石造りの湿った牢獄の通路を、ひとつの影がひたひたと音もなく進んでいる。濃い闇がゆらりと傍らを過ぎるたびに、魔界の厚顔な鼠たちが声上げて逃げ出していく。
 どこか遠くで、どん、と爆音が鳴り、澱んだ空気が震えた。影は足止めて首巡らせ、音の元と思われる方向へ、再び歩き始めた。
 狭く長い通路が十字に交わった角で、二体の魔族が顔を寄せ合って何事か囁き交わしている。
「おぅ、さっきの音、聞いたか?」
 額に一本の太い角を持つ魔族が顎をしゃくって言う。
「あァ。また不用心なヤツが近付いて、吹っ飛ばされたんだろうよ」
 骨と皮膜でできた翼を生やした魔族が、答えて大仰に肩をすくめ、
「もう三日だろォ? いつもの鳥ならとっくに狂っちまってておかしくねぇんだがなァ」
 道具にしてやるどころか、こっちが吹き飛ばされるんだからなァ。目蓋のない目をぎょろりと回し、苦々しげに言い落とす。
「あれの後ならしばらく気が抜けてっから、遊んでやっても平気だっつぅ話だぜ」
「そうかァ? オレはまだいいやな。咥えさせてる途中に木っ端微塵にされたんじゃァたまらねぇぜ」
 そんな言葉に、違ェねぇ、と一角の魔族が野卑な笑い声を立てたその時、二体の前をふっと影がよぎり、そのまま行き過ぎようとした。
 はたと気を戻した一角の魔族がその前に回り込んで道をふさぎ、後ろに立つ翼の魔族とともに影を挟む。
「なんだァ、てめェは。ここいらのヤツじゃねぇなァ?」
 手に持った曲刀を突きつけ、侵入者を誰何する。影は答えず、代わりに、
「――鳥はどこだ」
 低く静かに、問いを発した。
「あァ? ……てめェ、誰に向かって口きいてやがんだ」
 魔族がいきり立った声を返す。影はいささかにも動ずる様子なく、黙ってその脇を抜けようとした。
「野郎、待ちやがれ!」
 びゅうと曲刀の先が弧を描き、丈高い魔族の腕から影の頭上に振り下ろされる。
 と。
 次の瞬間、ばさり、血を噴いて落ちたのは、侵入者ではなく、一角の鬼の頭であった。次いで、切り離された胴がずるりと腰を滑り、苔むした石廊に鈍い音を立てて崩れた。
「ひっ……」
 悲鳴を漏らして逃げ去ろうとした翼の魔族の身体が、何かに引き掴まれてその場に止まる。動転してもがく異形の脚に、地から伸び上がった影がきつく絡みついている。
「もう一度訊く。四つ羽の天将は、どの牢にいる?」
 問う影の肩に、大鎌の刃が廊下の薄明かりを返して黒く閃いた。


 唇を血がにじむほど強く噛み締め、レイはじくりと肌を昇る熱に身を震わせた。
 牢から十数歩を置いて周りを取り巻く魔族たちの視線と囃し声が、無遠慮に突き刺さってくる。目を上げて睨みつけると、ひょうと口笛を吹いて離れ、また戻る。
 時が経つにつれ樹の魔力は抜け、天の士としての能は徐々に取り戻されつつあった。しかし兇行に及ぼうとする魔族から身を守るために、溜めた力を幾度も開放せねばならず、またその直後は無防備になり、卑しい手が触れてくるのを許してしまう堂々巡りが続く。
 牢に押し込められてから数度あの「蜂」の毒を打たれた。レイの力を危ぶんだ鬼たちが無警戒に近付いてくる機こそ減りはしたが、毒はその間にも神経を巡り、四肢と背に残った左の二翼を鎖に縛められ、動きの取れない身体に、浅ましい熱を伝わせ続けた。
「……っく、うぅ」
 呑み切れないあえぎが口を伝い落ちるたび、周囲から揶揄の声が上がる。ぎりと歯を鳴らして、今や全く己のものではなくなってしまった身体と闘い続けた。たとえ身が壊れ落ちようという時でも、昏い想いに屈するという選択だけは、レイの中には存在し得なかった。
