちまう。これしかなかった。……俺なりに考えた、大局の利だ」
 先の忠言を借りつつ笑いを浮かべ、親父さんたちには代わりに謝っておいてくれよ、と続けた。再び翼を立ててファラエルの手を離れ、最後の力を振り絞り、双剣を握る。
「俺と残った兵とで敵の追撃を食い止めるから、リュードと指揮を執って、兵を結界の向こうに逃がしてくれ」
 頼んだぜ、と言い残し、声が返る前に敵陣へ急降下していく。
 引き止めようと伸ばした手を胸に引いて祈りの姿勢を取り、ファラエルはもう一度ゆっくりと首を振った。
 あの愛すべき弟は知らないのだ。彼を失うことでどれほどの嘆きが天宮を訪うか。自分が天の住人たちにとって、どれほど眩く尊い、かけがえの無いいとし子であるのかを。


      ◇


 振り切り損ねた左の剣が斧に弾かれて手から抜け落ち、石の上を滑って後方に止まった。気を向ける隙は作らず、残った剣を突き出して眼前の魔物を討ち倒す。ほぼ同時に、十歩ほど向こうに立っていた天兵が太い腕に頭を割られ、地面に崩れ落ちる音が聞こえた。
「レイシス様っ……!」
「リュード」
 ふらつく身体を脚に力を入れてどうにか立たせ、首を後ろにねじって、背後の結界の先に立つ副官と、その率いる兵の一団を見る。
「早く行け。お前たちで最後だ」
 もはや浄めきれないほど樹の魔力に侵され、結界のこちら側に立ち残るしかない兵たちとともに、レイは策を破られ激昂した魔族たちを相手取って剣を振るい続けた。力のこぼれ落ちていく身体を気勢のみで動かしながら、百を超える数の若い天使たちを救えたことに満足を覚えていた。
「そんな、あなたを残して退くなどと……」
 握り締めた拳が震えている。レイは努めて張りのある声を出し、叱責を放った。
「馬鹿、お前は部隊長だろう。こんなことでうじうじしてたら下のやつらに示しがつかねぇぞ。引き上げろ。生きて帰って、俺の武勲でも唄ってくれよ。……無様な最期なんざ、見てないでな」
 上官命令だ、と言って浮かべる笑いの初めて見る弱さに、リュードはこみ上げる涙を呑み、頭を下げる。
「は、い。承知しました。……失礼、い、いたします」
「ああ」
「レイシス様、できるなら、できるならどうか、どうか……!」
 どうか生き延びてご帰還を――互いに叶わないものと知る言葉の続きは音になされず、リュードとその隊は再び深く礼をして、向き戻ろうとする心を強いて振り払うように、羽ばたき強く砦へと飛び去って行った。
 その背を見送るレイの足元を風がかすめた。話の間に魔族たちがレイを取り巻く輪を急激にせばめていた。飛びすさって剣を薙ぎ、跳ね向かってきた矮躯の鬼の二体を墜とすが、岩陰から不意に伸びた槌に横腹を叩かれ、投げ飛ばされた身体が大岩に強く打ち付けられた。
「ぐっ……」
 激しい痛みに喉からかすれた声が漏れ出る。自力に立ち上がる間もなく、巨大な腕に服の胸元を掴まれ、引き起こされた。醜悪な形相が近付き、顔に腐臭がかかる。力の抜けた手から剣が地に落ちた。
「やってくれたもんだなァ? 天将さんよ」
 引きつれた嗄れ声。遂に翼を折った手ごわい獲物を捕らえたのがよほど得意なのか、囲む魔族たちが下卑た喝采を上げる。
「首の骨折られる前に言いな。ほかの『種』はどこにある?」
「な、に」
「あの樹の種だ。てめェぐらいのお偉いさんの天使なら知ってンだろ?」
 意味が理解できず、形崩れた目を見上げ返すだけのレイの側頭を、強い拳が見舞った。
「がぁっ……!」
 地面に打ちつけられた頭からじわりと血がにじんだ。ぼやけた思考で魔族の言葉を反芻する。「種」? 生命の樹の「種」だと?
「そんな、もの……」
 ない、と言いかけたのを自ら呑み込んだ。では、つい先ほどまで戦場に立っていたあの樹は、一体どこから現れたのだ?
