『止まれ。ターゲットを前方に確認した』
 街並みをはるか後ろに置き残し、市街の高層棟の輪郭がすすけた廃工場群の隙間にわずかに覗くばかりになった頃、前を行くアラートが号令を発した。指示器の点灯合図に従って左右の脇道に分かれ、それぞれ停止をかけつつロボットモードに戻る。
 壁の角に背を付け、首をひねって前方にセンサーを集中させるが、すぐには目当ての姿が見つからなかった。向かいで同じ姿勢を取っている指揮官の顔を一度うかがい、指差す先を辿ってようやく、区画ふたつ分の距離を挟んだコンテナの陰に、黄褐色の機体が身を寄せている画を捉える。仲間と通信でも行っているのか、手元に顔を向けた姿はほとんど周囲に同化しており、良くこれほどの遠方から先に捕捉できたものだ。
「どうすんだ?」
「何度も手を煩わされている奴だからな。できる限り確保したい」
 確かに先ほどの逃げぶりは堂に入ったとでも言うのか、大胆ながら無駄なく鮮やかなやり方だった。借りを返したい思いもあり、アラートの言葉に大きく頷きを返す。
「運良く気付かれていないようだが、これ以上進むと危ういな。このあたりは細い脇道が多いし、逃げ込まれると相手が二輪だけに面倒だ。ここから撃てるか?」
「ライフルを置いてきちまったからな……距離は問題ねぇけど、壁から離れてもう少し的をでっかくしてくれりゃ確実なんだがな」
 照準のないハンドガンは、標的との距離が空くほど命中精度が落ちる。追尾弾を用いたとしても、この障害物の多さではあまり意味を成さないだろう。
 そうか、と相槌したアラートの次の言葉は早かった。
「では私が前に出る。逃げるにしろ一人と見て向かってくるにしろ、一度は姿を見せるはずだ。逃げるならトランスフォームの間があって、おそらく奥の左の通路に入る。向かってくるなら特に問題はないな。威力を絞った弾で狙いをつけておいてくれ」
「えっ?」
「敵にも何かしらの策はあるはずだ。問題なしと判断するまで姿は見せないように。撃つのは前方の工作員だけでいい。タイミングはこちらから合図する」
 さらりと述べられる指示の声の平坦さに、むしろ動転の気を覚えた。交戦に当たってこれほど詳細に命令を受けたことはない。そのうえ、自ら囮役を買って出られるなどとは。
「待てよ、俺が先に出る」
 アラートの実戦能力がさほど高くないことは知っている。万が一の場合を考えれば、立ち回りにも装甲の防護にも長けた、一兵卒である自分がその役目を引き受けるべきだ。そう思って止めにかかったが、アラートは首を振った。
「私の腕ではここから奴には当たらない」
 わずかの衒いもなく言い、ここを逃せば機は難しいと語る。了解を求める視線を受けて、インフェルノは気の進まぬながらも頷き、ハンドガンを構えた。
 指を折り示す間のあと、アラートが通路の中央へ駆け出る。数歩のうちに、前方の工作員が不意をつかれた動作で顔を起こすのが見えた。
「おとなしく投降しろ。強制摘発が始まってからの助命は保証できないぞ」
 銃を前に掲げたアラートが凛然と声を放つ。黄褐色の機体がじりりとコンテナの壁を離れ、逃げるか、討って出るか、どちらともつかない動きでこちらをうかがっている。
 対峙の後方で様子をはかりながら、インフェルノは次第に湧き立つ焦りを感じた。慎重を期すならばまだ少し的が小さいが、当てられないことはない。いいと言われればいつでも撃てる。合図を出すと言ったが、遅すぎやしないか。もしや既に出ていることに自分が気付けていないのか。なんと言っても、『あちら』では大いに反目し合っていた相手である。直属の上司部下の間柄だとて、こうした形での連携など、試みようと思ったことさえないのだ。
 交戦を決めたのか、二輪の工作員がまた一歩前へ出る。いまだ半身を遮蔽物に隠した相手に比べ、堂々と道の中央に立ったアラートの姿は、いくら小柄とは言えいい的にしか映っていないはずだ。微動だにしない赤と白の機体を狙って銃口がゆっくりと上がる動作を見れば、もはや我慢も限界だった。