 床を滑る鎖がひときわ高く金音を立てたその時、不意に、無限の絶望を思わせる牢の湿った空気の中に、鋭く冷たい風が吹き込むかのごとき、異質な気配が差した。虜囚に浴びせていた魔族たちの嘲笑がやみ、代わって、息を呑む音とともにどよめきが渡る。
 レイはゆっくりと顔を上げた。牢に詰めていた妖鬼たちが呆然の目を剥いて群れを左右に割り、開いた道の向こうから、滑るように何かが近付いてくる。周りの反応を一顧だにもせずゆるやかに進む影が、やがてレイの入れられた牢の正面に立った。
 頭から足先まで、全身を黒の長衣で覆い、顔とおぼしき場所にのっぺりとした白い面を付けた、異様の姿だった。肩に大刃の鎌をかけているが、その柄は手に支えられることなく、長衣とともに足元の影から立ち上がっている。レイは霧がかった頭の中で、昔語りに聞く死神の画をその出で立ちに重ねた。
 何かを語りかけてくるでもなく、裂けた笑いの貼り付いた白面が、石床に膝をついたレイをじっと見下ろす。ややあって、その影が一歩牢の格子に近付いた。
「来るなっ」
 身の底に紡いでいた力を「死神」に向けて解き放った。数体の魔族を一度に屠るほどの力を持った光球は、「死神」の白面の真正面を捉えて飛び、次の瞬間、ぱんと音立てて砕け散った。
「……っ!」
 力の抜けた身体をがくりと鎖の支えに落としながら、驚愕に目を見張る。ほんのわずかの動きさえ見せなかったが、光を跡形もなく弾き消したのが、目の前の影であることは明らかだった。
 つと「死神」の長衣が揺れ、現れた手が笑貌の白面を上へずらした。面の影の下に、通った鼻先と唇が覗く。手も顔も、魔族の異形ではなく、天の民や人のそれと同じ形をしていた。
 薄い唇が開き、低い男の声を落とす。
「あの樹の魔力を撥ねのけるとは、たいしたものだ」
「なっ」
 なぜ、生命の樹のことを――。混乱が胸を襲う。先の戦いに関わった者でなければ、あの禁樹とそれによって生じた現象の仔細は知りようがないはずだ。だが今前に立つ男は、有象無象の魔族とは明らかに格の異なる存在であるに違いなく、かと言って、その身にまとう深い影は、レイの同胞たる天使の持つ力ではあり得ない。
 惑いの沈黙の中、隅に身を寄せた魔族の声がひそひそと響く。
「おい、なんなんだ、あいつは」
「……しっ、黙ってろ。オレたちじゃ太刀打ちできねぇよ。てめェみてぇなオツムの足りねぇ野郎でも、聞いたことぐらいあんだろ。ありゃぜってェ、あの『影の王』だぜ」
「影の王ォ? なんだって、それがこんなとこにいるんだよ」
 言い交わされる声が、振り向いた白面の視線でしんと絶えた。『影の王』、と耳に届いた言葉を頭の中にくり返す。そんな名はこれまで一度も耳にしたことがない。
「魔界の牢獄の数は星ほどもあるものでな。探すのに手がかかった」
 呟きとともに男がこちらへ向き直り、小さく手を払う仕草を見せる。次の瞬間、四方から鋭い影の刃が伸び、ぱしんと高い音を立てて、レイを壁に繋いでいた鎖が全て割れ砕けた。支えをなくして石床に落ちた身体を、格子戸を開けて牢へ踏み入ってきた男に腕取られ、ぐいと引き起こされる。身の内に閃光が走った。
「や、めろっ……触るなっ」
 毒に侵された肌が触れられた場所から熱を湧き立たせ、意図せずとも淫らがましい反応を返してしまう。身をよじって離れようとするが、男の手を振り払うだけの力はない。