「おい、あんまり強く殴ると死んじまうぞ」
「わかってる」
 同胞の忠告に舌打ちして牙の間にうなりを鳴らし、妖鬼は独りごちた。
「次はこうはいかねぇ。あれを二本、いや三本ぐれェも手に入れれば……ハ、お山に投げ込むって手もあるな」
 耳障りな笑い声。どういうことだ、と叫びたかったが、再び襟元を掴まれて宙に持ち上げられ、息が詰まった。
「てめェも死にたかねぇだろう? わかったらさっさと言うんだな」
 ただれた皮膚の鬼がにたりと哂う。
 遠く闇の下、大鏡の前に浮かんだ白の杯から水晶の欠片が胴をすり抜けてこぼれ、黒の杯に満ちる澱んだ水の中に落ちたのを、この場に知る者はいなかった。



 

 夜落ちた荒野に木板のきしむ音が響く。
 血と肉の残骸に浸かった戦場の中心部、数刻前には伝説の大樹がそびえ立っていた崩れた石塔を柱に、魔族たちの手によって広い足場が築かれつつあった。
 ただ建てばいいというだけの、錆びた釘の突き出た平板な壇座は、さながら聖者の処刑台のように見える。
 巨躯の魔族に首元を吊り上げられたレイの身体が、完成した足場の上にどさりと手荒に投げ落とされた。魔族に打ち倒され、しかしまだかろうじて息絶えてはいない幾人かの天兵たちの視線が集まり、悲嘆の色を持って傷付いた白き天将の姿を見つめる。
「……くっ」
 うつ伏せになった身を起こそうと動かす腕を、肩ごと硬い靴に踏み潰される。関節がねじられ、ぎしりと鈍い悲鳴を立てた。
「さァて」
 足をレイの腕に乗せたまま、巨躯の魔族が声を落とす。
「腕を潰されたくなかったら、『種』の隠し場所を吐くんだなァ」
「知る……かっ」
 詰まった息の間から言葉を返すと、あァ? と言って鋲の打たれた踵で肩をえぐられ、苦痛の声が漏れ出そうになるのをなんとか堪えた。
「強情張るとためにならねェぜ」
 肩を離れた足が前に回りこみ、鋭い爪の生えた指がレイの髪を掴んで、上体を無理やり引き起こした。
「いいザマだ。さんざオレらの邪魔してくれやがってよ。もう手も足も出ねェんだろうが、あ?」
 嘲りの声に合わせて、周りを取り巻く魔族たちが高く笑いを上げる。
 と、その異形の目に、
「ぎゃぁッ」
 立て起こした翼から聖光を宿す羽の剣が飛び、突き立った。
「……手と足が、どうしたって?」
 笑いを作り、言う。相手を逆上させるだけの、微々たる抵抗に過ぎないとわかっていた。だが正しく腕も足も満足に動かず、向こうの手の内にある状態だからとて、その足下に無様に屈したくはなかった。
 こいつ、と巨躯の鬼が赤黒い血の落ちる片目を押さえ、ぎりと歯を鳴らした。向けられる殺気にひるまず、言葉を続ける。
「殺すなら、さっさと殺せばいい。俺は、生命の樹は何百年も前に、全部無に帰されたと聞いた。てめぇらが求めるようなことは、何も知らない」
「ふざけやがって」
 鬼が吐き捨て、髪を掴んでいた手を横へ振るって乱暴にレイの半身を落とし、再び背の側へ回った。
「……いいぜ、してほしいだけ痛めつけてやる。まずは――」
 憎悪にみちた声が不意にケケ、と昂揚した笑いに変わり、
「そのおキレイな飾り、外してやらァ」
 はっとレイが息を呑む前に、やにわ右の二翼が取り掴まれ、根から力任せに引き千切られた。
「あああああああっ!」
 激痛が背を走り、絶叫と共に鮮血のしぶきが空高く上がる。それは薄闇を通して瀕死の天兵たちの目と耳に届き、驚愕と悲痛の声に変わった。天界の誉れであった純白の翼が紅く染め上げられ、ふらふらと力なく舞って荒野に落ちた。
「あ、ぐ、あぁ」
「ハハァ、片羽モンになっちまったなァ、天将さんよォ」