「行くぜっ、主任!」
 腕を水平に構え、アラートの右後方に走り出る。火力を落としたミサイル弾を放つべく、身の内に走らせた信号と、
「待っ……インフェルノ、後ろだ!」
 四方の朽ちた壁に反響して高く上がった声、二種の指示が重なり、後に続く出来事は、全てが数瞬のうちだった。
 アラートの声を認識した時には既にトリガーは引かれており、走りながらの発砲の反動でわずかにたたらを踏みながら、着弾を確認する間もなく、後ろ、の言葉を受けて身を後方へひねる。次の刹那にアイセンサーが捉えたのは、空中で起きた爆発の黒煙だった。新手の出現を理解するより先に横を光弾が走り、アラートが後方からの狙撃を寸前で撃ち落としたのだと知れた。二発目は直撃こそしなかったものの敵の肩をかすめ、よろめいた機体に次の弾は命中するだろうと、冷静な思考ができていたのはそこまでだった。
 一瞬の胸騒ぎが走り、今はアラートの後方に位置するコンテナの方向を見やる。結果を見届けなかったインフェルノの狙撃は目標にしかと命中していたが、火力を落とし過ぎたのか、見た目より実弾耐性に優れた機体であったのか、気を失する寸前の様子ながら、まだ動きを停止させていない。緩慢に銃口が上がり、新手に集中している的へ向けて、ミサイルでは相殺できないエネルギー弾が放たれる。もはや、迷う暇はなかった。
「危ねぇっ!」
 咄嗟に躍り出て、迫りくる光弾とアラートの間に体を入れ込む。直撃した胸から全身へ強烈な電流が走り、うめきが口から漏れた。麻痺した機体を支え切れず、脚から後ろへ崩れるように地面に倒れる。
「インフェルノっ?」
 驚倒の表情でアラートが振り返り、すぐに駆け寄ってきて、隣にしゃがみ込んだ。音も視界も霞んでごく近くの状況しか判じ取れないが、どうやら賊は新手も含め、どちらも討ち倒したようだ。
「麻痺性の電磁弾だな。すぐに吸電処置をしないと……」
 素早く判断を下してその場で救援要請を始めるが、うまく繋がらないのか、本局へ向けた呼び出しを幾度もくり返している。その間に一時は全停寸前にまで陥った体機能が部分的に回復し、何よりも先にブレインにもたらされたのは、喜ばしい気付きではなかった。
「主任、ここから離れろ……地下に、熱反応……が」
 もつれる舌で途切れ途切れに調声し、告げる。けたたましいビープ音が警告を叫んでいる。悪い状況とはなぜこうも重なるのか、今夜二度目になる、爆発性の熱膨張反応だ。なに、と驚きの声を漏らしたアラートも、軽い集中の仕草を見せて、すぐにそれと認めたらしい。
「動けるか?」
 鈍い動作で首を振る。少し経って痺れが抜けてくれば、歩けずとも這うことぐらいはできるかもしれないが、即座には無理だ。自分の巨体をアラートが引きずっていけるとも思えず、場を離れるよう再度諭した。
「地面が抜けちまうぜ……俺は平気だ。丈夫なのが売りだからな」
 無理やりに口角を引き上げ、笑ってみせる。だが、アラートはその場を動かなかった。どころか、さらにインフェルノの近くへ機体を寄せてくる。
「平時であればその選択もあるかもしれないが、今のお前を独りにはできない。問題ない。崩落がわかっていれば充分に身は守れる」
「お、おい」
 決然と告げるや、身を低くしてインフェルノの胸にすがるような体勢を取るので、場にそぐわぬ狼狽に見舞われた。慌てるインフェルノをよそに、できる限りの防御機能を働かせるよう注意を述べるアラートの声には、わずかの揺らぎもない。
 背にする地面の下で熱が膨らみ、岩に亀裂の入る気配が伝わる。インフェルノは重たく痺れる腕に余力を注ぎ、胸元で防御姿勢を取っている小柄な機体をかばい抱き込む位置まで動かして、数瞬間後の崩落に備えた。