 弱く抗うレイの背を押さえ、ふむ、と息を鳴らすと、男は自らの長衣に手をかけ、ばさりと取り外した。鎌と白面が共に影の中に失せ、男の顔が露わになった。
 それは銀の髪を頂いた人間の顔だった。上衣と同じ色の細身の衣装を着けた立ち姿も、見誤りなき人のそれであった。ただひとつ、眼球の入らない虚ろに空いた左眼だけが、男が確かな異様の存在であることを、物言わず語っていた。
 外された黒の衣がレイの裸身を巻く。見上げた視線がかち合った。本来は眼であるはずの空虚な穴の中心に、赤い点光が宿っている。虚ろな穴は何よりも濃い影、深い暗黒であった。その深遠の闇に呑まれるようにして、口に乗せかけた様々な言葉が散り消えた。
 レイの身体を腕に支え、息ひそめてなりゆきを窺う魔族たちに振り向き、男が断然と言い落とす。
「鳥は貰い受けた。何か申し立てがあれば、黒の塔まで来るがいい」
 言葉の終わりと同時に地面から厚い影が巻き上がり、レイと男の身体を包み込んで、逃れる間もなく視界を闇に染めた。


 一瞬の間だったのか、幾ばくかの時が流れたのか、薄靄の中を漂う意識が次に浮上した時には、男の腕に捕らえられたレイの身体は、明らかに先とは異なる場所にあった。
 魔の牢獄よりもさらに濃い闇があたりを取り巻いていたが、息詰まる澱んだ空気は感じられない。横手に人の背丈の倍ほどもある大鏡が立っている。見えるのはそれだけだった。
「ここは……」
 独りごつようにこぼれたレイの呟きに、男の声が返る。
「黒の間だ」
 冥府の主の住まう座だ。続く音に眉寄せる。男が現れてからこっち、聞き慣れない言葉ばかりが耳を過ぎる。
「……離せ」
 力なく言って腕から抜け出そうとするが、
「自力で立てるとは思えんな」
 簡潔に言葉が返り、逆に支えの力を強くされる。もはや抗う気力はなかった。
 その時、
『何用か。影よ』
 墓穴の底から響くような、揺らぎのある低い音が場に落ち、レイは思わず身を固めた。男が顔を向けた場所を追って見上げる。そこにあるのは闇と、緑赤色に光るふたつの球体のみであった。しかし濃い闇は圧倒的な力と存在を持って、この場の主たることを一瞬にして知らしめた。
 肌にひりつく強大な力にいささかもひるむ様子なく、男が闇に語りかける。
「念のため伺いを立てておこうと思ったもので。玉眼王、白の都の鳥を貰っても?」
『構わぬ』
 短い返答。
「天の主の寵愛深いと聞くが、何か障りは」
『構わぬ。――障りあったとて、そなたが退くとは思えぬがな』
 良くご存知で、と男が笑う。
 レイはなお深く眉を寄せた。事の理解にはまるで至らぬながら、今のやり取りが何を示すのかだけは推し測れた。
「……おい、何勝手に決めてやがる。物扱いしやがって……」
 平然とした顔を横から睨めつけて声を絞るが、何を言われようとも拒む術がないのはわかっていた。魔族の処刑台に乗せられてから、己を擁する権を全て失ってしまっていた。
「この地では、何かに所有されていたほうが身を処しやすい。ことにその身体ではな」
 事もなげに言い落として、ぐいと背を引き寄せられる。やめろ、と声を舌に乗せる前に、顎が長い指にすくい上げられ、顔にふっと影が落ちた。
 口付けをされているのだと気付くまでに、少しの間があった。
「んんっ……!」
 抗議を上げかけ開いた唇に、ぬるりと舌が滑り込んでくる。あまりの衝撃に呆然とする身体の奥底から、ぞわりと熱が立ち上がった。
「ん、むぅっ、……んん……!」