 左にばっかり二枚も生えて、不恰好ったらねェな。愉快げに言い、隣で哂う同胞に何やらの合図を送る。肩で息をつき、痛みを逃がそうとするレイの後ろで、火の爆ぜる音が聞こえた。
「血ィ、止めてやるよ」
 そう、短く言葉が降ると同時に、赤く焼けた鉄片が背の真新しい傷口に押し当てられた。
「……っ!」
 今度は悲鳴さえ喉の奥で潰れ、音を成さなかった。肉の焼ける臭いと惨たらしい音の下、のたうつように身が跳ね、顔が苦悶に歪む。魔族たちの嗄れた笑い声が荒野に響く。
 それが数度、間を置かずくり返された。
「お利口に話す気になったかァ、あ?」
 鋭い爪で身を切り裂かれ、傷を焼かれる。苛烈な責め苦を受けてもはや自力で身を動かせないほど消耗したレイの顔の前に、魔族の崩れた笑貌が現れる。手にした大鋏の間に赤い鉄片が燻りを立てている。
 レイは目蓋を上げ、相手の顔を睨めつけた。気を失しても不思議のない責めを受けながら、変わらぬ強さを保った視線に、魔族は一瞬意外の色を表に浮かべた。しかしすぐに笑いを取り戻し、次の嘲りを発すべく動いたのだろう頬に、ぴしゃり、血が貼りついた。
「なっ」
「……知らねぇって、言ってんだろうが」
 血を吐き出した口でこちらも笑いを作る。鬼の顔が憤怒に歪む。
「てめェッ」
 身に掴みかかる腕が爪に裂かれたレイの衣を払い、その下の肌を露わにした。常から身を厳重に守る戦着を身に着ける肌は、その服地にも劣らぬほど白い。
 巨躯の鬼はそこでふと何事か思い至ったように腕を止め、おぞましい愉悦の表情を浮かばせながら、おい、と同胞へ呼びかけた。
「誰か、『蜂』を持ってこい」
 その言葉の意味するところはわからなかったが、そう言い落とした異形の、昏い企みが透ける胴間声と、長い舌が口を舐めずる様子に、レイは今日この「処刑台」の上で、初めて背に震えが走るのを感じた。


「処刑台」の中心に細い柱が立ち、その半ばから提がる鉄の枷を手にはめられ、板に膝をつき両腕を頭上に上げた体勢で、レイはわけのわからぬまま身を固めていた。凶業の予感がざわざわと冷たく肌に寄せる。
 視界の端で交わされていた何やらのやり取りが終わり、一時遠巻きに立っていた魔族がレイの周りに集まり始めた。うちの一体が手に奇妙な物体を掴んでいる。人の頭ほどの大きさのある、硬い皮と薄翅を持った、虫のように見える。
 あれが「蜂」か、とぼやり思う間に、その一体がレイの前へ歩み寄ってきた。
「……やめろっ」
 強い嫌悪の念が胸を突き、反射的に身を引こうとするが、逃げる術はない。「蜂」の尻先から太い針が突き出し、手枷ごと掴まれた腕に服地の上から無理やりに刺し入れられ、鋭い痛みとともに何かが注ぎ送られるのがわかった。
 数秒で針が引き抜かれる。その瞬間、痛みの代わりに、身の内にずくりと熱が湧き上がった。
「あっ……?」
 ひく、と喉が鳴る。今までに経験したことのない、奇妙な――異常と感じるほどに奇妙な感覚が、じわじわと身を走り、侵しつつあった。
「天使ってのはよォ」
 満足げに目を眇め、魔族の巨躯が前に立つ。
「全部お山の大将に作られるとか言うよなァ。ならコウビはしねェのかァ?」
 言うなり、鉤裂きになって下がっていたレイの上着を剥ぎ取り、胸から腹にかけてを完全に露わにした。
「……は、あ」
 ひゅうと肌を滑る夜風に背が跳ね、また身の内を熱が巡る。
 なんなんだ、これは――。かつてない混乱と動揺に襲われ肩を震わせるレイの頭上に、今は何よりも非情に響く声が落ちてくる。
「さァ、お楽しみといこうじゃァねェか」
 ざ、とこちらへ踏み出す足に寒気が走る。四方を囲む魔族が吐き出す臭気ももはや気にならなかった。言い知れぬ恐怖に身がすくんだ。命を賭して立つどんな戦場でも、ここまでの恐れを覚えたことはなかった。