 爆発自体は危惧したほど大規模のものではなかったが、予想外に距離のある落下の衝撃はそれなりに身にこたえた。地面の下が広く空洞になっていたためで、そのぶん上から落ちる鉄塊の量は少なく、生き埋めなどにならずに済んだのは幸いと言えたかもしれない。腕の下から特段の破損の様子もなくアラートが起き上がるのを見て、ひとまずは胸を撫で下ろす。
「塞がれてしまったな……」
 呟きを受け、寝倒れたまま地上の方向にセンサーを動かすと、落ちた穴から覗くべき空は見えず、あるのは灰色の岩と金属で固められた、起伏成す天井ばかりだった。通路脇の建屋の壁が崩れ、穴へ覆いかぶさる形で蓋をしてしまったらしい、とアラートが語る。
「あんたのランチャーで、吹っ飛ばせねぇのか……?」
 発声機のエラーを無理やりに押し込めて問いかけると、あっさりと首が横に振られる。
「これはザイルハーケン用だ。弾は込めていない。穴が開いていれば脱出用に使えたんだけどな」
 予期せぬ答えだった。何もなければただそうかと納得したが、『あちら』の上官が肩のランチャーからロケット砲を放つのを、以前に二度ほど見たことがあった。大備えではあるが、白兵技能に劣る機体としては理に適った装備と言え、逆を評せば今は兵としてやや不足に思えるほどの軽装でいるということになる。
 それも「色々あった」のうちだろうか、とぼんやり考えながら、アラートの手も借りてどうにか上体を起こし、地虫が這うほどの鈍重さでずり動いて、崩落地点から離れた壁際に身を寄せる。
 周囲は天井と同じく鉱物で固められており、向かって前後は壁、左右は崩れた岩塊で塞がり、部屋ひとつほどの空間が作られている。立ち上がって周囲をひと回り検分したアラートが、非常に古い坑道で、工場のための燃料採掘場であったのだろうと推量した。爆発したのはかつて兵器としても扱われていた、エネルギー貯留性を有する特殊な鉱石だという。
「ほとんどは撤去したつもりだったが、このあたりはずっとデストロンの支配地域だったし、あたりの壁に特殊なジャミング波を発生させる素材が使われているようだから、感知できずにそのままになってしまったようだな。この瞬間に爆発したのはたまたまか、それとも奴らが何か噛んでいるのか……」
 首ひねる考察もさほど長くは続かず、ともかく今あれこれと考えていても仕方がない、と呟きを落として、こちらへ歩き戻ってくる。
「当面の二次崩落の危険はなさそうだし、救援の到着までこの場に待機だ。通信もできないが、場所は初めに確認しているからいずれ捜索が来るだろう」
 この場も何も、四方が塞がれてほかへ動きようがないのだが、くだらない揚げ足取りをする気にはなれなかった。代わりに捕縛し損ねた賊について口にすると、意識が戻れば逃げられてしまうだろう、と事もなげな返事があった。
「……いいのかよ」
「逃げられると言っても、今だけだ。どちらもトランスフォームできない程度には損傷を負わせられたから、別の小隊が必ず確保する。うまく追えばアジトも見つけられるだろう」
 まるで懸念がないように言う。自信満々だな、と茶化すでもなく感を述べた。この場合は他の小隊に期待をかけているのであり、自信とは少し違うだろうか。周りを頼らず何もかも独りで片付けようとする過去の姿を思えば、やはり大きな差である。
 アラートはインフェルノの使った語を否定せず、ああと言って頷いた。
「こうした時のために、力のある者を育てているんだからな。そのぐらいはこなしてもらわなければ困るというものだ」
 かすかな笑みさえ浮かべる顔を言葉なく見つめ、すぐに視線を外す。交戦のあいだ音ひそめていた胸のざわ鳴りが、またにわかに騒ぎ始める。