 逃げる舌を絡め取られ、息を奪われ、唇を食まれるたびに、毒に蝕まれた身の内で熱が弾ける。男の胸を押し返そうとする腕から次第に力が抜け、遂にだらりと横に落ちた。頬の古傷を撫でるかすかな指の動きさえ刺激を生み、下肢を震わせる。
「――契約を」
 男の薄い唇が一度レイを離れ、ほつりと短い音を唱える。その瞬間、胸の一点に鋭い痛みが刺さり、痺れが走ったと思う間もなく、その感覚が強烈な快楽の波に転じてひと息に押し寄せた。
「あ、ァ、ああぁ……! う……ん、んぅっ……」
 びくびくと跳ねる身体を押さえて再び唇が寄せられ、くり返し口中を貪られる。息苦しさと過度の快感ににじんだ涙が頬を伝い落ちていく。
 唾液の糸を引いて男が唇を離し、崩れる身体を腕に抱きとどめた時、既にレイの意識は白い闇の中に落ちていた。


      ◇


 目蓋を開ける前に気付いたのは、自分が横たわるのが釘の突き出た木板や冷たい石床の上ではなく、寝具の敷かれた台の上であるということだった。
 うっすらと目を開く。変わらず暗くはあったが、全くの闇ではない。ぼやりとした視界の隅に青い明かりが薄く灯っているのが映る。
 身体が動くのを確かめ、ゆっくりと上体を起こすと、ちゃら、と金物の鳴る音がした。見ると、右手首と左の足首に枷がはめられている。横たわっているのは広い簡素な寝台だった。枷は寝台に繋がれていたが、長座の状態になっても細く軽い鎖がまだ長く余っており、台を離れることはできないまでも、身を動かすのに難はない。
 暗闇に慣れた目であたりを見回した。見渡せる範囲には寝台と燭塔のほかに何もない。それなりに広さのある間のようで、明かりの届かない台の遠方にはまだ闇が続いている。
 目を戻し、薄い敷布のかけられた自分の身体を見下ろす。牢獄に入れられていた時のまま裸身ではあったが、血や泥や魔族に吐き出された精の汚れは消えていた。
「……どうなってんだよ、まったく……」
 次々に降りかかる凶事に翻弄され、傷付いた身体のみにとどまらず、意思と精神が疲れ果てていた。はぁと息を落とし、伸ばしていた背を丸める。
 ――と、遠くで鉄の戸がきしむような音が聞こえ、かすかな靴音とともに、闇の向こうから『影の王』と呼ばれていた銀の髪の男が現れた。咄嗟に身構え真言を口の中に編みかけるが、牢獄での出来事を思い起こし、すぐにほどき消す。消耗した身で歯向かうことのできる相手ではないと、既に理解していた。
 その所作を見、ふっと男が口の端を上げる。尊大な態度に腹立ちを覚え、
「それ以上近付いたら、舌噛み千切るぞ」
 荒く言葉を投げた。半分は本心だった。
 ほう、と男が息を鳴らし、
「いいとも。……できるものならばな」
 淡然と言う。かっと頭に熱が昇り、開いた歯の間に迷わず舌を入れた。が。
「……っあああぁぁあっ!」
 瞬間、胸から激痛が走り、レイは身を丸めて寝台に倒れ伏した。魔族に翼を折られ、傷を焼かれた時の何倍にも激しい苦痛だった。歯を閉じようにも全身が痺れてがくがくと痙攣し、言うことを聞かない。
 数秒でふつりと痛みは絶え、痺れも消えた。痛みの元であった胸を見る。首を曲げてかろうじて目の届く右の鎖骨の下あたりに、二振りの鎌が交差した図の、黒い紋様が刻み込まれていた。
「所有の証紋だ」
 はたと顔を上げる。男の足が寝台の前まで近付いている。
「あまり脅しに使わせるようなことはせんよう、あらかじめ頼んでおこう。私もお前の身体を痛めつけるのは本意ではないのでな」