 やめろ、と弾む息の下に紡ぎかけた声が、叫びに変わる。
「あぁっ!」
 横から伸ばされた魔族の爪が、露わになったレイの胸の突端を強く押し潰したのだ。
「天使サマってのはキレイな身体してんなァ」
 残った指でざらりと両の脇腹を擦られ、おぞ気と、不可解に粟立つ刺激に身をよじる。
「やめ……あ、ぐ」
 手の主が、先の分かれた長い舌でレイの首筋を後ろから舐め上げる。レイは唇を噛み、反射に漏れ出てしまう息を口の中に押さえ込んだ。嫌だ、と胸の内に強く唱え、澱みを覗きかける思考を保とうと頭を振る。自由を奪われ、醜悪な怪物たちに無遠慮に触れられることも非常に気障りであったが、それ以上に、自分の身が得体の知れない熱を昇らせ始めているのが無性に耐えがたかった。
 さらに数本の異形の腕が伸び、外気にさらされたレイの半身を撫で上げる。気持ち悪いとしか感じられないはずの不快な刺激が、堪えようもなく身の内の異様の熱を燃え上がらせる。先の「蜂」の毒のためなのだろうと、霧がかった頭の片隅でレイは理解していた。
「強情な騎士サマだなァ」
 唇をきつく噛み締めるレイの様子に巨躯の魔族がちっと舌打ちを漏らし、しかしすぐ陰惨な笑みを浮かべ、
「鳥は鳥らしく、イイ声で啼いてりゃいいんだよ」
 言いながら、腰のベルトごと残った服に手をかけて引き千切り、暴かれた下腿に覆いかぶさる。はたと目を開いて後ろへ引きかけたレイの身体を掴み寄せ、我も知らず勃ち上がりかけていた熱の中心を無造作に握った。
「いっ……、うあぁっ、あ」
 痛みとともに、強烈な熱が身体を駆け昇る。握り込まれた中心を粗雑に上下に撫で擦られ、身を内側から襲う刺激に背がのけぞり、つぐむことのできない口の端から高い苦痛のあえぎがこぼれた。
「おぅ、色っぺぇなァ、騎士サマ」
 ぎゃはは、と上がるひび割れた笑い声も、もはや耳に入ってこなかった。
 事実を語るなら、魔族の嘲り囃す流言に異なり、天の住人とて肉の慾に全く欠けているわけではない。翼を持たない天人たちと、宮城の外に生まれた二つ羽の天使たちには、肉親としての父母がいる。また、天主の力を源に世に出でた、肉体的な親を持たない天宮生まれの高位の天使の中にも、――表立って他者への執着を唱えることこそ、怪訝を示される行いではあったが――確かに、性愛の営みを持つ者たちはいた。
 しかし幼い頃から天の寵児として慈しまれ、俗事と離れて育てられた(実際には自ら俗事に身を乗り出そうとすることも多かったが)レイは、色より剣を好む性質も伴い、自らは意識せぬまま、稀有な清浄を抱く存在として成長していた。今日この時まで、そのような慾や熱情とは無縁に生きてきた。
 だが、その身も知らぬわけではない。いま己を襲い、呑み込もうとしている熱が、正しく快楽という名の肉の悦びであることを。
「あ、あぁ……っ、う、くぅ」
 胸の飾りを、腰を擦られ、弄ばれる自身が精をこぼして卑猥な水音を立てる。目を固く伏せ、意識を己の醜態から外へ離そうとすればするほど、その心に反して毒に侵された身は研ぎ澄まされた思考に快感を伝えた。いっそ舌を噛み千切ってしまいたかった。しかし弛緩し切った身体はそれすらも許さず、ただ駆け巡る刺激に震え、夜闇に映える白い肌を赤く色付かせる。
「ハハァ、恨むならてめェのとこの大将を恨むんだなァ。てめェは本気で知らねぇみてェだが、あの樹を残しておいたのはお山の大将なんだからなァ」
 レイの肢体を淫らに苛みながら、鬼が下卑た声を落とす。
「な、んだと」
「全部捨てただと? そんななァ嘘っぱちだ。兵隊に守らせてあちこちに隠してたんだよ。……ハハッ。自分とこのガキどもにも黙ってな」