 別の話題を探すべくもう一度周囲の様子をうかがおうとしたが、今度はその動作が満足にこなせず、軽いうめきが口から漏れた。特殊な電流波による回路の痺れは、時間とともに抜けるどころか緩慢に広がりつつあり、軽い身じろぎひとつさえ大儀に感じられた。
「大丈夫か?」
 壁を背に座り込んだインフェルノの前で少し腰かがませ、顔を覗き込むようにしてアラートが訊ねかけてくる。冷静さを崩さぬながらも、確かな心配と気遣いの伝わる声音。苛立ちは生ぜず、ただ不甲斐なさだけを感じる。
「なんとかな……」
 隠しおおせない倦怠感を吐いて答えると、そうか、と小さな相槌が返り、足が横へ進んで、同じく壁に寄りかかって隣り合う位置に腰を下ろす。少しの間を置いて、ほつりと声が落ちた。
「……すまない。判断が甘かった」
 もっと的確に指示を出していれば、と自省をにじませて言うのに、我なく撥ねつけるように返す。
「あんたのせいじゃないだろ。俺が焦って一番悪ぃ時に飛び出しちまったからだ」
 最終的にこちらがかばう結果にはなったものの、そもそもあの瞬間に先走って動いていなければ、万事問題なく片が付いていた。おそらくアラートは初めから後方の新手に気付いており、二名を同時に捕縛するために、仲間を巻き込んで芝居を打ったのだ。言われた通りに合図を待っていたなら、アラートがこちらの分まで後ろからの攻撃に対処する必要は生じなかった。弾の回避動作を兼ねて素早く振り返り、発砲後の隙をついて一撃見舞う。と同時に、合図して前方の工作員を撃たせる。それで全て済んでいたのだ。インフェルノはアラートの交戦技能を過小評価していた。昔に見たほど、彼の射撃の腕は拙くはない。
 非を認めるほかなく、情けなさに歯噛みしつつ詫びをこぼすと、アラートはインフェルノに劣らずきっぱりと、それを否定した。
「違う、私の判断ミスだ。お前が軍に上がったばかりの新兵だということを忘れてしまっていたんだ。消防任務はともかく、兵士としての交戦の経験は浅いのだし、連携にしても、あの状況で完璧にこなせていたほうがおかしい。賊の確保を急がずに、堅実な追跡と守勢に徹するのが最善の行動だった」
 静かに、しかし間に反駁を挟ませる隙なく整然と語る様は、さすが多数の訓練生を束ねる教導官と言うべきだろうか。確かに、先ほどのアラートの各指示に対し、大きな動揺を感じた点は否定できない。疑念と戸惑いが嵩じて無用の焦りを生んでしまったわけだが、説得された形で声を収めながらも、インフェルノはその言葉が物語るもうひとつの事実に思いを馳せていた。
 自分が咄嗟に呑み込むことのできなかった指示は、それでも決して間違っていたわけではなかった。そう、普段であれば、おそらくあの簡潔な、やや突拍子もないとも評せる言葉だけで足りていたのだ。急場にあってそれが誤りなく伝わることを露ほどにも疑わない、心の底からの信頼を預けるパートナーが、今の彼の隣には存在しているのだ。
 機体内を我が物顔に行き交う統制外の電気信号が、得体の知れない熱にじわりと転化されるのを感じる。傍らから気遣わしげにインフェルノをうかがう様子が妙に意識され、いっそスリープに入れないものかと考えるも、その命令すら今の体には行き渡らなかった。
「そんな気にすんなよ……」
 本当は「こっちを見ないでくれ」とさえ言ってしまいたかったが、また痛みの表情を浮かばせるように思えて言葉を呑み込み、曖昧に呟く。気にしないでいられるか、とアラートは逆に語気強めて返し、しかしすぐに視線を落として、
「お前が私をかばうとは思わなかった」
 そう、小さく言った。
「俺は救助員だぜ」
 兵としては新米だろうが甘く見てくれるな、と繋ぐつもりで開いた口が、先んじて落ちた言葉に、そのままの形で停止した。
「嫌われていると思っていたから」
 まあ、お前はそんなことで任務を忘れたりはしないか、と続く声もほとんど捉えられていなかった。体が動けば前のめりにさえなっていただろう気勢で、言葉を挟む。