 完全に手の内だということだ。寝具の上に横倒れたまま唇を噛み、涼しげに語る顔を睨みつける。男は構わず歩を進め、台の横手で立ち止まった。
「天のいとし子……レイシスと言ったか」
 こぼれた自分の名に、目を見開く。
「なんで、俺の名前を……」
「同胞に呼ばれるのを聞いたからな」
 それ以上の言葉は続けず、目を細めて笑みを作り、
「だが、一方だけが名を知っているのは公平ではないな。私の名も教えておこう。この黒の塔の主、ヴァルナードだ」
 言い落として寝台に膝を上げた身が、静かにレイの身体に覆いかぶさった。



 

 激痛を覚悟して抵抗すべきか否かを考える間に、台についた腕に身を挟まれ、上と下、真正面に向き合う体勢になる。
「……なんだよ」
 沈黙のまま虚ろの眼にじっと見下ろされ、何か居たたまれずにぽつりとこぼした。
「いや、強い光だと思ってな」
 そう返して、男は口に差した笑みを深くした。何を言っても要領を得ない答えばかりが返る状況に苛立ち、レイは問い立てるのを諦め、代わりに唇を引き結び、険込めた目で睨み上げることで、むき出しの不快の念を投げつけた。男の不遜な笑貌は、そんな微々たる抵抗すら愉快げに受け流しているように見えた。
 明かりのもと間近に見上げる男の顔は、左眼に深い虚ろをはめた異相ながら、端整にととのっていた。世の至高の美を持つと誉れ高い天使の同胞たちのような、中性的でやわらかな美しさではなく、氷晶のごとき冷たく鋭い典雅がある。今まで己が向き合ってきたものとの異質さを強く肌に感じる。
 男の手が伸び、レイの顎を捉えた指が頬の傷をなぞった。ひくりと喉が震える。処刑台や牢獄にいた時のような全身をその芯から支配する熱情こそなかったが、魔族に打たれた「蜂」の淫らな毒は、いまだ身の底に未練がましく爪をかけているようだった。
 顔が近付く。またいいように嬲られてはならじときつく口を結んだが、薄い口唇はふわりと重なってレイの下唇を軽く食んだだけで離れ、傷の線をたどり、首筋に滑った。
「んっ、あ」
 閉じたはずの口から息が漏れる。濡れた舌と唇がゆっくりとレイの白い肌に熱を落としながら下がり、自らの刻んだ所有の刻印をなぞり、胸にたどり着く。
「あぁっ……」
 胸の突端を含まれて喉から上がった自分の嬌声にぎくりとし、震える手で口を覆った。もう一方の手で男の短い銀の髪を掴み、身から引きはがそうとするが、力が入らない。
「や……め、ろっ」
 指の隙間から訴える。ちらりとこちらを見上げた男が唇を離してふと笑い、手を敷布に滑り込ませてレイの中心に触れた。
「ひぁ、あっ……!」
 既に兆していた自身を握り込まれ、高い悲鳴が上がる。ゆっくりと熱を扱く手とともに舌もまた胸と腹の上で遊び始め、身に打ち寄せる強烈な快感の中、いくらもせぬうちにレイは精を放っていた。
 くたりと寝具に沈む身体はまだ男の下から解放されず、力の抜けた脚が左右に割られ、不意に、後孔にぴしゃと冷たい液体がかかった。びくりと頭を起こし、下肢に身を下げた男を見やる。
「香油だ」
 問う前に男が言い、手にした小瓶を影の中にかき消したかと見えた次の瞬間、長い指が濡れた門につぷりと差し入れられた。
「っ……!」
 目を開き、頭を強く振って拒絶を示した。醜怪な魔族たちによる処刑台での辱めを思い出した身体が、恐怖と嫌悪に震えた。
「そう怯えるな。痛めつけるのは本意ではないと言ったろう?」