 快楽とは別の衝撃が身を走った。瞠目して異形の顔を見返す。
「……嘘だ」
「嘘じゃねぇよ。オレらはたまたまその隠し場所を見つけたんだよ。そこの兵隊をとっ捕まえて、てめェと同じことをしてやった。羽ェむしって、犯してなァ」
 ほかの隠し場所吐かせる前に、壊れちまったけどなァ。心底愉快だとでも言うように哂って語り、
「てめェも、壊してやろうかァ」
 レイの性器を握る手をさらに乱雑に速める。
「嘘、だっ……、あ、あ、うあ、あぁ」
 反駁がかすれた嬌声に変わり、びくびくと背が揺れる。魔物の言葉と、父なる天主の命。様々な想念が頭を回り、しかしそれらも次第に身を支配する熱に呑み込まれ、ただ白い愉悦の波だけが全身を包んでいく。
「あ、ああぁ、嫌だ、いや、だっ……」
「諦めの悪い坊っちゃんだなァ、ほら」
 イっちまえよ。声が落ちるや、手の動きがひときわ強まる。
「あ、あああああぁぁっ」
 強烈な性感とともに熱が爆ぜ、悲鳴を上げてレイは果てた。
 がくりと全身の力が抜け、前へ倒れ伏すのを手枷と支柱を繋ぐ鎖がじゃらと音立ててとどめる。翼を折り、自らの血と精に濡れ、弛緩した身体で絶えだえに息つく姿は、かつて幾多の戦場を駆けて敵を打ち倒した勇ましき天将と同一のものとは思えぬほど、弱く儚く、そして艶めかしく見えた。
 ごくり、と巨躯の鬼が喉を鳴らす。支柱から鎖を外し、腕でその身体を引き上げたまま、腰帯を解いて己の一物を取り出した。レイはぎくりとして肩をこわばらせた。異形の眼が慾に濡れている。交尾、と吐いたその言葉を思い出し、残忍な意図を察して身をよじるが、鎖が無慈悲に金音を鳴らすだけだった。
「おい、後がつかえてるからな。さっさと済ませろよ」
「わかってるよ」
 背後から拘束され、制止の声を上げる間もなく、後孔に昂ぶった魔物の性器を突き込まれた。
「うがあああああぁあっ!」
 獣じみた絶叫。淫らな毒の回った身体でさえ、それを快感に変えることはなかった。強引に侵入する太い肉棒に腰ががくがくと震え、翼をむしられ焼かれた背の傷が開き、再び鮮血を噴き上げる。
「あ、ア、い、ぁ」
「狭ェな。もっと力を抜けよ」
 言い捨てて腰を掴み、苦痛に悶えるレイの様子には構わず、激しい抽挿が行われる。落とされた手で地面にすがり、ただ痛みに耐えることしかできなかった。握り締めた指の爪が掌に食い込み、血があふれた。
 ぎしぎしと木の足場が鳴る音と、レイのくぐもった悲鳴がしばしのあいだ闇に鳴り渡り、最後に鬼が喜悦の猛り声を上げて、獣の精をほとばしらせた。ずるりと肉棒が抜かれ、あふれた精液が下肢を伝う。次の呼吸をするのさえ困難なレイの身体に、別の魔族が掴みかかった。
「次はオレだ」
 残酷な宣言に、レイの口から痛嘆の息が漏れた瞬間だった。
 ざわり、闇が蠢き、壇座の隅に数個据えられた粗略な松明の作る影が、地面から一斉に持ち上がった。影は黒い刃を形作り、倒れた天将の傍らの鬼を、そしてそれを囲む数十体の、突然の変事に硬直する魔族たちの身体を、ひと息に刺し貫いた。
 悲鳴が上がり、ばたばたと「処刑台」を降りて走り出す魔族の一体に、身体を掴み上げられたのを感じた。それきり何が起きたのかを判ずる間もなく、意識が無に呑まれた。


「……や」
 無残な拷問の場を映していた闇の下に、ひとつ声が落ちる。
 宙に浮かんだ黒の杯が、その足元から巻き上がった刃に貫かれ割れ落ち、血水とともに投げ出された水晶の欠片を、闇色の衣が包み込んだ。
 黒の間にあった数個の影のうちのひとつが、卒然と姿を消していた。



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