「嫌ってるなんざ誰が言ったよ」
 思わず荒げたその声音にこそ、問いの答えは出ているようなものだった。たとえ面と向かって言われずとも、こうした態度を取り続けられていたなら、誰だとてそう感じもするだろう。急の出来事に今の今までうやむやになってしまっていたが、この二日の己のふるまいと言えば、およそ友好的などという言葉とはかけ離れている。
 だがこれは、決して嫌悪などではない。胸騒がすこの無性の苛立ちは、厭忌の情などではあり得ない。
「嫌ってねェよ。色々世話焼いてもらって有難いと思ってるし、ああだこうだ言っちまうのは、その……あんたのことが、つい気になるからで、俺は」
 そうだ。気にかかって仕方がない。何が彼をこうまで変えたのか。今は誰がその傍らにいるのか。かつての部下への手厚い気遣いは、単なる義務感から生じるものなのか、それとも少しでも、ほんのわずかにでも、何かの心を寄せてくれているのか。
 この御しがたく抗しがたい、身を揺り立てる焦燥。始まりは、年ふりた同胞に彼の昔語りを聞いた時からだろうか? 夜の通信室で穏やかな横顔を遠目に見、甘い声音を聞いた時からだろうか? 酒場の席に並んで論じ合い、共に過ごす時間に充足を感じた時からだろうか? なにげない出来事に吹き出されて、初めて笑った顔を見たことを知った時からだろうか?
 それとも、幾星霜の日の向こう、まるでそりの合わない上官が、明かりの落ちた部屋でただ独り机に向かって仕事をこなしているのを見た日――本当は同じであるはずの道を並び行くための、重なるはずの志を分け合うための信頼を、わずかにも得ていない己に気付いた瞬間に、芽吹いたものであったのだろうか。
 無闇に湧き上がる反感の想いや、憎悪とさえ表裏一体の、ただひとつを気にかけ、焦がれてやまない、この熱持つ心の名。もはや、拒めはしない。
「俺は、むしろ」
 引きつる発声器を叱咤し、紡ぐ。
「あんたに、……惚れちまってるみてぇなんだ……」
 口に出してしまった途端、胸の内に嗤いがこぼれた。こんな無様な告白、もちろん己でしたこともなければ、したという笑い話さえ聞いたことがない。だが、その無様さも引きくるめて、ようやく成した言葉はごくすんなりと、身の奥底に落ち着いた。勢い任せの吐露ではあったが、撤回を考えはしなかった。
 冷徹で融通が利かず、高圧的かつ独裁的で、何事につけ口やかましい。『あちら』の上官は、もはや滑稽なほど悪しざまに見られる名人だ。逆に言えば、自分を良く見せるのが異様に下手なのだ。ひと目のうちに表れる短所ばかりが先に伝わり、地位と実務に即した技能以外の長所など、あるとも思われないまま遠ざかられる。
 芯からそりの合わない自分がそうした事情に関わったところで、何が起こるものでもないだろう。立場も違う。考え方も違う。近付くことはないだろう――そんなことを考えながら横目に眺めていたはずの上官と、はるか未来の時間に出会い、その思わぬ態度に面して、インフェルノは偽りなく愕然とした。
 不器用ながらもひたむきに真面目で、人一倍に責任感が強く、世話焼きで、容易に揺るがない志と信念を持っている。短所と裏写しの美点を、本当は知っていた。ほんの少し物言いを工夫し態度をやわらげるだけで、様々なものが違うだろうにと、呆れとおかしさと歯がゆさのない交ぜになった、複雑な想いで見つめていた。
 まさにその想像が実現したような、鮮やかと言ってよい変化を遂げていたアラートを見て、湧き上がったのはおそらく感動よりも羨望だった。『こちら』と『あちら』が本質の部分では揺らいでいないことを知っていたからこそ、その変化を別の何かが、別の誰かが見出し見届けたことに、強い動揺と羨みを覚えた。伸べられる手を打ち払った反発は、嫉妬から生まれた子どもじみた八つ当たりだ。