 男が言い落とし、香油のぬめりを借りて深く進めた指をゆるく蠢かす。曲げた指先が一点をかすめた瞬間、雷撃のような快感が身を走った。背を反らせ、細い声を上げる。
「ん、んん、ぅんっ」
 言い知れぬ快だった。二本、三本と指が増やされ、熱の源を擦られるたびに熱い吐息が口から漏れ、欲を吐き出して間もない昂ぶりがひくひくと揺れる。ゆっくりと執拗に、奥が解きほぐされていく。
 水音を立てて指が全て抜かれ、はぁと息をつくレイの上で、男は身にまとった影の衣をほどき、薄明かりの中に肌をさらした。下腿の裏にすっと手が差し入れられる。熱持った身に、男の肌は冷たい。左眼に底知れぬ闇を抱く『影の王』。人と同じ見目のその身体さえ、本当の意味での生身ではないのかもしれない。
 両脚を折り上げられ、露わになる後座に男のものが押し当てられた。
「やめっ……」
 逃げようとする腰を引き寄せられ、ぬぷりと先端が埋め込まれた。異物に腔壁を押し広げられ、強烈な圧迫感に息が詰まったが、戦場での陵辱で受けたほどの痛みは感じなかった。ごくゆるやかに静かに、奥が開かれていく。
「あ、あぁっ」
 愉悦の元を肉にこすられ、身の内側から痺れが走った。ぐいぐいと一点を突く強い衝撃に、勃ち上がった自身から精がこぼれる。
「魔界の毒は残ると面倒だからな」
 男が言い、レイの熱を握る。
「強いて抜いてしまうのが手っ取り早い」
 そうだ、これは毒のせいだ。身を支配する淫らな熱も、刺激を求めて揺れ動く身体も、己の喉が鳴らす信じがたいほど甘い声も、全てあの下劣な魔の毒のせいだ。全て――
 霧の中にかすむ思考の中、必死で己に言い聞かせ、心が闇に呑み込まれるのを拒む。
「あ、あぁ、あっ……ど、毒、がっ」
「そう――毒のためだ」
 だから、抗わず身を任せてしまえばいい。
 熱に浮かされてこぼれた言葉を拾う低い声とともに最奥を突かれ、性器をきつく擦り上げられ、身の灼けるような快感が襲う。
「ああああぁぁぁっ……!」
 白い首をのけぞらせ、甘やかな悲鳴とともに、レイは絶頂に達した。


 どれほど気を失していたのかは定かでない。目を開くと男の顔が間近にあり、はっとして引こうとした身体が刺激にぶるりと震える。裸の下肢がまだ相手へ触れており、少しの身じろぎで欲を昂ぶらせようとする。
 走った熱を深く息をついてやり過ごし、前の顔に目を戻した。差し伸べられた指に髪を梳かれる。ゆるゆるとした手つきがむずがゆく、寝台に挟まれた翼がはためくように動く。男は髪から手を移してその羽に触れ、
「美しい翼だな」
 言って、やわらかく取り上げたひとすじの白羽にそっと唇を寄せた。
「……なんで」
 一連の所作に困惑の眉を寄せ、もう口にするまいと決めていた問いを、ぽつりとこぼす。
「なんで、……こんなこと、するんだよ」
 鳥を貰うと男は言い、物に対する所有の証として、戒めの印をレイの身に刻み込んだ。手足をひとところに繋ぐ鎖は、長さは違えど、牢獄で四肢にかけられていたものと、その持つ意は変わらない。レイの自己と自由を奪い、身体を弄ぶ意思は確かに変わらない。
 だが、思わず発した問いは、その行為自体を訊ねるものではない。縛めた身体を弄び、好きに扱いながらも、男の手指はレイの熱を高めることに要を置いているようであった。自身はいまだ熱を放っていないのではないだろうか。
 男がレイに求める欲は、魔族たちの淫猥に満ちた慾とはまるで様子を違えている。「痛めつけるのが本意ではない」と語るなら、ではこの挙は一体なんのためのものだと言うのだ?