 かねてから、とは言いがたい。『あちら』の上官に明確な思慕を寄せていたわけではおそらくない。だが、「特別」を求める心はあった。近しく過ごした数日のうちにかたちを成し得る、そこへ繋がる心は、確かにあった。
「……主任?」
 長い思量を過ぎてなお続く沈黙を、自ら切って呼びかける。この状況で何を馬鹿なことをと叱り飛ばされるだろうか、すげなくあしらわれるだろうか、せめて軽蔑だけはされなければいいがと、半ば投げやりな気分で待っていたが、声はなかなか返らなかった。
 緩慢に首を隣へと向けて、眼下に捉えた画に、吸気が乱れた。そこに見えたのは、嫌悪や厭忌の表情ではなく、ただ呆気に取られてこちらを見上げる顔が、頬の上にじわじわと赤みをのぼらせていく様だった。
「そ……そうか」
 あたふたと首が正面へ戻され、相槌ともつかない相槌が落ちる。奇妙な動揺が感染したように、インフェルノの胸もまた騒ぎ始めた。なんなんだその反応は、と問いただしてしまいたかったが、なんとか己をいさめた。
「ええと、あの」
 自分の時代とは比べようもなく穏やかで冷静な元上官が、今また見付けぬ幼げな態度を示しているのを、場違いの関心で眺める。
「あ、……ありがとう、気持ちは嬉しい、んだが……その、私は」
 訥々と返ずる語尾を奪い、
「もう相手がいるんだ、だろ」
 言えば、驚きの顔が上がる。苦笑に口を曲げ、頷いた。
「悪ぃと思ったんだけどよ……このあいだの夜、あんたが通信室で誰かと話してるのを、後ろで聞いちまった」
「え」
 画面越しの相手へ穏やかに語りかけ、何かの任務の途にあるのだろう身を案じる気遣いを紡ぎ、最後にどんな言葉へ応えてか、「俺もだ」と面映ゆげに、そして幸福げに返した声は、その向かう先にない自分の胸すらも甘く揺らした。紛れもなく、特別の者、唯一の者との会話だった。
「遠征中か?」
「あ、ああ。もう一年ほど出てる……そうか、どうりで駆動が二重に聞こえると」
 覗き見を咎めるでもなく、アラートはただ顔を赤く染めて答え、
「……あの、その話は、あまり……」
 もごもごと呟く。全て聞き出してどうにか入り込む余地はないのかと見極めたい諦めの悪い自分と、知れば知るほどに悔いを得るだけだと諭す理性的な自分が心中でせめぎ合ったが、そうした煩悶よりもまず先に、麻痺に加えて上昇の続く機熱から生じた倦怠感が、この場で長々とした話を始めるのを押し止めた。あァ、とひとこと返し、気まずげに膝を抱える姿を、横目に見るともなく見るのみとする。
 そうして沈黙とともに救援を待つ姿勢となったが、いくらも経たないうちに、身を苛む痺れと高熱は、ただ動作不良を誘うのみにとどまらない異常の作用を伴って、ブレインさえもを内から揺さぶり始めた。この場に全く歓迎のできない衝動がスパークを蝕むのを感じ、噛み殺し切れないうめきが口の端から漏れ落ちる。
「インフェルノ」
 異変に気付いたアラートが壁に預けていた背を起こし、呼びかけてくる。静かなその声がなお、熱を沸き立たせる。
「あちぃ……くそ」
 どんな猛火の中でさえ吐いたことのない言葉に、アラートも少なからず動揺を覚えたようだった。止める間もなくこちらの腕に手を添え、内部の信号を探るようにする。
「きっと電磁パルスのコンフリクトのせいで、排熱と排油の循環がうまく行えていないんだ。お前の装甲は特別に熱に強いから、逆に内部処理が後回しになってしまっていて」
 その時代のシステムはまだ対策がされていなかったはず、と推測を述べ、機体の状態について二、三の問いを寄こす。ありのまま答えるうちに、表情はさらに曇っていった。どうやらベテランの保安部員が聞いても芳しからぬ状況らしい。
「せめて無理にでも廃油を処理してしまわないと……」
 言って、少し口ごもる。その反応の理由を察すると同時に、我が身の内で沸き騒ぐ、突飛のものと言っていい焦燥の所以にも合点がいった。生理機構の異常と、共にいる者へ向ける特殊な意識が結びついて、口にしかねる情動が生み出されているというわけだ。
 さてどうしたものか、と鈍い思考回路を働かせかけたところで、やにわにアラートが立ち上がり、つかつかと前へ回って、長座するインフェルノの脚の間にしゃがみ込んだ。そうしてこちらが訊ねる間も置かず、
「ハッチを開けてくれ」
 そう言う。へ、と場にそぐわぬ間抜けた声を漏らしたインフェルノへ、自分の手元に目線を落としたまま、だから、とアラートはごく小さな声で続けた。
「……コ、コネクタのハッチを、開けてくれ」
「え?」
「私が、その、するから……」
 何を、とも言えなかった。遂に聴覚機構まで熱でおかしくなってしまったのかと思い、唖然としてその顔を見返したが、赤く染まった頬の色が、聞き違いと捉えた言葉を逆しまに肯定した。
「な、何言ってんだ」
 自分でやる、と続けかけて、それが叶わぬからこその申し出であることに気付いた。今や手を地面から膝の高さまで持ち上げるのすら難儀なのだ。いかに初めから昂ぶった状態でも、自ら排出を促すことなどまず不可能に近い。
 だが、おいそれと頷ける提案であるかと言えば、それもまた別の話だ。別の状況、別の仲間であれば、まだ恥をしのんで任せられたかもしれない。しかし今それを申し出ているのは誰あろう、つい先ほど自分が慕情を打ち明け、わかっていたこととは言え、それを見事に砕かれた相手なのだ。
「いい、大丈夫だ。ほっといてくれ」
「しかし、このままでは深刻なエラーが出かねないぞ」
「だからっつって、何もあんたが……どうせそのうち救援が来てリペア行きだ。これぐらい耐えられる」
 焦りとともに制止を試みるが、アラートは逆にためらいの気配を収め、はっきりと言った。
「駄目だ。いつ救援が到着するかわからない以上、対処の手は尽くしておくべきだ」
 その凛然とした表情と声音に、自分と同じ時代に立つ上官との繋がりを、改めて認める。
「……『用心にやり過ぎということはない』か」
 直接にか人づてにか、いつか聞き覚えた言葉をぽつりと口にすると、眼前の澄んだ青が揺れ、驚きの色をかいま見せた。そうして、
「そんな風に言っていた頃もあったな」
 ふっと、かすかな笑みを浮かせて答えるともなく呟き、インフェルノが疑問を返す前に、また明瞭な言葉で続ける。
「過電流も排油不良も軽んじていい症状じゃない。正常に循環処理されない廃油は、ほとんど毒のようなものなんだ。数度のリペアでは治らない障害が残る例もある。もしお前がそんなことになったら、俺は……」
 頼む、と頭さえ下げられて、それ以上意地を張れるはずもなかった。濁された言葉の先を知りたかったが、それを条件に出すのはあまりに幼稚な行為に思え、考えから捨てた。
 改めて声にするのも気まずく、頷きひとつを示し、コネクタハッチのロックを外す。アラートは膝の間をいざってさらにこちらへ身を寄せ、何か不具合を感じた場合はすぐに言うように、と置いてから、インフェルノの下腹に手を伸ばした。
 開いたハッチから引き出されたコネクトプラグは既に大量の油液をにじませて反り立っており、目の前にしたアラートが少しひるんだのがわかった。が、やはりやめたほうが、と声をかけるより早く、その根を握った指がゆるゆると動き出し、乱れた排気の中に言葉をかき消した。
「っく……」
 ただ触れられ、擦り上げられるだけでも相当な刺激だったが、感覚はともかく、そうした機能の働きさえもが鈍くなっているのか、なかなか排出にまで至らなかった。ただもどかしさと快楽ばかりがつのり、なんの拷問だと頭を抱えたくなるが、その動作すらおぼつかないのだから情けない。詰めた声を漏らすとアラートが戸惑いがちにこちらを見上げる。そうしてつっと上体を前に折ったと思った次の瞬間、
「お、おいっ」