 男が笑う。レイをどうしようもなく苛立たせるその笑みは、しかしやはり、邪な鬼たちが常にその醜貌に貼るような、嘲りを込めたものではない。その笑みは――そう、天峰で、年嵩の天使たちがたびたびに自分に向けたそれと、良く似た色をにじませる笑みだ。
「そうだな。先に告げたところで応えは同じだろうと思って言わなかったが」
 あまり先延ばしにする意味もない。そう継いでレイの目を見据え、寝覚めの挨拶でもするようにあっさりと、男は言った。
「白き将、天のいとし子、――お前を、愛したからだ」
 音が耳に届いて言葉となり、その意味を脳が咀嚼するまで、かなりの間があった。
「……は……?」
 場にそぐわぬ、気の抜けた声が漏れ落ちる。男が続けて言う。
「戦場を駆け空を舞うその身を、眼に宿る強い光を、何よりもうつくしいと、我が手にしたいと思ったからだ。端的に言えば――」
 ひとつ息が置かれ、深く笑いを刻んだ口が、短く言葉を落とす。
「惚れた、ということだ」

 数度、口の開け閉めをくり返した。言葉が出なかった。頭を支配していたのは、憤りでも嫌悪でもなく、強烈な混乱だった。
 目を幾度も瞬かせる。男は変わらぬ平然とした顔でレイを見下ろしている。
「……冗談、だろ」
「冗談を好かんわけでもないが、そんな趣味の悪い冗談なら自ら口にしようとは思わんな」
 なんとか絞り出した声も、すぐにあっさりと撥ねのけられてしまう。
 すうと男の手がレイの翼を撫で、
「自分でもこれほどの執心を持つとは思っていなかったが」
 言って、指を羽から背へ、背から腰へとゆるり滑らせる。レイの口から噛み殺し損ねた吐息がこぼれた。。沈んでいた熱が再び目を覚まし、穏やかに全身に渡っていく。
「白状すれば、溺れたと言ってもいい。自分の言葉を情けないとも思わんな。お前の全てを得たい」
「あっ……や、ぁ」
 震える身体をたやすく敷布へ抑えて、男の熱が再びレイの中へ割り入ってくる。首を振り、精いっぱいの抗いで言葉を拒むが、甘美に蝕まれる身体は、心の奥底は、もはや気付いていた。寝台に組み敷かれた時から、あの闇深い間で契約の口付けを交わした時から、牢獄で崩れた身体を抱き起された時から既に――レイに触れる男の手は、甘やかな優しさを持っていた。
「はぁ、あ……、わけ、わかんねぇ、お前……あ、あぁ、ぁっ」
 その意味するところ、一切の衒いも乗せない言葉を渡されて、もう何がしかの感情をぶつける術がなかった。動揺と困惑だけが胸を貫き、身を昇る熱に翻弄されるばかりだった。
「ヴァルナードだ」
「あ……?」
 愉悦にあえぎながら、落ちた声に男の顔を見返す。
「教えただろう。私の名だ」
「ん、んんっ……」
 腰をゆるやかに使いながら、男が虚眼ともう一方の漆黒の瞳でレイを覗きこみ、促すようにもう一度ゆっくりと、己の名を告げる。
「あ、あぁ、や、……ヴァ、ル、あっ、あぁぁ、ん、ヴァルナー、ド……」
 レイはわけがわからぬまま、子が親の言葉をくり返すようにその音を紡いだ。
「そうだ。……レイ」
 満足げに頷き、男――影の王・ヴァルナードは、白翼の天将の名を耳に囁き入れ、端整な顔を寄せて、古い傷の走るその頬にやわらかく口付けを落とした。



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