 止める暇もあらばこそ、インフェルノのコネクタを、その口の中に咥えてしまった。
 不意にもたらされた熱の感触に、不随意の動作で腰が跳ね、突き上げる形になったコネクタが濡れた舌に触れて、あ、と思う間もなく達していた。吐き出されたオイルが小作りの口からこぽりとあふれて顎へ伝い落ちる様を、呆然と見つめる。あまりの景色に声のひとつさえ出なかった。
 アラートは一度咳き込んでからオイルを地面に吐き出し、四つ這いに近い姿勢から起き戻ることなく、再びコネクタに顔を寄せた。もういい、と慌てて制止をかけるが、ゆるやかに、しかしはっきりと首が振られ、薄く開いた唇から舌が覗く。根からそろりと舐め上げられて、頭脳回路が焼き切れそうなほどの衝撃と愉悦を感じた。
 かすかに震えを立てる指ひとつを見ても、決して手慣れて巧妙な技とは言えなかった。だが、今日が初めての行為というわけでもないことを、インフェルノはそのつたない動きから感じ取っていた。張りつめた接続器を両の手で包んで撫ぜ上げ、先端に口付けを落とし、横腹を咥えて舌で慰撫する。見るからに懸命の仕草で与えられる熱は、ただ事務的に相手を高めようとして生まれるものではあり得ず、過日の経験により得た挙止だろうことを思わせ、妄執と理解しながらも、その営みのさなかのやり取りまでを胸に偲ばせた。
「んぅ、ん……っ、……は」
 ぴちゃぴちゃと油液が鳴り立つ水音の合間に、奉仕を続ける唇から奇妙に蠱惑的な声が漏れ出る。熱く揺れる呼気がコネクタの表面をかすめるたび、それだけで極めてしまいそうに快が走った。
 その行為がいつ、誰に手ほどきされたものか、そして平素は誰のために捧げられているものかと考えれば、胸の底が妬心に灼け焦げる。今この場にあるのはただ責務の全う、純粋な救命行為だ、それ以上でもそれ以下でもない。そう言い聞かせるほどに、憤りにも似た激情は声高く咆えてつのり、といって忠告をやめてしまえば、思考は理知のない演算を始めて、与えられる愉楽の波に呑まれそうになる。
 自身のものよりひと回りもふた回りも小さな手指と、鮮やかな赤色の頭部が脚の間で慎ましやかに動くのを眺めながら、それを無理やりに押さえつけて、猛る欲を喉の奥まで呑ませることを想像する。小柄な機体をねじ伏せ、地面に縫い止めて、逃れようと反らせた首へ喰らいつくことを想像する。ほの赤く染まった顔に浮かぶ含羞の中に、ひと握りの昂奮が宿っているように見えるのは、それもまた、熱に浮かされた己の幻想に過ぎないのだろうか?
 頬から顎へ、顎から首へ、そして保安の盾の描かれた胸部の特徴的な赤をなぞって、腰と下腿までふらりと視線を下げる。その奥へ秘されたものを思えば、苦い油液がたちまち口の中に湧き出た。
 喉音が意想外に高く響き、眼下の青がふとこちらへ向けられる。何事にも注意深い彼は、すぐに自分へのまなざしが意味するものに気付いたようだった。途端に赤みの増した顔を俯ける相手へ何かを言わねばと、くすぶる心の片隅では理解していたが、ブレインを巡るのは愚にも付かない雑念ばかりだった。
 沈黙のまま見つめる視線の先で、赤と白の機体が少し身じろぎ、インフェルノの腹から離した手を緩慢な動作で自分の膝へ下ろしてから、つうと下腿を辿って進ませる。そうして、わずかな溝が刻まれているのだろう、他と色の異なる部位の最奥を押さえ、
「……ここは、あいつのだけだから……貸してやれないんだ」
 ごめんな、と、機体の駆動音に紛れてしまいそうなほどの細い声で紡いだ。
 羞恥を無理に押しやって浮かべた微笑が再びこちらを見上げた瞬間、今度こそ本当に、スパークが爆ぜてしまったように思えた。燃え盛る情の生む熱がとめどなく身を灼き、心を焦がし、オーバーフローを起こしたブレインが白く揺らめく陽炎の中にゆっくりと没していた。



←BACKNEXT→

NOVEL MENU